2011年10月18日火曜日

津村節子(作家)         ・夫とともに作家人生

津村節子(作家)   夫とともに作家人生
<概要>
福井県出身。少女時代は都内に在住していたが、戦時中は埼玉県入間郡入間川町(現:狭山市
)に疎開、学習院女子短期大学文学科卒業 
1953年、学習院で文芸部の仲間だった吉村昭と結婚 1965年「玩具」で第53回芥川賞受賞
2011年『文學界』5月号に、夫吉村昭(2006年夏没)最期の日々を、克明に描いた私小説『紅梅』
(同年7月に文藝春秋で刊行)を発表
夫 吉村昭が癌に侵され その経過を今回話す(「紅梅」に発表)  又40年前に吉村が『星への旅』
で東北の津波の悲惨さを克明に記した事についても
想いを話す  夫婦で作家をしていることでの思い、周りの人達の考え 夫の作品について 
自分の作品について
吉村昭は戦艦武蔵を初め数多くの歴史小説を執筆してきたが、5年前癌の為に亡くなる 
吉村さんの奥さんは5年前亡くなるまでを描いた小説「紅梅」を発表しました 
遺言に亡くなってから私の事は3年間は書かないようにと有った
亡くなった直後の事を3冊書いている 
発病から亡くなるまでを書いてないと編集者から詰め寄られる 締め切りまで指定されてしまった
(2012年3月)
電話等が掛って来て書かねばいけないような状況になってしまった
200枚にも及ぶものを書かねばならず 3ブロックに分けて書く事にする 
①舌癌の話 ②すい臓癌が発見される(PETにて) ③すい臓癌の手術から亡くなるまで
吉村一族はみんな癌で亡くなっている 3番目の兄が胃癌、弟が肺癌、父が脳腫瘍 
母が子宮癌で亡くなっている

気にかけていて毎年誕生日前後に徹底的な検診を受けていた 普通舌癌の検査はしない 
舌が痛いと言うので内科の先生に診てもらったらこれは口内炎ですよと言われる
薬を服用いていたが一向に良くならない 
夫が医学書で調べたらこれは舌癌の疑いがあると言いだして病院に行って組織を取ってもらって
調べてもらった処舌癌だった
舌癌の手術を事細かに説明される 俺の年でそんな手術は出来ないと言いだし別の病院に診察
してもらった処、放射線科での治療をすれば直りますと言われる
そちらを選択した 入院した部屋は一番奥の奥の部屋で衝立までは看護師、見舞客は入っても
いいとのことであった
行って衝立越しに見たら向こうむきになっており手を後ろに振っている 
こんなところに来るんじゃない早く帰れ帰れとの指示だった
針が入っておりマウスピースをしていて喋れない 何日間かそこに居て帰れるからと一旦退院した
 癌はかなり小さくなったが取りきれなかった

取りきれていないからそれは簡単な手術で済むので手術で取ってしまいましょうと言われる 
PET検査機で検査して膵臓(内視鏡 レントゲンでも判らない)に癌があることが判った 
錐体部が光っておりここだけを取れば大丈夫と言われ手術をすることになる 
結局手術をしてすい臓を見せてくれる 癌が全体に広がっていた(全摘をした)
妻の目と作家の目で夫を見つめていたようだ 全部メモを取っていた  
手術の様子、薬の事、副作用等々 後で書こうとは思っていなかった(普通の奥さんよりは観察
していたと思う) 
すい臓の手術をしてから退院した後 血糖値を毎日測って(空腹の時に測定) 
インシュリンを注射した (4時間ごと) 遠方には行けない 
井の頭公園への散歩、デパート等に行く
同じ家に居てそれまでは一緒にいることはなかった(取材、講演等)  
4か月間密度の濃い時間を過ごす事が出来た もうこれで直ったと思った
急に具合が悪くなり、主治医ではない診察の日に病院に行った 即入院になってしまった
 仲のいい友人が本を出版して受賞してその受賞のお祝いの日だった

病院に送ってその足でお祝いの席に行く予定であったが入院の手続き等で行けなくなり、
断りの電話を入れた(病状は友人には連絡していなかったので苦労する)
息子と娘に対しても話をするなと言っていた しかし説得して話す事になった 
それ以上広げるなと云う
残ったたった1人の兄に対しても身体の事は話すなとくぎを刺された
(兄からは後で何で話してくれなかったのかと言われる)
夫は19歳のときに肋膜をやっていて(微熱が出て学校を休む)
21歳の時に結核になって 喀血する 肋骨を5本切除する胸郭整形手術をする 
其の時に長い間家で寝ていた  見舞いの人が来ると疲れる 
元気そうに見せるようになっちゃうそうです ・・・若い時の原体験があったために周りに言わない
ようにしたのでは?
自らカテーテルを引き抜いたようですがこれについてはどうですか→その事についてはあまり話したく
ない 日記の第1ページにこれが最後の日記になると書いてある
ですから自分で死が近づいてくるのが判っていたようだ 

幕末の蘭学者 食を断って、薬を断って(佐藤大膳と言う人) 自分で死を迎えた
感銘を受けたようで自分もそんな死に方をしたいと日記に書いてある 
エッセーにも書いてある 自分は医者ではないので何時亡くなるか判らない
自分の死は自分で見極めて自分の死にたいような形でと思っていたのではないでしょうか 
亡くなる直前の描写の中で 背中をさすっていると身体を半回転させたと 最後の文で 
自分を拒否したんだと津村さんは書かれているが
判りません 吉村(夫)が病気を隠したと言う事がとても辛い思いをしたというのは
病気を公にしていれば断る話はいくらでもあった
 私も仕事が断れずに一緒に付き添ってやる事が出来ずに悔いが残る 
ものを書く女房は最低だと思った

病気になる一年前から決まってたグラフ雑誌の連載があった 
それは病気になるなんて夢にも思わなかった事 休めない 文学賞の選考委員長として仕事もある
私は女房としての役目をはたしていなかったという悔いがずっとまだいまだにある
「紅梅」を発表して 、寂聴さんから良く書いた偉いと即電話がかかってきた 
これは吉村さんが貴方に書かしたのよねと言ってくれた
「紅梅」の位置付けは→集大成だと思っている 気力も体力の使い果たした もう書く気力がない