2012年12月12日水曜日

小島路生(地域おこし協力隊)   ・国際貢献を地域おこしに生かす

小島路生(地域おこし協力隊37歳)  国際貢献を地域おこしに生かす
2009年立山町が募集した地域おこし協力隊隊員に応募して、翌年の春から働きはじめました 
地域おこし協力隊員は総務省が2009年度から導入した  
人口減少や高齢化が著しい自治体が地域に暮らしながら農林水産業の応援や住民の生活支援等地域の力を維持するために 様々な協力活動をする人を採用して任期は最大で3年に成っている  
初年度2010年は2県88市町村で257人が地域おこし協力隊員に成っています
小島さんは協力隊員になるまえには、中南米やアジアの発展途上国で10年間ユニセフやユネスコなどで国際協力の仕事に携わってきました
今年1月、週刊誌の企画 「日本を立て直す100人」でその一人に選ばれています
立山町は自然豊かな農村地帯で400年の歴史を持つ越中瀬戸焼の陶芸の里もここに有ります 海外から日本に活動の場を移した思いなどを伺います  

地域おこしのアプローチ 人と人を繋げて行く事  人の集う場を作ること を活動してきました
①農業分野 いろんな人に集まって貰って田んぼで無農薬で根を作って貰う、とか畑を作ること ②自然分野 立山の美しい風景を鑑賞する 
皆で楽しむようなプログラムを立ててツアーを企画したりしている  
③アート 音楽分野  越中瀬戸焼 芸術が生まれる街 陶芸家と一緒に協力して工芸展を開催し たりお茶会を開催すること、陶農館を利用して音楽コンサートを主催すること  
④地域作り  独居の高齢者の方の見守り活動 子供のパトロール活動などをしている

10年間発展途上国の支援をしてきたが、日本に何もしてこなかったのではないかと思って、
地域協力隊と言う制度を知って応募しました  
青年海外協力隊、ガテマラ、インドネシア  識字率の向上 就学率の向上に努めました
大学の時に阪神淡路大震災でのボランティア活動に参加 フィリピンに大学のプログラムに
参加 今まで知らなかったアジア、フィリピンの貧困の問題に直面して
何か自分で出来ないかと思ったのが海外協力隊へのきっかけです
法学部だったので海外支援は難しいと思ったので 海外で発展途上国の教育問題を勉強する
大学院が有ったのでそちらの方に行きました
アメリカ カリフォルニア  スタンフォード大学で専攻して終了しました  
先ずはインドネシアのユネスコで半年間 インターンとしてただ働きをしました
その後青年海外協力隊に応募してガテマラに決まった   試練としては? 好奇心が強い人間なので  言葉、文化食べ物の違いはあるが 
楽しんでいた部分があるので試練とは感じなかった

衝突は結構あったが文化の違い等を考えると 納得するところも有り 歩み寄ってゆくと相手も
歩み寄ってきて呉れて お互いに徐々距離を縮めてやっていけるようになった
ガテマラ  日本でいう県の教育委員会の様な組織に入って 田舎の方の小学校を廻って、
女子教育の研修 算数の教員研修 図書館を作るプロジェクト等をやっていた
中米 4年間ホンジュラスに赴任  シャーガス病 風土病の対策プロジェクトのリーダーをやった  
人間の血を吸って媒介する病気  吸血性カメムシの駆除 
病気の怖さをどのように知って貰うかを活動した  
まだそのプロジェクトは続いている    抵抗は最初かなりあった 
一番感じたのは、人間て根本は一緒なんだと思った  
喜ぶ時は喜ぶし 悲しい時は悲しむし、 楽しい時は楽しむし   
根本の人間の姿はどこに行っても同じだと思った 
 
宗教 文化 食べ物 表面上は違いますが、人間と言う姿には共通性を感じました
イドネシア  ユニセフのスタッフだったので、子供の支援が中心 教育セクションにいたので
、へき地の子供の支援 学校にいけない子供の支援 就学前の子供の支援
震災支援の担当でもあった 2009年に西スマトラ地震が有ったときに 3000人が亡くなったが
、震災が起きて3日後に行って来いと言われて、学校再開の為の支援にあたっていた     
地震に対する思い  入るきっかけが阪神淡路大震災だったので 東日本大震災 も経験して 何とかできることをここからでも出来る事をやって行こうと続けています
立山町とは縁もゆかりもなかったが、インドネシアにいる時に直観的にここかもなと思った
(ホームページを見て)

雪の多い時に来たが、この風景に魅了された
高齢化率34%  最初よそ者としてこちらに来たが、よそ者のだから出来る事があるのではないかと思った  なにか種まきが出来るのではないかと思った
最初一軒一軒回って 知って貰う事から始めて、地域のイベントの祭 いろいろな機会に
ださして貰って、知って貰った
土が豊かな場所 陶器 美味しい米  富山湾 と立山連峰の両方が見えるので  
人を繋げる様な拠点に出来ないかなと思った
陶農館 を拠点としてさまざまなイベントをやって いろんな人に集うきっかけを作っています
コンサート 震災支援のチャリティーコンサート  11回行う  陶芸の展示会  お茶会等をやっている 田んぼだったところを借りて、ひまわりの迷路を作って1000人ぐらいの人達が来た   
コンサートは最初アマチュア ピアノコンサート  南米のフォルクオーレ民族音楽 地元出身の声楽の人に出て貰ったりしている
地元にはちらしだとか 繋がりが生れたのでそういう方を通して口づてで伝えて貰ったりする   入場料は1000円程度
コンサートの後にバザーを行う  コンサートにはあまり多くは来ないのでバザーで野菜を売って貰ったりして繋がりを広めて貰っている

高齢者の見守り活動 高齢者と若者とが、感じあってくれるような活動をしていきたい   
話し相手になって貰う
高齢者の健康作り  ノルディックウオーキング  ノルディックスキーの夏のトレーニング用 2本のストキングを
使って歩く  参加者 数名~20名
最初余り歩けないような人が今では40分位歩けるようになった人がいる  
冬は公民館の1室で歩いている
皆の畑  野菜とかを皆で作って 農薬を使わず有機でやっている  
去年はみんなの田んぼで米を作った
私のアプローチはどこへ行っても人と人を繋がって何か動きを創り出すと言う事なので 
外国でも立山でも同じだと思っていて経験が役に立った
越中瀬戸焼き 陶芸家 5名いるがお互いが交流はなかった 
 
