2023年4月18日火曜日

髙橋秀実(ノンフィクション作家)     ・父は哲学者になった!?

 髙橋秀実(ノンフィクション作家)     ・父は哲学者になった!?

髙橋秀実さんは1961年横浜市生まれ。   これまでダイエットやパワースポットのような身近な問題から外国人問題、道徳教育など幅広く取材をしています。   最近では認知症の父親と過ごした日々を「親父はニーチェ」という一冊にまとめました。   

父親が亡くなったのは2020年2月。   ああすればよかった、こうすればよかったというようなことが続いています。  後になって判ることがいろいろあります。  私は20歳で大学に通うために家を出ました。   弟もその後家を出て両親二人暮らしになりました。  母が突然急性大動脈解離で亡くなりまして、父が一人になってしまいました。   我々夫婦、弟が来て一緒に暮らすようになりました。   87歳でご飯も自分では作らない、作れない。  母が全部身の回りのことをやっていましたから、自分で身の回りのことができないことが判りました。   父は母が亡くなったことも理解していませんでした。(認知症)  

父の話すことを逐一メモするようになりました。    これはこういう事なのかなと考えるようになりました。   目と目で向かい合って話すと喧嘩にありますが、メモすると下を向いているので父も話しやすかったようです。   父の言葉を吟味できるようになりました。   同じような繰り返しばっかりに聞こえたんですが、メモしていると毎回ちょっと違うんです。  後で読み返した時に、そうするとこれはこういうことかもしれないと結構気が付くことがあります。   この本のきっかけはそういうことからです。 

本の中から、介護認定するときの、介護認定調査員とのやり取り。           「今日は朝ごはん食べましたか」  「ハイ美味しく頂きました」   「何を食べましたか」 「ふっくら炊き上がった白いご飯、温かい豆腐のお味噌汁、それと焼いた鮭、ほうれん草のお浸しもいただきました。」   でもその日は豆腐と目玉焼きだったんです。  調査員の人はこの時点で認知症と判ったらしいんです。   これは「取り繕い反応」と呼ばれる症状です。  判らない時に適当に取り繕う。   本には書いていないんですが、「お風呂は入りましたか」と聞かれた時に、「風呂はうちは薪ですから、息を吹きかけてやるので、火加減が大変です。」と答えたんです。  これは完全に認知症という事です。  

介護認定3という事になりました。  認知症のことについて深く知りたいと思うようになりました。  認知症には原因別として、レビー小体型認知症(脳の神経細胞にはαシヌクレインというたんぱく質が存在します。これを核とするレビー小体という物質が大脳皮質にたまると、脳の神経細胞が徐々に減ってゆく。)とアルツハイマー型認知症(アミロイドβ(ベータ)と呼ばれる異常なたんぱく質の蓄積と神経原線維変化(過剰にリン酸化されたタウ蛋白の蓄積)という脳の中での2つの変化を特徴とします。)があります。  脳にタンパク質が蓄積すること、脳の縮小が原因で起きる。  父は家父長制型認知症で、脳の大脳生理学的な原因ではなくて、生活習慣が原因で起こる認知症。    自分では何にもしないで妻が身の回りのことを全部やるという、この生活をずーっとしていると妻が居なくなると何にもできなくなる。  私が考えた病名です。  食事は作る事ですが、父にとっては座る事なんです、座ると食事がでてくる。  ですからずーっと座っていたりする。    生活習慣によって引き起こされた症状だと思います。           相手に違和感なく話すことはできる。   

正常な認知とはどういうことなのか、という事を考えさせられるきっかけになりました。 「今いるところはどこなのか」と尋ねると「ここがどこかって、そうここがどこ、どこが、ここが、どこって」  自分を確実に捉えているかどうかのテストだが、家とか病院とか言ってくればいいんですが、父が「ここってどこ」と聞き返してきたんです。  「ここはどこ」は住所、場所,位置とかですが、「ここってどこ」というのは概念、ここって言うのはどこなんだろう、と考えさせられてしまった。   これは哲学的な問題なんではないだろうかと、思いました。  

ここはどこなのか、と言うのは西洋哲学ではずーっと考えてきている。  我々はどこからきてどこへ行くのかというのは大きなテーマで、前提としても「どこ」というのは何なのか、「ここ」はどこをさしているのか、父と話をしていると、哲学の問題提起とか、そういう事に重なっているというような気がしました。   約束事が守れるかどうかテストするのが認知症の診断です。   語彙が少なくなってゆく症状が一つありますが、コップをもって「これな何」といったんです。  そうしたら「ヘー」とか言ったんです。 「これは何ですか」と聞いたら「そうなんだ」というんです。  これも取り繕いだと思いました。

妻が脱ぎっぱなしにしてあった靴下をもって、「これは何」とよく聞いていたしていました。  この時、聞いているのは靴下ではなくて、正しい答えは「どうもすみません」ですね。  「靴下」と答えてしまうと喧嘩になってしまう。  そこから「へー」とかの答えが出てくる。  取り繕い反応のひとつの解釈だと思います。  日常会話では「これは何」と言って「コップです」というような会話はあり得ない。

父は私のことを「社長」、「お兄ちゃん」と呼んだりしていましたが、自営業なので社長と言えば社長で、昔から気分がいい時には「さあ行こう 社長」とニックネームみたいに使っていたし、私は長男なので「お兄ちゃん」でもあるわけです。  

母が亡くなった後に、或る人に会った時に、「奥さん お元気ですか」と問われ「元気です。 二階で寝ています。」とか言うんです。  その人が話している奥さんというイメージのものに話を合わしているんですね。    社会生活とか、社会性、約束事、(今日は〇月〇日とか、どこへ行くとか)がかなり失われて行くと、その人の持っている認知が割とむき出しになる。  それをきちんと理解することが大事なんだと思います。  語彙は少なくなってゆくが、「それ、それ、あれ、どれ」とかでも会話は出来る。  会話にはそれぞれ距離感がある。  距離感をきちんと捉えていれば、話の内容はさほど重要ではない。認知症の反対は正常な認知ですが、多かれ少なかれ人は認知症みたいなところはあると思います。 人は一人では生きていけない、誰かに助けてもらったりしてやっと生きているわけですから。  支え合って生きている社会ですから。  超高齢者社会になり認知症は社会問題だと捉えて、支え合って生きた行く社会だと思います。