先川祐次(旧満州建国大学一期生) ・わが青春の満州の学び舎
戦前中国の東北部旧満州には、満州建国大学という当時のエリートが学ぶ最高学府が有りました。
昭和13年に開学したこの大学は日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアといった複数の民族の学生が一緒に学び満州校の建国理念である、五族協和の精神のもとに特別な教育が行われていました。
現在福岡市にお住まいの先川さんはこの満州建国大学の一期生で、昭和13年から青春の6年間、様々な民族の学生との共同生活を通じて、人間としての基礎を学びました。
卒業後はここで培った語学を生かして、満州国政府の外国情報課に勤務し、戦後は西日本新聞社に入ってアメリカなどの特派員として活躍しました。
96歳、九州シニアライフアドバイザーの肩書きがある。
元気なお年寄りを増やすためのボランティア団体。
今が一番自由を満喫しています。
週に3回身体のトレーニング、英語の教室、カラオケの教室、一番熱心にやっているのが九州大学に来ている留学生の大学院生に日本語を教えています。
同窓会を開いているが最初は30人以上いたが、今は5人ぐらいです。
一期生75人いたが、現在は私一人です。
生まれは大連、小学2年の時から奉天で育ちました、父は朝鮮銀行に勤めていましたが、満州銀行ができて、奉天の支店長になりました。
小学校5年の時、昭和6年9月18日に満州事変が起きました。
夜の10時頃に、父がいきなり入ってきて叩き起こされた。
今から何が起こっても騒ぐんじゃないと言われた。
寝室の窓が真っ赤になって、地響きがして、しばらくあっけに取られた。
一晩中大砲の音がしてまんじりともしなかった。
父は何が有っても騒ぐなと言ったのか、どうしていったのか、幼心にずーっと残りました。
守備隊長は碁の仲間で家によく来ていたので、情報を知っていたのだろうと思う。
正月前に、道路は凍っていて、黒いものが転がっていたが、朝起きてみると、中国の労働者の凍死体だった。(食べるものが無くて死んでいた)
中国の金持ちは肥っていておめかけさんがいて、子供心に凄い違いだなあと思いました。
ロシアの人達はパンを売りに来たりしていた。
貧富の差、民族的な生活様式に違いなどを子供の時に目の前で見ていました。
日本人は豊かな暮らしでした。
中学5年の時に、校長先生に呼ばれて、満州建国大学が出来るので、新しい国のリーダを作る大学で一切ただで、こずかいまでくれるらしいというので、良い学生を推薦する様に言われているのでぜひ受けるように言われました。
150人だが半数が日本人、中国人が55人、他に台湾、蒙古、朝鮮、ロシアで全部で150人。
石原莞爾が大学を作った。
入学して3カ月後に、日中戦争が始まって1年後の7月7日、石原莞爾が「皆さん、親父同士がけんかを始めたのに、息子に仲良くしろというのは誠に申し訳ありません、ごめんなさい」という事から話始めた。
この大学では一切外からの干渉はさせないようにする、全て自由だから絶対に軍と官僚上がりの先生は入れない、約束すると言いました。
9月には彼は東条英機と意見が合わなくて、参謀長でありながら戦争反対で、軍を追われて退役した。
午前中は授業(精神を高める)で午後は体育訓練(肉体鍛錬)です。
教授陣も一流の方が集められました。
6つの寮があって、塾が有りました。
五族協和を目指す理念ということだが、朝から晩まで一緒にいると兄弟みたいになります。
五族協和を目指すというが、やっていることは何だという事で殴り合いの喧嘩もしました。
五族協和を目指すというが全く表面的なことだった。
課外授業 今の部活動 農業を一生懸命やるとか、一人一人に馬一頭が当てられ、乗馬、合気道、銃剣術、グライダーとかやれるものなら何でも身につけろという事でした。
自分が慕う先生のところに行って色々教えを乞いました。
私の場合はドイツ語の登張信一郎先生で、日曜は5人ぐらいで行って、四斗樽に柄杓で酒を飲んで談論、学問、人生の話などをしました。
五族共和を目指すことが御題目になってしまったが、色んな民族と話し合ったが、独りよがりは駄目だということが判って、コミュニケーションが人間の付き合いの中で一番大事だということが判りました。
国と国との関係もそうですが、会社の中でも、仕事をする上で一番大事なの上手い円滑なコミュニケーションをどうするか、いかに努力をするか、という事を習いました。
身体では6年間鍛えられて、基礎体力はあの時代に作ってもらったと思います。
外交官がやりたくて志願して、総務庁の広報所、外国情報課でトレーニングを受けたが、満州国政府の外国情報課で、日本がどのように戦争に負けているかを知っていました。
戦争が終わって、12月に満州国元外国情報課課長から電報がはいって、満州から引き揚げる人の手伝いをするように言われて、その仕事をした後に、西日本新聞社に入りました。
(前身が福岡日日新聞社で以前には地方紙として満州にも入っていた)
特派員として最初中近東、アフリカでそのあと又アフリカに行って、次にワシントン支局に行きました。
行ってから1年目にケネディー大統領が暗殺されました。
アメリカ政府の方では建国大学をちゃんと知っていました。
ホワイトハウスの記者はだれでも入れなくて日本の枠は22人で、ケネディー大統領はフランクな人で、思いついたら今から記者会見をするという事をします。
建国大学当時、万里の頂上越えてシンガポールまで6人で行こうとしましたが、途中で捕まってこんこんと諭されて、この経験が、後に6か月かかって、イラン、イラク、シリア、レバノン、通ってエジプトへ行って、シナイ半島で国連軍の従軍記者をして、スーダンまで行きました。(冒険旅行が有ったので、けろっとして出来ました)
同期生には中国に親友が一人いますが、そのほかの人は亡くなりました。
ヘイトスピーチ 一言でいえば馬鹿馬鹿しい。
どんな時代でも話合うという事は非常に大事です。
九州大学に留学している大学院生が建国大学のことを中国で勉強するように言われて、今私が教えています。