2014年5月20日火曜日

宮坂直孝(日本吟醸酒協会理事長)  ・日本酒を世界の”SAKE”に

宮坂直孝(日本吟醸酒協会理事長)     日本酒を世界の”SAKE”に
宮坂さんは58歳、 長野県諏訪で創業およそ350年に歴史を持つ日本酒の蔵元です。
宮坂さんは大学を卒業後、アメリカへ留学 MBAを取得、東京新宿のデパートで修行を積んで27歳の時に家業に入ります。
品質を高めるためにいち早く純米吟醸酒の製造に力を入れます。 
1990年代半ば、地酒ブームが過ぎると売り上げが落ち込みます。
窮地の中で宮坂さんに大きな気付きを与えたのが、フランスのワインの経営でした。
海外の安いワインに押され、売り上げ不振に悩むフランスのワイナリーでは、品質の向上やワイナリーに観光客を呼び込むワインカントリーツーリズム、さらに外国への輸出など、生き残りをかけて取り組んでいました。
宮坂さんは、地元信州諏訪の5つの蔵と共同で、飲み歩きのイベントを行ったり、フランスのボルドーで開かれている世界ワイン博覧会、に初めて日本酒ブースを設けて、日本酒を国内、海外でも親しまれる酒にしようと奔走しています。

長男ですが、家は分家なので、酒屋を継ぐと言う様な思いは無かった。
高校で生物の時間に微生物について、先生から酒の蔵元なのだから、説明するように言われたが、説明ができないような状況だった。
大学では、ゼミはマーケティングのゼミだが、酒をどう売ってゆくかを考えざるを得なくなって、意識し始めた。
父からアメリカの大学に行くようにと、説得されて、いやいや大学に行く事になる。(2年間)
酒についてのレポートを書いたりしているうちに、意識が高まっていったと思う。
デパートへ入社、婦人服の売り場に1年間、2年目は日本酒の売り場で仕事をする。
地酒ブームが始まったころ、(1983年) 売り場に季節感がなかった。
婦人服の売り場では、2週間に一度大規模な変更があるが。

季節感のある日本酒は、家でもなくて、生酒を商品化したりした。
家に戻ってきても、当時は最盛期は過ぎたが、それでも良く売れていた。
地元のお客さんに買っていただいていたので、長野県以外は出荷はしてなかった。
問屋さんと付き合いを始めて、全国の有名な地酒メーカーの社長さんと付き合う事が出来た。
其方達は考え方、行動も先を読んでやっておられる。
純粋なでんぷんの部分だけを低温発酵して作るのが、吟醸酒。
香りがよくて、味のバランスも良く、飲みやすいが、コストも高くなる。
将来、吟醸酒の時代が来るから、準備をしておかなくてはいけないと、皆さんおっしゃる。
色々教えてもらってくることに依って、段々危機感が生じてきて、わが社のやっていることは足りない部分が多いと気付く。

当時の幹部の了解も得ず、新商品の開発、廃版したりして叱られたりしたけど、色々ありました。
1970年代、清酒メーカー 一升瓶で10億本、日本国内で売れていた。
30数年経って、年間3億本しか売れてない。 
中味を見ると純米酒、吟醸酒 とか高級のものが売れるようになって、安い酒から高級酒にシフトしてきている。
純米酒、吟醸酒は生産効率が悪いが、安い酒が売れなくなることに依って、ある種、純米酒、吟醸酒の生産確保ができると言う事もあった。
1995年ぐらい、地酒ブームは一段落して、毎年落ちてくることになり、危機感があった。
業界の会合に出ていたら、ある同業者が心配して、ワインについても造詣の深い人で、フランスのワインメーカーがどうやっているのか、一緒に見に連れてってあげますと、言ってくれた。
ボルドー等に 一週間見て回った。
素晴らしくいい旅行だった。 大切なポイントを気付かしてくれた。

