2026年4月4日土曜日

坂本佳奈(料理研究家)           ・〔人ありて、街は生き 〕 台所から始める防災術

坂本佳奈(料理研究家)     ・〔人ありて、街は生き 〕 台所から始める防災術

地震だけでなく水害も多い災害大国と言われる日本、いつどこで災害起きてもおかしくないと言われています。 今日は日ごろからできる災害の備えについて、料理研究家の坂本佳奈さんのインタビューをお聞きいただきます。 坂本さんは18歳の時に阪神淡路大震災を神戸で経験しました。 料理研究だった佳奈さんの母廣子さんは、当時の経験から台所防災と称して、日用品や備蓄品の応用を提唱しました。その術を継承した坂本さんは今も無理せず、身近なところから始める防災を伝える活動しています。

1995年の阪神淡路大震災の時に高校3年生でした。 灘区で被災しました。    自宅はマンションの1階に住んでいて、家は無事でした。  寝ていたら地震が発生して本がどんどん落ちてきて窒息してしまいました。 そこから記憶がありませんでした。 母がたまたま呼吸蘇生法の講習を受けてまして対応したそうです。 頭で知っているだけでは駄目です。(体験が必要)  生活していて人が行き来しない街と言うのは、静かなんだと言うことを感じました。 家って簡単に壊れるもんだなぁとも思いました。

自宅での避難では、情報が届かない、ものも届かない。 母は料理研究家だったので、備蓄はありました。 水のお知らせが来たのも5日後位,配給があったのも5日ぐらい。(7日間ぐらいの備蓄が必要)  防災のときには、何もないときに備えておくと言うのが1番必要です。 災害に備えていると言うことを忘れていても、備えていられるような準備方法が大切だと思います。 明日の生活は大丈夫かと言うことを考えておく必要があります。 日常の中に取り入れられる備えについて、「台所防災術 がんばらなくても大丈夫 被災から普通の暮らしに戻るまで」と言う本をまとめました。(母とともに)

台所の中のものを使って台所のものを切らさないように置いておいておけたら、まぁまぁ大丈夫ですかじゃないですかと言う提案です。 ラップ、ポリ袋などは災害が起きたときにいろいろ使えます。 45リッターのポリ袋はバケツがない時に段ボールと一緒に使って水を運ぶことができます。 トイレの代用品にもなります。  トイレから逆流する水を防ぐのに、水を入れてからかぶせることによって逆流を捧防げます。 食品では乾物、缶詰、レトルト食品は必要です。 乾物のお勧めは切り干し大根、いろいろな利用方法がある。(出汁にも利用) 他に海苔、わかめなど。 

ボトルに入ってるお茶を使って、ご飯も炊ける、味噌汁も作れます。 ジュースなども煮物に使えます。  救援物資としては主食は保障されています。(パン、ご飯、おにぎりなど)  食物繊維、タンパク質みたいなものは不足します。  スルメイカの炒め物、スルメイカを水で戻してチンゲンサイと炒めただけです。 カイロは食物を温めるのに利用できます。 カップ麺は水でも大丈夫です。(30分ぐらいかかる。) 

熱源としては、電気が来るまではカセット式ガスコンロが必要です。   電気、ガス、水がないと言うキャンプ生活をしたことがあるので、それは結構役立ちました。 電気、ガスなどを使わないで、家でのキャンプ生活をすることでも役立ちます。 防災トイレセットも購入しておいたほうがいいです。 家の外で被災することがあるので、カバンの中などに一時避難の為の防災グッズとして入れておくことも必要です。  例えば私はポーチに爪切り、綿棒、絆創膏、マスク、ポリ袋、アルコール綿(消毒用)、ティッシュペーパー、ゴム、生理用品、タオル、常備薬を入れておきます。 他にペットボトルとおやつ(ちょっとした食べ物)が入ってます。 他に携帯電話の充電器など 。 生きるために何が出来るかと言う事を考えて欲しいと思っています。

2026年4月3日金曜日

森田佳奈子(キャナルハウス 代表理事)   ・「一人の少女との出会いが導いた国際保健への道」

 森田佳奈子(キャナルハウス 代表理事)   ・「一人の少女との出会いが導いた国際保健への道」

4月7日は世界の人々の健康について考える日、世界保健デーです。 森田さんがJICA青年海外協力隊や国際NGO国際機関のコンサルタントとして、世界各地の災害支援や保健活動に携わってきました。 2010年のハイチ大地震では、多くの子供たちの厳しい現実を目の当たりにして、途上国での保健や教育支援の必要性を強く感じたといいます。  その原点には、幼い頃にフィリピンでストリートチルドレンの少女メアリーとともに過ごした経験がありました。 1人の少女との出会いが、どのように森田さんの人生を導いたのか、世界各地での支援活動を通して見えてきた支援の本当の意味、そして森田さんの国際保健にかける思いについて伺います。

国際保健は一般的にグローバルヘルスと最近言われていますけれども、人間の健康課題をいろんな分野で複合的な学問領域からアプローチする研究を言います。  自然災害、環境破壊、地球温暖化、そういったものと人間がどううまく関わっていくかと言うところも国際保健の分野になっています。 国際保健と言うのは医療と言うイメージが強いですが、1番現場で大切なのは水とか衛生とか、運搬搬送のマネージメントとかも大切になってきてます。 貧困と言うのも国によって違います。国連では1日2ドル以下の暮らしをしている人たちを貧困と定義していますけれども、精神的な貧困、情報のつながりのない貧困といった目に見えない貧困がよく取り沙汰されています。 

日本も深刻で7人に1人ぐらいの子供が貧困にあると統計されています。 2000人に一人の子供が軽度の栄養不良にあるという統計があります。 アジア、アフリカの妊産婦さんの死亡の第一位は出血多量で亡くなっていきます。 私は7歳の時にフィリピンのストリートチルドレンのメアリーと言う女の子と一緒に暮らしていました。 父がフィリピンの女の子を学校に連れて行き、教育を受けさせると言うことになりました。 そこから私もそういった途上国の子供たちに、こういった状況があるんだと言うことを知って、そこから国際保健と言う道につながっていったような気がします。 

父は校長先生だったので、日本で教育を受けさせると言うプログラムの1つとしてメアリーが家に来ました。 なんでこんなこの子を連れてきたのという思いもありました。メアリーは日本語をほとんどしゃべれなかったので、ちょっとしたことで喧嘩などをしたことがありました。 メアリーは1年半か2年ぐらいいました。   一緒に住んでる時は、その子が特にかわいそうとか不平等な状況にあると言うところまでは何も考えていませんでした。 

10代から20歳過ぎ位の頃に世界の不平等というものが存在すると言うことが感じました。 母が乳児院に働いてまして、寒い冬にへそのおを付ついた赤ちゃんが段ボールの中に捨てられていたと言うようなことを2、3回聞いたことがありました。 母の友達は、普通に養子縁組で一緒に養子の子と過ごしていると言う家族がたくさんありまして、そういったことが普通な家庭で育ったので、支援と言うよりも人間としてそういうことをするものが当たり前と言うような中で育ちました。   その影響で、支援活動への思いが広がっていきました。 メアリーの件は何かをやるときの1つのきっかけになったとは思います。     

青年海外協力隊として現地にも行きました。 ODAが大きなプロジェクトを展開してますけれども、プライマリーヘルスケアと言うプロジェクトの中の一員としてカリブ海のドミニカ共和国に派遣されました。 コミュニティー開発、村人の人たちと一緒に養護医学の活動を2年間しました。 住民の組織化と言うのを担当して非常に勉強になりました。 住んでる方たちにとって何が1番良いのかと言うことをまずよく知ることかなと思います。 支援と言うものの前に彼らをよく知ることで、彼らが何を望んでやって欲しいと思ってるかと言うことを、私たちは知る必要があるんじゃないかと言うふうにいつも考えています。

いろんな支援のやり方があると思いますけれども、私は基本は自分は介入者、外部者だと言うスタンスを貫いています。 彼らとの暮らしに徹底的に寄り添うことをから始めます。  信頼関係を築くのには1年間ぐらいはかかります。 まずは信頼してもらう。  入ってすぐにハイチ地震がありました。 31万6000人と言う世界の自然災害では最も大きかったものです。 2010年の2月28日に南米のチリですごい大きな地震があって、ハイチに行く用意をしてたら、チリに行くように指示されました。 

現地に入って、国連がベーシックな情報をまず出していきますが、私が心がけているのは、現地の人にヒアリングを結構取りに行きます。 国連とか政府機関が出している統計データを頭の片隅に置きながら、住民が何を気にして、恐れているのかと言うようなことを聞いて、プロジェクトをリードしていきます。 

2010年のクリスマスのころに、ハイチではコレラの感染症が流行っていました。 コレラに感染した10代の精神疾患を持った男性に対して、、医師がいろいろ対応してくれました。 けれどもその子が亡くなった後、私はPTSDになって、3、4時間涙が止まらなかったりしました。 一旦仕事を離れて、上司にもう仕事を辞めますと言うことを告げました。 その後ニューヨークに行ってリフレッシュしてまた帰ってきたということがありました。 

辛い場面とかあると逃げたいとか、早く忘れたいって言うことがありますが、最近はそういうことがあるからこそ続けるきっかけになったり、自分をもっと強くさせているなと思ってます。 現在はキャナルハウスと言う組織を立ち上げました。2012年に私は子供を出産して、グローバルヘルス分野で何をしていこうかなと思ったときに、次世代に何か残していきたいと言う思いがあって、子供支援の団体と言うふうに立ち上げました。 ハイチの状況は日に日に悪化しています。 首都はギャングが制圧してしまった状況で、私も2021年最後に行ってから行けてない状態です。 メアリーのおかげで、今はこのような仕事をできているので、いつか伝えてみたいと思います

2026年4月2日木曜日

藤原良雄(出版社社主)           ・「100年先も読まれる本を」

藤原良雄(出版社社主)           ・「100年先も読まれる本を」 

このほどフランス政府から芸術文化勲章オフィシエを授与された出版者社主藤原良雄さんのお話です。 オフィシエと言うのは、芸術文化の領域で著しい功績を挙げた人に贈られるものです。 日本では川端康成さんに始まり、草間彌生さん、坂本龍一さんらが受賞者に名を連らねていますが、出版人としては藤原さんが初の受賞です。  フランスを代表する知識人や文学者の著作を数多く日本に紹介したことが評価されました。 藤原良雄さんは、大阪出身の77歳。 大学卒業後、東京の出版社勤務を経て、1989年に藤原書店を創業、以来人文社会科学を中心に、政治、経済や環境など幅広いテーマでおよそ1600点を刊行しています。

受賞の理由は、東京とパリの間で、思想と創造が自由に行き来できる道を開いてくださったということです。  ただ単にフランスの思想を紹介すると言うことだけではなくて、フランスと日本の交流の場を作ってきたことも事実です。 衰退しつつあるマルクス主義に変わる新しい社会の見方、歴史の見方について考えるようになりました。 トータルで歴史を見ると言うことです。 1929年にマルクス主義との葛藤の中で生まれた歴史学と言う、アナール学派と言うような人たちが生み出してきたものです。 ヨーロッパの知識人でアナールの世話になってないと言う人はほとんどないと思います。 私は70年代の半ばにそれに出会いました。

1949年大阪生まれ。 私が生まれてまもなくテレビが誕生してます。 4,5歳の頃相撲に関心を持ちました。 学校でも相撲取ったり、相撲一色の小学校時代でした。 本との出会いの1番最初は、相撲の雑誌でした。  本当に本を読むようになったのは大学生時代です。 乱読しました。 当時出版社はほとんど東京でした。    吉田松陰は29歳で亡くなりますけれども、その頃にも世界に目を向けてものを見てたんだなぁと感じました。 松陰のような人間になりたいと言う思いはありました。

上京して東京の出版社に入りました。(1973年 学生結婚) 会社の倉庫の2階で生活を始めました。  台所はありましたけども、お風呂がなくて1年後に子供ができるんですが、それが大変でした。 そこでの生活は5年半続きました。 学生時代に感銘を受けた作家などに対して読書感想みたいなことで、まずは自分で自分を知ってもらわないといけないと思って、手紙を出して接触できるようにしていきました。 内田義彦さん、井上浩二?さん、清水幾太郎さん、野間宏さんなどに手紙を出しました。 受け止めていただいたのが嬉しかったです。

手ごたえみたいなものを感じて、藤原書店を創立したのが1989年出版活動を通しながら、いろんな人たちとの交流、読者との交流80年代やっていきました妻は、2000年位の時にパーキンソン病にかかってしまいました。 今は寝たきりの生活になってしまいました。 自宅で介護しています。コミュニケーションが取れないのが残念なところです。 

