葉佐井博巳(広島大学名誉教授) ・被爆体験どう語り継ぐ
85歳 原爆が投下された翌日の8月7日、広島市の中心部に入って被爆した入市被爆者です。
広島大学工学部を卒業した葉佐井さんは、大学で原子核物理学の研究を続けました。
被爆者が浴びた被爆線量を推定する、新しい推定方式を作りだしました。
葉佐井さんは大学の研究者時代は、自らの被爆体験を公の場で語ることはありませんでしたが、大学を退いた、2005年からその体験を語り始めました。
葉佐井さんが被爆体験を語り始めた理由は何か、その体験を次の世代にどう語り継ごうとしているのか、伺いました。
メインは広島市から依頼されて、資料館に修学旅行で来る生徒さん達に語っています。
県外の人ですと、全てが珍しい話の様です。
1931年広島生まれ。{満州事変)
軍人になる様に教育されました。
学徒動員で軍事工場にもいきました。(原爆が落とされる1週間前から動員がかかる)
家から直接軍事工場に行き、機関銃の弾を製作する事でした。(実際には作るまで行かなかった)
8月6日 爆心地から15km離れた場所で、工場で準備体操をしていたら、強くピカッと光って、何が起きたか判らなかったが、しばらくしてからガラス窓がガタガタいいだしたので、工場が狙われたと思った。
山に逃げたが、なにも判りませんでした。
戻ると、朝の10時頃に大勢の人が市内から郊外に汚い埃を被って汚い顔をして歩いてきました。
皆自分の家に落ちたと言っていたが、合点が行かなかった。
昼過ぎにトラックで負傷者が運ばれてきて、本当にびっくりしました。
人間の顔が溶けている、身体の皮膚も溶けて流れているようだった。
負傷者をおろす事が仕事だったが、物凄いショックだった。
触っても痛いとは言わず、重症の人は触っても痛くなかったのかなあと思いました。
8月7日広島の中心部に向かう。
どこへ行ったのかは覚えていない。
帰ろうとしたが、建物が無く道が判らないので、路面電車の橋などを渡って自分の家に帰りました。
家は無くて綺麗に焼けていました。
父は単身赴任でいませんでしたが、母と妹二人がいたが、上の妹は集団疎開でしたので、母と妹に会う事が出来ました。
広島の周囲の風景を見てきていたので、死んでしまったと覚悟はしていましたが。
私は入市被爆者です、後で爆心地から2km以内の広島市に入った人です。
これが戦場かなと思いました。
やがて自分も死ぬのかなあと思いました、不思議な感覚でした。
どうしても仇を討つぞと、そういう思いでした。
終戦の時に家は無くて、田舎にいて学校は破壊され始まってなくて、妹が日本は戦争に負けたと言ってきた。
天皇自ら負けたと言う事で、本当かなあと思いました。
一人になるまで戦え、決して降伏してはいけない、捕虜になるなら自決死しろと言われていたのに、簡単に止めることができるのなら何故止めなかったのかと、それが私の本当に一番のショックでした。
学校が始まって、行って見ると何カ月もたっていないのに、戦争で死んで来いといった先生が、平和主義をいうわけです、吃驚しました。
鬼畜米英と言っていたのが、米英に習えという。
先生に質問しました、「どうして変わったですか」と言ったら、「仕方なかったんだ」と言われた。
「仕方なかったんだ」という言葉だけは使ってはいけないと思った。
私は全て大人にだまされた、特に先生に騙された。
戦争に行くときに親が死んで帰りなさいという、こんなバカな話は無く、でもそれが当たり前だった。
「仕方がない」世界を作ったらもういけないという気があり、以来自分が体験して自分が確認しなければ人の言う事は信じないという事になってしまいました。
自分の目で正確に確かめたい、そのためには正しい情報がたくさんいるが。
日本の都市が空襲で壊滅状態だったので、復興するには工業の力が要ると思って、工学部が一番役に立つだろうと思って電気工学部に入りました。
就職の為に診断書を貰いに病院に行ったら、結核だと言われて、2年遅れて卒業したが、就職口が無くて、研究生として残っていた。
原子核物理をやる様に言われる。
アメリカは原爆を濃縮するのにサイクロトロンという機械で作ったんで、サイクロトロンが原子核の研究には一番最先端の道具だった。
原爆を作られるといけないという事で、全部捨てられてしまって、実験は道具が無いので、10年遅れた。
原子核研究は膨大な装置が必要で、田無に原子核研究所が出来、筑波に高エネルギー研究所が出来、外国人と一緒に研究するようになり、アメリカに行くことになる。
ロスアラモス、アメリカが原爆開発した処で、原爆を作ったことが自慢で、広島から来たことを言うとトーンが変わってくるが、異和感を感じた。
放射線があるという事は判っていたが、測定器がチャチではっきりしなかった。
中性子爆弾をアメリカが作ろうとした時に、広島の放射線の中性子が少なかった。
少なくてあの様な被害がでたというのは、危ないという事です。
広島の土地でどの程度放射線が有ったかという事を、広島の土地で計らなければ行けないが、計ったのはあるが非常にデータの数が少なく当てにならない。
しっかりやろうという事で始まりました。
残留放射能を計れるものがほとんどないので、建物の石の中にある元素が非常に少なく、石を溶かして抽出して、計るという、残留放射能から推定する。
緻密なデータがそろいました。
今は1~1.1kmぐらいまではほぼ完壁になったと思います。
訴訟問題が起きており、厚生省は訴訟に有利な様な研究をしてくれないかと言ってきたが断りました。
被爆者も被爆者の有利になる様にという風に思うもので、どっちにも味方しないつもりでやりました。
皆さんに知っていることをしっかり伝えておきたいと思って、ピースボランティア、伝承者に物理的なことに関してはこうですと、出来るだけ正確にお話しています。
正確に伝える人を養成しておかないといけないと思います。
しっかり記録を大事にしていってほしいと思います。
核兵器は非人道的で、使ってはいけないという事を皆が自覚する様に広げていきたい。