2011年10月20日木曜日

王敏(ワン・ミン、教授)      ・日本へ宮澤賢治が架けた橋

  1. 王敏(ワン・ミン法政大学国際日本学研究所教授) 日本へ宮澤賢治が架けた橋
中国で優秀翻訳賞、山崎賞、岩手日報文学賞、賢治賞 文化庁長官賞(平成21年)
日本留学から30年 忙しい 睡眠時間も4時間から5時間  夜中の12時過ぎに眠る 
1978年 中国の大学院で宮澤賢治 日中文化比較の研究をする
「雨にも負けず」が被災者の励ましになったとの報道があったが   
宮澤賢治が生きた時代に同じ地域で多くの自然災害に見舞われていた事実がある 
それを背負った現地の人達にとって体験した原風景が多分「雨にも負けず」を
生み出した原風景になると思います  東日本大震災によって原風景が呼び戻ってきた
原風景の元に生み出した人間の共鳴共感も 多分今も昔の人達と通い合うようになったところも
あると思います

ですから本能的に「雨にも負けず」という詩を読むことになったのではないでしょうか
自分自身が自然の中の小さな一人にすぎないという認識のもとに生きるんだと言うその励ましと
言いましょうか そういったところを感じ取ることが出来る
雄大な自然に向かう時は自然もいきものであれば人間も生き物であり どちらも尊い生命を持つと
言う感覚から見るとすれば
人間の生命観、人生観 あるいは魂と言ったものが自然以上のもの自然より高い価値があると
言う考え方が多分消えてしまうと思う
そこにいる人間がむしろ小さく感じてしまう 
その人間の力で自然を徹底的に変えてゆくことはできない 

宮澤賢治の時代の自然が災害の多い時代だったとしましても人間が近代化という武器を手にして
その同じ大地に高いビルディングを建てて科学技術を使って
沢山の工場を建てて如何にも豊かそうな生活をしてるんですが しかしどう見てもあくまでも本来の
自然の身体に飾り物を付けてしまったような感じですよね
今回の東日本大震災もそのようなものであって自然は何も変わっていません 
元のままですよ それを人間が替えようと思っていたのですが、それが飾り物に 
ならないと言う事が改めて認識させてくれますよね 
人間の考え方も基に戻って本来自然の母体にいる本来の人間の発想と生き方とあり方に戻ってしまう
それしかないですね それが多分宮澤賢治の時代がもっとわれわれ現代人より理解していたはず
ですし もっともっと自然系の人間と自然系の自然と付き合う事が出来たか
と思います 

にも拘らず宮賢治がその当時に矢張り飾り物を付けたりした所謂文明的な行為に批判的な態度
を持っていたわけですから、本来の自然と人間の関係
ままを確認しながら人間のあるべき姿をずっと追求してきたのが宮澤賢治でした
自然との共生を語った宮澤賢治の考え方と言うのは今回の災害を経験することによって改めて
一人一人が認識すると言う事になった  確認出来た
文化大革命の末期に高校生だった 中学校以上の生徒は田舎で働く事になる 
人間としての鍛えられる手段として中国政府の指示によってそのようなプロセスを体験した 
田舎へ行かされて働かされた 3年間 農家で穴を掘り、種をまいて収穫して食べた 
小屋を建てることから始める 井戸も掘る 
電気もないので勉強はできなかった 風景の美しい農村だった 
別の幸福感がある事を知ることが出来た
宮澤賢治が実践した仕事と言いますかそういった部分にも繋がってくる喜びを獲得なさったような
気がしますね

何故私が宮澤賢治に共鳴共感を持ったかその原点の一つは山の奥で3年間過ごした経験が
あったからだと思います
どのように受け止めるかだと思う 学ぶという姿勢が大切ですから 
学ぶ対象と言うのは必ずしもテキスト、文献、立派な教育機関から得るものだけではないと思う
どんなに貧しい貧困な地域でもどんなに教育を受けた事がない字も読めない人であってもその人の持っている純粋で透明な本能的な心と言ったものから学ぶ事がある
学ぶ姿勢を持つものならばどこにいても学ぶことはできると思う 
私は田舎で沢山学ぶ事が出来ました
工農兵大学という制度があって大変な人数からはいれた 
3万人の応募者の中からわずか16人入学という超難関を突破した