私が来ていろいろなことをやっているうちに 陶芸家の皆さんも今年初めて かなくれ会を作って 初めて一緒にやられた  私もサポートさせて貰った  1週間で700~800人来た  
お茶会も180名ぐらい来た  感無量だった  
2年半になる 今年の週刊誌で日本を立て直す 100人に選ばれる   
予想していたよりも大変だったかもしれない いろんな事が有った 辛いこと 苦しい事が有った 泣いたときも有る だがそれ以上にいろいろな人との素敵な出会い
とかいろんな人に支えられて、私が支援したと言うよりは私が支えられた事が多かったと言うのが2年半でした

色んな繋がりの人が訪ねて来て、一緒に何かやりましょうと言う人が凄く増えてきて、
地域起し人としては何とかいうか、こたえられないほど嬉しい事
私がまいた種が ちょっと芽を出しかけたと 言う風に思う事を感じましたし、
一緒に育てていけたらなあと思っています
3年契約後は、まだ具体的には決まっていないが、立山との繋がりはずっと続けて行きたい
地域おこしもやりたいし、海外支援もやりたいし 災害支援もやりたいし、 どうしましょうと言う
感じだが 出来る事を模索して少しずつ形にして頑張っているところです
継続することは難しいが、いろんな人が繋がって いろんな人が参加してくれた事によって 
継続する仕組みが出来てきたんじゃないかと思っている

今後多くの人が係わって ひとりでも多くの人が地域おこしをやって行こうと増えてくることで継続性を作っていきたいと思っている
地域協力隊は400名を越えているんじゃないか思うので 日本全国で隊員が種を蒔いている
と思う そういう人達が更に繋がって行って さらなる動きが地方、田舎から日本を少しずつ変えてゆくと言う波紋が広がってきているんじゃないかと感じている

2012年12月11日火曜日

吉川真嗣(街作り会)       ・故郷の鮭を生かし故郷に生きる 2

吉川真嗣(街作り会)          故郷の鮭を生かし故郷に生きる 2  
吉川哲鮏さんの息子さん   伝統を街作りに活かす   今が一年で一番忙しい   
鮭の塩引き 鮭の鮭浸しに明け暮れている   
町屋のあきんど会の会長をやっている  人形を展示する企画があり、重なって忙しい   
村上の素晴らしさ  建物 囲炉裏 仏壇 等の空間が素晴らしいと評価される
のれんをくぐると、鮭の店がありその奥に、続いて茶の間、 作業場があって、通路があって鮭が何百本とぶら下がっている 
70Mの長さがありうなぎの寝床のようになっている
町屋の特長は間口が狭く奥行きが長い 昔税金が間口の広さで決められていた 
 
近代化の話が持ち上がったが、街について真剣に考えた
村上の人を良く知っている人に出会いそんなことをすると大変なことになると言われた 
 城下町として4つの要素が今でもきちっと残っていると言われた
①武家地区と町人の地区が別れている 
②武家地区には城はないが山城が残っている 
③武家屋敷が十数棟残っている  町人街に来れば町屋が370棟
④寺町と言われる一角が形成されている   
 町屋商店街が近代化されれば、城下町の価値を著しく損なってしまい、道路を広げて近代化し て成功している地方は一つもないと だからお前がその企画を食い止めろと  初めて有った  会津若松の五十嵐大祐さん(全国町並み保存連盟会長をやっていた)から言われた  
この事がわたしの人生まで変わることになる  
村上は価値ある街だと教わってたどり着いたのが、古いものを生かして活性化出来れば価値を市民の人が感じてくれ、街の発展につながると思い、近代化の話も見直される日はくると思ったショッピングモールだとかアーケードとかではなく、最初はどこもいいところは見当たらなかった 
当たり前の事なので気付けなかった
  
ヒントを気付かしてくれたのが旅の人だった  
鮭 土間 天井から鮭がぶら下げっている風景 茶の間 囲炉裏 仏壇  
それまでは当たり前の家だと思っていたが旅の人はそこに感動してくれた
生活空間の中にこそ村上の良さが残っているのだと気付いた  
そこに光を当てようと取り組んでいった  街屋の外観再生プロジェクトを立ち上げる
外観はどこにでもあるようなもので覆われてしまっていた  
サッシとかを 昔ながらの格子戸、瓦、障子 を復活させれば素晴らしいと思った
驚かす 議論して街はこうしたらと言うような事は話がまとまらなかった  
纏めようとは思わなかった 
変化を起こしてそしてその姿を示すことで人に気付いて貰うと、言うような方法を取ろうと思った

先ずマップを作った 
人の喜ぶこと、人の役に立つことをやっていく中に人は理解して付いてきて呉れる、言ってくれる  旅の人がきたら家の中を見せてやってほしいと頼んで店のマップ(22軒) が出来上がった 
TV、新聞等で紹介された    組織を作り会を作る事 皆が応じてくれた  
マップを持て来てくれるようになり、街屋の価値に気付いてくれる  意識が変わってきた
明治、江戸時代の人形を飾る 其れを見に全国から来てくれる  
旅の人が褒めてくれるのでただのボロ屋だと思っていたのが、誇らしげに話すようになった
外観を再生するにはお金がかかる  知恵を工夫を使って取り組む  
全国の人に呼びかけて入会して貰い、入会金が即外観を再生する民基金となる

平成16年に立ち上げる 市民だけで取り組む  1軒当り80万円を上限にする  
外観が変わっていった 村上の話題が広がっていった
8年目になる  23軒再生した  昔の姿に戻った   
村上らしさに磨きを掛ける 文化的な部分でも村上らしさを磨く
黒塀プロジェクト  街屋が話題になっていく中で、市民が自ら街の有るべき姿を見せてゆくべきだと思って、街屋が続く中に文化財がある通りが有るが ほとんどがブロック塀になっており、昔の黒塀になれば、凄く良いと思ったので、黒塀一枚一口 1000円を謳ってちらしを市民にばら撒いた 
お金が集まってきた 作り方はブロック塀を壊さずにブロックの上に板を張ってゆく  
少ない費用でガラッと変えることが出来る  
作業は市民に参加して貰い、暖かい塀が出来てゆく 
我々が思っている以上に他から評価された  参考にして他でも実践している 
子供達が楽しそうに作業に加わってくれた 
黒塀は390mの長さになった  夢に向かって努力している事が嬉しい   
次に緑3倍運動を行っている  もみじの緑 等  60本の木が植えられて充実した
黒塀が出来てきている   秋のお祭りとして屏風祭を取り組んでいる  
屏風を立てていろんな調度品、生け花を飾ることにしている

