2020年10月9日金曜日

柳田邦男(ノンフィクション作家)    ・【人生のみちしるべ】人は"物語"を生きている 後編

柳田邦男(ノンフィクション作家)   ・【人生のみちしるべ】人は"物語"を生きている 後編 

深い悲しみの中から助けてくれた本というのは、息子が私に残してくれた本でとってもいいと思っていますが、フランスの作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの「星の王子さま」という本です。  サン=テグジュペリは亡命先のニューヨークに住んでいましたが、第二次世界大戦でドイツがすでに占領していた祖国フランスに帰り、解放軍に加わってパイロットとして祖国を取り戻すために参加するが、撃墜されて亡くなってしまう。

ニューヨークを発つときに遺作として奥さんに残していった一冊の本があり、それが「星の王子さま」でした。   自身が挿絵を描いていて絵本と言ってもいいものでした。

息子が8月に亡くなりましたが、4月から岩波書店が岩波世界児童文学全集のシリーズを出し始めて、その第一回配本であり第一巻でもあったのが「星の王子さま」でした。  私の誕生日が6月で誕生祝に僕にきれいな豪華な本だからと言って僕にくれたんです。  

その2か月後に息子が自ら命を絶って、呆然としていた中でひと月してから、気になって手に取って読みだしたら、今まで読んだのとまったく違うインパクトがありました。

名作の文学は読む側がどんな状況にあるかによって、意味が違ってきたり、深い意味を感じたりする。  砂漠に不時着したパイロットが主人公で、そこへ空から降ってきた小惑星の星の王子さまが一緒に1年間過ごすわけですが、心にずしんと響いたのが最後のころで、1年後の午前零時に帰らなくちゃというんです。 パイロットは信じられない。 「僕は笑い声を聞きたいんだよ、星に帰るなんて言わないで」と言うんですが、王子さまは「大切なことは目に見えないんだよ」と言ってその次に王子さまが言った事が一番僕の胸に響きました。

「夜になったら星を眺めておくれよ。 僕んちはとってもちっぽけだから、どこに僕の星があるのか君に見せるわけにはいかないんだ。  だけどそのほうがいいよ。 君は僕の星を星のうちのどれか一つだと思って眺めるからね。 すると君はどの星も眺めるのが好きになるよ。 星がみんな君の友達になるわけさ。」 というんです。 

僕の星は小惑星でちっぽけで地球からは見えないけれど、その方がいいんだ。 あれが王子様の星かな、これが王子様の星かなと思うと、すべての星がいとおしくなってくるというわけです。 そして次のように話します。

「僕はあの星の中の一つに住むんだ。  その一つの星の中で笑うんだ。 だから君 夜、空を眺めたら星がみんな笑っているように見えるだろう。  すると君は笑い上戸の星を見るわけさ。」

これはサン=テグジュペリが奥さんに残していった遺言なんです。 自分は帰ってこないかもしれない、だけれども戦争だからどこ行っちゃうかわからない、満天の星のすべてがいとおしく思えるように僕がどこかにいるから、しかも笑っているからという、遺言なんですね。

息子がこの本を僕にプレゼントしたのは、洋二郎の魂の奥深いところでおやじに伝えたいものがあった、その伝えたいものがこの中にあるよ、というプレゼントだったんじゃないかと思って、ここのところがずしんときました。

読んだ後2,3日して町へ出たら、保育園児が歩いているところを見て、みんなキャッキャと笑っていて、星の王子さまが言ったとおりだ、すべての子供に対して僕の気持ちの中で「みんな幸せになれよ、これから人生大変なことがあるかもしれないけれど、しっかり生きろ」と声を掛けたくなうような気持ちがわーっと沸き起こってきたんですね。 これなんだと洋二郎の声が聞こえてくる、そんなことを感じました。  絵本はそういう深いものを秘めて居る可能性があるのではないかというのに気づかされた一つのきっかけです。

宮澤賢治の「よだかの星」に衝撃を受けました。  醜い夜鷹が周りから仲間はずれにされて孤独な中で天に駆け上って、そこで星からも阻害されて、結局孤独な青く輝く星になって燃えてしまう。 

洋二郎が心を病んで物凄く孤独で大学にも行けないような状態になっていた、疎外と孤独が絵本でこんなにすごく表現できるのかとすごくショックで、絵本を見直さなければいけないと思いました。  大人こそ絵本を読むことが必要ではないかと思って、大人の心がすさんではないか、乾ききっていないか、潤いのある感性をどっかに忘れてきたのではないか、そんなことを思うようになって、絵本の活動を始めました。

荒川区で10数年「絵本を読んで柳田さんに手紙を書こう」という呼びかけを小中学生に出してもらって、夏休み後に1000通ぐらい来ますが、一通一通みると感動します。

「ちょっとだけ」福音館書店の児童書がありますが、「なっちゃん」という女の子が2歳になり、赤ちゃんが出来てお母さんをとられてしまうわけです。  喉が渇いても自分で飲みなさいと言われて、牛乳パックを注ぐがこぼしてしまう。   その絵本を3歳の男の子に読んでいたそうです。  こぼしながら注いだ場面で「凄い」といって拍手したんだそうです。  これは完全に大人の目と子供の目の違いを象徴的に表している。   「なっちゃん」は2歳だからこぼれるのは当たり前、それをおいしそうに飲んでいる。  母親である私は「こぼしちゃダメ」と叱っていた。  注げたことに目もくれないで。

