2013年1月7日月曜日

横山秀夫(作家55歳)      ・再始動警察小説の旗手 2



横山秀夫(作家55歳)     再始動警察小説の旗手
少年時代 東京  活発、運動神経抜群だったがクラスの人間からはうとまれていた  
どこの家に遊びに行っても 後でと母親から言われていた  
遊び友達も居ないために、図書館で本を借りて読むようになった  
本が余りにも面白かったのでキズがつかなかった様だ
兎に角図書館に有った本は手当たり次第読んだ   
小学校時代からノートに書いて、友達に読んでほしいと言ったりしていた
中学、高校は体育会系の方に行ってしまった (陸上、サッカー 大学は空手)  
中学の時には文学全集など父親が持っていた本を読破した
書くことは得意だという意識はあった 
 
週刊誌の論文募集があって、4本出したが、4本当選した
TVニュースは見るようにした 書く事イコール新聞記者の様段々に思っていた  
上毛新聞を受けて受かることが出来た
地域に根差した新聞だった  本の内容として地方の県警が舞台に成っている  
地方を舞台にした方が書きやすいと言う事もあるが、地方から見た東京と言うのはあまり書く気がしなかった  
群馬県で仕事をする 青春時代を過ごした(親の庇護の下での、青春時代と自分で稼いで  
過した青春時代の方が 吸収しやすい 第二の青春時代) 方に愛着を感じる

事件記者 現場に行く仕事  自分の時間等は中々取れない時代だった 
夜、家に帰らないような生活を365日やっていた
ミステリー作家 自分にとって記者が合う、合わないと言うよりもジャーナリズムに対する絶望感とか、敗北感、そういったものが辞めてから思う
広い深い川を渡って、ノンフィクションからフィクションに移ったつもりだった  
だから人との職業を全うできなかった 記者を12年で辞めてしまった、と言う事にたいする負い目、敗北感を強く持っているのでノンフィクションに負けない強い気持ちがありますね
 
組織と個人を描き続けると言うのも 組織人としての12年間と組織を辞めての 7年間のそこでの思いが組織と個人を描き続けるエネルギーに成っていると思う
テーマとして書きつくせないのか? 今の自分が組織に居て 今の自分はかりそめの姿だと 
本当の自分はそうではなくて、もっとこんなことが、思っているんだ 言えるんだ やれるんだ 
と言う様な事はわたしなども持ったことですけれども かりそめの姿で 違う場所が自分にとってあるんだという そういう幻想というのが 会社を辞めて7年間で無くなったという 組織の中でいろんな自分が喋ることも やることもすべて兎に角丸ごと、自分自身そのものだと そういう事を前提に貴方はないをやるのかと私はなにをやるのかという事を私は書きたい
 
組織と個人とから離れられない  外的ないろいろな要因が有るからに逃げ場が用意できる 
逃げ場を全部小説の中で潰してしまって、 お追徴してしまった 
情けなく頭を下げている自分 すべて自分なんだよと いう事を認めたうえで 矜持のかけらを掴んで何かの人らしさを見せてくれ そういったことを書いてみたいと思っている  
外的要因を馬鹿にしてあまり重要視していないで 内面から起こることを人間は信じようとするが、外的要因によってその人間がどういう風に思うか、どういう風に行動するか と言うのは
実は非常に人間の本質を表していると思っている
 
だけど逃げ言葉で、何かこの瞬間は自分ではないと言うような仮説の建て方が好きではないので、そこは丸ごとすべて自分だと言う風に認めたうえで貴方は何をするのかという風なことを書きたい  厳しいが  
主人公には逃げ場が無いようにつくって、そこからどうするのと 話を描きたい
過去、風化と言われるが、自分の周りでざわざわしてるぞ、と 過去とはそういうものだぞと言う風に 過去イコール現在とまでは言わないが  今と全く直結していると思っている 
事件とか大きな出来事に付随して自分の記憶がまざまざと鮮明に起こることを考えると 
本当にちょっと離れて置いてあるだけで過去は近い、身近なものだと思っている

事実を掴んだと思った瞬間に 自分が取材している、その前で事実がするりと抜けてゆくような その様な感覚がずーっと続いていて だから 後輩たちと話をしていて、 間違っても事実を掴んだとは思わない方がいいよと、良くいう 相手にとっては次の時間が始まっていて   
そういうのをひっくるめて事実と言うわけですから、どっかを切ったことによって事実が真実に成りうるわけがない
人間は誰かに相対した時には必ず演技をしている  
だからこそその瞬間を事実と、とらえたからと言って、真実とは思わない方がいい
「ルパンの消息」 15年してから出版された  舞台に成っている昭和50年  平成2年というバブルがはじける前の空気感が あの時代はこうだったんだと
フィクションは描ける (可能性としてある)  悩みながら描いた小説   
佳作であったが、残念に思う