教育者になりたかった 日本語を目指した(文系は2人 後は理科系) 日中国交正常化 
通訳をする人が欠けていた時代 
日中国交正常化以降の交流をしていくうえで政府もそのような人を養成しようとしていた
当時はまだ外国の小説などを読めるような状況ではなくかなり制限されていた 
重慶の大学院に通う事になる そこで日本政府から派遣された第一期生 石川一成先生に出会う 
神奈川県教育派遣センターから派遣された
当時国語、日本文学を担当した その時教材がありません パソコンとか一切ない 
ガリ版でペーパーに印刷して手作りの教材でした
その中に宮澤賢治がありました それが宮澤賢治との初めての出会いでした
 
 「雨も負けず」は感動的でした  大きなエネルギーを感じた
若い人にとって日本、中国、韓国  3国の若い人あるいは小、中,高 あるいは大学生の理想に
ついて時々調査されているが そのデータによりますと
中国と韓国の子供たちの理想となるのは偉大な人が多い(科学者とか 政治家とか 医者とか) 
日本人はパン屋さんをやりたいとか運転手さんをやりたいとか
ごくごく普通の平凡な職業を理想としているわけですね 
理想に関して両国の子供にとって選択の価値基準の違いがあると思います
「雨にも負けず」に謳われている理想象とその理想像の価値基準とするものが実に平凡な普通の
苦しみをしている人々たちでした

従来の価値基準と理想像に問いかけたくなるきっかけになった 
当時に驚いたのは宮澤賢治が誰かに教わってあるいは日本と言う社会の中でそれが一つの決まった
価値基準として植えつけたものではなく宮澤賢治が自分で自分の日常生活の中から感じて、
体験して自ら本心から自発的に求めたい人間像だったという事に感動しました
「雨にも負けず」に描かれた人間像 理想像 は孔子荘子にも描かれていた処がある 「論語」
日本の文化的な価値基準はベースの中に果たして孔子も孟子も中国古典の素養がどのくらい
あったかどうかそれを確認したくなった
かなり重なっている部分ですし、 宮澤賢治の中に言わば中国の文化古典が及ぼしているかも
しれない影響そういったものも確認したくなった
それが確認できたならば日本も中国も同じ漢字文化圏の隣同志として共通の古典的あるいは
教養のベースをある程度共に持ってきたという事になりますね
宮澤賢治は求道者と言うような言い方をされますよね

そういったところにも惹かれたのでしょうか→求道者の生き方は中国の古典の中にも、インドの
仏教の中にも共に讃えられてきた人間像、理想像ですので当然宮澤賢治のあると言う事に関しては
日本と中国とインドとあるいは東アジア的価値基準が一つになった あるいは
重なった あるいは友好的、混合的になった処があると言う処への発見に対してそれも驚きました  是非日本へ行ってみたいと思った
1981年卒業して母校で一旦は教員になった  
外国留学が自由な時代ではなかったので非常に嬉しかった
宮澤賢治の作品を切り口にして日本の文化風土の深層にあるいは表層にあるいは日本人が
持っている教養体系の中にどのくらい中国の融合があったり
あるいは日本文化の独自の処といったもの どういったところにあるのか 
宮澤賢治の様な日中混合的な要素を持っておられる人間を生み出す要素と言ったものとかですね
それを通して日本の社会を認識し日本人の持つ内面特に教養体系の処とは何かを認識しもし
それが中国的教養とかつて混合した部分があるとすればどの所が
日中友好の為にこれは本能的自然なベースだと思う  
そのところを開拓してあるいは再認識してゆくと日中両国は不戦の道へ平和の持続発展を願う事
が願うだけではなくて実現可能だと思っています