フランスの知識人とはほとんど会ってきました。 アナール派のラデュリを筆頭にエマニエル・トッド等(ラデュリの弟子)、社会学ピエール・ブルデュー、経済学ロベール・ボワイエ、ソ連の崩壊を予言したエレーヌ・カレール=ダンコースさんなど直にお会いしていろんなことを学ばせていただきました。 日本では鶴見和子さん石牟礼 道子さん、中村恵子さん、多田富雄さんなどの著作集を出したりしてきました。

イヴァン・イリイチさんは3つのサービス制度のことを70年代に問題にしました人です。  教育制度としての学校、医療制度としての病院、交通制度としての輸送、エネルギーなど、高度に産業が発展すると大きな問題になるんだと言うことを70年代に提起してます。  80年代になると、シャドーワーク、ジェンダー、水、身体、言語、言葉と言う人間の基本的な問題を80年代になってからは問題提起してます。 エヴァンエイリイチさんはメキシコに私塾を作っていろいろ発言していきます。 エヴァンエイリイチさんの思想は、自分の中で大きな力になったと思います。

人と会う時には初めて一対一で会うわけですから、徹底的に相手のことを調べてからお会いしてます。 常に自分のうちの中で考えた言葉を相手に伝えると言うことをやってきました。  だから相手の心を動かしたんだと思います。       儲けるためにとか売れるからということで出した本は1冊もありません。     これからは東西文化の融合というか、交流をしていかなければいけないと思います。 日本の文化をどんどん向こうに発信していかなければいけないと思います。 日本は発信力が弱いんじゃないかと思います。 100年以上前に後藤新平と言う人間が日本から発信していたと言うことを忘れてはいけないと思います。(感染症を防ぐやり方) まだ世界に知られていない日本の人を知らせていきたいと思います。 

本と言うのは100年、200年たっても読まれると言うのが本だと思います。    出版業界は2兆円から1兆円を割るような貧弱なことになっています。 本当に由々しき問題だと思います。 日本の国家のあり方としても由々しき問題じゃないかと思います。 出版とは人生をかけて己が考えているそういうものを、他者に伝えていく、また後世の人たちに残していくそういうものではないかと思います。




2026年4月1日水曜日

藤野知明(ドキュメンタリー映画監督)    ・「家族とは、ままならないもの」

藤野知明(ドキュメンタリー映画監督)    ・「家族とは、ままならないもの」 

藤野さんは1966年北海道札幌生まれ。 北海道大学を卒業後、住宅メーカー勤務を経て、1995年日本映画学校(現在の日本映画大学)に入学し、映像制作や音響表現について学びます。 これまで主にマイノリティーに対する人権侵害をテーマとした映像製作を行っていて、作品に「八十五年ぶりの帰還アイヌ遺骨杵臼コタンへ」、「とりもどす」などがあります。 2024年統合失調症を発症した姉と自身の家族の姿を20年以上にわたって記録したドキュメンタリー「どうすればよかったか?」を発表、作品は日本だけでなく、海外の映画祭でも上映されて大きな話題を呼びました。 家族のあり方を問う、話題作の裏側についてお話を伺いました。

両親は医師で共に研究者、8歳上の姉さんが可愛がってくれました。 ドキュメンタリー映画の中では口論したり、怒鳴り声が飛び交ってたりしてましたが、子供のときの印象としては一言で言うと楽しかったです。  私は自己肯定感の強い方の子供でした。 父は単身赴任だったりして、親は家に意外といなかったです。    姉と一緒にいる時間は長かったです。  

医師を目指して医学部に通っていた姉が異変が起きたのが1983年のことでした。  (姉が24歳、私が高校2年生)  夜の8時過ぎに姉が大声で叫び始めて、事実とは思えのようなことをずっと言い続けて30分ぐらい続きました。 その時はどうしようもないと言う感じでした。  夜中の2時、3時に姉が一人ひとりの部屋を開けて「お前たち全員静かにしろ。」と言うんです。(半分泣きそうな感じ)  寝ているだけだから本当は静かなはずですけれども、多分幻聴が聞こえてたんだと思います。 

以後僕は夜寝るのが怖くなって朝方まで起きていて、学校に行くと言う状態になりました。 学校で寝るんで藤野はたるんでると言われました。 後から気がついたんですけれど、統合失調症の始まりでした。 はっきりしたのは25年後でした。   統合失調症は直接の原因がないのに、脳の様々な働き、例えば考え、気持ち、行動がまとまりにくくなる病気で、幻覚、妄想といった症状や意欲や感情表現が減るなど、様々な症状が現れるそうです。  精神科医の方から言われたのは、統計上は日本では最初の急性症状が現れてから、病院につながるまでが平均13ヶ月ということだそうです。  救急車で運ばれたときには医師の方から父に全く問題ないと言われたそうです。 

当時、精神科医の通院歴が残るということが、姉の医師として、研究者としての道に妨げになると思って、両親たちは自分たちで直そうと言うふうに思ってます。  病気を恥じたと言う部分もあったかもしれないです。 当時は今のようないろんな治療法がなかったので、治療に期待できなかったと言うこともあったでしょう。 精神科病院で患者当事者が虐待されると言うケースもあるので、そういうところへ自分の子供を入れることができないと言うふうに判断したかもしれません。   当時、発症を含めて両親に責任があると私は思ってました。

両親が医師にならなければいけないと言うふうに、姉に思わせていたので、それがプレッシャーになって統合失調症を発症したんではないかと思ってましたけれども、いろいろ本を読んでわかった事は、現在に至るまで統合失調症はどういうメカニズムで発症するのかということがわかってないんです。 ですから両親にも責任ないし、それを恥じる必要もないですね。  防ぐ方法すらわからなかったんですから。どこにも、両親にも誰にも責任はないと言うことです。

姉は2008年に入院することができましたが、その時によく効いた抗性新薬があって処方されましたが、それが認可されたのが1996年です。 25年かかって入院してますが、そのうちの半分位の期間はもしかしたら短縮できたかもしれません。   この期間に関しては両親の判断の結果と言えるんじゃないかなと思います。   両親が全く問題ないと言っていて、両親と話をしましたけども結論が出ませんでした。 家を離れる前に記録を残さないといけないと思いました。 最初は録音をしました。  ビデオ回し始めたのは2001年からです。(18年後) 食卓のシーンで、姉が母親のグラスにイカリングを投げ込むみましたけれども、それを平然と受け止めている姿がありました。 父が全く驚いてなくて、母にそのイカリングを出した方がいいんじゃないかと普通に言っていました。そこが1番変なんです。

両親の言動とは裏腹に、実際には、こういう事は日常的におきていたんで父親は驚かなかったんですね。(一番奇妙な場面) カメラがあると言う事は、撮ったものを後から誰かが見るかもしれないので、カメラが置かれると言う事は他人がいると言う事と同じことなんです。 第三者が入ってくる効果にはなったと思います。  姉に対する私の対応と言うのは、終始優しいと言うことがあるかもしれませんが、僕は編集する側ではあるので、そういう部分を隠してると言う可能性もあります。 見てる通りが全てであると思うのは気をつけたほうがいいですよ、とは言うべきです。 基本的にはは被害者だと言う認識はありました。 姉は父に対しては崇拝に近いです。    尊敬してました。 父の言う事はわりとよく聞いていました。母と僕に対してきつめでした。

僕は姉から暴力を受けた事は1度もないです。 両親も暴力は受けてないと思います。 インターネットを見ていると、統合失調症な人は危険な人だと言う言葉が目に付きますが、コミュニケーションできない人たちと言うふうに見てるのは、僕はちょっと違和感を覚えます。 姉の言葉は主治医からは言葉のサラダだと言っていましたが、いろんなものが集まってるという感じです。 使っている単語をなんとなく聞いていると僕はある程度理解する部分もありましたけれども、両親は僕よりももっと理解できていたものと思います。  

僕は25歳の頃に神奈川に就職しました。 20年弱は離れて暮らしていました。    無理だと思ったときには離れることも必要なんだと思います。 両親が先にいなくなるわけだから、どっかで僕は関わっていくと言う形にならないと、もしかしたら刑事事件のような事が起こることがあるかもしれないので、話を再開しなければいけないと言うふうに思っていました。  姉は多分1人では暮らしてはいけないだろうし、その時僕はどうするのかなあと言うことでした。 

入院するまで25年かかったと言うのは遅いわけです。 母は認知症の状態になったということで、両親2人が姉を観てた状況から、父が1人で母と姉を看なければいけないと言う環境になったと言うタイミングだった。  母の言動が気になり始めたのが2005年位です。 妄想が始まってそれを聞いたときには大変だなと思いました。 父も夜眠らなくなりました。 母が夜中歩き始めるようになりました。 母は僕と父で家で、姉は精神科の病院の方で受け入れてくれるところがあるから、そこでてもらうことになりました。 姉を説得して姉も受け入れてくれました。

3ヶ月入院して兄弟のコミュニケーションが取れるようになりました。 姉は2021年に肺がんになって亡くなることになりました。 お葬式のシーンで、父が姉と共同で執筆した論文をお棺の中に入れるシーンがありました。 両親の研究を手伝ってくれる親孝行な娘だと言うふうに思いたかったということじゃないでしょうか。 この映画は各地で上映が続いています。 公開から1年半どう受け止められるかという事ですが、治療に至る前が半分以上なので、非常な不安なところはありました。 半分ぐらいは批判的なものが来るかなぁと思ってました。 

自分の経験が半分位の感想が多かったです。 表に出てこなかった部分が言葉になって文字になって見えるようになったと言う事はあるかなぁと言う気がします。  1番の問いは両親に対してですけれども、1992年に大学4年生の時にカウンセラーの人が姉を診てくれると言う時がありましたけれども、それを父が否定してきても来てましたが、あの時にもっと両親と話をして、なぜ両親が病気ではない、問題がないと言っていたことについて話を聞いたらよかったんじゃないかなと思います。あと4年で薬が使えてたかもしれません。 そうすれば最短距離で治療が進んだんじゃないかなと今にしては思います。 

父のように問題は無いと言う家族はたまにいるそうですけれどもそういう人たちに言うのは「よくがんばりましたね。」と言うことです。 「もうこれ以上しなくていいですよ。」と言うふうに話をすると氷が溶けるというか違う反応が返ってくると言うケースも伺いました。 僕は攻め続けていたので、両親の奥の部分のところまでの話を両親とできていたら違っていたかもしれないと思います。 日本は家族に背負わせ過ぎているというのは感じます。 家族の問題は家族で解決すると言う事を法律がないのに前提になってる気がしていて、僕は家族だけではなくて、社会の仕組みでと言う形にしていかないと今後は難しいんじゃないかと思います。   困っている人たちに何かできることと言うのは、話を聞きやすい状況を作ることでしょうか? 問題が存在しないと言う状態を、まずはどうにかするというのが第一歩ですね。

2026年3月31日火曜日

伊与原新(作家)              ・わが心の人「猿橋勝子」

伊与原新(作家)              ・わが心の人「猿橋勝子」 

猿橋勝子さんは1920年東京生まれ、帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学理学部)を卒業後、現在の気象庁に勤務し、オゾン層や海水の研究に取り組みました。1980年気象庁を退官する「猿橋賞」を創設し、若い女性科学者を励ます活動を始めます。  2007年9月亡くなられました。(87歳)

伊与原さんは、昨年猿橋勝子さんの生涯を描いたいた小説「翠雨の人」を発表しました。 伊与原さんは1972年大阪出身、大学は神戸大学で、その後東京大学大学院に進み、専門は地球惑星科学、博士課程終了。 地球惑星科学と言うのは地学のことを最近はそういう風に呼びます。 2010年「お台場アイランドベイビー」で第30回横溝正史ミステリー大賞受賞。 その後もたくさんの文学賞を受賞します。   特に作家志望のスタートではありませんでした。昨年「藍を継ぐ海」で直木賞を受賞。

猿橋勝子さんは地球化学の分野の研究者でした。 猿橋勝子さんがどういう生涯を歩んできたと言うことについては全く知りませんでした。 資料を集め始めたのが10年近く前でした。  翠雨の人」、猿橋さん自身は幼い少女の頃から雨にすごく興味のある人で、雨の日は空を見上げて、なぜ雨は降るんだろうとずっと考えているような子供だったということです。 彼女の自然科学に対する興味の原点は、やはり雨だったわけです。  彼女のキーワードは雨です。 

1920年生まれ、帝国女子理学専門学校(現在の東邦大学理学部)の1期生として入学します。 中央気象台研究部に勉強に行くことになり、三宅泰雄先生の指導を受けます。 その後三宅先生のいる中央気象台に入ることになります。  終戦後も中央気象台の研究部はなかなか立ち直るのに時間がかかりました。 1954年アメリカがビキニ環礁での水爆実験を行い、第五福竜丸の乗組員の方が被爆します。  彼女はオゾン層の研究を、その後海水の研究、海水中に二酸化炭素がどの程度溶けているかと言うことを詳しく調べる研究をしてました。 当時から科学者は地球が温暖化するかもしれないと言う危惧を抱いていました。