作家に成って14年 そのうちに7年は休んでいたのかと思うと 7年間は充電ではなく 
放電していたと思う
書きながらでないと頭に浮かんでこないので 次に何をやるかはこれから書きながら考えてゆきたい
現在の社会環境は閉そく感が有るが?  
情報としては捉えて書く気持ちはない 自然にその様な状況は取り込まれてゆくと思う

2013年1月6日日曜日

横山秀夫(作家55歳)      ・再始動警察小説の旗手



横山秀夫(作家55歳)  ・再始動警察小説の旗手  
1957年生れ 大学卒業後上毛新聞社に12年間勤める  
1998年「影の季節」で第5回松本清張賞を受賞 作家としてデビュー 警察を舞台にした
数々の小説でベストセラーを出し続けます 2005年「震度ゼロ」を発表以降心身の不調のため 7年間新刊を出せなくなりました
昨年の秋、久しぶりに刊行された警察小説「64」は執筆してから10年以上の時を経てから
書店に並ぶことが出来ました
「64」刊行までの長かった道のり、執筆中の思いをお聞きします

7年ぶりなのでデビューの時より緊張した 自分で送り出した本がどの程度戦ってくれるのか 
もう祈るような気持ちですね
ミステリーの好きな人達が今年一番面白かったミステリー本 文春図書館ミステリー 1位  
このミステリーが面白い で 1位 と2冠を取る
自分としては最良の自信作として出したつもりだが、読者がどう判断するかは解らなかった
書けないこと 自分に対する恐怖 驚き、失望 とかが先に立ってしまった様な時期が有った
一言でいうと 思ったものに成らない  作家としては書けないと言うのは 零点ですから、
 毎日零点を自分に付けてゆくのは辛かったですね
あせりますね、しかも 本を最後にだしてから2年経ち、3年経ち、 年月が過ぎれば過ぎるほど 自分のあせりも溜まるし 
読者も3年も4年も待ったのだから確かなものが出て来るだろうと、
期待値が上がっているだろうという推測なども自分に跳ね返ってきて、それが4年5年となって 全く見えなくなってしまった

きっかけというのは 具体的なものではなかった  庭で草むしりなどをしながら、ふっとそうだったのかというような瞬間が有って パソコンにむかって
叩いたりしたが、それでうまく書けたわけではないが、なにか気付いた事が有ったりして、日を追って そうだったのか こうすればよかったのか
と言う様な事が多くなってきて、部屋に閉じこもる様になってきた  
何がきっかけなのかは解らないが、時間が解決してくれたのかなあという風にも思っている
最初睡眠時間4時間で 間に合わなくなって、3時間半 3時間と削っていった  
マンションを借りて、1年の内10数日しか家に帰らない状況が有った
身体の方が参ってしまったが、ただ気持ちが折れることはなかった  
その後もやる気満々だった 

「64」でポキっと言うような感じだった  どういう風に手直し、したらいいのかが、全く出来なくなってしまった
10年以上時間を掛けてしまった  昭和64年に発生した未解決の少女誘拐事件の事を指す
、県警のなかでのふちょうがロクヨン 
刑事以外の警察官を主人公に警察内部の事を書く手法   この手法のパイオニア
組織とその中で生きる個人 と言う事をずーっとテーマにしている   
組織の中に居た時には解らない組織と言う者が有ること 組織から離れて解った
フリーとなったときに そのことも幻想だったとの思いがしてきて、組織に属していようが居まいが 
出版業界とのしきたり、しがらみの中で自分は立ち振る舞いをするわけですし、
日本社会、日本というものが一つの大きな組織体なので その中から完全に自由だと言う事があり得ないのだという事がデビューから    7年間で身にしみたので  おそらくその辺りから
「影の季節」の組織の中のいざこざの嵐を事件と見立てるみたいな発想に繋がっていったと思います  
「影の季節」は42歳 「ルパンの消息」は34歳の時で新聞記者として仕事をしながら書いていた  社内では爆発的に驚かれた
当時書くのが楽しくて楽しくてしょうがなかった  
会社に本を書いていたことがばれてしまって 筋が通らないと思って会社を辞めてしまった
佳作止まりで 会社を辞めてしまった 結婚もして子供が二人いたので 厳しかった アルバイトで少年漫画の原作を担当していた