昔は屏風を立てて飾ってた風習が有った  (文化財が眠っていた)
隣のお婆ちゃんの言葉が忘れられない  私は古いものを羞じとしてしか思っていなかった 
だけど人形祭、屏風祭をやる中でこれが本当に 私達の宝だと言う事が判りました、と言ってくれて本当に嬉しかったです  
人形祭 屏風祭 で説明するのにお年寄りが一生懸命に説明してくれる  
旅の人達に対して自然に対応してくれる 
温かみのある触れ合いの有る旅は初めてだと 土地の人とふれあう事が出来て本当に楽しい旅が出来たと言ってくれた
福祉は設備を整えるのが福祉だといわれたが、そうではなくて本当にお年寄りがまさに生き甲斐を感じて生き生きとしている  
そういう事が福祉で大切なことだと 言う事を気付かされたと言っています
新しい問題としては 古い建物 維持管理できなくなって 空家に成っていて それを壊してしまうのがあちこちで目に付くようになってきて、これからは、それをこちらで借りたり買う人がいれば 壊そうとは思わないので、新しい担い手を見つけて、繋いでゆくという取り組みをしていきたいと思う

2012年12月10日月曜日

吉川哲鮏(てつしょう77歳)    ・故郷の鮭を生かし故郷に生きる

吉川哲鮏(てつしょう77歳)  真嗣(息子)  故郷の鮭を生かし故郷に生きる  
新潟県北部村上市 三面川(みおもてがわ)にサケが遡上してくる  
江戸時代の昔からこの鮭を使って100種類以上のさまざまな鮭料理を作ってきました 
吉川さんの家は江戸時代の寛永年間から米問屋等を営んできましたが 哲鮏さんの時代から鮭の家庭料理を商品化するようになりました
暮れや正月には欠かせないものになっています  
息子の真嗣さんは家業に励むかたわら、村上の街作りにも取り組んでいて現在では地域の発展の為に観光にも
力を入れています

村上の典型的な町屋作り 間口が狭くて奥行きが長い 
京の文化を受け継いで村上の街ができている (80m位の奥行きがある)
鮭は村上の人にとっては家族の一員 鮭と言わずに 「いよぼや」と言っている 
 いよ=魚と言う漢字を 音で無くて中国の言葉で呼んで 「いよ」になった
沖縄では「いう」  北九州 対馬 北陸では「いよ」と呼んでいる     
60cmぐらいの鮭が上がるがそれを「おおいよ」と呼ぶ
鮏 とこの地方では書いた  

今年は海水温が下がらなくなっていて 鮭の帰りが25日遅れていて、今ようやく来ている  
「だしの風」が吹いていると洗ってから干せない 
北西の風を待っている 最高気温が4~6℃ 空気が凛として 美味しく変わる 
空気中に含まれるマイナスイオンの数 だしの風が吹く時は 1cm3当たり マイナスイオン7~10粒  地吹雪きをするような北西の風に変わると、マイナスイオンが1cm3当たり20000個を越える  
平安時代までさかのぼる  5品目指定されていた  実際の文化は千年ある 
鮭の自然孵化増殖システム「種川の制」を考案し村上の鮭文化の礎を築きました 
約250年前、この「母川回帰性」を世界で最初に発見したのが村上藩士 『青砥武平次』(あおとぶへいじ) でした

回帰性を発見した祖先の人達に表敬の意味で腹切りはしない  
親父の自慢の味 仕上がりのプロポーションも親父の味の一部
(中央を止めて二つに分けて切れている)
すっと開く手間を100とすると わずか2cm止めるだけで倍の200の手間がかかる 味は同じ  仕上がりのプロポーションも味の一部と考えた物と思う
「切腹」を嫌う事と「首吊り」も嫌う 尾びれに紐を結んで頭をしたにする 
重心が下に来るため、背筋がピンとしてプロポーションが良くなる  プロポーションこだわる
小山内美奈子 女優が来たが 違った人種に有った様な気がしたと言っていた  
普通 こんにちは いい天気ですね と言うが  今年は鮭は帰ってくるかね
今年のいよはどうだろうねと 天気の話はしない  鮭とのつながりが深い

家庭の料理の種類としては60種類ぐらい  
最近の新しい調味料での料理法を含めると100種類以上になる
昭和30年代に入ったら学者さん達が故郷の味は非文化的な野蛮な食生活だとマスコミに報道した  (インスタントが全盛の時代)
がくしゃ(学者) 濁点を取った かくしゃ(覚者)に成りたいと思った   
塩引き鮭  荒巻鮭(戦前 塩を入れ荒むしろに巻いた) 
新巻鮭
戦後 冷凍技術が普及して 塩が中に通らないうちに塩をまぶした状態で凍結かけて 凍ると中に塩が中に入らないので その状態で保存、流通 最終の段階で解凍すると塩が浸み込む
 
塩引き鮭 
引く は2つある ①引き算の引く  ②加える 右左違うのをいう    
冠婚葬祭の料理が有って脇にお土産だ付く  引きもの 引きでもの
プラスされている  本膳を引き立たせるもの  だから「引きもの」という   
眉を引く  紅を引く  引き立たせるもの  
本来の鮭の味をより引き立たせるために塩を添える  これが塩引きの由来  
一匹一匹大きさとか質が違うので塩が浸透する時間が違うので一匹ずつ塩の調整が必要になる  
鮭が一生を終わって身を溶かす時に働くタンパク質分解酵素が 塩をすることによって身を溶かさないで、必須アミノ酸 9種類  旨味分のアミノ酸15種類に生れ変わる  
これが村上 塩引き鮭の特長です    新巻はただの塩浸けだよ との違い  
神生味(かむす)  
蛋白質がアミノ酸に替わる事を昔の人はこう呼んだ
(蛋白質がアミノ酸に替わるこの過程はまだ判明していない)