彼女の研究が世界的に評価されて名前が知られるようになっていきました。   そんな折にビキニ環礁での水爆実験が行われました。 持ち帰られた「死の灰」(放射能を帯びたサンゴのかけらが灰として降ってきた。)を猿橋さんが分析して、それがきっかけで放射能汚染の研究に突き進んでいくことになります。  海水の中にどのぐらい放射能が含まれているか、あるいは降ってくる雨にどの程度の放射能が含まれているかと言うことを詳しく調べていきました。

環境汚染はないというのがアメリカ側の主張でしたが、三宅先生と猿橋さんが詳しく調べてみると、海流に乗って高いまま流れていくと言う事はわかりました。(アメリカの調査データよりも10~50倍の数値)  アメリカは、捏造ではないかと言ってきました。  アメリカと日本では違う分析方法でやっていました。   同じサンプルをそれぞれのやり方でやって、どちらが正しいか白黒をつけろと言う話になりました。 それで彼女がアメリカに行くことになりました。  女性が1人で行くと言うことが、当時としては前代未聞のようなことでした。

研究室はボロボロの小屋を与えられました。 海水の中に含まれているセシウムの量を第一回目は既知のセシウムを入れておいて、その値は知らされない状態で測定するわけです。 第1回目はわずかな差でアメリカが勝ちます。 猿橋さんは落ち込みますが、三宅先生から励ましの手紙をいただきます。  2回目、3回目は日本側が勝ちました。  4回目も猿橋勝子さんが勝利を収めました。アメリカはだんだんと猿橋さんを認めるようになっていきました。 アメリカと共著の論文を出すと言うことで幕を閉じました。

猿橋さんは研究者としては、日本よりも欧米で高く評価されている面があります。地球温暖化研究の先がけの1人として認識されています。  社会のために何ができるかと言うことを認識して活動されていたと、そこは見習うべきことと思います。三宅先生は科学者は哲学者であるべきだとおっしゃっています。 猿橋さんも後輩に伝え続けていきました。  猿橋さんは、日本学術会議で初めての女性会員(1980年)、東京大学理科系で女性で初めて理学博士になりました。 

自分が先頭に立って、後進の女性研究者が研究しやすい環境を作る義務があると考えたようです。 ですから、自分が先頭に立っていろんな壁を破っていくために学術会議の会員になったのもその理由だと思います。 その後の社会活動に力を入れていくのも、後輩の女性研究者のためにと思ってやられていたようです。    退職金等すべてのお金を全て後輩の女性科学者のために使えばいいんだと言う考えられたようで、女性科学者に明るい未来の会と言う会の設立に使ってしまいます。「猿橋賞」が作られて、女性の科学者のためを思って応援をすることになります。女性研究者はなかなか昇進できない状況でしたが、猿橋賞をもらうことによって助教授になれたとか研究費をもらえたりすることが、実際に起こっていきました。 そうそうたる方々が、「猿橋賞」をもらって育っていきました。

今は発達障害とかアスペルガー症候群(自閉スペクトラム症(ASD)の一種)とか、そういう子供たちがたくさん登場する小説を書いています。 彼らの存在自体が人類のために実はなっているじゃないかなぁってそういう観点で小説を書いています。 科学と言うものを歴史的に眺めてみると言うことが面白いと思い始めています。 時代、時代で科学はどういう役割を果たしてきたのか、そういうテーマで書くのは面白いんではないかと思っています。





2026年3月30日月曜日

小田美樹(いわき市立玉川中学校音楽教師)  ・「合唱曲『群青』~作曲者の震災15年の葛藤~」

 小田美樹(いわき市立玉川中学校音楽教師)  ・「合唱曲『群青』~作曲者の震災15年の葛藤~」

全国で歌われている合唱曲「群青」、この歌は東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所で、避難指示が出された地域にある福島県南相馬市立小高中学校で生まれました。 歌詞には震災直後の2年間を過ごした生徒たちの率直な思いが綴られています。 作曲したのは当時の小高中学校の音楽教師だった小田美紀さんです。群青が誕生した経緯やそこにこめられた思い、そして震災から15年、小田さんの心の変化を伺いました。

*『群青』作詞:南相馬市立小高中学校 平成24年度卒業生 作曲:小田美樹

ああ あの街で生まれて君と出会い
たくさんの想い抱いて 一緒に時を過ごしたね

今旅立つ日 見える景色は違っても
遠い場所で 君も同じ空
きっと見上げてるはず

「またね」と手を振るけど
明日も会えるのかな
遠ざかる 君の笑顔今でも忘れない

あの日見た夕日 あの日見た花火
いつでも君がいたね
当たり前が幸せと知った

自転車をこいで 君と行った海
鮮やかな記憶が
目を閉じれば 群青に染まる

復興については、当時はたくさんのものが奪われて、震災によって何もなくなったところからパワーを持って変化してる感じがあったので、新しい街が作られているなぁと感じました。 卒業式が終わって職員室に戻って一息入れたときに揺れが来ました。 体験したことのない大きい揺れでした。 小高中学校よりも1段高いところにある小高工業高校のところに徒歩で移動しました。 初めて津波を見て信じられないような光景でした。 小田区では津波だけではなく、第一原発の事故はそこから長く続きました。 3月12日に爆発の音が聞こえましたが、その時は何があったのか全然わかりませんでした。 

私も福島市の親戚のところに避難しました。 小高中学では4人の生徒が亡くなりました。 4月22日に鹿島中学校を借りた形で、新学期がスタートしました。    体育館で始業式をしましたが、参加した生徒は10分の1に満たない位でした。   生徒たちとは交換日記みたいな形でやりとりをしていました。 毎日20人とやりとりしました 。たわいのない毎日のことが書いてあるのがほとんどでした。 家を取り壊すことになったとかそういった話もありました。 震災に関わる内容がどうしても多くなります。

震災の次の年の卒業式に歌を歌ってもらおうと思って、卒業式の歌として提案しました。 子供たちは全く歌いませんでした。 歌詞が「明日があるから幸せを信じて」と言うような歌詞なので、まだそんな思いにはなれていなかった。     自分が生きているうちに帰ることができるのかわからんような時だったので、あさはかだったと思いました。 前年と同じ失敗を繰り返さないために、作るしかないと思って、彼らの言葉に合わせて歌詞にまとめていきました。

「明日も会えるかな」と言うネガティブな歌詞もあるんですけれども、今隣りにいる友達が明日は会えなくなるかもしれない、と言うことを身をもってわかってしまっているんだなぁ、と言うことにすごくショックを受けました。 「あの日見た夕日、あの日見た花火。 いつでも君がいたね。」 と言う歌詞の部分ですけれども、小田中の音楽室から見る夕日が本当に綺麗なんです。 学校の近くで花火を見たりしました。 合唱部の女の子が1人亡くなっているんですが、彼女を思って作った部分です。  「群青」と言う題名にしたのは、小高中学校の校歌に「群青」と言う言葉が入っていまして、文化祭も「群青祭」という名前になってます。タイトルは最初から「群青」と決めていました

群青を1番最初に歌ったのは、京都のコンサートでした。  彼らが一生懸命歌ってくれたからこそ、客席の皆さんも「群青」を聞きながら涙をした客さんもいらっしゃいました。 客席の方たちの様子を見て感極まって、彼らたちも歌いながら泣いていました。 出版すると言う話になりましたが、震災のことを題材にして作った曲を出版する事は、辛い思いをした子たちを売り物にしてしまう、そういうふうに思われるのではないかと思って、躊躇はありました。 子供たちに相談したら子供たちはすごく喜んでいました。

辛いこと、悲しいことが題材になっているので、早くこの曲が歌われなくなるような、この曲がいらなくなるような平和な時代が来ればいいなぁと思ってた時期も結構長くありました。 私は大病をしてお腹を切って悪いところを取ったのですが、そうすれば元気になると思ってましたが、1年後に別な病気になってしまいました。 元気だったので何の備えもしていなかったと言うことに気づきました。 震災も同じだと思いました。 震災の復興が進んでいけばそのまま復興が進んでいてもらうと思っていましたが、穏やかな状態は震災後だけれども、次にまた次に震災が起きれば、今のこの時間が震災前の状態だと思いました。 震災前の時に次のことを備えておかなければいけない。私はそれをすごく怠っていたと言うことに気がつきました。

この「群青」を歌ってもらうことによって、次の震災のための準備を促す、思いをつなぐたった5分間の曲で、東日本大震災のことを知ってもらえるきっかけになのではないかと思いました。 この曲は歌われなくなればいいのではなく、そういう風に役に立ててもれるのであれば残しておくのがいいなあと、考え方が変わったのは病院のベッドの上でした。 あれから15年経って、15歳の春を迎える子たちが育つと言うのは、本当に大きな節目だなと感じます。

あれから二年の日が 僕らの中を過ぎて
三月の風に吹かれ 君を今でも想う

響けこの歌声
響け遠くまでも あの空の彼方へも
大切な全てに届け

涙のあとにも 見上げた夜空に
希望が光ってるよ

僕らを待つ群青の街で
ああー

きっとまた会おう
あの街で会おう 僕らの約束は
消えはしない 群青の絆

また 会おう
群青の街で



2026年3月29日日曜日

リュークルー(国際線CA・ユーチューバー) ・「“自分らしさ”の翼広げて」

 リュークルー(国際線CA・ユーチューバー) ・「“自分らしさ”の翼広げて」

カナダの拠点の航空会社でCA、キャビンアテンダントとして勤務する傍ら、旅行のお得な予約方法、これまでに訪れた国々のエピソードなど、CAならではの情報を発信するユーチューバーとして活躍しています。 前向きに自分らしく生きることを大切したいと話すリュークルーさんにとって自分らしいとは何なのか伺いました。

リュークルーさんは大阪出身です。 11年前からカナダで暮らしていて、国際線のCA、キャビンアテンドとして働いています。 その一方で、CAならではの情報を動画で発信するユーチューバーとしても活動しています。 2026年2月の時点でチャンネル登録者数34万人を超えています。 CAの仕事からいろんなホテルに泊まりますが、多い時は月の半分ぐらいホテルに泊まります。得た知識などを動画で発信しています。 

エッセイの執筆もやってます。 今年で第3弾を発表しました。 最初は、出版社からの要請がありました。 乗客として乗っているときに、パニック障害になったことがあります。 カナダで暮らし始めて11年になります。カナダ移住のきっかけとなったのがカナダ人パートナーということです。 性格は私と正反対ですごく静かです。 カナダの田舎町に10ヵ月ほど留学していました。 知り合って1年、日本で一緒に住んで、そうするとカナダの永住権が降りて、私がカナダに行こうと思って行きました。 同性とのパートナーの位置づけとしてはカナダでは特に気にしてないです。 私が大学へ通っていたときの女性の先生のパートナーがやはり女性でした。 最初はびっくりしたんですけれども、いろいろ話を先生とするようになりました。 そこから私の人生観が変わりました。 自分らしく生きると思った瞬間でした。 

子供の頃、宝くじが当たってグアム旅行に行くことになりました。 CAの働く姿を見て、本当にそれに憧れました。 1番しんどかったのは言語です。 いまだに自信は無いですが、ある時吹っ切れました。 自分のアクセントなども気にしなくなりました。 プライベートで飛行機に乗っているときに、パニック障害が起きてしまいました。 かなり無理して仕事をして、その後旅行に出かけようと思いましたが、急に心臓がバクバクして息ができくなってしまって初めての経験でした。  隣の人に話すことによって落ち着けました。 病院に行って診察してもらいました。 CA 、パオロットは意外とこの病気を持っている人が多いらしいです。 実は時差ぼけが常にあります。 そうなると自律神経がおかしくなってしまって、直すためには深夜便だったら早朝便を間に入れないとか、なるべく睡眠のサイクルを同じ様にするようにしました。 

エッセイの中で公表することによってびっくりする人もいましたけれども、同じ当事者の方から力になれたらいいかなぁと思っています。  ファンの皆さんからの声、話はありがたいの一言しかないです。 本を出すことによって、自分の頭の中の整理ができたと言うのはあります。 1冊目はパニック障害のことについて書きました。 ちょっとでも背中を押すきっかけになれたら、そんなうれしい事は無いなぁと思いました。 本の力に気づかされました。 

私の自分らしさは、信頼している家族、大切な人が理解してくれていて、私も大切な人たちをできる限り理解できているみたいな状態にあることが、1番自分らしくちょうどいいバランスで自分らしくあると思います。  昔は海外に住んでいる自分が待ってると言うような、生き甲斐見たものを感じてましたが、今はだんだん自分が生まれ育ったふるさとで何かできたらいいかなぁとか、ふるさと盛り上げたいとか、ふるさとにいろんな人が来て良さを知って欲しいなぁと逆に思ってくるようになりました。 カフェをやりたいと言う夢がありまして、みんなが気軽に伝える場所、コミュニティーが作れたらいいなぁと言う思いはあります。