ワインは華やかな印象があるが、実際はそうではない。
ヨーロッパ全体でみるとワインメーカーは膨大な数がある。 
競争がすさまじく脱落してゆくメーカーが沢山ある。
オーストラリア、南米からワインがドンドン入ってきて、地元のワインメーカーとの競争も激しくなる。
日本酒が置かれている状況よりも苦しい事が解った。
残ってゆくためにいろんな工夫をしていることが判った。
①品質を磨くための努力(ブドウ品種、土壌改良、有機無農薬、酵母の工夫・・・・)
②輸出を一生懸命やっている(小さなメーカーでも努力している)
ワインの世界的な流通の拠点はロンドンで、イギリス人の、カナダ人の営業部長を持っているとか、そう言う蔵が結構あった。
自分のところの価値を認めてくれる国に売りに行くと言う事をやっている。
③ワインカントリーツーリズム   自分たちのワイナリーにお客さんを呼んできて、そこでテースティングをしてもらって、ワインを売ったり、レストランを付けたり、コテージを付けて宿泊までやる、ワイナリーとワインビジネスと観光とをドッキングさせる。

以後、毎年海外に見学に行く事になる。
日本酒メーカーは3つのことをちゃんとやるべきだと高まってきて、①品質、②輸出、③日本酒をフレンドリーにする、その後この3つを20年ぐらいやってきた。
日本では作る人、酒問屋、小売業と壁が出来ていて、お互いが越えてはいけない様な慣習になっていたように思う。
お客様と直接接する楽しみを体験しているし、ヨーロッパのワイナリーの生き方を見てきているので、蔵元ショップを1995年にまず、作った。 
流通からはバッシングを受けたが、これがあったために我々にストレートに入ってきた。
次のステップへの参考になる。
徐々に4軒もショップを作ってくれたりして、諏訪5蔵を立ち上げいろんなイベントを開催するようになる。
年2回開催の「飲み歩き」イベント 2000円で飲みたい放題状態で、5軒をめぐれる。
今では諏訪市を代表する大きなイベントになっている。

この3年ぐらいは、もしかすると本当に日本酒は世界の酒になれるのではないかと思ってきた。
得意先ののレストラン回ったり、展示会をすると、あたかもワインの有名シャトーのオーナーと同じようなリスペクトをしてくださる、サインしてくださいとか、一緒に写真に映ってくださいとか、吃驚しています。
1999年にボルドーでワインを中心としたアルコール飲料の商談会が2年に一度あるが、ある方のお勧めでブースを出して日本酒のアピールを始めた。 8回出した。
最初は嫌われていた。  
たどたどしいフランス語で日本の「さけ」と言って販売したが、フランスに在る中華料理屋、ベトナム料理屋の「さけ」=中国製の焼酎(ばいちゅう) 飲むと直ぐに酔っぱらうまずいさけ。 
そういう「さけ」と勘違いされて、嫌われていることが解った。
ヨーロッパ全体で誤解されていることが判って、説明して飲んでもらうと、これは「さけ」ではないことを理解してくれる。
異口同音に日本酒は美味しいと言ってくれた。

2000年を越えてから、お寿司が世界中に広がって、お寿司では日本酒でしょうと言う事で日本酒の需要が高まった。
去年、国連本部で日本酒を振る舞った。
品評会でいい成績を取っている様なメーカーが集まって、吟醸酒を広めようと言う事をやってきた団体、試飲会をやっているが、吟醸酒ファンの中に少なからず外交官がいる。
ワインは非常においしいワインは値段も非常に高い、日本酒は大吟醸でさえ4合瓶で5000円だせば、本当に高級なものが買えると、彼らが言ってくださる。
是非吟醸酒を国連の本部でお披露目をして、他の国の外交官に見せてやりたい、バックアップするからという事になり、是非やろうと言うことになり、昨年11月1日に、50社の吟醸酒を並べて味を見ていただくと言う事になった。
300名はお見えになったと思う。 

日本人は豊かな風土の中で、味覚を磨いてきたと思う。
鋭い味覚を持った日本人が2000年かけて磨いてきた日本酒がまずいわけがない。
これからも品質を上げて、胸を張って世界中に紹介していく。
ビールもワインも ウイスキーもそうだが一地域で作られたものが世界中に広がっている。
日本酒がどうしてそういう立場になってはいけないのか、と言うのは私の想いです。
日本酒が海外で造られるのでは? 北米では作り始めている。
世界で造られる日本酒とはレベルの違う品質の酒を作ってゆきたい。
米も素晴らしく、量も必要だと思います。
7号酵母が生まれた酒蔵。(宮坂さんの酒蔵)