2016年8月4日木曜日

森 重昭(原爆民間歴史研究家) ・戦争犠牲者に敵も味方もない

森 重昭(広島原爆民間歴史研究家) ・戦争犠牲者に敵も味方もない
御自身も被爆者でありながら、原爆が投下された8月6日広島で亡くなった12人の米軍捕虜の身元を調べそれぞれの家族に伝えてきた森さん79で歳です。
今年5月27日、歴史的とも言われたオバマ大統領の広島訪問、原爆慰霊碑への献花と所信表明演説、そのあと、大統領から優しく抱擁された森さんの姿は印象深く記憶されています。
森さんは戦争犠牲者に敵味方は無いと、黙々と精魂傾けて広島市民だけでなく、米軍兵の最後をも調べ家族に伝えました。
そのことは日本だけでなく世界の人も初めて知ることとなりました。

まさか自分が大統領にお会いできる機会があるとは思いもよらなかったです。
広島に大統領がおいでになると発表された時は本当に吃驚しました。
まさか私が献花式に登れるなんて、天地がひっくりかえるぐらい吃驚しました。
アメリカとの付き合いは長い長い付き合いです。
アメリカ人が広島で被爆死しているという事はアメリカの遺族も知りません。
ましてや日本人はもっと知る機会はなかった。
私が米兵が留置されていた中国憲兵隊司令部のとなり、爆心地から400~500mにあった陸軍の学校(国民学校)に行っていたからです。
米兵は3か所に留置されていて、中国憲兵隊司令部に留置されていて全員が亡くなりました。
一人ひとり、どの人がどのように最期を遂げたかということを、ありとあらゆる資料を使って、アメリカの英文の記録類を徹底的に調べて、古くて読めない文字、読めない言葉も綴られていて、推測を交えながら調べました。

原爆体験記も読んだり、原爆体験記を書いた人は2000人を超えています。
広島原爆戦災史があり(公の歴史本)、1~5卷まで有り、全部で4000ページを徹底的に読んだら、意外なことが判ってきました。
NHK、各新聞社など全てが記事を書いたもの、後で、それが正しいかどうか検証する手掛かりにしていた本です。
色んな資料を徹底的に研究してきた私にとっては、間違いがいっぱいありました。
違いを具体的に指摘していったが、市役所の人が言うには、色々他の方からも指摘があり、改訂版を出そうと思っているとの事だった。
貴方にぜひお願いしたい、手伝ってほしいと言われました。
その後も自分持ちの費用でいろいろ調べました。

1945年8月6日 8時15分 原爆投下。
その時私は街の橋の上にいました。(8歳)
集団疎開、縁故疎開があり、ほかに分散授業があり、私は3人で分散授業に行くところでした。
爆心地に近い方に二人がいて、その陰になっていて、私だけがやけどをしていない、怪我もしなくて、爆風で押され川に落ちました。
爆風は真上から来るんです。(600m上空で爆発)
2人は大やけどをして亡くなったらしいという事を聞きました。
キノコ雲の端っこの中にいましたが、10cm先が見えず、しばらくじっとしていました。
川から土手を這いあがったら、20歳代の女性がふらふらしながら私に近づいてきました。
身体が血だらけで、胸が裂けている、病院はどこかと消え入るような声で言いました。

上空で爆音がして、必死で逃げたが、道という道には人が横たわっていて、家も倒壊していて助けてほしいという声が聞こえてきましたが、必死で逃げました。
「坊や、ここにおいで」という声が聞こえて、防空壕に引っ張り込まれました。
黒い雨にあい、痛いんです、コールタールの塊みたいで体中真黒になり、衣類は捨てました。
新聞紙を身体に結わえ付けました。
3日間水もなくご飯も食べず、水が飲みたくて、水たまりに行って、黒い雨が降っているので、それを除いて飲みました。(今考えると、放射能の塊の様なものを飲みました。)
最後はアメリカの調査を始めるわけです。
周りからの協力は全然なくて、非難されるようなことを言われました。
話をするのに国際電電に申し込んだら、一回3500円、オペレーターに頼んだら、500円で話を通訳もしてくれることになる。
プライバシーの壁には大変苦労しました。
12人が判明。
遺族の方とは全部手紙のやり取りをしました。
去年初めて日本に遺族が2人来ました。
心をこめて御礼を言ってもらいました、辛い思いをしたけどやってよかったなあと思いました。
私が登録した遺影を一緒にいて観ましたが、15分ぐらい観ていて、次のところに行きませんかといたら、このままにしていてほしいと言われて、後から考えると2時間は観ていました。

オバマさんと一緒に高校生も来ましたが、どうしてアメリカ人の兵隊を調べたのかの質問があったが、自分もアメリカ人と同じような運命をたどったかもしれない、とそういう風に思ったからです。
校長先生が8月5日に第二次疎開で三次に付き添って行ったが、翌日学校が全滅して、生徒、先生が真っ黒な遺体になって、学校に横たわっていたそうです。
同時にアメリカ人の遺体が一人横たわっていたそうですが、(学校の記念史に書かれていた)これはアメリカ人ではないぞ、自分だと、アメリカ人と同じ様な運命になった可能性はあると。
日本人の慰霊碑は沢山あるが、アメリカ人の慰霊碑は無く作ってあげたいと思って、アメリカ人の為に一生懸命やっていたら、随分嫌がらせもありましたが、だったらもっと立派なものを作ってやろうと思いました。

そういった思いがアメリカに伝わって、慰霊碑の除幕式の時にアメリカ人の記者がそっと聞きました。
費用はどうしたのかと聞かれ、お金が無いのでアルバイトをしましたと言ったら、物凄く評価してくれました、嬉しかった。(涙を流しながら話す)
日本人はだれも褒めてくれなかったが、アメリカ人はそうして褒めてくれたことに対して嬉しかった。
日本人とアメリカ人と、こうして遺影と名前を登録して判ったが、日本人は随分被爆死した人にたいして追悼の想いでいつも8月6日が来ると、記念式典に参加したりして亡くなった人に追悼しているが、アメリカ人も一緒、だからどうして亡くなったか知らしてあげなければいけないし、自分でそれをやってあげようと思ってやりました。
ゴルフを辞め、バス代も節約して、アルバイトもしてお金を工面しましたが、私が何をやっても誰も認めてくれなかったが、だけど今回はアメリカ側のトップの招待者だった。
大統領のスピーチの早い段階で、私のやったことをそのままおっしゃって、嬉しくて・・・(涙声)やっと評価してもらえたと、・・・大統領有難うございました。
私の後ろには12名の米兵が、大統領を待っていましたよ、71年間待っていましたよ。
日本の14万人亡くなった人が、きっと大統領良くおいで下さいましたと言ったに違いないと、私は確信をもちました。
原爆で亡くなった全ての人が大統領を歓迎したに違いないと、私は感じました。
アメリカの遺族の方々に、手紙に貴方がたの大統領は素晴らしい人だと、スピーチをDVDにしたもの、私の被爆体験もほんの一部も入っているので是非観てほしいと書いているところです。
平和というものは押しつけられるものではなく、自分で作り出すものです、それが私の願いです。