2026年3月28日土曜日

木内昇(作家)               ・私の人生手帖(ちょう)

 木内昇(作家)               ・私の人生手帖(ちょう)

江戸時代の後期新潟県の豪雪地帯の風物や暮らしを記した「北越雪譜」と言うベストセラーがありました。この本が世に出るまでの作者鈴木牧之の強い思いや、江戸の出版事情などを壮大に描いて、第52回の大佛次郎賞などを受賞した作家木内昇さんに伺いました。 木内昇さんは、1967年東京生まれ、出版社勤務を経て、2004年に作家デビュー、その後4作目にして直木賞を受賞しました。 去年の末から短期間に多くの文学賞を受賞して、改めて高い評価と注目が集まっています。  これまでの半生とともに、「北越雪譜」を軸にして、まるで息使いまで聞こえてくるようなリアルな小説世界がどのように紡ぎ出されたのか、併せて時代小説の基礎からの楽しみ方などを伺いました

浅田次郎さんが、私が「中央公論文芸賞」を取ったときに、木内さんと言う人は、険阻な道を行くだろうと、王道ではなくて、厳しいところをわざわざ登っていくじゃないかと言うことを書いてくださって、私はなんとなくこういう道を登っていくんだろうと予感していた時にだったので、そこに踏みとどまって頑張らなければいけないだろうと思いました。 物語自体もすんなりいかないし、取り上げる素材も決してみんなが好むようなものでもない、でもどうしても取り上げたいと思いました。 表現の仕方にしても、通りいっぺんなところをやらないのかなあと気がしていました。 それを言い当てられたような気がしました。

「雪夢往来」では40年の歳月を書いております。 鈴木牧之と言うのは、越後の商人で代々続くを切り盛りしながら、地域の民族学みたいなものを記録をずつ書き続けます。 出版したいと言う野望があって失敗しますが、頓挫するのが繰り返して、出版するまで40年かかったと言う歴史があって、その歴史を描いた作品です。

方言についてが難しくて、細かく直していく作業がを経て出版することを毎回繰り返しました。 本当に好きなものって時間をかけてもやりたかったり、最悪夢が叶わなくてもやりたいものっていうのはあると思います。 やりたいものとか夢とかは叶う叶わないと言うのは、そこは重要ではなくて、たとえ評価されなくても日の目を見なくても、大事に自分の中に持っていけるかと言うところが、その人の幸福か不幸かと言うところにつながっていくと思っていて、死ぬまで夢を持っていたら1番いいんじゃないかと思います。  

小説のなかに不思議な世界を取り入れていますが、当時の精神性と言うまででは無いんですが、どういう感情とか、どういう気持ちで生きていたかと言うことを考えると、どうしても取り入れざるを得ないと言うところで、自然に入ってきちゃう感じです。   自分の感情としてはそういうところはないです。 理論的に考えたいと思う方です。  江戸の文化と言うのは太平な時代が260年続いたし、識字率も高かったし、浮世絵なども普通に楽しんでるし、芝居も楽しんでます。  財産は残さないんだけれども、きえものにはお金を使うと言う文化には、お金を使うと言う文化が爛熟したのが、江戸時代だったのかなあと思います。 そういったことで江戸時代が見直されてるのかなあという感じがします。

なるべく体の動きとかで、その人の人柄とかを書きたいなぁとふうに思っていて、江戸時代とか昔の頃の方が、体にその人の特徴が出ます。武士は左に刀を差すので、武士の歩き方と町民の歩き方は違いますし、身体的特徴とか動き方を書くと言うのが楽しかったりします。 時代物の楽しみというのはそういうところにあります。

私は小さい頃は、野球が好きで、王選手に憧れていました。 つい動きと言うものに注目してしまいます。 動きをどうやって臨場感を持って書くかとか、職人の手で裁き1つにしても、情景がどれだけ浮かべられるか、そういうのを1番気にしながら書いています。  資料は結構集めます。 全国の古書店から取り入れることができるので、便利さはあります。  資料読む方が書くより時間がかかるかもしれません。 

もともと作家を目指した事はなかったです。 出版社でインタビューの仕事をやっていました。 「新選組幕末青嵐」というのを書きました。その後「茗荷谷の猫」を書きました。自分で書いていてもものすごく面白い作品でした。 書いてみませんかと言う話になったのが、2008年の終わり位です。 書いている事は楽しいです。 登場人物たちに自分の主義主張とか、自分の意見と言うものを代弁させないと言う事は大事にしています。(登場人物ではなく私になってしまうから) どういう風に思うのかなと言うのは、読書に委ねると言うのが小説ではないかと思います。 

歴史のある土地は好きです。 昔は地域の差によっていろいろ違っていて、食べ物とかも違っていたし、風習習慣も全然違っていたので、そういうのを調べるのがもともと好きです。  登場人物の土地はすごく歩きます。 作家としていつも挫折感を感じているように思います。 もうすぐ出る本ですが、女性で望東尼言う50代の後半で急に勤王に目覚めて、高杉晋作を最後に看取った人で、この女性を書きますが、年老いてからすごく花開いた人を書きますが、そういう人たちを書いていきたいと言うのと、江戸時代がすごく文化が開いた時期なので、もうちょっとそこを掘り下げたいなぁと言うふうに思っています。 母を弟を介護していて、今が一番つらい時期ですが、大変な時も出口になったりします。 書くと気持ちが整理されたりします。 何十年も続けているので、作家気分ではないと言いながらも書いていると言う事は、何か燃えるものがあるんだろうなと思います。




2026年3月27日金曜日

浅川保(山梨平和ミュージアム理事長)    ・山梨で戦争と平和を伝え続ける

浅川保(山梨平和ミュージアム理事長)    ・ 山梨で戦争と平和を伝え続ける

甲府市にある山梨平和ミュージアムは2007年5月に開館しました。 今年で29年になります。  2005年から5年ごと「戦争体験記」を募集し出版しています。    去年は「戦後生きて思うこと」と題し、5冊目の体験記を出版しました。 戦後80年戦争体験者が少なくなり、その体験を聞くことが難しくなってきて、どう次世代へつないでいくかが課題になっています。

2003年からこういう資料館を作ろうと言うことで取り組んできました。3800万円の給付が集まりました。  土地を買って建物を建てました。 ある方は1000万円を出しました。  年間で1500人位来ます。 1日約5人ぐらいです。 甲府空襲は1945年7月6日の夜中です。 約1127人の方々が亡くなりました。  常設展の1階は甲府空襲、甲府連隊、暮らしです。  2階が石橋湛山の生涯と思想ですが、その他に企画をやってます。 2階で講座もやってます。 あと年に1回著名な先生方を呼んで講演をしてます。 5年に1冊戦争体験記を発行しています。

昨年は戦後80年と言うことで5冊目の本を出しました。 今後は生の声が聞けなくなるので、今まで出した本とかビデオの映像活用したり、自分の父親、母親の戦争体験をどう受け継いでいくかと言う形の伝え方にならざるを得ないと思います。  石橋湛山の母校が山梨県の甲府第一高校です。 生れは東京ですが、父親の実家が山梨です。 たまたま私が甲府一高の山梨の教員になって赴任して調べたら、彼の書いた作文が7つ出てきました。 資料をまとめ上げて石橋さんのことを展示することになりました。

私は1945年に生まれました。 叔父が2人とも戦死しました。 明治以降の近代史の歴史のことを勉強しようと思って、東京大学は歴史学科に行きました。  その後高校の教員になって、生徒の身近な人の体験記を書いてもらって、それを元にして生徒がそこから戦争のことに入っていくと言うことが有効だと思いまして、退職するまでずっとやっていました。  戦争を伝える資料館の必要性を感じました。  大学時代は学生運動が盛んで授業はあんまりありませんでした。 

家永三郎先生(東京教育大学の先生)と言う先生がいて、家永教科書訴訟が始まったころで、 家永先生は、仏教史が専門の先生ですが、その先生が太平洋戦争の話をすると言うことで聞きに行きました。  自分は戦争反対をしないで、終戦を迎えてしまって、自分の友達教え子がなくなってしまったので、自分の戦後は戦争のことをしっかり調べて、それを若い人たちに伝えるのが私の責任だと言うふうにおっしゃいました。 それに大変感激しました。 その後山梨の高校の先生になりました。 3校目が甲府一高で私の人生を変えました。 

山梨平和ミュージアムには中心になってるのは理事が10名ほどいます。その他に協力員が30人ぐらいいます。 ほとんどが退職者でボランティアです。 他にサポーターの方々が300人ぐらいいます。  国際社会が日本をどう見てるかと言うことですが、国際連合事務次長に中満泉さんと言う女性の方がいます。 赤根智子さんと言う女性の裁判官の方が国際刑事裁判所の所長を務めてます。 ロシアがウクライナを侵攻したときに、プーチン大統領に国際刑事裁判所が逮捕状を出しました。   戦後の日本の憲法とか、国際協調の日本の外交とか認められたということです。日本国憲法とか戦後の日本の歴史から培われた国際協調の精神とかを世界にアピールするそういう事は大事だと思います。 

今年80歳で来年開館30周年になりますが、今後分担しながら若い人に引き継いでいきながら運営してやればいいかなと思ってます。 しっかりと日本の近代の勉強すると同時に、自分の祖父母から聞き取ったり、周りの人たちから聞いたりしたり、幅広い勉強をしてほしいなと思います。 プラスとマイナスの日本の歴史をしっかり学んでどういう風にしてプラスの方向に向けて発信していけるか、そういった繰り返しが世界の平和の方向に行くと思っています。 

甲府空襲は、甲府市にとって大変大きな出来事でした。 地域の資料をもとにしながらどうやって見てもらえるようにするのかとか、関心のあるものにするかと言うことを工夫しています。 甲府連隊を展示してますが、ほとんど知らない人が多いです。  それを正確に知ってもらうということが、うちの展示物の特徴の1つだと思います。 中国との戦争の発端は1931年の満州事変ですが、中国との戦争は14年間もやってます。アメリカとの戦争は4年です。 日本と中国の歴史、日本と中国の戦後の歩みについてはしっかり紹介していく必要があると思います。 去年は6回講演を行いました。依頼があればできるだけ行って講演したいと思います。  石橋湛山に関する学校への出張授業をやってみたいと思ってます。

2026年3月26日木曜日

濱崎加奈子(有斐斎弘道館館長)       ・「伝統に学ぶことは未来を創ること」

濱崎加奈子(有斐斎弘道館館長)  ・私のアート交遊録「伝統に学ぶことは未来を創ること」 

濱崎さんは京都大学文学部、さらに東京大学大学院で美術を専攻、その後京都の町の古民家の保存活動や平安時代の宴や行事の再興など、幅広く京都の歴史文化に関わる活動をしています。 中でも今1番力を入れているのが、今年12月6日に予定されている「寛永行幸400年祭行列」の再現イベントです。 今年2026年は寛永3年に行われた「寛永行幸」から400年。 この時代は、戦国の世を乗り越え、後の日本文化に大きな影響を与えた芸術文化が花開き、日本の文化の故郷と呼ばれる時代です。 歴史を知る事は未来を生きること、先人が残してきた有形無形の資産を、私たちは未来へとつないでゆく責務があると言う崎加奈子さんに、伝統文化の現状と未来への展望を聞きました。

高校生の時に京都に憧れを抱きました。 京都にいってなるほどなと思う事はたくさんあって、神戸にいたときの身の回りにはなかったような、美しい街並みだったりとか、人々の言葉遣い、着物などいろんなものに心をときめく瞬間が何度もありました。 京都大学で美術を学びました。 東京大学大学院でも美術を専攻しました。 歌舞伎にも惹かれました。 歌舞伎の演目の中の神輿にも興味を持ちました。実際に神輿も担ぎをした。

京都にいる時は、日本舞踊、三味線、常磐津節などを習う。 東京にしばらく住んだのち、また京都に移り住みました。 かつらを作る制作技術ですとか、京町屋が一日に2軒から3の割合でなくなっている現状を知りました。  何か自分でできる事はないかと思い至りました。  有斐斎弘道館は全国から3000人門弟が集まってると言う学問所です。  この建物が2009年に取り壊されると言うことを知って保存活動を進めました。 皆川淇園(みながわきえん)は詩文や書画にも優れた風流人で私塾として運営してました。 江戸時代の勉強は机の上で学ぶだけではなくて、歌ったり絵を描いたりそういう中から学んでたんじゃないかと思います。

そういった学び舎として復興、復活させると言うコンセプトでいます。     北野天満宮さんで、1000年以上前に行われていた曲水の宴を再興したり、猿楽を再興したり、過去にあったことを蘇らせてみると言うことをいろいろやっております。 伝統文化をプロデュースすると言う事は、自身で作った言葉ですけれども、消えていく物に対して何とか伝えていければいいと思ってます。 

