2023年4月20日木曜日

小西博之(俳優)            ・〔わたし終いの極意〕 人生は幸も不幸もフィフティ・フィフティ

 小西博之(俳優)    ・〔わたし終いの極意〕 人生は幸も不幸もフィフティ・フィフティ

小西さんは63歳、大学卒業後NHKドラマ「中学生日記」でデビューします。   その後萩本欣一さんのバラエティー番組に出演して「コニタン」の愛称で一躍人気者になりました。 しかし司会や俳優業など活躍を広げていた2005年末期の腎臓がんと診断されます。   厳しい手術と治療に耐えて仕事に復帰しました。   現在は俳優業の一方で日本航空高等学校通信制過程の東京キャンパス長を務めています。   小西さんは人生の山坂をどう越えてきたのでしょうか。 

僕は30年来「ラジオ深夜便」が大好きでずーっと聞いています。  去年、日本航空高等学校の90周年を迎えました。  7割は普通科で、3割がパイロット、地上係員、CAさんのことを学びます。  小学校のころパイロットになりたかったんですが、昭和47年中学の中里先生との出会いがあり、僕の人生を変えていただきました。  初めての土曜日のホームルームの4時間目の時に、「男ども1週間いろんなことがあったろう。 前に出て綺麗さっぱり洗い流して新しい月曜日を迎えたい奴は出てこい。」といったんです。   

「学級委員長の小西、お前からや。」  出ていたら、「あとの19人はどうしたんや」という事でみんながずらっと並ぶわけです。   先頭にいた枝光?君は真面目な子で怒られた事のない子が「枝光」と言われた瞬間に泣き崩れていました。  どうなるんだろうと思った瞬間に先生はハグをしてくれたんです。  「勉強を一生懸命頑張ったな。 偉い。」と抱きしめました。 その後ほかの人たち全部にハグをして、最後が僕で「来い」と言われました。  同様にハグしてくれて、「頑張ったな、この1週間」と言っていただきました。  

「お前たち、朝このきれいな机で勉強できるのは、小西がな、野球部でいち早く来て練習終わってから誰よりも先に教室に来て、雑巾でお前らの机を拭いてくれんやぞ。 小西に感謝しろ。」といったんです。  「小西 本当に有難う。」と抱きしめてくれて、今でも涙が出てきます。  「お前のやっていることは俺が絶対フォローしてやる。」と言われて、世の中がそこで変わりました。   次の週も「男ども・・・」と言って、みんな出て行って一人一人ハグして1週間分を褒めてくれる。  それがずーっと続いて、夏休みに考えて職員室に行って、将来を決めたんですが、「先生聞いてくれますか。」と言いました。 

「なんでや。」と言われたので「先生がかっこいいです。」と言ったら立ち上がってハグしてくれました。  野球をやって教師への道と、勉強して教師への道があるがどちらがいいかと言われて、「野球がいいです。」と言って野球を一生懸命やることにしました。    高校、大学共に野球で引っ張って貰いました。   大学での野球が厳しくて辞めて、生徒の前ではパフォーマンスしなくてはいけないと思って演劇部に入りました。  合気道をやっていたので怪獣をやれという事で関西弁でやっていたら、劇団のマネージャーからテレビに出たいかと言われて、連れて行って貰ったのがNHKの「中学生日記」でした。    生徒の役でした。  

銀河テレビ小説とか、島の若者Aでエキストラで出て藤岡弘さんと戦ったこともありました。 20年後に藤岡さんと出会って、覚えてくださっていました。  「中学生日記」のレギュラーになって、欽ちゃんを紹介してもらって、芸能界の道へと進みました。   大きな病気をしてから、全国の高校500校ぐらいで命の授業をしています。   山梨で授業をしていたときに、日本航空高等学校の院長先生が全国の通信教育の校長になって学んでいる子を助けてほしいと言われて、61歳で引き受けることになりました。 13歳の時の夢が50年経って叶いました。  

最初は何もわからなくて落ち込みました。  そこでコロナで学校に行かなくて家でやっていて、ちょっと楽になって、3月には卒業式を迎えることになりました。  送辞で、2年生の子が泣きながら「先輩のお陰で学校に行くことが出来ました。」といって、答辞でも「お前たち、俺はな・・・」と言って泣くんです。   保護者のお礼の言葉も「こうまでして、うちの娘を通信で高校卒業有難う。」と言って」みんなが泣くんです。  通信ってこうなんだと思います。  7割は不登校でやって来ます。  同じような境遇なので先輩たちが優しくハグしてくれるんです。    先輩たちが遠足に行った時に自分たちの話をしてくれます。  それでみんなが心を広げてくれて、学校へ来てもいいんだという思いを抱きます。  全部家でやって年間1週間授業をやるコース、1回/週のコース、毎日コースの3つのコースがあります。  

