2021年11月16日火曜日

芦田多恵(デザイナー)           ・ファッションは希望であり続ける

 芦田多恵(デザイナー)           ・ファッションは希望であり続ける

1964年東京生まれ、日本のファッション業界をリードしてきたデザイナー芦田淳さんの次女です。  東洋英和女学院小・中学部を卒業後、スイスのル・ローゼイ高等学校に進学、米国ロードアイランド造形大学アパレルデザイン科を卒業後、1988年父親の会社に入社しました。    1991年コレクションデビュー、年に2回コレクションを発表しています。  芦田さんが提案する上質な素材にこだわり、女性を魅力的に見せるエレガントでモダンなスタイルは著名人やセレブリティーを初め、多くの女性たちから愛されています。  今年デビュー30周年を迎えました。   コロナ禍で新たに取り組んだ父の芦田淳さんから言われた思い出深い言葉、ファッションにかける思いなどについて伺いました。

普段着るものは自分のデザインしたものになってしまいます。   最近ファッションのトレンドは一つではなく多様化していて、むしろ自分がどういうスタイルでいたいかという事が重要になってきています。   カジュアル化してきてリラックスしたファッションが主流になっていると思います。   生地の選定を考えると1年も早くやっているような感じです。   うちではイタリアの生地メーカーから買い付けることが多いので、生地を作る事が一番長くかかるので、生地の選定は1年前からやっています。   コロナで先の見えない時代になりましたので、先の読みにくい時代が来たと思います。

私の20周年の年に東日本大震災が起こり、発表するような状況ではなくなりました。   バーチャルコレクションを試みました。  多くの方々にお世話になったので、何か社会にお返しできないかという事でチャリティーTシャツを作らせていただいて、販売しました。 継続的な支援が出来ないかという事で、2年後になってミシンがあって縫う手があって何かしたいという希望があればと思っていたら、いいアイデアが浮かんで、端布から小動物とかにキーホルダーを付けてブランドにしてしまって、ロゴも付けて認証できるようなものをと思って、現地に向かいました。   説明したらやってみようという事になりプロジェクトが始まりました。   今は10種類以上あります。   干支の動物を必ず入れています。   

コロナ禍でマスク制作も考えて500枚出来てメッセージを添えて送ったところ大変好評でした。  売り上げの一部を医療従事者へという事で売り始めましたら、大変好評で間に合わなくなり下請けの工場で作ってもらうようになりました。  保健所の保健士さんたちにハンカチをオリジナルで作って(抗ウイルウス加工された素材で出来ている。)目黒保健所にもっていったっばかりです。   

映画の清水康彦監督から音楽に関する話があり、美しい自然の環境の中でこの音楽で踊ったら綺麗だろうなあと思って、清水さんに話したら作りましょうと言う事になり、私は衣装をやらせていただきました。  この件はああいった方々と一緒に仕事をするという事はコロナ禍の中でしかできなかったことと思います。  分野の違う人たちと本当に楽しくやれました。   

コロナ禍の中、去年は3つ新しいブランドを作りました。   8月にファションのスペシャルムービーというものを作ってインターネットで発表しました。  ボリュメトリックビデオ(Volumetric video system)という最先端の映像技術を使って表現して、世界で初めてではないかと思います。  8m×8mの四角の中でのみ行われ、100台以上のカメラが一瞬にして撮影するというシステムです。   モデルが1着につき対角に歩くと14歩になります。   今撮った人物の映像が縦横無尽に操れるという状態になります。  1990年代に作った父のドレス3着をもとに新しく手を加えて、それが生き生きと今の時代に蘇りました。  父は3年前に亡くなりました。 

ファッションデザイナーになることは両親も自分も望んでいたことでもあり、高校3年間英語とフランス語を勉強し、、米国ロードアイランド造形大学で4年間ファッションのみならず美術に関して勉強しました。   日本に戻ってきたが、芦田という名前がついているとなかなか入れてもらえないとか、特別扱いみたいな事になって、就職先がなかった。   父の会社に入る事になり今日に至りました。  

私がデビューした当日に父が、「一回や二回だったら誰にでもできる、それを如何に長く継続してきちっと続けていくかという事が大変なことだから、あんまり無理するな。」といったんです。   長く続けてゆく事が凄く大切だし、一番難しいからという事で、あんまり無理するなと言われて、心に刻まれました。  仕事をやればやるほど父はデザイナーとして偉大な存在だったなあと思います。   子供の卒業式とか、運動会とショーがぶつかったりすることは良くありました。   ショーの間に一瞬抜けて一種目応援して戻って来たり、綱渡りをしてきました。    プライベートの時間が出来たのはこの数年で花の写真を撮ることを始めました。    目の前のことが精いっぱいで、目の前のことをどうしてゆくかに頭を使ってしまっているので、10年後にどうするという事は考えられない。   思いついたらやってみるという感じです。