つないでいくために実は会社を作りました。 「伝統文化プロデュース連」と言う名前ですが、収益を得る難しさを知りました。 国として文化財を活用しましょうと言うのは、当時の方針転換だったと思います。 文化財を生かすための政策がいろいろ湧き起こっていますが、国の方針転換は悪いことではないと思いますが、次のステップに入らないといけないんじゃないかと思っています。 

現在力を入れてるのは寛永行幸行列再現プロジェクトです。 後水尾天皇が二条城に行幸されて、ちょうど今年400年の節目を迎えます。 戦乱の時代がようやく終わって11年です。 家康が作った二条城を大幅に増改築します。 その1部が残されているのが国宝の二条城です。  寛永時代に様々な文化人がスターのように誕生しました。 全国から大名たちが9000人募って99000人の行列ができました。 30万人位の大名の家来たちが半年位滞在しました。 当時の京都の人口は20万人位と言われています。 地域に戻った大名たちが、京都の文化をまた伝えていたということになります。 俵屋宗達、本阿弥光悦、狩野 探幽、落語の祖と言われる安楽庵策伝、小堀遠州などが活躍。

この「寛永行幸」の行列を再現したいなぁと思いました。 300人の規模で考えました。行列に歩きたい人を募集中です。 できれば全国から募って行事をしたいなと思っています。 現時点で1300人です。 装束などの問題、協力していただける業者さんとかをあたっている最中です。 12月が予定になってます。 文化が社会の根底にある、今は経済の尺度で測りがちだと思うんですけれども、文化の面で言うと、それがお金になるんだろうとか、そうではないんじゃないかと思います。 

社会全体に浸透していた各階層を超えて、見事に結実した日本のような時代が、寛永時代だと思います。 政治、経済、商売人、技術者、アーティスト、宗教とかもみんなが一緒になって、この時代を作っていこうと言うことが本当に見て取れるようにわかります。今の時代に置き換えることによって、これからの時代をどういう風に私たちは歩んでいいのかと言う知恵を得られるんじゃないかなと思います。 文化がみんなのものになった時代ですから、とても参考にできるものがたくさんあると思います。 なので「寛永行幸」をもう一度再現しようと思ってます。 お勧めの1点は「二条城行幸図屏風」です。  この時代の中に没入していけるような、そういった時代の空気を読み取ることができるので、本当に素晴らしいと思います。

2026年3月25日水曜日

小川洋子(翻訳家)             ・「古代の植物誌を夢中で翻訳~いつの間にか50年~」

小川洋子(翻訳家)   ・「古代の植物誌を夢中で翻訳~いつの間にか50年~」 

今から2300年前紀元前のアリストテレスの時代の話です。 アリストテレスの同僚の植物学者のテオプラストスの事を御存知の方は多分あまり多くいらっしゃらないのではと思います。  実は植物学の祖と言われるリンネやテオプラストスは植物学の祖であると言っているそうで、古代の偉大な植物学者です。  紀元前の書物テオプラストスの「植物史」を自宅でコツコツ50年かけて翻訳されたのが、今回の小川洋子さんです。 その翻訳本は日本を翻訳協会特別賞を受賞しました。 なぜそんな古い本を翻訳しようと思ったのでしょうか? しかも50年もかけて翻訳したことをどのように思っているのでしょうか?

アリストテレスは生物学の祖と言われていますけれども、アリストテレスは動物のほうに熱心に取り組んで、テオプラストスのほうは植物に取り組んだと言われています。  「植物史」を読むほどに素晴らしい研究をしていると言うことで、だんだん引き込まれて勉強しながらやっていたら50年かかってしまいました。     当時見た植物を詳細に厳密に記録しています。 言葉で葉の特徴とかいろいろなことを文章で非常に丁寧に書き残しています。 それを読むと植物が同定出来る。

2300年前と言うと、アテネに地中海中から人が集まって学問をしていました。  アテネは文化都市でした。 テオプラストスは植物分類学の元を築いた人でもあったわけです。  植物の形態学などもしっかり書き込んでいます。 アリストテレスは動物の性については、生殖行動まで詳しく書いていますが、植物には性がないと言ってます。 テオプラストスは現代の受粉について述べているのと同等の説明をしています。  15世紀頃になって顕微鏡ができた後、雄しべ,雌しべの働きと言うのを発見した人がいました。 その後雄しべ,雌しべの役割は違っていて、それが新しい命になると言うことを説明するようになるまでの間、テオプラストスの時から1歩も進んでないわけです。 植物は自然発生的に出てくると言うな考え方でしたけれども、テオプラストスはすべての植物は種子から生えると言うことを言っています。

 私は学生のときには植物学ではなくて、経済学を勉強してました。 あることから、ギリシャ語を学ぶようになりまして、ギリシャ語の面白さを感じました。  ギリシャ史の勉強始めました。 ギリシャ古代の農業の勉強しようとしていましたが、テオプラストスと言う名前が注釈に頻繁に出てきます。 それでテオプラストスの本を読むようになりました。 それが「植物史」です。  テオプラストスに関する学会もできました。 英訳の本ができたのは1916年でした。 フランスの先生が公定翻訳本を出したのが1988年でした。

植物を説明するためには植物を理解してないとできませんので、植物園に行ったり海外まで見に行ったと言うこともあります。 有毒植物などを見に行くときには、薬品会社とか薬用植物園にいろいろ行きました。 日本では見られない植物の種とかギリシャとかイタリアなどに見に行きました。 海葱(かいそう)という6弁の白い花が咲く植物がありますが、その姿は日本では見られませんでした。 行ったらどこにでもあって驚きました。

植物は自分の好む環境のところで、育つと言うことを言いたいと言う意図があったんではないかとと思います。 科学的と言う姿勢が身に付いている人だなと言うのは大きな驚きでした。 中途半端にわかった事は断言しないでこれはまだ問題が残っていると言うことをちゃんと書いています。  今の科学者と姿勢としては全く変わらないと思います。

この本を通して植物と言うのはこんなに役に立っていると言うことを知る機会になるんじゃないかなぁと思います。 「匂いについて」と言う本がありまして、それを訳してみたいと思っています。  抽出したものをに薬用に使ったりしてまして、それをこれから勉強し始めています。 自分で見たこと、自分で本当に考えたということだけを書いているから古臭くないと思います。 自分で考えると言うことを学ぶと言う事は大事なことでないかなぁと思います。 時間をかけると言うことも大事なのではないかと思います。



2026年3月24日火曜日

萬田緑平(在宅緩和ケア医)         ・「2千人の“幸せな最期”を支えて思うこと」

萬田緑平(在宅緩和ケア医)    ・「2千人の“幸せな最期”を支えて思うこと」 

萬田緑平さんは61歳、群馬大学学部附属病院に所属する外科医として、17年間にわたり、がんの手術や抗がん剤治療を行う中で、がんの終末期に家に帰りたいと言っても見てくれる医師がいなかったことから、43歳の時に癌の終末期を自宅で暮らしたいと言う、患者さんを支える在宅医となりました。 2000人以上看取ってきた経験をもとに自分らしく生きるとは、どういうことかを綴った著書「棺桶まで歩こう」は、大きな反響を呼んでいます。

基本的には、僕の患者さんは亡くなるまで歩こうと言うのが目標で生きています。表現するのに棺桶まで歩こうと言う表現になりました。 歩けなくなってから辛いし苦しいですね。 やっていることの99%ができなくなってしまいますから。

群馬大学医学部附属病院で外科医を17年間していました。 当時、外科医は1番ハードだと言われていました。 亡くなろうとしていくときに、呼吸が弱くなって人工呼吸器に繋がれて、心臓が弱ってくると血圧を上げる薬を使って、心臓が止まると心臓マッサージをして、全員そういう風になくなっていきました。 外科医は亡くなるまでは、病院に泊まって看取ってきました。 

心臓マッサージをすることに疑問も抱くようになりました。 2年目からは、主治医としてからは自分の担当で亡くなっていく患者さんに心臓マッサージ、人工呼吸器は一切していないです。 がん告知もしました。 辛いなくなり方がかわいそうだと思っていました。 偉くなるよりも現場にいたいと言いう思いもありました。 外科医をやっているうちに、だんだん何歳まで外科をできるんだろうと言う風な思いに至りました。 

緩和ケアの世界に行こうと言うふうに思いました。 在宅医の小笠原先生が家に来ないかと言われました。(42歳) 50歳位にと言う思いではいたのですが、半年考えてやめてしまおうと思って、小笠原先生のもとに入りました。 在宅緩和ケアと名のっています。 緩和ケアと言うのは癌にまつわる痛みとか苦しみを和らげると言う治療です。 でもやってる事は病院に行きたくない人、治療したくない人、家で暮らしたい人を支える在宅ケアです。 訪問診療と外来診療の二本立てです。   午前中は外来、午後は訪問診療1日6人程度を見ます。 

人は1日1日確実に老化してって弱っていって亡くなる。 筋力とかは頑張れば維持できます。 体の元気よりも心の元気です。  体の状態が弱ってても幸せそうです。 そうすると周りも幸せになります。 心の状態を良くするとみんな生たいと言います。 もっと生きたい飲み食いできなくなって1週間ぐらいしか生きられないと言う人がいて、どうしたいって言ったら、酒が飲みたいと言います。 一般的には酒を飲ませないですね。 健康のために飲ませてあげようと言ったらわかったと言ったら飲ませました。 その日から水も飲まなかった人が日本酒を飲むようになって、だんだん元気なってきてトイレも行くようになって、3ヶ月ぐらい元気に生きてその後1週間ぐらい弱っていって亡くなりました。

体の状態はダメなんだから、心の状態では良くしてあげよう。 結果的にそっちの方が本人も頑張れるし、頑張りたいと言う長生きすると言う考え方です。    「ありがとう」と子供が言えることが、ハッピーエンドに近くなるので1番良い薬なんで何とかそれを投与しようと思って、そこに1番エネルギーを使います。    褒められると生きたいと言うことになって、生きるためには歩こうと言うことになります。  

50代の患者さんの女性がいましたが、抗がん剤の治療を辞めてから1年ぐらい通ってましたが、3人の息子がいました。 訪問診療するようになって同席してくれていまして、そこで「母ちゃんにありがとうと言ってあげよう。」と言いました。   生きてる間にありがとうと言おうねと言って、親孝行と言うのは産んでもらって育ててもらってありがとうございました、と言う言葉にすることが親孝行だと思うわけです。  3人の息子がありがとうと言った。 3日後に亡くなりました。天外孤独な人はありがとうの幸せさはあんまり感じられません。

昨年夏から12月まで診療所閉じて患者さんをゼロにして、世界一周旅行に女房と行ってきました。  オーロラを見に行きたかった。  5,6年の準備期間を設けきました。  高齢になればなるほど、いろんな楽しみが楽しめなくなる。      生前葬をしましたが楽しかったです。  死んでからではみんなの言葉を聞けなかったです。 やってみたい夢があって、緩和ケア世界一周旅行、治療ではなくて世界一周旅行にちゃえと言うものです。 死んでもいいような形にして連れて行ってしまうと言うのはやりたいなと思ってます。 病院に行ける元気なうちから、地元で自分の人生を支えてくれる医者を探しなさいと言って帰します。



2026年3月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言 「孤独」

頭木弘樹(文学紹介者)           ・絶望名言 「孤独」

今回は、井伏鱒二色川武大、哲学者ニーチェの言葉などを取り上げて紹介してきます。

「あぁ、寒いほど一人ぼっちだ。」  井伏鱒二

僕(頭木)は、20歳で難病になって13年間病院にいたわけですけども、13年間の間にほとんど孤独になってました。 ベッドの上で、自分はどんどん知り合いが減っていて、親も亡くなって、本当に一人ぼっちの孤独な病人なってしまうかなぁと怖かったです。 そういう時に出会ったのが最初に紹介した言葉です。     「あぁ寒いほど一人ぼっちだ。」 井伏鱒二(山椒魚と言う短編小説の一節)

代表作に「ジョン万次郎漂流記」、「黒い雨」などがあります。「山椒魚」も有名な作品です。 山椒魚が岩屋の中で一人ぼっちで外で水すましやカエルが、自由に動き回っているのを見て、辛くなって目をつぶり、その暗闇の中で言うセリフです。

「僕は生まれながらに孤独のたちなんだが、決してその孤独を愛することはできないんだ。」 牧野信一 (「露路の友」と言う小説の1節)

牧野信一の代表作には、「父を売る子」、「ゼーロン」、「吊籠と月光」などがあります。 人と一緒に居たくないのに、1人だと寂しいと言うことになると困ります。 

「神は人間に孤独を与えた。しかも同時に、人間に孤独ではいられない性質をも与えた。」 佐藤春夫 (退屈読本と言うエッセイの一節)

