2011年10月25日火曜日

白取春彦(作家)         ・「ニーチェと聖書に学ぶ”現代人の生き方”」

白取春彦 (作家)「ニーチェと聖書に学ぶ”現代人の生き方”」
1954年、青森市生まれ。獨協大学外国語学部ドイツ語学科卒業後、ベルリン自由大学に留学。
帰国後は文筆業に従事
今何故哲学とせよなのか 「超訳 ニーチェの言葉」 ベストセラーに    
後づけですがやはり若い人が人生の言葉を欲しがっていたんでしょう
哲学は考え続ける事 テーマは何でもいい   言葉の意味とは普通は辞書に書いてあるだろう 
あるいは自分たちの云った意味だろう
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインが考えたのは言葉の意味と云うのは話した瞬間のその時の状況に
よって意味が決定される
 我々が「意味」という語をもちいる(全てではないにしろ)殆どの場合では
 次のような定義が可能である。
 すなわち、語の意味とは言語におけるその使用のことである。
例えば旦那さんが帰ってきて「おい あれ」と云ったとする   
その状況でお風呂なのか、ご飯なのか それを決定すると言う事ですね

人間は意外と言葉の意味と云っているけれども実際には意味と云うのはなくて状況が意味を決定
するのではないかと云っている そういう事を考えるのが哲学です
自分達の損得に関する事、利害に関係ない事はつまらない事 は間違っているもっと素朴な疑問
でも良いからおしゃべりをしないといけない 
小学校から大学で学ぶ学問のすべては元々は古代ギリシャから始まりましたからね 
つまり考える事がスタートラインです それが哲学
その先枝葉に分かれて行ったのが政治であり経済等である  
現実に即した各論が我々身の回りに有るもの 政治、経済ですね 
ニーチェは他の哲学者とは全く違う文章を書く  形容、と比喩が全く違う   
普通の哲学者は比喩を用いない  形容詞もあまり使わない

もっと数学的な論理的な論述を使うが、この人の場合、意外と情緒的で比喩を使って詩に近い
ような言葉を時々書くんですよ それが面白いのでそれを中心に選んだ
一種の美が有る ニーチェは大学で教えていた後35,6歳で本を書いている  
大学を離れてから自分の体験、自分の生活に根差した哲学をやっている
大学は給料をもらい安穏と暮らしをして抽象的哲学しかやらない 
 ニーチェは生活に根差した哲学を書き始めた 人間関係に苦しみ、病気に苦しみ 繊細な人だから
感覚が我々に近いんだと思います  
自分は大したことはない人間だと思ってはいけないよ  
自分の行動や考え方をがんじがらめに縛ってしまうからだと
まだなにもしていない自分を尊敬するんだと言わば励ましですね  
我々、生きている中で自信を喪失してしまう場面が多い
 
そんなときにこういう言葉はほっとしたり
勇気付けてくれる 特に若い人に取ってみてはそうだと思う   
自分を尊敬するためにはまっすぐに生きてこなければ自分は尊敬出来ない
ニーチェ自身に言っている言葉かもしれない 
一日の終わりに反省しない(疲れきっている時に鬱への落とし穴でしかない 
さっさと休めなくてはいけない)
15歳の時にニーチェを知る ニーチェの詩集を買ったのが初めて 何が何だか判らなかった 
親の言う事に反感を持っていた 理由を教えないので 
本に聞くしかなかった 7年間外国に行く(ドイツ ベルリン) 仏典を多く読む 環境が良かった
ニーチェは1844年生まれ おとなしくて物静かでこえも低くて感性が豊かで 音楽に通じていてピアノ
がうまくて しかしどっか奇妙なぎらぎらした目を持っている人 
物事の積み重ねでしか学問を評価しないのが当時の教授(今でもそうだが)
 
