2023年4月5日水曜日

鶴澤燕三(文楽三味線)         ・師匠の教えを守り続けて

 鶴澤燕三(文楽三味線)         ・師匠の教えを守り続けて

ハワイ生まれで、ほとんどアメリカ人になってしまいましたが、ウクレレとかに触れて楽器が好きでした。  帰国した時に囃子方を募集しているのを知って、行きたいと思いました。(中学生)  笛方に応募、五線譜のない楽譜でした。  意味がわからなかった。 冬に稽古を始めて夏がお祭りで、それがお囃子デビューでした。  全曲覚えてしまい太鼓も覚えてしまいました。  五線譜ではない楽譜によるアンサンブルに凄く惹かれました。  中学、高校はずーっとお囃子をやっていました。  

帰国したのは小学校6年生でした。(12歳)  姉が3人いて、ピアノを弾いていました。  ピアノをやりたいと思っていましたが、父が男は剣道だと言って剣道の道に入りましたが、楽器をやりたいとは思っていました。  高校3年のお正月にテレビを見ていたら、三味線の特集の番組をやっていて興味を惹きました。    友人にその話をしたら、友人の母親が三味線を習っているので見に行くことになりました。  葉山まで見学に行ったら、その先生は逗子に住んでいてやりたいなら来なさいと言われ、始まりました。 

両親は転勤で長年香港にいて、長女が親代わりでした。  大学受験の時期で、姉に三味線のことを話したら、「大学ばっかりが能じゃない、良いわよ。」と言われて、三味線を購入して、逗子の先生のところに通い始めました。   周りはおばさんばっかりでしたが、面白かったです。   九州の従兄弟がたまたま葉山に来ていて、彼女が大学の卒論で淡路の人形芝居をやっていました。   彼女が、国立劇場で研修生を募集していることを知っていて、直ぐに電話してしまいました。  研修風景も見学して、応募して第4期研修生になりました。   偶然人形の吉田蓑助師匠と昼食することになり、研修は2年でしたが、「5年やってみることだと、そうすれば向いているかどうかわかるから」と言われました。

研修中はほとんど家には寝に帰るような状態でしたが、苦には感じませんでした。  爪で押さえてはじくんですが、皮が薄くなり破れたりして、そのうちタコが出来てきます。(3か月ぐらい)  バチ使いもいろいろあり、身に付けていきます。  心底辞めたいと思ったことはないです。  懸命にやっていて、大きな失敗をしたことが一度ありましたが、師匠が笑って、「失敗はするもんや」と言われて胸のつかえが吹っ飛び、辞めずに済みました。   

1年目の研修が終わって、卒業生の既成研修がありその時の担当師匠がうちの師匠でした。稽古をしてくれて、教わったのを必死で頑張って、翌日間違いなく弾いたら、師匠が涙をためていて、「よう覚えた」と言ってくれました。  それでこの師匠の弟子になりたいと思いました。   必死になると、師匠のバチ使いなどが映像として残ったりします。  師匠が弾いて、一緒に弾いて、自分で弾いての繰り返しです。  

1995年、師匠は公演中に倒れそのまま引退することになりました。  途中から演奏がおかしくなり、舞台モニターがあり、それを見たら意識がないまま弾いているのがわかり、飛び出していって「師匠大丈夫ですか」と言ったら、ジロッと私を見たが、又正面を向いて演奏にならない音を続けました。  救急車を呼んで、三味線を取ろうとしたがなかなか離さなかったが、凄い力で何とか離しました。  バチは握って離さないまま病院に行きました。  緊急手術をしましたが、噴水の様に出血していたという事で、そのまま死んでいてもおかしくない状態だったという事でした。   強烈な体験でした。

2006年4月に6代目鶴澤燕三襲名することになりました。  燕三という名前を汚してはいけないという事が一番のプレッシャーでした。  師匠が倒れた時と同じ曲での襲名披露でした。  2014年に脳梗塞で倒れて、病院に三味線を持ってきてもらったが、三味線を全然弾けなくなってしまいました。  どう弾いていいかわからない。  右手、左手がシンクロしない。    退院してリハビリをしているうちに、何となく弾けるようになってきて、6月に倒れましたが、9月の公演には復帰しました。  その時に復帰しなければ辞めていたかもしれません。  記憶力は無くなってはいなかった。  リハビリをしつこくやるのは効果があると信じています。   弟子を取ることになりましたが、師匠からは「弟子を取るという事は、人様の大事な息子を預かるという事、ワシも気を付ける、君も頑張れ」と言われました。  「人様の大事な息子」というのは常に頭に響きます。