自分の持ち場がどこにあるかって、自分では決められないし、自分ではわからないのかもしれない と言う風に感じたりして、組織と個人を書いた
部分が好きという多くの読者は重なる、共感できるものだと思う
人の誇り(誇りはどんどん削られてゆくもの それが当たり前だが だがかけらだけは持つ それは掴んでおけよ)、矜持 
書いているうちに出て来るものが文章としても言葉としても本物だと思う   世に出るまで大変な作業だと思う

2013年1月5日土曜日

梶原千沙都(ヘルマンハープ奏者)   ・音楽のバリアフリーをめざして


梶原千沙都(ヘルマンハープ奏者・52歳)      音楽のバリアフリーをめざして
夫の転勤の為ヨーロッパーで暮らすうちにある楽器に出会いました ヘルマン・ハープと言う楽器でした  簡単にメロディーを引く事が出来る楽器
小さな竪琴のような楽器 板の上に縦に弦が張ってあって 弦と板の間に譜面を指し込みます 弦の下に譜面が見えます
譜面はヘルマンハープ専用のもので上から下に丸い印が書かれています  
それを目で追いながら調度印の上にある弦を順番にはじいてゆくと誰でもメロディーが奏でられます
1987年にドイツで生まれたこの楽器の誕生にはダウン症の子供と父親の愛の物語が有りましたこの障害者と健常者が一緒に弾けるバリアフリーの楽器に魅せられた梶原さんは帰国後日本ヘルマンハープ協会を設立 理事長を務めています  
兵庫県西の宮市を中心にヘルマンハープの普及に努めています

ヘルマンハープはゆったりした曲に向いている  
グランドピアノのふたのような格好をしている、縦64cm、横34cm の大きさ 3オクターブ音域がある、2オクターブのものもあるが、2オクターブの物が多く使用されている
弦と本体との間に紙が入っていて、楽譜になっている 
楽譜があるが五線譜とは全然違う 
黒い印は右手の指、白い印は左手の指で弾くようになっていて、比較的簡単に弾ける

2003年にドイツで介護福祉メッセ展示会で、思いがけなくヘルマンハープを見かけて、楽器を紹介してもらった       
介護用品に興味を持っていたので出掛けた
ドイツ中に介護福祉の素晴らしい店が小さな村にも有る  良くそういう店に出入りしていた
日本にない考え方が有って吃驚した(日本ではまだ、介護の問題が話題にならない時代)  
娘が脳腫瘍をしたりして、身うちに困難が一遍に訪れたりして、強度の鬱になったりして、祖父の介護など大変な時期だった
2003年暮れに日本に帰任することになり、荷物にハープを買って帰ろうと思った  
良い楽器だなあと思ったが、その時はまだ工芸品なのか、おもちゃなのか
位置付けがはっきりしない領域だった 
 
ヘルマンハープの演奏会が有るので行かないかとの話が有り 、見せて貰った  
障害者、健常者年寄から若者まで演奏していて、流れて来る音の美しさに声が出ないほど感動した  
この楽器はダウン症の息子さんの為に、ヘルマン・フェーさんが作った楽器だったのを知り改めて感動した  
まるでヘルマンハープが人々の垣根を取り払っているかのような光景でした  
これが日本にあれば人生が変わる人が沢山いるのではないかと思った
日本での普及を御願いしたいと思いを、決定付けた瞬間だった   
ヘルマンハープの楽器の質の高さも有ると思います  
音楽家、アマチュア、障害者でも、共に演奏する自尊心をちゃんと保ち高めることが出来る そういう楽器だと思います
 
ヘルマンハープの元 チターの一種でガイドシートを中に挟んでやる楽器が有った 
それに出会うが、簡単に弾けると言うものであったが、健常者でも弾くのが難しかったアコードチター と言う楽器を使ってその中に楽譜を通す、その楽譜のシステムが先に出来たんです   
メロディーを弾く事も出来た  知的障害者も弾ける 
台に置いて居たチターを縦にして 弦の間隔も広げたその様に開発した(へルマン・フェーさんが) ヘルマンさんは農場主だったが、発明の才能が有る人だった 
いろんな方が来られるようになり 楽器を欲しいと言う事に成り、楽器を分けて増えて行った  
日本での普及の手法を聞いて 最初は障害者の施設等を訪れた  
当時の環境は障害者への予算が楽器に対して投じることはまだなかった

シニアの人が興味を抱いてくれた 教室だけでは駄目なので、自分自身も演奏活動する中で 段々3000人位の人がヘルマン・ハープを持っていただいた
ダウン症の組織とは連携を取ってほしいとヘルマンさんからは言われた  
社会的弱者に普及して欲しいと言われた  
日本では健常者にも受け入れられ、社会的にも認知される様になった  
いろんな助成金、企業とかにも使われて広がって来ることが出来て良い環境が整ってきた  
教える方法  私は音楽は子供のころはピアノを習っていたが、音大の声楽家にとの希望が有ったが叶わなかった ドイツでは公式合唱団に入ってドイツの方々とステージを一緒にやる様になった 
 
奏法は、真正面からヘルマンハープと取り組むようになって、バリアーフリーの楽器の性能 特長を自分から探し出す 、そこから弾き方の規則性を発見することが出来た  
去年ヘルマンハープの奏法の本を出版した  1500名の方が使っている  
弾き方に一貫性が出来た  より熱心に、シニアのかたの学習意欲が高い 
ボランティア演奏に出掛けたりしている
ドイツで一昨年 奏法セミナーを教えてきた ドイツ中から教えを乞いにきた  
今年でヘルマンハープに出会って10年に成る  記念コンサートをする (ヘルマンさん親子を招いて)
昨年30名のグループを率いてドイツに演奏に行った(ヘルマン・ハープ誕生25周年)  
良い交流に成ったなと思う 
ヘルマンさんの家のなやで300席位で演奏した(ドイツのグループと共に演奏する)

日本人の演奏を楽しみにしていてくれた  
東日本大震災の義援金も草の根的な交流が実を結んで、愛好家の方から70万円頂いた   
いわき市にいって子供達のために行ったが、避難していて居なくて 大人の方に聞いて頂いた 元々音楽ホール様に作られたものではなく、家で綺麗に聞こえる音として開発されたものです 
ヘルマン・ハープを普及させて、音楽のバリアフリーをめざしたい 
ヘルマンハープは障害者と健常者を結び付ける力が有ると思います  
又ヘルマンハープの音は本当にいろんな人に感動をもたらすことが出来、質の高い楽器だと思います      社会性と芸術性の両方を求める両方の声が有る 
その声が両輪となり相乗効果をもたらしてくれている  
社会的に良い意味をもった楽器なので普及を目指していきたい  
間口が広くて誰でも弾けるが ソロで弾くと奥行きが深い楽器だと思います

ヘルマンハープの楽器に出会って本当に良かったと思う  
ヘルマンさん一家から楽器を任されるにあたって、人間的な成熟がとっても大事なんだよと
この楽器を任せる人は と言われました
普及当初は構えみたいなものが有ったが、大きく構えたような気持ちは無くなって、自分の出来る方向にやってゆくと言う使命感です

2013年1月4日金曜日

三浦雄一郎(80歳)       ・エベレスト登頂3回目をめざして 2

三浦雄一郎(80歳) エベレスト登頂3回目をめざして
父が100歳でもこんな事が出来るんだと 60歳でへたばってたのが、奮起の材料に成って、奮起、目標をエベレストにおいて それから先ず健康をを取り戻す
 もしあの時にエベレストが無かったら、ぶらぶらして、やれゴルフ、スキーだとか 温泉だという程度
だったらへたばっていたと思う
人間て有る程度チャレンジする幾つに成っても目標を持ってチャレンジすると云う事が生涯現役 
という 気持ちが年を越えた若さ体力をキープ出来る
気力と行動が新たな酵素を生み出してゆく   
若い頃でもサボっていればどんどん置いて置かれるし、体力も落ちて来る まして高齢になって
さぼると老化のスピードはもっと早くなる 
 
ある意味では幾つに成ってもチャレンジ精神、挑戦する気持ち、 健康も現状維持ではないと思う
挑戦してもっと強くなろうと思う事で健康は逆にキープ出来るし、現状維持ということは年と共に
落ちている
健康というのはチャレンジだと思わなければいけない
年を取ると、怪我骨折したりして、免疫力も落ちて来るので病気に成り易い  
病気も何もしない年寄はほとんどいない
病気に成っても体力を鍛えておけば回復も早いし、私のように再起不能と言われるような大腿部、骨折、骨盤骨折しても足に重りを付けてザックに重りを付けて歩いたり 山を登ったり、
スキーをしたりもう一回エベレストに登りたいという気持ちが 回復を早める

日常の訓練の仕方で変わって来る  回復も目標が有ると手術前より良くなる願望が有るので
1月は札幌のスキー場で日に 100km位滑っている かなりなスピードとターンに負荷が掛るので 
2月まではやる予定、1回 日本なのか、海外なのか 3000m、4000m級の山かスキー場にいって鍛えて、本番を迎えたいと思います  3月27日本体出発となっています
山頂アタックは5月15日前後にやる予定です 春が挑戦しやすい 5月下旬から6月 
モンスーンが来る(梅雨と台風がくる 天気が荒れる 雨雪が多い)
それが終わるのが10月  それからは日が短くなって寒くなる 
  