ニーチェはいかさまのようにしか見られなかった  ニーチェみたいに新しい発想はいやなんです
散々けち付けられた事もあって35歳ぐらいの時に大学を辞めた  
病気もあって辞めざるを得なかった  胡散臭い人物と思われていた
100年前の人の言葉であるが現代人の心に響くのはなにか→古典は全てそうだと思う 
「脱皮しない蛇は死ぬ」 脱皮できない人間は死ぬ 
新陳代謝の事なんですけれども、いろんな意味が重なって考え方を常に新しくしないと通用しない
と言う事 
或は生きかたをしょっちゅう変えていかないと生き延びられない   
これは非常に比喩的な象徴的且堅実的なサジェスチョンだと思う
ころころ人の顔色を窺って変わると言う意味でななくて、自分を越えてゆくと言う事ですね 
 自分の中から自分を越えてゆくことが出来なければまずいと言っているわけです
「誰かを喜ばせることは自分でも喜びを一杯にする 

どんなに小さな事柄でも人を喜ばせることが出来ると私達の両手も心も喜びで一杯になる」 
人を喜ばせると心も喜びで一杯になると言うのでしたら判りますが 私達の両手も心も喜びで一杯
になる 「この両手も心も喜びで一杯になる」というのは赤ちゃんの感覚なんです
それをスッと素直に書いているので面白いのでこれを選んだ  
ある意味大人なんだけれども素直な心を持っている
「聖書の言葉」を出版 聖書らしくない言葉を選んだ あえて選んだ
 聖書は宗教っぽくないんだよと言いたかった  先入観を飛ばしたかった
聖書と云うのは元々はユダヤ人が何をやって来たかという歴史書です 
特に旧約聖書 あからさまに書いてある 良いことばっかり書いてない人間の悪い事が90%書いある
それを我々は、ユダヤ人が読むと言う事は結局そこから学ぶことがあると言う事です

 みんな金で失敗した、女で失敗した、自分の欲望で失敗したその他延々と書いてある
サムエル記 ユダヤの初代の王から3代目の王まで サウルダビデについて書いた歴史書なんです
けれどもそれがめちゃくちゃ面白い
スペクタクル、ダイナミックな物語です  知的な素晴らしい青年の王が誕生し、そのうち不倫をして、
戦争をして、部下たちを裏切って またそのダビデの息子達が父親に
反乱をおこして、全部死んでしまうと言う 
人間の馬鹿馬鹿しさというか欲望をいじって書いています
神が呼びかけてもそれに答えない人間達の末路を書いている 
彼らは神の言葉を自分の良いように解釈して結構自分の欲望のままに従って破滅してしまうんです
聖書があったから今の文明があるんだと思います 
つまり今のドラマにしろ映画にしろ演劇にしろ音楽にしろ、全部聖書が主題曲にインスパイス?
されている
「エデンの東」もアダムとイブの話ですよ 
今のハリウッド映画もほとんどが聖書のユダヤ教の思想を語ってます 
それは聖書を読んで初めて判ります

西洋のいろんな芸術とか文化を理解するにはやっぱり聖書をろ過装置で通って見るのと抜きにして
みるとでは全然受け止め方が違うと言う事ですかね
特に古典の文学は例外はないですね ですから私は哲学もそうだと思っています 
日本の哲学者は聖書を読まないで哲学をやっている人が多いんです
聖書があって現代の考古学が成立するんです どこを発掘する 
推測するのは聖書から推測しる 聖書と云うのは昔の文献なわけです
全部は事実ではないのだろうけれども、なんかの事実がもとに有るのだから例えばここを掘って
みようとか聖書を見れば判るわけですよ
「ノアの箱舟」あれはみんな物語だと思っていますけど あれを真面目に考えているわけです 
今の段階の考古学ではトルコに有るアララト山と云うところそこらしいと考えている
そこに行けば木片の一片ぐらいはあるのではと真面目に考えている 
聖書は読むのではなく眺める(いつもそばに置いておく)