牛乳パックからコップに注いでこぼれても叱るのではなく、注ぐことが出来たことに対して褒めて一緒に喜んであげる、これは子育て、教育の一番の基本ですが、だけどついどっかへ飛んで行ってしまう。

大切な絵本は1000冊あります。 大人の感性がいかに枯れてしまっているか、しおれてしまっているか、そんなことを問いかける絵本として、「めをとじてみえるのは」文: マック・バーネット 絵: イザベル・アルスノー  子供が「海ってどうして青いの?」という質問に対して、次ページで親がこう答えています。  「毎晩、君が眠ると魚がギターを取り出して、悲しい歌を歌って青い涙を流すから海は青くなるんだよ。」というんです。  こういう答えができるお父さんはいますかね?

「雨ってなあに?」という質問に対して、次ページでトビウオの絵があり「雨って、トビウオの涙だよ。」というんです。

最後に父親が出ていこうとすると「どうして寝なければいけないの?」と聞くんです。  「それはね、目を閉じたときにしか見られない素晴らしいものがあるからだよ」と言うんです。

「とんでいったふうせんは」ジェシー・オリベロス (著), ダナ・ウルエコッテ (イラスト), 落合 恵子 (翻訳)   思い出のある風船がシンボル。  おじいさんは沢山の風船を持っていて、孫は少ない。  おじいさんが変になってきて、段々同じことしか言わなかったり、風船を手放してしまう、暗に認知症のなっていることを示している。  しかし、両親が説明してくれる。 「おじいちゃんの思い出の風船はすべてあなたのものになっているんだよ」  (君が心の中に全部刻まれて受け継いで持っているんだよ。  おじいちゃんはそうやって旅立つけれど、決してすべてなくなってしまう事ではないんだよ、という事ですね。)

私は人間の命の危機というものを捉えて、その一人一人がどう豊かに生きるか、心の問題になるが、そういうものをずーっと見つめてきたものが僕の取材でもありました。

ガンでなくなってゆく人と残された人との話など、人間の命を考えるときに大事なことは、肉体的、社会的な存在としての命だけではなくて、その人の固有の精神性の命があり、定年を過ぎても老化しても老後になっても下がることはない、むしろ病気をしたり障害を背負ったりすると精神性の命はむしろ成熟の段階に入って行く。

自分が体験することによって初めて実感としてわかってくる、精神性の命は終生上昇する可能性を持っている。  そのためにも感性を豊かにする、感性を枯れさせないようにする。

死で終わるかというとそうでもない、そういう生き方をすると必ず身近にいた家族、親しく付き合った人達の心の中で彼は彼女はこういう生き方を貫いたよねとか、いつもこういう事を言っていたとか、こういう難しい時には彼だったらこうしただろうなと思うとか、亡くなった後も残された人の心の中では生き続ける、そして心の成長をささえる。   亡くなった後でもその人の命はなお成長してくと言うような、私はそれを「死後生」と名付けた。

「とんでいったふうせんは」はまさに「死後生」のことを語っている。  おじいちゃんが持っていた風船が全部孫の風船になる。 ずーっと人間の生き方、家族の生き方は伝わって行く。

「死後生」を考えると、翻って今どう生きるか、自分自身いずれ死がやってくる、死後の生はどうあってほしいとか、死後の未来を考えたときに、今どう生きるかとか、人とどんな関わり合いを持っていくか、家族関係の中で自分は何をするのかとか考えるわけです。   「死後生」を考えることは今を考える事でもある。  未来も過去も現在の中にある、「今でしょ」という有名な言葉がありますが。  人間の命は「今でしょ」という事になって行くんですね。

苦しんでいるときに、今という事を考えたときに自分を否定的に考えるのではなくて、より前向きにたとえ病気、心を病んでも、今という事の意味をそう考えると一筋の光を見つける事ができるのではないかと思います。

自分の人生は無意味だと思う人も少なくはない。 しかしそうではないと思う。  日常茶飯事のこと、ご飯を用意するとか、ごみを捨てに行くとかのつながりが一日の時間の流れになるが、実は その一つ一つの事が物凄く意味を持っている。  日常の茶飯事は空に広がる星の一つ一つみたいなもので、全部意味もなくただそこにばら撒かれているように見えるけれど、それを星座という形で星をつなげてみると物凄い豊かな物語が出てくる。    人間は物語を求める存在、物語によって意味付けを考え納得する。  空の星で星座を作るように、自分の人生の様々な出来事を星座のような形でみると、自分はこういうふうな脈絡で生きてきたのかとか、たいしたことはやってこなかったと思うけれど、ああ意外に誰かの役に立っていたのかとか、非常に肯定的な見方ができる、これが星座という考え方ですが、「人は物語を生きている」という事はまさにそのことです。

僕は作家として、災害、戦争、原爆被害にあった人の話とかを聞いてエピソードを書いたりしますが、その人の物語の文脈としてとらえて、私に気づかしてくれているのかと考えながら原稿を書きますが、根底には物語性を絶えず意識しています。

物凄く世界は危機的ではありますが、負の要素をプラスに転じる力を人は持ってるにちがいないと思います。  一番の危機は核戦争です。 感染症、自然災害、などありますが、人間がどう生き延びてