ホキ 徳田 (ミュージシャン) 自由人生に乾杯!(2)
3歳から7歳まで絶対音感教育を受けた。
上野で生まれ、物ごころついたときには元八王子村に疎開していた。
父が国際連盟の職員、外交官 母が家政科(お嫁さん学校)に行っていた人で、当時疎開先で目立っていたので私はいじめに遭っていた。
物ごころついたときにはピアノを弾いていた。
戦争後は聖歌隊に入った。
母の先生「チャペルセンタークワイアー 日本のアメリカ人のセビリアン 駐屯地の教会にクリスマスキャロル、マタイ 歌うとか 第9等を10代で歌っていた。
桜美林学園 に高校から行く。
元八王子村が戦争で焼けて、近所まで焼けて、それを目の当たりに見て、家が焼けるのを見ていた。
一人でいるのが好きで、明るい性格なのに、その辺がちょっと変わっていると思う。
カナダに留学するのはバラックからお城に行く様な、天と地の違いだった。
母方のおじいさんが那須与一の30何代目と言う事で 其おじいさんも留学している。
オーディションをうけて、帝国ホテルでピアノを弾いたのを覚えている。
カナダから帰国する寸前に母が亡くなってすごいショックだった。
父はNHKの論説委員をやっていた (徳田六郎)
父がお前は何をやるんだと言われて、ピアノは弾けるし歌も歌えるので、直ぐにNHKの番組に出て、出だしたら、いろんなところから声がかかった。
ホキ徳田 になったのが カナダで付けられた。
本名がひろこで、巧く言えないようでなまって「ホキ」になった。
アメリカに行きたくて、コーラスで、2年間ハワイ、ロス等に行ってそこで一杯歌を覚えた。
映画女優としても活躍する。
篠田正浩さん(監督)とマージャンしている時に君は映画をやったことはあるのと聞かれて、映画はやったっことがないと言ったら、助監督の前田陽一さんが温めている作品があり、陽の役、陰の役が必要で、陽の役にぴったりなので明日松竹に言って見たらと言われた。
考える暇もなく撮影に入った。
「日本パラダイス」と言う映画で元気な役だった。 全然緊張がなかった。
4本映画を撮ってからアメリカにいってしまった。
器用貧乏と言うか、なんでも何故か何でも出来るが、アメリカに行った。
(女優業に徹すれば、大スターになっていたかもしれないが)
ヘンリー・ミラーに逢うべきしてあったような感じがする。
アメリカ人のあけっぴろげな自由さ、その頃日本にはなかった。
映画を取ったのは昭和39年で、昭和40年にアメリカに渡った。
1989年に帰国するまでアメリカで過ごす事になる。
人間があふれていて、東京で生活できるかどうかを、先ず調べに来た。
日本に帰って来た時に、誤解されたと思ったが、文豪と富豪 お金持ちと思われた。
結構いろんな意味で騙されたが、それは私が脇が甘いと言うか、人を信じやすいと言うか日本人には悪い人がいないと思っていた。
アメリカで、アパートメントを借りに行ったりする、日本人だと喜ばれた。
日本人は犯罪に何も関係ないからと言われた。 10年で3人とかで、無いと同じだと言われた。
しかし、日本もこれからはしっかり守らないといけないと思う。
父も母もいなくなって、皆に逢いたいと思って、一応荷物は送らないで、帰ってきて、70年代買った家を手放したのが2003年 2000年になってから日本に完全に居ることになる。
アメリカは合理的で、一人で住むには、アメリカは寂し過ぎる。
これからは、子供の番組とか、おばあさんたちの番組とかに関わりたいと思う。
若い人たちと一緒というのは息切れすると思う。
人ごみ、原宿に買い物に行くには覚悟がいる。
私の歌はその日の感じで、キーも変えるし、歌い方も変えるし、二度同じフレージングをしないので、頭の運動にはいいと思う。
束縛しない代わりに、束縛されることは嫌ですね。 束縛されたことが無い。
ショーを遊びと思って楽しくやる。
ヘンリー・ミラーの絵は非常に自由で伸びやか、歌いながら書いている。