おかみさん 女将  神に御を付ける    
①和顔 いつもにこやかにほほ笑みを絶やさない  母 はは おおらかな笑い声 頬笑みを絶  やさないで子供をいつくしみ、育み育てる人  
②あいご  相手の立場に立って思いやれる言葉使い  
③さんたん ほめたたえる  素晴らしい旦那だとほめたたえる  謙遜して使う言葉が宿六 ④感謝 ありがとう  一切をありがとう  悪い事が起きてもそれをありがとうとプラスに受け止   める 新しい言い芽が出てくる   
「和顔 あいご 賛嘆 感謝」  これが  おおかみさまの天性

新潟 秋田 は 堆積平野の街  谷底に向けて吹き込む風足が速い  
酒田 鳥海山があるのでぶつかった風がビル風が起き 風足が速い
風足が速いと 蒸発熱がドンドン飛んでタンパク質が必須アミノ酸に変わらず ただのミイラになる ただ乾いた(トバという)  
村上の場合は発酵によって、アミノ酸に生まれ変える  
村上の独特の風で旨味が出る    
鮭の酒びたし 四季の村上独特なリズムで旨味が出てくる  
鮭は一夫一婦  雄の方が20%多い形で帰ってくる  
祖先の文化を次の世代に伝えたい   
「なすことの 一つ一つが楽しくて 命がけなり遊ぶ子供ら」  四国のお寺 
「なすことの 一つ一つが楽しくて 命がけなり鮭と遊ぶ」  「家事に遊ぶ」  「育児に遊ぶ」  「人生に遊ぶ」 

2012年12月9日日曜日

北井一夫(写真家67歳)     ・時代と向き合って半世紀

北井一夫(写真家67歳)   時代と向き合って半世紀
写真展 「北井一夫いつか見た風景」 が開かれている 
学生時代からの200点が展示されている
日本大学 写真学科を中退 写真集を自費出版 代表作 「村絵」では経済成長に伴って変化してゆく村の風景を克明に捉え多くの人をひきつけました
北井さんが写真家として大切にしていることは、どの位置で写真を取るのかはっきりとさせたうえで、今を捉えることだと言います

美術館での展示ははじめて  めぼしい写真を全部展示出来て良かったなあと思います 
私の写真はだれでもみている様な、普通の人が普通に生活しているのを
撮った写真なんですね  1枚1枚ゆっくり見てくれる人が多い 高齢の人が良く見てくれている  
高校2年ごろから絵の本を見るのが好きだった  
デッサンをやらずに抽象画を描いたりしていた  
絵の学校に行くにはデッサンが必要だった デッサンを今からやるのは時間が無いために、日本大学の写真学科を受験して、入学した 
反抗的な面が有ったため、基本的なことをかなり授業で教わる  
白衣を買わされる 温度計 現像液の計量カップを自分で持たないといけない 
単純な反抗 白衣を着なくなった  液温も指で、計量もいい加減
自分の肌に合わなくて 随分先生との言い合いが多くなって、学校に行かなくなった  
半年行っている間に3人、仲のいい生徒がいた(写真家の息子)
判らない事はその人達から聞いた   写真を止めようかなと思ったが、デモの写真を撮らないかと友人から言われて、面白そうだと思って、傷ついたフィルムで撮ってみようと考えて、撮って、良いなあと思った

横須賀のバー街も撮る(カラー) (1964年11月)  それらの写真を写真集にする事にした   
全部で当時65万円 親に半分 親戚2軒からも借りる
返却には16年経ってから返却しようと思って返しに行ったら、帰ってくるとは思わなくて、感動してくれて、写真の仕事の足しにしなさいと言ってくれた
三里塚の写真  ペンは剣よりも強い と言いますが 矢張り 検は強いんですよね (政治は)  写真は自由に撮りたい が 段々こう撮って欲しいと強くなっていて
これじゃあ自分は写真家に成れない  
政治の説明みたいな写真になりかねないと思い辞めようと思った
当時 成田市の三里塚 のどかな農村だった  農業の生活を中心にしながら、闘争も有りますみたいな写真を撮ってみたいと思った
私は戦う為に行ったのではなくて、写真を撮りに行ったのだと、そこを間違えないようにしなくてはいけないと思った

自分は皆の生活の写真を撮りたいんだと 闘争も撮りますと説得して理解して貰えた
写真を撮りに来る人は多かったが、聞かれるとあんまりはっきり答えないような人が多かった 自分の写真をドキュメンタリーと思っています 自分と対象の関係性を写真に表現する    
その頃は報道写真全盛の時代だった  望遠レンズで相手とは関係性なく撮っていた  
私は広角レンズ(25mm)で相手のリアリティーを引っ張り出す写真としてやりました
木村 伊兵衛さんに言われた言葉の影響が大きかった  
写真家は誰よりも一番弱い立場に自分を置かなくてはいけない  
弱い人の気持ちとかが判らない

頭でちゃんと気を付けて写真を撮るようにした方がいいですよと言われた  
写真を撮っていると、つい上から見下ろすような錯覚をしてしまう事がおおい
自分が見下ろすと写真が撮れなくなってしまう  
対等か、相手に対して謙虚に成らないと撮れない 見えなくなりますね
1970年の写真 塹壕の中 塹壕の光が浮かび上がっている 
女性が穏やかな表情で見つめている 大執行が行われる時に穴を掘って立てこもっている写真
自分も中に入って撮った写真 広角レンズで撮ってるので表情が判る写真になっている (穏やかな顔)
相手に対して批判的な写真は撮れない  
「村絵」シリーズ 1973年から撮影を始めた  1971年には三里塚を離れた 全国に置き換えて 農村の風景、人達を撮りたいと思って始めました
当時、写真は都市論と言われていた  撮ろうとも思ったが、なんかもわっとした人ごみで好きに成れなかった