突発性難聴にもなり病院にいっても手遅れと言われました。  耳鳴りがしていて、或る近所の老医師から「良かったねえ、誰も持っていない可愛い鈴虫が二匹いるよ。」と言われました。   その時僕は泣き崩れて、「おんなじや。」といったんです。  師匠の萩本欣一さんと同じことを言うと思いました。  「悪いことも受け入れる。」という事で、その晩から寝られるようになりました。  身体にいいことをしようと思って煙草も辞めましたら、15kg太りましたが、1年かけて15kg落としました。   

2004年8月にアフリカに行く番組があり帰ってきたら、体調が悪くなりました。     食欲がなくなり、3大欲求(食欲、性欲、睡眠欲)がなくなり、12月23日にホテルのトイレで血尿で血の海になってしまいました。  病院へいってクリスマスの日にエコーを撮りました。  緊急検査をして、がんで普段なら死んでいるぐらいの大きいと言われました。 縦が20cm、横が13cmあると言われました。   ゴールデンウイークまでは持たないので、好きだと言っていたハワイに行きましょうという事を行っていました。   

今年92歳の父親には、心の整理をしておいてほしいと言いました。  手術の後、7月には徹子さんと一緒の番組に出て「末期がん」でしたという事、7月にでようとそれだけを楽しみにしていました。   5月をクリアして7月に番組に出ることが出来ました。   それまでに、お風呂で毎晩1時間ぐらい「死にたくない。」などと言って泣きました。  そうして泣き疲れるまで泣くとぐっすり眠れるんです。  僕は辛かったら泣いてくださいと言います、しっかり泣けばスッキリします。  闘病と言いますが、病気とは戦えません。  

先日もウルトラマンの大先輩(団時朗さん)が亡くなりお別れ会に行ってきました。  寂しくなるから行きたくないですが。   2009年4月、小西と同じ「欽ちゃんファミリー」の一員だった清水由貴子さんが49歳で自殺したことを知りました。  泣き崩れて「なんでしんだんじゃー。」と言って怒りました。   毎年4月20日にはお墓参りに行きます。 今日も生きる、明日も来る、と思って生きる思いを持つということは大切だと思います。  

「わたし終い」というのは、がんをしてから考えないようにしています。  人生を仕舞うという事はマイナスの様に思えて、夢を持つことによって人生楽しくなるという風に考えてずっと来ました。   今は考えを変えました。  嫌いな言葉の終活の番組に出ました。 雑誌の終活に関するの対談にも参加しました。  或るおじいさんが亡くなって、葬儀の時に自分が元気な時に撮ったものを自分が出て、お話をした動画があって観ますかと言われました。  

「・・・中卒だったが、夜間に引っ張ってくれた松本・・・」というんです。 「お前のお陰で大企業に就職出来て本当にありがとう、・・・有難う。」と言って頭を下げました。   その後に息子の名前を二人呼んで、「まだ若造でございますが、今後ともこの二人どうぞ宜しくお願い致します。」と言って、次に奥さんの名前を呼んで、「〇〇すまなんだなあ。  こんな我儘なわしで、本当にお前に迷惑をかけた、本当にすまん。 ええかこれからはお前ひとりだから楽しめよ。 ・・・どうか嫁とこの二人の息子をどうかよろしくお願いします。 楽しかった。 さようなら。」と言っていたのを見て号泣して、これはやった方がいいと思いました。  

終活で未来に流すビデオを撮っておいて、もし10年後に生活が変わっていれば、その部分だけ取り直せる。  そこに向かって10年間楽しめると思いました。   それが終活なんだけれども生きる目標になります。  後3年経ったら、いろいろ変わった部分を撮り直そうと思っています。  最後の部分に「先生になる夢は叶わなかった。」と言っていましたが、この部分は撮りなおせます。     いろいろな人との出会いがありましたが、やっぱり萩本欣一さんには人生のすべてを教わりました。   人生は波で100落ちたら100あがるから、20落ちて我慢したら20しかあがれない、100落ちたら100あがればいいんだ、落ちかけた時にもがいてはいけない、笑いながら落ちて行け、神様はもがけばもがくほど落ち以上にされてしまう。  100落ちたら周りが、あんなに大変なのに笑っているぞと、凄いなまだ何かあるのかなと勝手に思ってくれて、また仕事が来るよ。」と萩本さんは言ってくれました。  

わたし終いの極意とは、「明日があるから大丈夫」です。  全国の少し弱っている生徒さんを救ってあげたいです。