佐藤春夫の代表作には、「田園の憂鬱」、「西班牙犬の家」などがあります。 佐藤春夫は群衆は地獄であると書いていて、でも同時に孤独はまさに煉獄であると書いてます。

「どこかで、ラジオの合唱だとか、子供の声だとかが聞こえると、不意に鼻孔の奥に嗚咽が溜まって、自分でびっくりしたことがあります。 孤独と言うものは結構いろんなものにすり替えて過ごしていて、普段はそれほど感じないですが、身体の奥にじんわり溜まってるんですね。」色川武大(「私の旧約聖書」と言う本の中の孤独と言う文章の中の一節)

広川武大の代表作には、「狂人日記」「百}などがあります。孤独と言うのは貯まるもんだと思います。

「孤独は山になく街にある。 1人の人間にあるのではなく、大勢の人間の間にあるのである。」 三木清(人生論ノートの一節)

孤独の分類っていうのは4つのタイプがあって、Aは人と一緒にいれば孤独を感じないで済むけれども、ひとりでいると寂しい。 Bは周りにたくさん人がいても、心が通じ合わない。 Cは人と人とはそもそも本当にわかりあえない。 表面的には付き合えても、本質的には孤独なんだというより深い孤独です。 Dは人と人とは本当にわかり合えないんだけれども、だからこそ少しでも理解し合おうとすると言うふうに考える。

「孤独は良いものです。 落ち着いて自分らしく生きることができて、やるべきことがはっきりしているなら。」ゲーテ (ゲーテの手紙の一節)

「君は自分だけが一人ぼっちだと思うかもしれないが、僕も一人ぼっちですよ。 一人ぼっちは崇高なものです。」夏目漱石 「野分」と言う小説の中の登場人物の言葉) 代表作には「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「三四郎」「心」などがあります。

哲学者のショーペンハウアーもこういうことを言ってます。

「孤独は、幸福と平静な気持ちとの源泉であるから、孤独に耐える修行をすることを若い頃の主要な研究題目の1つとすべきだろう。」 ショーペンハウアーは19世紀に活躍したドイツの哲学者。 代表作には、「意志と表象としての世界」「読書について」「自殺について」などがあります。

「孤独であるときに、その孤独の中に持ち込んだものは成長する。だから、内なる獣も成長する。だから、多くのものに孤独を進めてはならない。」ニーチェ   代表作に「善悪の彼岸」「道徳の系譜」等があります。内なる獣とは例えば憤りとか恨みとか。 社会全体を敵と思えてしまうことがある。

「人気のない住まいで暮らすのが、僕にはとても好ましい。 かといって、全く人気がないのも良くない。 住んでいた人たちの思い出が詰まっていて、しかもこれからの生活のために準備されている。 そんな住まいが良い。 ただし、住民が実際に現れてはいけない。」  カフカ 代表作に「変身」「審判」「城」などがあります。 

「孤独は僕の唯一の目標であり、僕は最も心惹かれるものであり、僕に可能性をもたらしてくれるものだ。 にもかかわらず、これほど愛しているものを、僕は恐れている。」  カフカ  孤独を愛しながら孤独を恐れている。ではどうしたらいいのかその答えが今回の答えです。 人気のないところで暮らしたいかといって全く人気がないのも良くない。 面白いですね。但し、住人が実際に現れてはいけない。

突き詰めるとすべての人が孤独なのかもしれないですね。 理解し合えないと言う事は一人一人が違っていると言うことで、それは悲しいことではありますけれども、一人一人が違うと言う事は尊いことでもあります。

人との関係が孤独であったとしても、自然を愛して深く見つめる人が孤独をあまり感じないで済むという面もあるかなと思います。

「地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれる事は決してないでしょう。」 レイチェル・カーソン






2026年3月22日日曜日

黒田尚嗣(日本遺産普及協会 監事)     ・「人生100年時代 ときめく旅しませんか」

黒田尚嗣(日本遺産普及協会 監事)     ・「人生100年時代 ときめく旅しませんか」

高齢者やシニア世代の皆さんに観光旅行とは、一味違う五感を研ぎすます旅の仕方、学びの旅の魅力などをお伝えします。黒田さんは、松尾芭蕉に憧れ、その旅に習い文化庁の認定する各地の日本遺産などで、様々なテーマ旅行を企画し、自らツアーガイドを務めています。

ペンネームは平成芭蕉。 私は松尾芭蕉が生まれた三重県伊賀市の隣町に生まれました。 母方の実家の裏手が、松尾家の菩提寺愛染院と直結していました。    俳句を詠んで有名になった方ですけれども、もともとは藤堂藩の若殿様に使えた、非常に人間味溢れる人であったと言う風な説明がありました。 主計良忠さんて言う方から俳句を教わったらしいのですが、その良忠さんから「人は阿呆に生きろ。」と教わったらしいです。  余裕を持って遊び心を持って生きるとおっしゃったらしいんです。

芭蕉さんの人生はまさしくその通りなんです。 ただ単に見聞すると言うよりは、知らない世界を見に行くと言うことです。  先人の足跡を研究すると言うところにも関心があるわけです。 先人がどのように感じたかと言うことを、自分自身で感じようとした人なんです。 そこに惹かれました。 人は感動すると言葉を失うわけです。 その瞬間を楽しむことです。旅行は目的地を目指して、ただ 帰って来るだけ、旅は過程を楽しみながら自分自身の感情をフル活用するんです。 旅の究極は五感を磨くことだと思っています。

「旅行+知恵が人生のときめき」 学問と言うものは3つある。 1つは文献とか本を読んで身に付ける「知識」。 先生、他の人から貴重な話を聞かせてもらう、これが「教養」。 行動を起こして体験して学ぶことが「知恵」。  ほとんどの人は知識と教養で終わってしまう。 「聞恵」 まずその土地に行ったら人の話を聞くこと。  聞いた話を知識と教養で噛み締める、それが「思恵」。  聞いて考えて、自分でもう一度行動を起こすそれが「修恵」といいます。 そのためにはあらかじめ知識と教養が必要です。

人は好奇心を持ち続けるべきだと思っています。 人にフォーカスすることが面白いです。 究極のテーマは人なんです。 昔は街道に名前がついていて、目的地の何々街道と言うふうにつけていました。 どんな人が歩いてどんな文化を運んだのか考えるわけです。 縄文文化に惹かれて、それをテーマにした企画を考えて、実際に提供しています。 山の中で育ったので、子供の頃は縄文人のような生活をしていました。 縄文人は、扇状地に住んでいて、水はちゃんと流れ風も流れます。  滞ると病気になり、人にとって大事です。 縄文人は土器を発明して、食のレパートリーが増えました。 

縄文人は朝起きたら何をするんだろうとか、そういったことを考えていると生きるコツはここだと考えたわけです。 人が楽しく生きるためには、限りなく縄文人の生活から学んだほうがいいんじゃないかと感じました。 それをお客さんに提案したくなりました。 最初僕は縄文の講義から始めます。(講座付き) 自分に近い歴史上の人物をまずは探します。 その人がどんなことをやったのかと言うことをテーマにすると1番良いと思います。 旅に人物を絡ませるといいと思います。   一人旅をすると、本来の自分はこんなものかなと気づくわけです。 究極は生まれ変わりの旅です。

アナログ旅は基本的には地図を徹底的に研究していただくのが原点だと思います。  昔の地図で興味ある地名を探して、その地名を結びつけていくわけです。    アナログ旅は自分で歩いて線とか面を作っていくものです。 歴史の道調査報告書というものがあります。 その街道にどんな歴史があるかとか、その当時の地図が載ってます。 アナログの旅は歩くことです。 消えている地名がどうなってるかと言うのを探すのが究極のアナログの旅です。 地元の人は、いまだに昔の地名を名乗っています。 

日本遺産は現時点で104あります。 テーマはいろいろありますが、基本は信仰なんです。 日本遺産には必ず神社仏閣が入ってます。 鎌倉から室町時代に、たくさんの神社仏閣が建てられました。 春の旅としては、花とお寺などの組み合わせが良いと思います。 健康は自然光を浴びて森林浴で新鮮な酸素を吸収して、夜はやはり温泉です。 高齢者の旅は無理な計画を立てないと言うことです。

 

2026年3月20日金曜日

岡部たかし(俳優)             ・「おもしろがって、生きていく」

岡部たかし(俳優)           ・「おもしろがって、生きていく」 

岡部孝さんは、和歌山県出身の53歳、現在放送中のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」でヒロインの父親松野司之介を演じています。長い下積み時代を経て手にした演じる楽しさについて伺いました。

ヒロインのトキの父親役、松野司之介は、松江藩の上級士でしたが、江戸から明治に時代が変わると、収入がなくなって、貧しい生活になり、家族のために頑張ろうとしたら、借金をしてしまうと言う訳です。 司之介の要素は、自分の中にもあります。 司之介と言うのは、武士の世と明治の間で立ち尽くしている人と言う表現ですが。台本に忠実にと言う思いでやってきました。 脚本家が一生懸命書いたものを変えると言うのはちょっと違うのかなと思いました

高校卒業後、一般企業に就職してから24歳で俳優を目指すことになりました。  その間立ち尽くす時期はありました。 漠然と俳優になりたいと言うような事は口にしていましたが、行動には至っていませんでした。 背中を押されて東京に行って劇団に入ることになりました。 標準語もなかなかしゃべれず、自分とは乖離したものをやってるような感じでした。 自分らしさが全くなかったです。 九十九 一(つくもはじめ)さんという大阪の芸人であり、俳優でもある人とお付き合いをするようになりました。 

その後村松 利史(むらまつ としふみ)さんて言う人に出会って、僕は自分のことをとにかく全部正直にネタにすると言う、離婚したこと、女の子と遊んだようなことをネタにするようなことでやってました。 どうやったら、自分の売りになると言うことを考えるようになりました。  ある日、突然自分の中に何かが通ったものがありました。  九十九さんとは20年以上の付き合いになります。

2022年49歳の時にNHKの「あなたのブツが、ここに」と言うドラマに出ました。なぜかコロナが始まってから仕事が入るようになりました。 同じ年の10月からは、民放の「エルピス」と言うドラマで、テレビ局のパラハラ上司を演じました。第60回ギャラクシー賞を受賞しました 。 

35、 6歳の頃に他力でやってきた僕が、面白いと思っているショー劇場のオーディションを受けまくりました。 環境を変えたかったんですね。 自主公演などもやりました。 知名度がどうのこうのと言うのは諦めました。 或る種覚悟が決まって、そんな形でやっていたらテレビでブレイクするようになりました。 趣味はお酒とヨガです。 ヨガは10何年もやってます。 最近思うのは、体が動くうちに体を動かせる演技というか、仕事やりたいなと思います。 「ばけばけ」では、家族の絆が深まっていって、本当の家族っぽくなってきてますし、どういう結末を迎えるのか見守ってほしいと思います。

2026年3月19日木曜日

鈴木堅之(足こぎ車いす製造・販売会社代表) ・「“自分らしさ”をあきらめない」

鈴木堅之(足こぎ車いす製造・販売会社代表) ・「“自分らしさ”をあきらめない」

 車椅子に自転車のようにペダルが付いています。 足こぎ車椅子、30年以上前に東北大学の医学部と工学部が、病気や障害により歩くことが困難となった人でも、人間に備わるある機能を使えば自由に移動できる、そんな研究を進めていました。  その研究に共感し、足こぎ車椅子の実用化を進めてきたのが、元小学校教師の鈴木堅之さん。 自分らしさをあきらめないと言う開発者の思いを受け継ぎ、活動を続ける鈴木さんに伺いました。

東北大学医学部の半田康延先生と言う方と、工学部が連携して開発したペダルのついた車椅子と言う変わった車椅子です。 ペダルからタイヤのほうにチェインが伸びていて、駆動が伝わって動き出します。 手元にハンドルがあって引っ張ったり押すことによって方向が変わるようになっています。 足が動かないと思われていた方たちが、自分の足を使って再び自分の体を動かす可能性があると言う、そういった車椅子になります。 脳梗塞の方、パーキンソン症の方たちとかが使っていただいています。 

自分の体が動かせるかもしれないと感じた途端、心が向きになって今まで閉じこもっていたところから1歩出れると言う、そこが足こぎ車椅子の特徴かもしれません。 内科的疾患でも外科的疾患でも、足が思うように動かなくなると言う症状がありますが、そういった方たちでも足こぎ車椅子に乗った場合、不思議と1歩踏み込めて、自分の足が動けるぞ、と体験していただけるわけです。 ある小児癌のお子さんがいました。 自分に自由に動けない状態でした。 そのお子さんに足こぎ車椅子を乗っていただきました。 乗った瞬間すっと動けるんです。 兄弟仲良く楽しそうに遊んでいる姿を見て、お母さんが喜んでました。  そのお子さんは亡くなってしまいましたけれども、最後の瞬間まで楽しんでいる様子をお母さんは見て、悩んでいるお母さんには、是非知ってほしいということで広めてくださっています。