2008年 チベットルートから登る予定だったが入国禁止になった(北京オリンピックで聖火通過のため)
3度目もチベットルートは駄目だろうと思っている(尖閣問題等)  
壕太(次男)と共に行く予定  若手の登山家2人 合計日本人は4人サポートしてくれるシェルパーは10人ぐらい  グループとしては小さい方の部類  
植村さんのころはグループとしては日本人が50人ぐらい
チームを組んだシェルパーは100人位だった 
  
大城和恵先生  国際山岳医 スイスで取った人 でこの方も一緒にベースキャンプまで来ていただ
く事に成っている
山岳ドクターの組織もできてアクシデント、事故に対処するようになった
田部井 淳子さんは 若い登山家の標準タイムがあるが 60歳代になったら 2時間だったら4時間にしなさい 倍に時間を取りなさいと言っている
中高年の遭難は標準タイムを目標にしてやる場合がおおく、無理してしまう事が多いと思う 
中高年用のガイドブックが必要ともう
ゆっくり歩ける、ゆっくり眠れる、時間が豊かに取れる  (昼にはテントで休息する)  
工程を半分にすると 楽に登ることが出来る 夕方にテントに来るようであれば休息も厳しくなる

4000m以上は次元が違う シェルパーはゆっくり歩いていても、我々は走ってゆくような状況である
屋久島 縄文杉の工程で 朝四時でて 8時ごろに帰って来る工程を60歳、70歳の人が行っているが、よく遭難しないで帰って来ると思った
ヨーロッパの連中は遊牧狩猟民族何ですね  普段食べているもの チーズ、ソーセージを山で食べているもの そのままでいい
肉食、乳製品 体温を上げるし、カロリーも高い  ヨーロッパの登山家は強い 
子供のころから3000m、4000mの山に登っている

日常生活で日記を付けている  遠征すると何故かノートを2冊 3冊 もって遠征記録を付けている(若い頃からずーっとつけている)
万一の事が有れば遺書にもなるし、内容は普段の出来ごと等その時感じた想いを表現している
1976年アカデミー賞長編記録部門 オスカー賞  日記が元に成っている   
本になると同時に映画にもなった
ジミーカーター氏にお会いした時に 冷戦の最悪の時期  エベレストを滑った映画を大統領がみて
すっきりしたと 気分転換をしたと言われた
エベレストを滑ったのは37歳  70歳の時に不整脈で死にそうになった時に 4300mの医療施設
で診療を受けて、エベレストを滑った人間なら大丈夫だと医者が言ってくれた
軽い不整脈があったが、頂上まで到達することが出来た 普通の医者であれば辞めなさいと
言われたと思う

其の医者はエベレストの映画を10回ほど見たと言っていた
医者に暗示を掛けられたが、暗示にかけられる力が大きい
蔵書 山の本からなにからなにまで多く持っている 山に持って行った本 「アフリカの王」伊集院静香 の本を読んで凄く勇気付けられた
究極のアンチエージング 大げさにいえば日本民族にとって、日本国家にとって年を取って病気しない、だけでも国家に対する貢献だと思っている

たとえば 70歳以上の医療費が3兆円以上になっているが、もしこういう人達が元気で、
かつ仕事が出来れば 医療費がまずかからないだけでなく
その経済効果は10兆円以上の国家予算を左右するぐらいのプラスに成っている
家族も幸せだし、本人も幸せだし、これから人類の共通の、人間が幸せに生きて行く為の重要な
キーワード 、特に日本にとっては最長寿国に成っているので

2013年1月3日木曜日

三浦雄一郎(80歳)       ・エベレスト登頂3回目をめざして

三浦雄一郎(80歳) ・エベレスト登頂3回目をめざして
70歳、75歳で2度ネパールルートからエベレストに登頂、今回成功すれば自らの記録70歳以上2度の
記録を塗り替えることになる
現在 最高齢記録はネパール人で76歳でこのきろくにも挑戦します 
三浦さんは4年前骨盤と大たい骨の付け根を骨折する大けがしましたが、
不屈の精神とたゆまぬ肉体の鍛錬で復帰し、去年はヒマラヤに本格的な遠征をして今年の登頂に備えてきました