三里塚に行った時にはほっとした 温かみを感じられて農村がいいかなと思った
やっぱりちゃんと説明する 第1回木村伊兵衛写真賞を受賞  自分にとって価値あるものだった その後、スランプに落ちいる  旨くなりすぎ、慣れ過ぎちゃった  
自分で案じてやらない方がいい と思った  全く違う事を撮影しようと思ったが、何をやったらいいか    判らなかった   
口では負けなかったが、攻撃的な事をいわれても反論できなくなった  
人との接触は無くなったが、写真は3倍ぐらい撮り続けた  
船橋市 在住だった 市長から新住民に対してどうしたらいいか判らないので なにかいいヒントみたいなのはありませんかね と言われた 

団地、新住民に対しての生活を撮ってみたいと思った  市役所のロビーで展覧会をやらして貰えるか聞いたら面白いと言う事になり4年間位やらしてもらった
「船橋ストーリー」が誕生  「出勤前」 これから出勤しようとしている家族の風景 緊張感のある写真  新住民の日常生活    村絵は理解して貰いやすかった  
団地はどこでも同じ形で撮りにくかった   
写真家は一番大事なものは其の写真家が生きた時代をどう盛り込むかと言う事だと思うですね
村絵をやってきた時は 根底に皆 貧しさが有ったと思う 農家の中はくらっぽくて 人の存在感 物の存在感が重い  うつむき加減気味にやると人の存在感がずしんと出てくる   
「船橋ストーリー」の頃は高度成長期のバブルに向かう頃ですね 
貧しさみたいなものが皆豊かに成って 団地なんかは明るく 真っ白  人とか物の存在感が軽いどう写真に表すかが難しい  頭ではわかるが写真には出てこない 
上向き加減にすると軽い存在感が出てくる  
80年代の表現 明るさ、軽さ  ドキュメンタリーを撮っていた写真家は皆行き詰った 
それほど時代が変化することは写真家にとって大変な事だった

写真をやってきたおかげで沢山の人の人生 いろんな物事を沢山見れた感じがする  
普通の人が生活して50年経つよりも2~3倍位多く生きた感じがする
大震災後2カ月 被災地の写真を撮ってて気付いたのは普通の写真を撮ろうとは思わなくなった見えてきたのが道とか電信柱が残っている
何にもないところに道とか そういうものをずーっと撮ってくような写真を撮ろうかなと思っている とにかく見続ける事だと思います
被災地何だけれども 普通の風景の写真になると良いかなと思っています 
それに元気に生活している子供達を写せると良いなと思います

2012年12月8日土曜日

末永國紀(同志社大学教授69歳) ・今こそ「三方よし」の精神を 

末永國紀(同志社大学教授69歳)  今こそ「三方よし」の精神を
近江商人の研究の第一人者  近江商人という一地方の商人が全国に飛躍して、いまも続く
大企業になっている例も少なくありません
近江商人の商哲学として有名な言葉が「売り手よし 買い手よし 世間よし」の三方よしの精神です 
末永さんはいまこそ三方よしの精神が求められている
総合商社 、伊藤忠 丸紅  日本生命 滋賀銀行 ワコール 西川産業  日本酒、醤油等の
醸造企業が近江商人の流れを汲んでいる 理由は不明
中世になると比叡山の荘園が沢山有ったところで 座の商人が栄えたところ 
 
中世は誰でも商売が出来たわけではなくて、許可された者だけが商売が出来ていた
特権的な商人が座と呼ばれた  座商業がもっとも盛んだったのが近江です  
戦国時代になると楽市楽座が日本で最初に発布されたのが近江で其れを政策を踏襲したのが織田信長 安土城下で楽市楽座令を出した 
そういう歴史的な伝統がある 商業活動に対する地理的条件 重要な街道が通っている
 
東海道 中山道 北国街道 琵琶湖を通して日本海に繋がっている  交通の要衝であった 
商業に対してプラス社会的基盤が有った
成功した近江の商人が本宅をずーっと近江に住んでいた 
近江商人は基本的には農民だった 
本宅を立派にする 蔵、家を数寄屋風に作る 
そした事が若い青年に大きな刺激になった  商業をめざす青年を刺激した
商売が出て行った先で成功した  経営理念が良かった それが「三方よし」だと思う
世間よしを含んでいるのが良かった 商売と言うものは世間全体を得意先にして商売を行うもの
だと言う 社会性に気付いていたのが良かった

「売り手よし」 従業員満足の事を言っていると思う  働く人の環境が良い 
販売の現場であれば、お客様をいかに楽しく良い環境で物を買って貰うかとそういう風になってくる、  そういうことは非常に大事だと思う   
お客は良い売買の記憶があって もう一度あの店で と言う事になる(良い循環)
「買い手よし」 顧客満足に成ってくる    近江商人の商売は他国商いで有った 
知恵も血縁もなかった処で自分のマーケットを作り上げて行かないといけなかった
どうしても自分の都合自分の儲けだけを考えていては地盤は築いていけない  
自分の稼いだものを全部持ち帰れば、長くは続かない 存在自体が有りがたい
地域の為に役に立つ「世間よし」でないと続かないと思っていたわけです  

今にも通じるような理念を持つことが出来たのは彼らの商売の有り方が他国での商売であった事です  
三方よしの原点になったのは 1754年に書かれた書き置き(遺言)中村治兵衛宗岸と言う人が書いた
仏教的な表現だが これが明治になって要訳され 「他国に行商する時には我がことのみと
思わず、その国の人一切の人を大切にして、私利を貪る事なかれ」というようになった  
それが太平洋戦争後に小倉栄一郎と言う人によって 「売り手よし 買い手よし 世間よし」 
と言う風な言葉になった

近江商人の商売の仕方は 行商と言われるが 持ち下り商い  
京都、大阪の完成品を地方に持っていって売る  (繊維製品 漢方薬 小物 )地方の物産を
持ちかえる (生糸、ベニバナ 麻布の原料とか) 
持ってゆくものと持ちかえるものが対応している  完成品と原料  
出店が出来ると 諸国産物回しに発展する  現在の商社活動の先取りといっていい   
(有望だと思われるところに出店を複数置いた)