人間の本能は、原始的な歩行反射を持っていて、人間が持っている本能です。   足こぎ車椅子はその原始的な歩行反射を、出しやすい角度と姿勢を作っている原始歩行を導き出す装置なんです。 麻痺しているはずの足からも自ら筋肉を動かすと言う波形ができて出ています。 足こぎ車椅子で最初に現れるのが、左右のバランスが整ってくると言うことです。 足は第二の心臓と言われる位、全身に血液を送るわけです。 脳も正常な人と同じようなレベルまで血流を上げることができます。医療機関ではリハビリとか緩和ケア病棟、認知症の方たち向けにも使われています。

足こぎ車椅子を偶然テレビで見ました。 小学校の教師をしていましたが、その足こぎ車椅子を使ってもらいたい子がいました。  私は足こぎ車椅子を世の中に出したいと言う思いだけで、先生のベンチャー企業設立に参加しました。  私は営業を担当しました。 最初はほとんど断られてしまいました。 ベンチャー企業は倒産してしまいました。 欠点がいろいろあったので、半田先生とともにさらに改良を進めることになりました。 足こぎ車椅子を作ることの企業を立ちあげしました。(2008年) 重さ80キロ、価格300万円でしたが、それを軽くて価格の安いものを作ろうと思っていました。

最後にたどり着いたのは、テニスの国枝選手が使っている車椅子を作る会社でした。 図面を書いて、実際にものが出来上がって、大学のリハビリ室まで持ってきてもらえました。 軽くて片手でモテてデザインもかっこよかったです。 その企業の社長は漕げるわけはないだろうと、大学の研究なんて世の中にの役に立たないんだよっていうのを言いたかったらしいです。 でも感動しました。本気にさせることができました。 

動かすことによって本人が喜び、スタッフも喜ぶ、それを見たご家族の方も喜ぶ 今まで負担だった大人が精神的にも身体的にも24時間介護するんだと頑張っていたご家族の方もほっとするわけです。 そんな中、東日本大震災が発生しました。  会社が東北大学の中にありましたけれども、半壊状態になってしまいました。  足こぎ車椅子を世の中に出すと言うのは難しいかなぁと感じました。 実用化して2年の時でした。 避難所では、ご高齢の方の体が動かなくなってくる、もともと動きがなかった方はさらに動けなくなる。 そういう現象がたくさん起きてきました。 足こぎ車椅子を使っていただければそうならないんじゃないかなぁと思いました。避難所をいろいろ回りました。 

足こぎ車椅子は生活の中に溶け込んで、さらにまた周りの方たちにも何か変化を起こしていく不思議なものだなぁと感じていました。 能登半島大地震の時にも足こぎ車椅子を使っている方がいらっしゃいました。半田康延先生は2023年に77歳で他界されました。 半田先生は後半は自分が足こぎ車椅子のユーザでした。    ご自身が生活の中で足こぎ車椅子を使っていました。 リハビリの中に限らず、生活の中で使う、それこそがそのまま身体の機能を維持したり、向上したりすることにつながると先生はおっしゃっていました。 買い物、旅行、リハビリ、それぞれのところで、足こぎ車椅子はちゃんと使える、それを半田先生自身が見せてくださいました。 SNSで取り上げてくれるようになりました。



2026年3月18日水曜日

鬼嶋一司(元慶應義塾大学野球部監督)    ・「果敢なる闘士たれ、潔い敗者たれ!」

鬼嶋一司(元慶應義塾大学野球部監督、元NHK高校野球解説者)    ・「果敢なる闘士たれ、潔い敗者たれ!」 

まもなく甲子園では選抜高校野球大会が始まります。 城島さんは昭和31年生まれ。 東京6大学野球の早慶戦に憧れて慶応に進み、大学卒業後は社会人野球の川崎製鉄千葉の選手、監督として活躍しました。 その後2002年から2005年まで慶応義塾大学の監督を務め、2004年の秋のリーグ戦では、母校を6シーズンぶりの優勝に導いています。 そして2006年から2016年までの11年間、NHKの高校野球解説者として甲子園球場から球児を見守りながら、優しくときには熱く解説をしました。   今年の1月に誕生日を迎えて70歳になります。

横浜の生まれですが、子供の頃は遊び場には苦労しませんでした。 野球もどきを夢中でやってました。 中学ではサードには憧れましたが、先生の指示でキャッチャーをやることになりました。 昭和49年に大学に入学しました。 法政大学には江川投手などがいて、やられっぱなしでした。 ボールが見えない投手は江川投手だけでした。 福島監督はとても厳しい方でしたけれども、人を一人の人間として見てくれた監督でした。 さり気ないやさしさのある監督でした。

昭和53年に川崎製鉄千葉に入社して、その3年目に創部25年目で都市対抗に初出場しました。 昭和61年は春先からなかなか勝てませんでしたが、都市対抗に駒を進めることが出来ました。  監督プレイヤーとしてやってました。 時間がなくて時間の使い方をいろいろ覚えていきました。 2002年から慶応の監督になりました。当時早稲田は最強のチームと言われてました。 1番から6番まではその後プロに入ってます。 ピッチャーも好投手が何人もいました。この時まで早稲田に対しては10連敗していました。

野球っていうのは確率のゲームだと思ってまして、セオリーが大事ですけれども、でもセオリーと言うのは落とし穴があります。 我々のような力のないチームは、そこに付け入れるチャンスがあるわけです。 奇襲は奇襲の理屈が十分にあると思います。 逆に言えば、奇襲はセオリーにはならないわけです。 6シーズンぶりの優勝になりました。

鬼嶋さんは2006年から2016年までの11年間NHKの高校野球解説者として甲子園球場から解説をしていただきました。 東京6大学野球の早慶戦の解説も17年間お願いしました。これからは解決者としての話を伺っていきます。

高校野球の解説は楽しいです。  プレーに心の模様が現れます。 選手の心の模様を感じながら話さなければいけないんじゃないかなと思います。 心に残る試合としては、2010年沖縄の興南高校が春夏優勝した時、2012年大阪桐蔭が春夏優勝した時解説をしました。 沖縄の興南高校は地元の選手で固めた手作り感のチームです。日大三高との春の決勝戦でも、日大三高にリードされるんですが、じわじわと最後にひっくり返す、そういう粘り強さを持った印象的なチームでした。 

大阪桐蔭は、沖縄とは対照的に非常に力のあるチームでした。 春の選抜のときには、大阪桐蔭は1回戦で大谷翔平選手のいる花巻東と試合をしますが、9対2で大阪桐蔭が勝ちますけれども、藤波くんから大谷選手はホームランを打っています。  この試合も本当に楽しい試合でした。  基本的なプレイにも忠実で相手にプレッシャーをかけました。 日々の練習の成果だと思います。連覇をするチームと言うのは勝負にこだわりますね。チーム全体が集中します。

勝つことを目的にすべきだと思います。 勝ちに行くことによって、選手同士の協調性とか知恵も培われます。 負けたチームに対しては、よくやったとねぎらいの言葉を言う。 負けた選手に対して悔しいだろう、辛いだろう、だけどこれから頑張れよと言う。 そういう意味合いを込めて、激励の言葉を必ず指導者はかけます。勝ちに行く事は勝利至上主義ではないとは思います。 負けることにも1つの大きな意義があると思います。 痛みを知ることであり、人の痛みを知ることにもなるわけです。 1年生菊池雄星くんが出てきて、菊池雄星くんの腕を振る速さにはびっくりしました。  

野球は楽しいんだと言うことをがベースにあると思います。 勝利を目指して全力で戦って欲しい。 その中で負けることも多いわけです。 負けた時どう対応するか負けて知る事は許すということ。 野球と言うのは、運不運が作用する。 不運の時にそれをどのように飲み込めるか。 許す、寛容さを身に付けていかなければいけないんじゃないかと思います。



2026年3月17日火曜日

浜野佐知(映画監督)            ・「怒りが私の原動力」

浜野佐知(映画監督)            ・「怒りが私の原動力」 

浜野さんは1948年徳島県で生まれ、静岡県静岡市で育ちます。  高校卒業と同時に映画監督を目指し上京、ピンク映画の制作会社で助監督として働き始めます。 23歳の時に監督としてデビュー、その後300本以上のピンク映画を監督。  1984年「株式会社旦々舎」を設立、監督とプロデュースの両方を兼ねるようになります。 1998年「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」で、一般映画の監督としてデビューし、国内外で高い評価を得ました。 2000年日本インデペンデント映画祭で「林あまり賞」受賞。 同年第4回女性文化賞受賞しました。 今年3月浜野さんの7作目の一般映画「金子文子 何が私をこさせたか」を公開します。 この映画は、1920年代、国家や社会のあり方に対して強く批判的な姿勢を持っていた朝鮮の若い活動家朴烈(パクヨル)と、日本人の同志で、恋人の金子文子が逮捕、投獄された朴烈(パクヨル)事件を題材にしてます。 金子文子は自身の信念を最後まで貫き通し、獄中で亡くなりました。 その生き方を克明に描いた作品です。浜野佐知さんの話を伺いました。

「金子文子 何が私をこうさせたか」と言う映画の監督をしました。 私は金子文子と言う、100年前の時代に自分を曲げずに貫き通した生きた女性に惹かれました。それまではピンク映画の制作監督を300本ぐらいやってます。 1998年頃に獄中手記を読みました。 裏表紙に「・・・東京に行く。お前は私に何を与えてくれるのかそして私は17である。」と言う一文がありました。 私も映画の監督なりたいと思って東京に行こうと思って、家出同然に東京を目指したのが、やはり17歳でした。  文子はものすごく悲惨な育ち方をして、戸籍もなく学校にも行けず、親にも親類にも日本と言う国家にもういじめ抜かれて生きてきた文子がいるわけです。

絶望の泥の中を這いずり回って掴んだ思想で、その思想が無政府主義と移っていくわけです。 その彼女の思想が本当に素晴らしいと思ったし、私は17歳で上京しましたけれども、監督になれるのは大卒男子でないとなれない、と言う大きな壁にぶち当たったわけです。 女にはなれない職業があると言うことに怒りを感じまた。その怒りが文子の怒りとドッキングしたというか、文子に強烈にひかれたのが最初です。 

精神的なものだけでなく、肉体的にもダメージを受けてます。 冬の深夜0度以下のところで木に吊るされたとか、9歳から16歳7年間ですが、よく生き抜いたと言うほどのことがありました。 そこから始まった人生は、自分を阻害したもの、認めなかったものに対する大人、社会、肉新、あらゆるものに対する復讐だったと思います。その復讐が生きるエネルギーになったと思います。 

ほとんど書き物が残されてなくて、獄中で書いた九首の短歌から中のストーリーを作り上げました。 自分が拘束されて生きると言う事は、ただ息をしてるだけじゃなくて、自分の意志で行動して初めて生きる、と言うことだと言うことを文子は言ってます。 自由に生きると言う文子のたったひとつのためには、今の自分を殺さなければいけないんじゃないかと言う矛盾してますが、転向声明さえ書けば外に出られる可能性はあるけれども、転向声明を書く、謝ると言う事は、彼女にとって思想をもぎ取られるものと一緒なんですね。 

未来の自分を生かすためには、今の自分を殺さなければならないと言う結論に達したんだろうなと思います。 小さな雀に自分の未来を託して、大空に飛ばせていくという、満足して未来を見て文子は死んでいったと思います。 今の人たちに「自分の頭で考えろ。」と言うメッセージを託したかったんです。 どんなことでも1分1秒でも無駄にしないで全身全霊で生きるという人なんですね。 字が書けなかった人がある時から字を学び、文章を書き思想的なことも理解できるようになるまでほんと短期間でした。  文子にとって学ぶと言う事は経験なんです。体験なんです。叩かれて叩かれて、炎のような人だったんだと思います。

私の父親が映画が好きで、毎週土曜日になると映画館に連れてってくれました。 私は10歳の時に突然父親が亡くなりました。 父親は41歳、母親は36歳の時でした。 弟が7歳で母親は全く働いたことがなかった。 母親はすごく苦労して私たちを育ててくれたと思います。 お金がなくて映画館には行けませんでしたが、ある時おじさんが映画館に連れて行ってくれることになって、そこが映写室でした。  毎日毎日映写室に通って、映画のことをいろいろ教えてくれました。

高校生になってアルバイトをして、自分でも映画を見に行けるようになりました。調べてみたら、当時女性の映画監督は1人もいませんでした。 私が監督になって等身大の日本の女性を描こうと思いました。 東京に出て行ってみましたが、周りが大卒の男子でないと監督になれないと言うことで、ピンク映画の世界に飛び込みました。  映画監督になる勉強しながらやってきました。 

