2014年5月17日土曜日

原田正道(曹源寺住職)      ・座禅は国境を越えて

原田正道(曹源寺住職)        座禅は国境を越えて
曹源寺は禅寺で常に30人ほどが住んでいて、修行に励んでいます。
その多くがアメリカ、ポーランド、インド、イスラエルなど、世界各地からやってきた外国人です。
海外からの修行僧を積極的に受け入れるだけでなく、原田さんは自ら海外に出かけ、座禅の道を説いています。
奈良県の禅寺で生まれた原田さんですが、10代のころは僧侶になる事は望んでいませんでした。
そんな原田さんを変えたのは、母校である花園大学の学長も務めた、山田無文老師との出会いです。
大学を卒養後、神戸の専門道場、祥福寺や中国地方の山中にこもった修行などを経て、30年ほど前に曹源寺の住職になりました。
若いころの迷いはどのように開けたのか、外国の人々と接する事で座禅の世界はどのように、深まったのか、アメリカではホスピスを設立するなど、活動の場を広げてきた原田さんに聞きました。

外国人は27 ,8人が修行に来ている。 国は16、7カ国。
昔は船で何日も掛かると言う様な状況で有ったので、海を越えると言う事は自分の人生の上で最も重要なことをするという事なので決意はあったと思います。
自分に対しての想い、自分の国で思っていたことと、こんなことまでするのかと、国では自分を表現するのが基本なのですが、ここではそれを捨てよと言うので、全く違います。
戸惑うと思います。
自分を捨てることのむずかしさ。  
日本人にとっては自分を捨てることは別に大きな問題ではなくて、みなとどう同調してゆくかと言う事は日本人の基本なので、そう大きい負担ではない。

ここでは20年は当たり前です。 寛容性、受け入れてゆくという姿勢、そこから開かれてくる捉え方、日本人の様なものの見方が備わってきますね。
そうなると物の見方が広くなってきて、国の違い、民族の違い、歴史の違い、ではなくて時間さえ経てば人間には見えるもの、気がつかなかったものが感じられるようになる。
私たちは外から取り入れる知識と、自分の本来持っている心のありようと、それに依って生きているので、知識ばかりに頼り過ぎると、私たちの内容は見えない。
知識にとらわれることが少なくなってくると、それぞれの国の違いはあっても、同じようなものの捉え方がちゃんとできるようになる。
社会の情報に頼らず、自分と言うものを見つめ続けていれば、おのずからそんな心境になってくる。

座ると言う字を見ると、昔は屋根のある字、屋根のない字 二つ別々 座席、座布団 名詞
屋根を取った場合には 坐る 坐るは動詞なんです。
動詞は坐ったらどうなるのかと言う心の内容。 「坐禅」
西洋では土はけがれた処 (土に身を置くと言う事は負ける事) 人が二つ 。  
東洋では土は母なる大地 大地からあらゆる植物が発生するが如く、私たちの命も大地にしっかりと根ずいて生まれ育つ、人生を終わると大地に抱き取られる、農耕民族の物の見方だと思います。
坐ると言う事は私たち自身が、この世界と一体の命を持って生きている。
丁度鏡がゼロであるならば、この世界がそのまま鏡になってしまう。
自分の主張があると言う事は、鏡そのものに自分の意見を一杯持っている。
そうなればこの世界は、映ろうにも映りはしませんね。
自分を空っぽにするのは虚しい様に思うが、この世界をそのまま受け入れられる、その偉大さを
自分の中に発見してゆく、それが坐禅の真実だと思います。

昭和15年 奈良の禅寺に生まれました。幼いころは寺の子供が特別な者として周囲から見られることに大きな抵抗があったと言います。
「らご」 寺の子供をこういう。 (お釈迦様の子供をラゴーラソンジャ?という)
自分の力で、これからの人生を開いていかなけれないけない、そういう気持ちのあるものが、親のやっている事を、これでいいのかなあといつも思いを抱いていた。
山田無文老師との出会いは、人生に大きなきっかけを作っていただいた。
人に会うと言う事の大切さ、わたし自身に有ったという事は、今日あるのはそのお陰です。
父親の代理として妙心寺に向かう満員のバスの中での事(17歳の時)
老僧の明朗さ、堂々とした風格、雑踏のなかで静かに本を読んでいるが、その存在感は明るく、大きく見えた。
老僧はどなたですかといきいたら、あの人は花園大学の学長だと言われた。
それで行く先を決めました。
大学では禅学 4年間、 神戸の祥福寺に迷うことなく行きました。