信頼できる商人であると言う事が必要だった 家業の永続が大切だと考えた 
もっとも大事なのが「世間よし」の考え方  経営、商いは商売は社会全体の幸せに
繋がってこそ成り立つと言う考え方  自分の地域への貢献として 隠徳善事 (社会貢献)   
自分達はよそ者だという意識が強かったので 地元の商人とは
違うと言う事を心得るようにと従業員に得々と諭した 
実際飢饉になると米を安く提供したり  橋、道路建設 治山治水にも寄附をしている
昭和10年ごろにも 丸紅 専務だった古川鉄次郎 が 自分の還暦の記念に豊郷小学校を土地
、建物を含め寄付した  設計したのがウィリアム・メレル・ヴォーリズ(アメリカの建築者) 
以前は皆が知っている事だったのが知られなくなる(豊里小学校が平成10年に取り壊しの問題が発生したが古川鉄次郎の事は一切記事に出無かった)

陽徳→陰徳になる   商いと言うものは自分の事だけを考えていてはいけない 
地域の人達に有用な存在であることが必要だった
世間を相手にして商売は初めて成り立つ という考え方 
小野善助 80歳になったときに遺言を残す  「人間は人の情けが判らなければ、どこにいても
住みにくい だから自分は随分と人情に絡むように気を配っている
常に相手の身に良かれと心がけ、自分のおごりの為には 一銭も使わず、無限に有る水と
言えども無駄にしないほどに始末(質素倹約する) 
26歳から北陸東海地方の行商に従事して、ついに南部(岩手)に開店することができた」

西川甚五郎の家訓では、「品質をよく吟味した商品をできるだけ薄い口銭で売ること」と指示している。口銭とは、単なる手数料というよりも
利益全体を薄利で我慢することを要求している
初代中井源左衛門  「金持ちになるには、酒宴 遊興 おごり を禁じ 長寿を心掛け 
始末第一に商売に励むしかない  
一国の長者になるためには、何代にも渡って善人が続く事はなくてはならない 
自分が亡くなった後に善人の子孫が続く為には、「陰徳善事しながら祈るしかない」と 言っている
塚本定右衛門  「金持ちになるための一番大事なことは 勤検(倹約しながら一生懸命に働く事)正直であること それ以外にない 
片時も忘れてはいけないのは一つある 得意先の儲けを考える事である  
お得意の儲けをはかる心こそわが身の富を致す道なり」  
よっぽどしっかりした理念が無いと出来ない  自分の利益を遠くに見据える

二代目中井源左衛門  薄利広商 薄い利益を積み重ねれば、重なって大きな利益になる
 「商いで一番大事なことは 人を欺くような商品を取り扱わない事で、地道な商売を行う事 
そして 家業の永続を図るべきである  商家の本意は信用を重んじて内外の好評を得る事にこそある 
悪徳の当主が出た場合は強制隠居にしていい」 と 家訓の中に書かれている
実際に行われている
家業の永続が大事  そのためには陰徳善事(社会貢献)をしながら、良い子孫が続くように祈る、不幸にも悪徳当主が出た場合は排除してもいい (強制隠居)
善悪両面に備えながら家業の永続にはかった

矢尾治兵衛の遺言  、「勤勉を守り、貧人を憐れみ、家人を愛し、有功を賞し、天命を恐れ、
諫を聞き、祖先の恩を忘れず、養生を勤めて
子孫血脈の長久を祈るべし。古語の福禄寿を守りて、万善足るべし」
家業永続を願う多くの近江商人が陰徳善事に努めた。
彼らが商いに優れていたからではなく、陰徳善事を厭わないように
自利を遠くに見据える理念の下で、活動したからこそ、商いに成功したのである
日本は100年以上続く企業は 5万社以上 200年以上続く企業は世界の44%を占めている  
そういう国は世界に他にはない
 
カナダに調査で行く  日系のカナダ移民が多いと言う事を知ったことがきっかけ
なぜ滋賀県からカナダ移民が多いのか  カナダの自然の豊かさの情報をもたらされた
出稼ぎでカナダに渡る 近代になってからの広域指向としてカナダ移民が出たのではないか
どうやって定着したのか興味が有った 
最初は明治中期以降  明治29年に琵琶湖が大水であふれた 沿岸の農家 仏壇まで浸かった 
打撃からの回復の復興に一挙に沢山の人達が移民したと言われる
移民に対して抵抗が無かった国境を越えることに抵抗が無かった
1993年から調査に行った  シルクライナー 絹を扱う商社が滋賀県の移民の人によって作られた 
それを中心に調べた 昭和のはじめから活動開始して太平洋戦争中も活動 戦後にカナダの中西部を中心に18の店舗を持つほどに成長する 
現地の人を雇って、現地の人に販売すると言う風に定着した会社が存在した
それはまさに近江商人の出店と良く似ている  よその国に入りこんでいる 

現在の課題 と関係する  経済のグローバル化は避けられない 
地球規模な今日の問題も沢山出来ている
解決の糸口として 現在ではCSRが言われている  企業の社会的責任   
現在のCSRは従来と違う  今までは結果としての責任をすればよかったが
これからの企業は、企業の存在 活動そのものが世の為 人の為 社会の為になるものでないといけない 
そうしないと先ほど言った問題は解決出来ない と言う事がある 
CSRと言うものは単に経済的な利益を実現するだけではなくて、社会的な価値を実現してゆく 
様な企業でないといけない 
  
存在そのものがその人々の為になると言う事が必要  他と競争しないような利益を得る事が
出来る 良い人材を集める事が出来る
企業が社会の中で活動できるんだと言う事  別に横文字である必要はない 
 三方よしは(CSRと) 底通する
近江商人の求めたものは やっぱり今でも企業経営に必要な根本的な問題を含んでいると思う  
むしろこれからもっと必要になるだろうと言う事です
企業の不祥事 増加している  企業経営の倫理観の欠如が問われている  三方よし
おごり 不正直(誤魔化す)が原因になっている 短期的な利益を求める  
自分一個の利益を求めやすい 
世の中あっての商売だと考えたら、そういうことはできないと思う 中々重い課題だと思う 
 「世間よし」を考えない企業には明日はないと思います