1971年23歳で映画監督になりました。この業界にしか私が映画監督になれないならば、女の視点で性を撮る、女のセックスを女の手に取り戻そうと言うことをライフワークにしました。 女の欲望が主体と言うピンク映画を撮り続けてきました。女優さんの協力がありました。 同性であったので、安心感があったと思います。フィルムからデジタル化することによって徒弟制度が崩れて、手軽に撮れる様になったので、女性映画監督が増えていきました。 

1997年の東京国際女性映画祭にて、日本の長編劇映画の女性監督で最多本数は、田中絹代の6本であると言う発言があり、その時私はピンク映画を200本ぐらい撮っていました。 私はいないのと同じだと思いました。 金子文子と一緒だと感じました。 1998年「第七官界彷徨―尾崎翠を探して」と言う映画を撮りました。 私が撮ってきた女性たちはみんな100年前ですが、私が映画にするまではそれまであまり知られていませんでした。でも世界でも知られるようになると言うことが映画はいいなあと思います。  彼女たちの生き方を今の女性たちに見てもらいたい。 

大逆事件を朴烈、文子事件とよく言われますが、やはりそういうものであって、金子文子と言う一人の人間、一人の女性を描きたかったと言うところから始まりました。  何が私を突き動かしているかと言うと、やはり自尊心じゃないかなぁと思います。 自分は守る、自分以外には誰も守ってくれない。 絶対に私は私を裏切らない、私は私自身を生きると言う大きな生きてきたテーマだったと思います。  ですからピンク映画もずっとやり抜いてこられたし、今もこうして映画監督でいられることだと思います。 人が生きていく上で、自分を認めてあげられないと言うことが1番悲しいことだと思います。 「金子文子 何が私をこさせたか」と言うのが私の集大成です。 人との関係性を平等に戻す。 誰かのために生きると言うのは、愛じゃないからと言いたいです。 愛と言うのは自分のために生きてこそ生まれるもので、相手に対する愛も。

2026年3月15日日曜日

山内惠介(歌手)              ・「深夜便のうた『午前4時』への思い」

 山内惠(歌手)          ・「深夜便のうた『午前4時』への思い」

山内惠介さんは、1983年福岡県糸島市の出身。 高校1年生の時作曲家水森英夫さんに見出され、高校3年生だった2001年「僕はエンカな高校生」のキャッチフレーズでデビュー、2015年にNHK紅白歌合戦に初出場して以来、現在まで10回連続で出場。 2025年には第67回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。  演歌の貴公子と呼ばれ、ラブソングから硬派な歌まで親しまれています。  山内さんに「午前4時」に込めた思いや、節目の年デビュー25年を迎えた気持ちなどを伺います。

深夜便の歌「午前4時」を作っていただきました。 「午前4時」っていうのはほっとする作品です。  詩を書いていただいたのが、直木賞作家の桜木紫乃先生です。「午前4時」と言う題名の割には、「午前4時」という言葉が入ってないのでお伝えしたところ、入れていただきました。 演歌に関してはこぶしをつけるということですけれども、この歌に関してはあまり必要のない作品です。 ですから極力意識して抜いています。 自分が歌うことで緑の草原、ふるさとの風景みたいものがファーっと浮かぶことができれば、伝わってるって言う証拠なんだと思います。 ステージで歌っててわかる時もあれば、わからない時もあります。 「午前4時」と言うこの作品は難しい歌ですね。 さらっと歌うと言うのが1番難しいです。

高校生でデビューして伸び悩んだ時期もあり、辞めたいと言うものがありましたが、辞めたい時期は俺がやめろと言うから、と先生から言われました。     先生とはほぼ30年近い付き合いになりますが、いまだに何かがあったら先生からいろんな言葉をいただいています。 「生きるという事は地獄道なんだ。」と先生から言われました。 ステージ、コンサートは、僕の発散させる場所でもあるわけです。 それは歌い手の醍醐味かなと思います。  

コロナ禍のときにはこの先どうなっていくんだろうなと思いましたが、助けてくれたのはフアンの方ですね。 オンラインライブなどをやってます。 出会いは広がりました。 紅白歌合戦には2015年から10年連続で出さしていただきました。2025年は止まってしまったと言うのは、僕にとってはちょっと落ち込んでしまいました。自分がもっと穏やかになりたいと言うのが課題ですね。 短気なんですよ。喜怒哀楽を表現するので、自分で自分の空気の入れ替えをできるようにならないといけないと思ってます。

僕は曹洞宗で25分のCDがあって、それを楽屋で聞いています。(法話)     30周年に向かっては若さとは違う、自分の武器みたいなものを持っていたいです。  渋さとか味わいのあることを歌っていたい。 

*「この世は祭り」 作詞:松井五郎 作曲:村松崇継            最初この曲のタイトルは「明鏡止水」でしたが、「この世は祭り」と言うふうに変わりました。





2026年3月14日土曜日

飯田未希(立命館大学教授)         ・戦時中、外地で就職した女性たち

 飯田未希(立命館大学教授)         ・戦時中、外地で就職した女性たち

飯田さんは、戦中、戦後の新聞、雑誌の記事や投書、企業の社員誌、個人の手記等丹念に徹底的に調べる手法で、戦時中の女性たちの実像をつかむ研究を続けています。 その飯田さんが去年「女たちよ天使を抱け 戦時下 外地で就職する」と言う著書で、戦時中にもかかわらず、海を渡って外地、中国や南方にある軍の施設や企業で働いた若い女性たちにスポットを当てました。 女性たちは、なぜ戦時中に海を渡って就職したのか、どんな体験をしたのか伺いました。

2020年に「非国民な女たち 戦時下のパーマともんぺ」と言う本を書きました。 戦時中にもかかわらず、髪にパーマをかけ、スカートときにはミニスカートを履く人たちがいた事など、したたかにおしゃれを楽しんだ姿を明らかにしました。 その飯田さんが、「女たちを大志を抱け 戦時下 外地で就職すると言う本を書きました。 調べていくと、ドレスメーカーの女性たち、タイピスト、電話交換手、そういった仕事をするために、外地に渡っている人たちがいると言うことをわかりました。

多くの求人は満州、中国北部とかの交通会社、電信電話会社その他の会社が多かったです。 最初に求められたのは高学歴の女性たちでした。 東南アジア地域が日本軍によって占領されて、占領された地域に出て行った女性たちもいます。 軍で働いたり満鉄とか、鉄道会社に就職した人が多かったです。 1930年代後半には満鉄では10万人近い人を雇用していました。 1945年頃には20万人近くになっていました。 その1割が女性だったと言われています。 

タイピストは高等女学校卒の高学歴の方が多かったと言われています。 電話交換手は高等小学校卒が多かった。(外国語用に大学卒もいた。) 総動員令が敷かれ、女性も多く働くようになっていきました。 女性たちもお国のために外地で働くと言う新聞記事が出たり、女性たちもそういう意識になりました。 どうせ南方に行くならば、少しでも戦争を感じられるところに行きたいと言う様なことも中には言ってます。 女性の仕事は、男性の補助者だと言うような見方がされていました。女性の立場は、内地より遅れていたかもしれません。 「満州の女」とか「大陸の女」とか、偏見で見られるようなこともありました。 

内地ほどの締め付けがないので、いろんな服を着ていたりはしてました。 日本語を教えるために行った女性たちに対して、これが日本婦人だと言うことを現地の人に教えなさい、と言うようなこともありました。 西洋化されていた現地では、なかなか受け入れられなかったようです。 中国で戦況が悪化していって、前線に近いところへ行かざるを得ないようなと思いました。 

中国に渡った女性たちそれから南方に渡った女性たちも、戦後すぐには日本には帰れませんでした。 南方に関してですが、タイピストとかで働いていた女性たちが危険に会うといけないと言うことで、臨時看護婦と言う形で、戦後現地にしばらくいた女性たちが結構いました。 女性の軍属も、山の中をさまよったと言う話もあります。 外地に働きに行った女性たちは座談会などでも、結構自己主張があって面白いです。 今の人よりも元気なんじゃないかなと思います。

2026年3月13日金曜日

落合恵子(作家・子どもの本の専門店 主宰) ・「“わたし”を生ききる覚悟 後編

落合恵子(作家・子どもの本の専門店 主宰) ・「“わたし”を生ききる覚悟  後編

後編、子供の本を主催する専門店として、まもなく50年と言う落合恵子さんに絵本と人生について伺いました。

子供の本の専門店を作ったのが昭和51年31歳の時に誕生させました。 子供の頃に本って、こんなに面白いもんだと言うことを知りました。  母と接した中から、人は本を記憶とし、同時に人の大事な部分の要素は本からもできてるのかなと思います。  東京に母が私を連れて、アパートの1部屋で生活を始めたのが最初の東京の日々でした。   

母が台所の仕事を終えて私の寝ている布団に潜ってきて「さぁ、絵本の時間ですよ。」と始まるんです。  大事な私たちの親子の儀式でした。そこには必ず絵本がありました。 本って、自分にとって大事な栄養になるからねと買ってくれたのを覚えています。  子供の絵本の専門店は、その後オーガニックレストランや八百屋さんとか食べ物屋さんケーキ屋へ発展させました。  500何十人の応募者から30数人がケーキおばさんになってくれました。 その時の最も若い子がまだいらっしゃいます。

そこで誰かと出会う、本と言う誰かと出会う、何かと出会う場所ではあります。 10代の秋の日に母からもらった言葉「される側の人と柔らかく、手をつなぎなさい。」と言う言葉  あなたは残念だけど、差別される側の子供かもしれない。  だからこそいろんな場面で、される側の人で柔らかくつながって離してもいい、また繋げばいいそれを頑張りなさいって言うふうに言われました。 私が本とであったのは4万から5万だと思います。  今ちょっと焦っているのが、本がどんどんなくなっていってしまうということです。 

大好きなものを1冊でいいんだよと伝えたいです。 好きな本のうち1冊が「お休み僕」。  これは「がんと生き切る。」でも紹介してるんですが、部分と全体、人間の体は部分でできているけれども、全体を忘れてはだめだよね、と病気の人にとっても意味があります。 人は全体で生きてるんですが、病気になるとある部分がクローズアップされてしまう。でも全体を忘れるのはだめです。 

2冊目は2010年初版長田弘さんが原稿を持ってきて本にしたいということです。   長田さんの書いた詩の最初の読み手は、連れ合いである瑞枝さんと言う方です。その瑞枝さんが入院されている。 花と木だけをまとめました。 あと数日と言うところで、瑞枝さんは残念ながら亡くなってしまいました。 死ではなく、その人が自分の中に残していった確かな記憶を私は信じる。 自分の中に亡くなった人が記憶を残してってくれた。 それを信じて、私は今ここに生きていると言う、死と言うものが、ありありと私たちに教えてくれるのは、その人と自分の間にあった絆であると言うふうに長田さんはおっしゃってます。 

3冊目は(書店さんにない本。) 「ハーレムの闘う本屋 ルイス・ミショーの生涯」 ハーレムに本屋さんを作った。 ニューヨーク7番街に1939年に小さな本屋さんを作ったルイス・ミショーの生涯を描いたものです。 どうして僕たちには僕たちの本がないのか、アフリカ系の人間がアフリカ系に向けて書いた本があってもいいと言うことで本屋をやろうと決めます。 色々な人たちがその本屋さんに来ました。 キング牧師も来ました。 気がついたら彼は70代になっていた。 癌になって彼は考えます。  一体自分がやった事は誰の役に立っているんだろう。 ただただ忙しく働いてきた。一体どこに向けてメッセージを発信してきたんだろう。 でも答えが出ました。 

若い男が近づいて、私はあなたの店で父に医学についての本を買ってもらいました。 あなたは「この子は医者になるといい。」と言いました。  1冊の本が彼を医者にさせることになりました。 彼は、古くからの友人のように、私の背中に手を回した。 私は涙が溢れて、私は赤ん坊のようにワンワン泣いてしまいそうだった。  本って、そこに1冊あればあっちともこっちとも繋がれるすごいものです。

扉が1個開くとこっちも空いてないなと、気づいて全部開けちゃうって言う感じでやってきました。 子供専門店は今年12月5日に50周年になります。  その間にもいろんなピンチがありましたけれども、続けてこられました。  次の世代に手渡していかなければいけないと考えるようになりました。 その社会において、最も声の小さい側の人が、声の出せる、みんなに伝わる社会でありたいと思います。 

外に出るのがしんどくなってしまっている人が、土をいじったり、自分が食物、食べ物を作ることができたらどんなにいいかなと思ってます。  病を体験することによって風景が違ってくるものってありますね。  それらは書いていきたいと思っています。  変わってないものとしては、「悲観にも楽観にも傾かず。」です。  私は自分の人生に大好きな3冊の本があればいい、大好きな3本の木があればいい、大好きな3つの料理があればいいと思ってます。 そばが好きです。 「癌と生ききる、悲観にも楽観にも傾かず」を自分の真ん中に置きたいと思ってます。