去年10月に誕生日を迎えて80歳になった  11月14日に3度目の手術をした  
今はガンガン、スキーを滑っている
父は101歳まで滑っていた 日本のスキーヤーの草分け  山岳スキーの元祖になって居る
スキーは言葉では教えないが、父の後を付いていった  
100歳でロッキー山脈で親子4代で滑降した
息子 豪太 モーグルでオリピックに出場した スポーツ生理学、アンチエージングに関する学問を学び、
教授の紹介で大統領の体調を管理するアシスタントの職に付く事を検討していたが、
私が70歳になったときにエベレストに登るので一緒に行かないかと言ったら、
一緒に行くことになる

エベレストは3月27日を予定している   50歳代の後半 から世界の7つの大陸の最高峰を
スキーで滑ってもういいだろうと思った 
50代の後半に この仕事を足を洗おうと思った  大学で渡辺淳一が同期だった  
獣医学部に入った  リタイアして運動をしなくなり、飲む食べる
だけはそのまま続いていて、体重が増えてきて、身長が165cmしかないのに、90kg近くなった
当然身体のあちこちがおかしくなり、糖尿病 血圧200近くに成り、狭心症の発差をしょっちゅうしていた
死ぬかと思うぐらい苦しい 病院に行って検査を受けたら入院治療をすることになる  
飲み過ぎ、食べすぎ、運動不足  その大元は本当に自分でやりたい事、目標、夢を消してしまったから もう一回考え直して、父親がモンブランを滑ると言うので私もエベレストを登ってみようと思った

最初500mの山に登れなかった 不整脈、足がけいれん 脂汗  それで返って面白いんじゃないかと思った  之から5年かけて500m登れなかった 爺さんがエベレストに登れば面白いんじゃないかと思った 
2年間トレーニングして富士山に登れれば と思ってスタートした
70歳で息子と一緒に登った ベースキャンプ5300m で1カ月半トレーニングして(5000,6000,7000mと) 最終アタック 10日間掛って登頂したが体重が10kg減った
良く生きて帰ったと言う感じで、日本に帰ってきたら不整脈がひどくなった 
その時に又75歳でもう一度登ってみたいと思った

2003年 70歳で登頂したが、ヒラリー登山家の生誕50周年だった  その時には曇っていて
、晴れた時に登頂したいと思った
75歳も息子も一緒にきた 40kgの荷物を担いで、7500mを越えてからは肺が破れていて高山病
をしていて、注射をして 運よくベースキャンプに戻れた
戻れて生還できた両足に5kgずつ付けている 20kgの荷物を背負って歩いている 
1932年生れ 1964年イタリア での直滑降のスピード世界記録 172.084km/h (32歳)  
富士山直滑降 パラシュートを使った 世界中のニュースに成った
パラグライダーのルーツに成った   エベレスト 8000m地点からのスキー滑降する 
石原プロが総力で撮影してくれた    アカデミー賞オスカー賞を取る
世界7大陸の最高峰からのスキー滑降 終了したのが56歳だった
(一定の足跡を残したと判断してリタイアした これがメタボの原因となった)

足腰を徐々に鍛えて行った  体力を維持するための秘訣は なんか目標をもつこと  
山でなくてもいい なんか目標をもつことが大事
運動を始めたら 狭心症、高血圧、膝の痛み 等が全部無くなった   
治せないところは心臓とかはあるが 不整脈は手術をした
肺活量は現役のころは3000ccちょっと位しかなかった 選手は4000cc位の人が多かったが
(うらやましかった)
少ない肺活量でも効率よく回せばいいのでは     息子は白沢教授のもとで勉強して 
アンチエージング分野で医学博士に成ることが出来た
8000m級の登山家と 何もしていない人との比較  ヘムオキシゲナーゼという強烈な酸化酵素 が山から帰って1カ月 3か月 半年 1年経っても、普通の人の6~10倍でている
生き延びるために酸化能力、成長ホルモン(若がえりのホルモン)をどんどん出さないと生きていけない   そうでないとあっという間に老化してしまう 
 
活性酸素を除去するための酵素が必要  幾つに成っても必要
90歳過ぎて父は3回も骨折している  普通骨折してしまうと辞めてしまうが、
それを直してスキーを続けてきた
高齢で骨折するとなかなか治らないのが普通であるが   ジャンプで失敗して大たい骨、
骨盤、恥骨含めて4か所骨折してぐじゃぐじゃに成る
再起不能かと思われたが、スキートレーニングをやっていたおかげで 骨密度 20代プラス10% 
筋肉も強く出来ていたので筋肉が折れた処をもどすようにしていた 