人間には一筋の道を願っても自分の思う様には成るわけではなし。
老髪を迎えて、お釈迦さまが悟りを開いて、悟りにあやかって、皆が共に人間の真実、自己に目覚める、その為に12月8日にお釈迦様が悟った、その因縁にみずからもあやかろうと、皆が熱意を持って修行する。
老髪を迎えらものは真の修行者として認められると言う、物の見方があった。
老髪になれば真実の目が開けると、そう信じていました。
それが、自分の開かれるものもない、悲しさ、虚しさ、徹しなかった自分の虚しさ、悔しさを覚えている。
山にこもって、明けても暮れても 座禅を組んでいた。
ある青年が、修行者の方ですねと、声をかけてきた。
「あなたは修行だけに打ち込んでいいですね」 と言われて、「そういえばそうだなあ」と、自分のわだかまりが吹き飛んだ、自分と言うものをなんとかしたいと思っている時に、「いいですねえ」と言ってくれて、言葉をそえてみたら、思いあがっている自分に初めて気が付いた。
自分はそんなに知恵があるわけではない、智慧のない自分がこだわり、思いあがってもしょうがない、大いなる智慧のある人がおられるのに、その知恵をなんで頂こうとしないのだと、気が付いたら、もう道場に帰るしかない。 
不思議な事に、もうすべて任したような気持なので、二度と迷わなくなりました。

坐禅の修行が20年にも及んだ昭和57年4月、岡山の曹源寺の住職に着いた。壇家はいません。
日本人社会は 漢字文化とアルファベット文化がある。 翻訳のむずかしさがある。
禅の文化 海外から人たちに体験してもらうには、ある程度訳さないといけない、そしてその人がそういう心境になって頂けなければいけない、時間をかけて。
時間をかければ通じないものが通じる。
こちらも学ぶ、修行者も学ぶ。
平成元年から世界各地の道場で禅を広げるようになる。
修行に来た人が国に帰って、指導する立場になるが、その支援のために海外に行く。
その場所に縁を作ってあげたいと出掛ける。 海外に25年行ったりしている。

禅の基本は坐ると言う事なので、座ってみると、外のことばかりバタバタ関わっている自分が、こういう視点があったのかなあと、気がつかなかったものに気が付いてくる。
気がつくのに、坐禅が一番適していると感じます。
釈迦が仏教を開いた原点は、生まれた人間が病み、老い、やがて死んでゆく姿に衝撃を受けたことだと伝えられています。
人の死を見つめることが、生きることの本質へ辿り着く上で欠かせないのではないかと考えるようになりました。
平成13年 アメリカでホスピスを始めます。 アメリカ人医師との出会いがきっかけ。
ベティーという女医 乳癌になられて、自分の治療闘病で癌を押さえていた。
ベティーさんの禅のお師匠さんの死を看取られて、隠すことなく自分の死に向かってゆく事を本当に明朗に感じられて、人間が死と言うものに覚悟した時に、人間は生きてきたあらゆるものから解放されている、其囚われの中で生きてきているので、その囚われが全てを解放されるそういう人間の美しさを感じる。

私は修行の時に、自分が囚われて居るものから解放された、その人も同じことを言っている。
人間がもう最後の死を覚悟しなければならないと、人間が思った時にあらゆるもの、負担から解放される。
女医さんが実感して見ておられる。  それがホスピスならば、それは大事なことでやりましょうと。
シアトルの道場の隣りにホスピスを始めることにした。
交代で修行者が24時間そばについている。
修行者が感じているのは、人間生きているのは、身体じゃないと言う事は感じた、肉体ではない、家族、ナース、ドクター、当人 息を引き取っても、周りの人達が一つになっている、其環境、空間、空気が生きていると言う事が実感しました、と言った。
空間と共に一つになっていられる、其空間が坐っていると言う実感を味わっていただける、これが生きた座禅だと思う。
空間がその人をあらわていると言う事が判ったてくれただけでも、立派だと思っている。
坐禅とは固体が坐るものではなく、其空間が坐ると言う事に気がつかしていただく。
社会が坐る、地域が坐る、国が、世界中の人が座れるような社会が生まれなければならないと思う。
人間の最大の知恵は祈りです。

自分の人生に祈りが持てない、我儘で生きて、そうして祈りをもってするということは不可能。
人生のなかで、いろんな意味の中で、自分の欲望や苦しみ、悲しみはあるけれど、もっと背景に大きな宇宙大の生命を感じ取る、それを私は祈りだと思う。
自分の生命の真実に目覚めて行く、これが私たちの人生であろうと。
人生は自分の欲望を満足する場所ではなく、その偉大な私たちの生命に気付かしていただく、
そのことに依って私たちの人生の価値、そういう大きな背景を抱いた生命であると言う自分
と言うものの大きさを人は実感している。
坐禅とはそうだと思うんです。
坐禅は自分の肉体ではなく、その背景をなしている私たちの偉大なる大きな生命力を私たちが実感する事は坐禅だと思います。

祈りは、何かを頼ろうとするのではなく、すでに自分が大きな命を頂いている事に対する信頼を深めてゆく、心の中の囚われを放つ事に依って、その大きさを信頼してゆく、それが座禅だと思う。
人間の横のつながり、つながりに依って、一国がひっくり返ることもあるので、つながりがあっても根がない、根がないと言う事は絶えず皆が不安になる。
不安である一人一人が目覚めていただく、時間はかかるが、その努力を私たちは怠ってはならないと思います。
繰り返し繰り返し坐禅をして、一人ひとりが根をおろしてゆく、皆の力で開いていかなければいけないと、思うところです。