2012年12月7日金曜日

新井英一(シンガーソングライター)    ・魂を込めて歌い続ける

新井英一(シンガーソングライター)         魂を込めて歌い続ける  
1950年 父親は韓国人 母親は日本人(母)と韓国人(父)との間に生まれる  
いじめや差別の中で荒れた少年時代を経て神戸、岩国のアメリカ軍キャンプで働いていた時
ジャズやブルースと出会いました  
21歳の時にアメリカに渡り、帰国した後、渋谷で弾き語りを始めました  
その後その評判を聞いた内田裕也氏に見いだされ、29歳でメジャーデビューします  
中でもチョンハーの道と言う歌は民放報道番組のエンドテーマになり レコード大賞のアルバム大賞を受賞しました  
新井さんはこの10年はライブ活動が中心でファンの紹介で始めたお寺でのライブは毎年年間10回になります
8年ぶりのアルバム歌魂(うただま)を発表 歌はオリジナルばかりで11曲 東北への思い、還暦を迎えた思い、お母さんへの追憶等 62歳のシンガーの率直な思いが、このアルバムには込められています   『清河(チョンハー)への道~48番』  

7歳の時に小学校に入学 夢を言いなさいと先生から言われて、私はすかさず歌手ですと答えた  高田浩吉 春日八郎とかの歌を歌っていた
子供のころは日本人だと思っていた  
母親は廃品回収業をやっていた 
盗品の売買に係わり その人が捕まり、1年間刑務所に行った 
その時に新聞に載り、母親が韓国人の血を引いていることを知る   
今まで友達だったのが付き合わなくなったし、先生も対応が違ってきた  
そこら辺りから人間が暗くなってきた  
石を投げられてり、畑に連れていかれて5,6人から暴力を働かれた

俺もやってもいいかなと思って、1対1でやろうと言って 一人一人とやって、やっつけた
誰も文句を言うような人はいなくなって、中学2年で番長になって3年まで番長だった  
しかし下の者には暴力は振るわなかった(自分がやられた事があるので)
2年の時が一番悪かった  
3年になったときに他の学校からも来て学校同士のけんかをしたりしていたが、馬鹿らしくなってこのまま行ったら変な世界に入ってしまうような、気がして断ち切ろうと3年の2学期に辞めて博多から神戸に行った(本当は東京に行きたかったが)   
3000円を手にして家出をした
 
仕事を探そうと歩きまわった  喫茶店の住み込みを求めたが、キッチン募集が有った 
家出したんだろうと見抜かれた 
店主も北海道から家出してきたからお前の気持ち判ると 皿洗いと言う事で雇ってくれた
(1964年の時) 
半年働いて一度博多に帰る 皆が子供っぽく見えた 
もう博多には帰れないと思った  
姉が岩国にいたので、岩国に行く事にした(この頃からアメリカには行きたいと思っていた)  
基地のゲートの前の外人バーで働いた(ベトネム戦争のまっ盛りだった)
英語も少しずつ覚える 
シャワーのように当時聞いた音楽が今のオリジナルの中にポツンポツンと入っている

パスポートをつくってくれなかった (日本に住んでいるけれども韓国籍なので) 
領事館の人と喧嘩をして、2~3年 行かれないので鬱屈していた
21歳の時に パスポートを取る事が出来た  
姉がアメリカの兵隊と結婚してロスにいた  
姉の処に行くと言う理由で初めてパスポートを作ってくれた
1回目はロスに行って 姉のところにちょっと寄ってからサンフランシスコにヒッチハイクでいった
 期限ぎりぎりで一旦帰国する
又日本でお金を貯めてアメリカに24歳で行き(ロス)車を購入して、ニューヨークに行く、1年間働きながら ギターを購入して、音楽を聴きながら過ごす

ギターを携えて日本に帰国する こんどこそ歌手になろうと思った  
ギターは自分で覚えた 25歳 で東京に行く 
住む処、仕事を先ず探す 六本木クレージーホースに行く
英語が喋れるのでこれが役に立った 店長も喜んでくれた 
会長が女性で従業員の面接をすることになる  次の店長はあなただねと言われた
やばいと思った 歌手になるために来たので3か月で辞める 
渋谷丸山町に小さなアパートを借りて弾き語りの仕事を探した 
ようやく歌の道に進むことになる

渋谷の道玄坂で弾き語りを始めて30歳で芽が出なかったら、家族を連れてアメリカに行こうと思っていたら、3年目に(29歳)内田裕也さんが歌を聴きに来た
九州在住で仕事をすることになる 帰って2年後に母親が亡くなった  
新たに家族を連れて東京に戻った  昼間はとび職 夜は歌の世界(弾き語り)で仕事をする
夜はライブだけにしようとした(自分で営業した)  
チョンハー 父親が生れた土地の名前  
日本の国籍を取ることにしたが、父親の生れた土地に行ってみたいと思った(36歳)
チョンハーに一人で行った 歌にしようと思って帰ってきた 
その4年後にこの歌を作った(40歳) 「チョンハーへの道」
父親の故郷の村に行ってきて、自信がついた  俺のルーツはここに有るのか    
歌手活動の中心はライブ 4人でこなしている 
お寺でのライブ  年に10回程度こなす  
80~100人ぐらいいないと成り立たないので、場所はどこでもいいと人さえ集まればいいと言った 
お寺でも良いかと言われたので良いと答えた 
お寺での繋がりも有り紹介されていろいろなお寺でやる様になった
大震災を見た時の光景をみて歌を作った   
「歌魂」 60歳を過ぎてようやく歌を歌うことはどういう事なのか 歌手と言うのはどういう使命なのか、日本と言う国の中で自分は歌手として どんな歌を歌って、告げてゆくべきか と言うのが凄く自分で自分の問いかけになりましたから、僕はやっぱり歌手と言うのは歌で人に与えられるもの それが元気であったり、癒しであったり 人間て泣きたい人もいる 思いっきり 音楽を聴いて泣いて貰って、スカッとした気持ちで又生きて行こうよと 一回吐き出したらいい
元気にもなってほしい  
生きるために役に立つ歌を作っていき、 歌える限り自分の声で歌って行きたい 
年を取ると声が衰えるが、衰えたなりに説得力で歌いたい

2012年12月6日木曜日

森下洋子(バレリーナ)       ・時代を作った女たち


森下洋子(バレリーナ)         時代を作った女たち
3歳でバレーと出会う  S46年松山バレー団に入団、1974年にはブルガリアで開かれたヴァルナ国際バレーコンクールで金賞を受賞  世界のプリマとして世界で注目される様になりました  
以来日本人としてただ一人ローレンスオリベエ賞を受賞するなど世界の舞台で活躍しています  