手術なしで大たい骨、骨盤もくっ付いてくれて、普通通り歩けるようになった  
2月に怪我をして5月にはゴルフをやったりした
食事は元々 父は玄米食で小魚、全部食べる  肉を食べていけないとか 
いわれるが父はステーキを食べたり寿司を食べたりしていた
チーズとかも平気で食べて元気だった  私も月に一回 肉を500g位食べる
朝ごはん ヨーグルト お茶粉砕機で粉砕して ヨーグルト300gにお茶をおおさじ一杯入れて、
ココアの粉をおおさじ一杯蜂蜜入れて  後山芋、生卵一個
ブドウで造ってます   納豆、キムチだったりする   炭水化物は取らない
(山芋に含まれているので)  血糖値も正常に近い状態になった  
スケジュール、ルートは決まっているので それに従って行う

2013年1月2日水曜日

観世清和            ・世阿弥生誕650年伝統の重みを受け継いで 2

観世清和  ・世阿弥生誕650年伝統の重みを受け継いで
「命には終わりあり 能には果てあるべからず」  一生勉強 一生修行 の事   
ここまでやれば悟りの境地と言うのはない
肉体も精神も20代、30代とは違ってくるし 同じ演目をやっても違ってくる  
曲に対する解釈が違ってくる
能をやる時に歌いもやらなくてはいけない 絶対不可欠の事  
20代、30代の頃は一曲のお能を2~3日あれば丸暗記が出来たが 50歳を越えると
2~3日では駄目  年をとっても一生 歌いはやらなくてはいけない

1990年に家元を継ぐ  初舞台は4歳 紋付袴で 舞いを舞った  
牛若丸を題材とした「鞍馬天狗」の花見のちごの役
源義経と同時に成長した ほとんどが牛若丸の役をこなしてきた  
それぞれの年齢と並行して役をこなしてきた 
牛若丸の人生と同じに生きてきた(配役) 12,3歳で子方を卒業した
父が意外と身体を鍛えなければいけないとか、海に行って来いとか スキーに行って来いとか 
体力作りをする様に言われたので意外と自由にできた
先代は8歳で家元を継いでいるので、苦労した部分が有るのでしょう 
自分が元気なうちは体力作り スポーツ奨励だった

帝王学的な言葉は一切なかった  住み込みの内弟子と寝食を共にした 
31歳の時に宗家を継ぐ  父が60歳 還暦で亡くなった  
舞台に穴をあけてはいけないと言う事で 父の舞台も私が勤めました
2つの演目はやったことが無かったので親戚に頼んだ
クラッシック音楽、歌謡曲も  音楽は大好き  ワーグナーの音楽に魅了されている 
 ワーグナーも生誕200年  ワーグナーと共通点が有る 
金閣寺を作った足利義満 世阿弥のパトロン的存在 ルトビッヒ二世 ワーグナーのパトロン的存在 
ノインシュバイン城を作った
 
国、時代が違うが文化的融合性を感じる  
次の代に繋いでゆく使命がある  子供が中学生に成る 部活で体力作りをしている  
学校の勉強 友達をたくさん作ること 家業 バランスを
取ってやる能舞台 じゅうたい8人 こうけん 2人  お囃子 4人 わき きょうげん  おして 
お連れ(しての連れ)  20数人で一曲をやっている
楽屋にはそれの倍に近い人数がいる   人と人との繋がり 行き会う 
想いは通わせることは絶対必要になって来る
能楽は総合芸術なので思いやりの心をもつことが大事だと それを最低限であって
豊かな人間性を養ってゆく
現代に通じる能  能楽の入門講座を開設している  

復曲(現代に昔やっていた演目を復活させる)  新作能
上演されたのも定かでないもの 演目を 上演した 「阿古屋の松」    
山形市で7月に上演予定  鎮魂 癒しの心 捧げさせていただく
聖パウロの改心  林望  禁教令が出るまでは日本にも沢山の宣教師がいた   
キリシタン能  演能していたが資料がすべて無くなってしまった
ユダヤ教だったのをキリスト教に改心する内容  能の技法 定形によって行うが、
イエスキリストが登場する時にオルガンのメロディーに併せて舞う

