2016年8月3日水曜日

岩崎恭子(五輪競泳金メダリスト) ・14歳の金メダリスト

岩崎恭子(バルセロナ五輪競泳金メダリスト) ・14歳の金メダリスト
7月24日 NHK放送博物館で行われたトークイベント、ゲストはバルセロナ五輪競泳女子200m平泳ぎで優勝した岩崎恭子。
38歳になったばかりの岩崎さんが当時の裏話などを語ってくださいました。

今、子供は幼稚園の年長さんになりました。
主人はラグビーの選手、日本の代表にもなりました。
私は5歳の時に、沼津市にある小さなスイミングスクールで泳ぎ始めました。
3歳上に姉がいて、2歳下に妹がいて、姉妹全員水泳とか他の習いごともしていました。
姉は高校1年生のインターハイで優勝しました。
初めて姉を抜いたのは中学1年生です。(オリンピックに行く1年前)
選考会で粕谷恭子さんがNO1でいました、私はNO2でした。
練習は1日3000~4000mしか泳がなかったが、代表選手になると8000mぐらい泳ぐことになります、兎に角やるしかなかった。
当時千葉さん、林さんにマスコミが注目していた。
稲田法子さん、春名美佳さん、と私で中学生トリオと言われていました。
彼女らがいなかったら、乗り越えられなかったと思います。

バルセロナに入ってから、セックスチェックをして、又マジョルカ島で最終調整をして、そこで誕生日をしてもらいました。
粕谷恭子さんからは2~3(3~4m)秒離されていたが、試合が近づくにつれて勝てる様になってきた。
7月27日のレース当日、予選が5組、上位8人が決勝に参加する。
予選第5組でアニタ・ノール(世界記録をもっている2歳年上)が隣にいて、2分31秒程度だったのが、大接戦する、最後のタッチで0.01秒負けて2位だった。(相手は流していると思った)
鈴木陽二先生(鈴木大地のコーチ)から良い泳ぎで良かったと言われて、「もう一回泳ぐんだぞ」と言われて、クールダウン(疲れを取る為の泳ぎ)する泳ぎに入った。
鈴木陽二先生としては「もう一回泳ぐんだぞ」といったことは、これで満足するんじゃないぞという意味を与えたつもりだった。
お昼の時におにぎりを4つ食べてしまいました。(通常は2つぐらい)
鈴木大地さんからは勢いがあるとの事だった。(アナウンサーが聞いた事)

決勝で、アニタ・ノールは私の後から入ってくるはずが先に歩いていて、緊張しているのかなあと思いました。
私は後半スピードが上がって行くタイプですが、アニタ・ノールは最初からどんどん行くタイプなのでそこにくっつき過ぎると、オーバーペースになるので、それだけは阻止しようと思った。
自分のペースを守りながら泳ごうと思っていました。
ゴールした時には優勝だとは気がつきませんでした。
帰ったら金メダルフィーバーだった。
成田に着いて、最後に降りるように言われて、別行動することにたいして心苦しかった。
淋しさも段々感じてきたりしました。
アトランタを目指してゆく4年間、注目されることによって、違った生活になって、注目されすぎて苦しかった。(家族を含めて)
速くなければ良いんじゃないかと思う自分がいて、唯泳いでいるだけだった。
気持ちの入っていないトレーニングをこなすだけだった。
広島のアジア大会には代表には成れなかった。

アトランタ代表には成るが、NO2でアトランタに行く事になり、決勝には残れなかった。(10位)
アナウンサーからインタビューを受けて、「良くやったね、恭子ちゃん」と言われた時に号泣してしまいました。
大学2年の時に引退。
大学で水泳を続けていればオリンピックという目標が持てると思っていたが、1年、2年終えても思えなかった。
鈴木先生からは「命をかけてやるものだ」とおっしゃったので、流石にもうそういう気持ちには成れないと思って、田中雅美ちゃんもアトランタに一緒に行って、彼女のレースを見た時にくやしいとは思わず頑張れと思って、ライバルにたいして頑張れと思ったらもう競技はできないと思いました。
教えることの大変さ、水に顔を浸けられない子をどうやったら顔を浸けて浮かしてあげられるか、沢山応援してもらった分をそういったことで返してゆくことが必要なんじゃないのかと思った時に、水泳と関わりながら、子供達を教えたり、底辺の拡大、水泳の研究をしてゆく事が自分に合っていると思いました。
そしてそういった活動をしてきました。