全身のいろんな筋肉を訓練している  
毎日毎日を新鮮に1年生のように稽古して行かないといけないかなあと思います
毎回違う 嫌いではないので絶対にない 又完璧と言う事もない  
絶対に今日はああしてみよう 明日はこうやってみようと とかいつも何時も新鮮でいることが 人間として凄く大切な心を磨く事が やっぱり大切かなと思うと同時に、人間として生まれてきて、死に至るまでに矢張り魂を磨く事が大切  
そのために生れてきているんだなあと思います  

皆魂を磨いて人に対してありがとうと言う言葉が素直にすぐ出るような人間でなくてはいけないと思うんですが、人間完璧ではないので神様とは違うので それでもいつも何時も思って生きることが そしてなんでもよい事をおもったり、一つの事をプラスに考える事が 、随分変わってくると思う その人の人生に  だから前向きに今日は旨く行かなかったかもしれないけれども 明日は旨く行くかもしれないと思う  
私は不器用で新しいものをやると出来ないのだけれど、家で繰り返しやっているうちに出来るようになる 親が拍手をしてくれて励ましてくれた
やっていけば出来るんだと思うようになった (何で出来ないのとは親は一切言わなかった)
今日一日 を大切にして、一日一日の積み重ねしかない そうしたらこうなっていた
とにかくバレーを続けたいし、毎日練習もしたいし、ああよかったと思う  
私が生きていること自体がバレーだと思っている
作品を作る時は皆がベクトルを合わせて共有していかないと出来ない  
一人のスターがいれば周りはどうでもいいと言う事ではなくて
暖かい空気を皆さんに差し上げたらいいと思い一緒にやっている
3か月ぐらいヨーロッパとアメリカを言って ヨーロッパの舞台を見たりして、素晴らしいが自分にずしんと胸に来ることが無くて、日本に帰ってきて、松山先生の舞台を、みた時(「白盲女」)に鳥肌が立つ感動を覚えて、松山先生に教えてらいたいと思った
 
中身が人間としての大きさとか温かさとか存在感に圧倒された 「白盲女」(中国) 松山先生が映画を見られて1955年にバレーを新たな演出で作った
人間としての本質 弱者、や苦しんでいる人達が一緒に立ちあがって 素晴らしい国を作る、素晴らしいものを作ると言う事は私達とのバレーでもおんなじなんですよね  
それは本質の本質であって、たまたまアジアの物語であったけれども、人間として、人として弱者や皆で力を合わせて 素晴らしい生きざまを皆に世界中に知らせる
皆が手を繋ぎ 世界平和いろんなことで祈りを込めて作った作品なので みなさんは感じてくれると思う
バレーは優雅なロマンチックなものと思うが、そこには人間がどう生きるかとか世の中どうあるべきか人と人のつながり、どれだけ思いやりを持ったりすることが、大切なんじゃないですか 
舞台から皆さんに一緒に祈りましょう、一緒に手を繋いでやって行きましょうと 本当の本質ですよねそれが そして美しさ もなくてはいけない 
そして夢みたいなものがあれば    夢もなくてはいけない そして夢みたいなものがあれば 心の洗濯機ですと言われる  
   
少女の頃から天才といわれていたが  世界で評価を高めたのが1974年のコンクール  
芸術とは点数を付けるものではないと思っていたが 初めて参加した
金賞を受賞して世界に羽ばたくきっかけになった   
ヴァルナ国際バレーコンクールでは金賞をそれまでロシアが取っていた
日本人でもバレーを出来るんだと言う事を日本の人を含めて判ってくれたのが嬉しかった  
日本の繊細で秘めた強さ を外国の人は感じたようだ
細やかさ 相手を思う気持ち ・・・日本人の心の部分が踊りの中に自然に出てくる 
海外のバレー団への所属は一回も考えなかった 純国産です  
バレー一筋の人生  でも本当に幸せです 子供のころは身体が弱かったので運動をするようにいわれて、幼稚園でバレーの教室が始まって、バレーを始める

身体も元気になって、小学校の頃東京のバレーだんが来ていてそれを見て東京に行きたいと思った
広島では先生から、本気でビシビシと叩かれながら怒られて、その事が、しっかり子供と向き合わなければいけない事を教えられた
バレーの技術を教えられたという記憶よりも、人間としての、強さ、暖かさ、思いやり、感謝等がいかに人として大切かを教えられた
東京へは休みになると一人で12時間電車に乗って、出掛けた (小学校2~5年生まで)  
5年の時に両親に東京に行きたいとお願いした(電報で着いた事を知らせる)
私達の知らない世界なので お金はだすけれども、口は出さないと言われた  
これは有り難かった (両親の勇気が有り難かった)
バレーが好きでそれしかなかった   祖母は被爆して半身がやられる 

祖母の明るさ プラスになんでも考える明るさと強さ 命の生きていられることに対する感謝
喜びをまざまざと見せてくれた祖母だった  
祖母と一緒にいて、祖母の強さを教えて貰った事が非常に影響が有ったと思う
後遺症が有ったと思うがそのことは一言も言わなかった  
自分の人生に凄く影響を与えてくれたと思う  
祖母がバレーを何回かみてくれて涙を流してくれた
平和への思いを込めて踊っている  バレー人生の中で大きなターニングポイントになったのは あなた何のために踊っているの?といわれた時に 一瞬好きだからと、思ったんだけれど、人々の幸せの為とか、勇気を与えられたらとか、世界皆が平和に成って、幸せに仲良く手を繋ぎあえるようなものを出すのが私達の仕事 そうなんだなと 清水哲太郎さんからぼそっと言われた事に対する思いでした   これが一番のターニングポイントでした

清水哲太郎さんと結婚する  所謂パートナーではなくまさに戦友だと思う   
作品、等を作っているので一日中考えている
普通の夫婦とは違っていると思う 私達はそれがベストだと思っている  
大震災 で 世界の皆さんが温かい援助や応援をして下さったので 芸術を通してもっともっと人々が幸せを願う事、 それを強く感じた
いまも苦しんでいる人が沢山いると思うが皆で助け合って やっていけたらいいなとおもうし、私達は舞台上から、もっともっと強く出して皆さんに勇気や希望を与えれればいいなと思います