2013年1月1日火曜日

観世清和(53歳)        ・世阿弥生誕650年伝統の重みを受け継いで

観世清和(53歳) 世阿弥生誕650年伝統の重みを受け継いで
2013年は日本の伝統芸能 能楽の基礎を作った観阿弥の生誕680年 世阿弥の生誕 650年の
記念の年に成ります
最近ではこれを記念する本や雑誌を発売されるなど、能に関する関心が高まっています
観世清和さんは観阿弥 世阿弥の流れを汲む観世流の26世宗家として現代の能楽界をリードする
お一人です
国内はもとより、フランス、アメリカ、中国、ドイツなど積極的に講演を行い、フランスの文化勲章なども
受賞しています
観阿弥、 世阿弥 の子孫たる私達がお祝いできるのは大変有り難いことだと思います
観世会の特別講演が有る  ちなんだ演目を上演します  
元日には歌い初め  弟子たちも集まって歌い初めを行う  
徳川将軍家の時代に歌い初め式の名残りなんです
「老松」 「唐木」 「高砂」 舞いはなく 歌いだけを行う  芸道に精進して行こうとの思いも有る  
めでたい演目(徳川家は松平 なので松にちなんだ)世阿弥 
大天才 舞い、歌いも凄かった 顔も美しかったと言われる
心の優しさ 地獄に落ちた亡者が生きていた人生の中で、一番キラキラ輝いていた一瞬の時間を
もう一回地獄からひきあげてやって、もう一回舞台でそれを開花させてあげる
最後は成仏させてあげる  そういう優しさ、人間そのものを描き出したかった 
 
それが羽衣の天女、高砂の住吉明神であったり、地獄の釜の鬼の番人であったり 形は変わるが 
そういう人物像を使って矢張り生身の人間とは何ぞやと描きたかったんだろうと思います  
現代に通ずるテーマ
普遍的なテーマ 人を恋することだとか、愛だとか、戦争の無い平和な世の中が続いてほしいとか、
全編を通して何か祈りの心と言うのでしょうか
そもそも能学は鎮魂の芸術と言われている
観阿弥 「じねんこじ」  足利義満のまえで踊る 12,3歳の子供が踊るごとくに踊った
観阿弥は一体どこで勉強したのか 幼少期から世阿弥を仕込む 
(モーツアルト親子に似ていると比較される)

舞台人としてやって行くためにはパトロンが必要  マネージャー的なこともやっていた 
足利義満 17歳だった その出会いが能学を変える大きな瞬間だった  世阿弥が12歳  
この出会いが無ければ、将軍でありながら
文化的教養のある人でなかったならば、能の発展はなかったと思う
次の代 足利義持 非常に禅の世界にも傾倒されていた方で、京都の相国寺に観音羨望 
宗教儀礼が有り 長いお経の中で坊さんが二、三行飛ばしたのを指摘した
世阿弥も禅にたいして必然的にやらざるを得なかったのではないか
8代将軍 義正の時には装束をプレゼントして貰った(音阿弥元重に)   
「ともなが」(源義朝の子供の話) 観音羨望 その衣装を使った
子供の頃の稽古は余り言ってはいけない  童の純朴な気持ちを伸ばしてやらないといけない 
風姿花伝」 稽古の仕方の記述  解りやすいし、厳しい事が書いてある

自分の実体験と照らし合わして 日常の稽古に臨む 舞台に臨む
「初心忘るべからず」  初心 物事のスタートの時点での初心ではない  
スタートをしてしまって未熟な芸をやってた頃の初心 を世阿弥は説いている
いかに慢心してはいけない 天狗に成ってはいけない 
常に初心を忘れてはいけないという事は 如何に己が未熟であるかというその初心を
忘れちゃ行けないという戒め  幼少時のスタートだけでなく各年代の初心と言うか未熟な事を 
自分で自覚しながら次のステップに臨む
如何に己が未熟であるかという謙虚さを忘れてはいけない  特に芸に携わる人は   
一つ出来たからと言ってそれに慢心してはいけない
「離見の見」 能の舞台で泣く動作  「しより」  どういう格好で泣いているかを観れる冷静な
第三者の目をもっていなくてはいけない
己がどんな格好で泣いている姿をしているかという事を冷静に客観的に見れる目をもっていないと
駄目だとう事(どっぷり浸かるのではなく醒めた目)
禅の世界と共通する様な事 
  
こべしみ  世阿弥の衣装が現存している   先祖に対する生々しさを感じる
能 日本の古典文化は能に限らず、裃を脱いで頂いて能楽堂に足を運んで貰いたい
敷居の高さを出来るだけなくして行こうとしている   
日本人たるもの 何か一つでもそういうものに興味をもって貰いたいと思っている
若い人にもやっていただきたい  歌いの稽古  座ってやるのが厳しいと言われるが 
普及の方法をどうするか考えている
能楽堂でイヤホーンガイドをやっている  能学を鑑賞するための一つの手引きの手伝い  
(初心者の方に理解して貰う為の手段として)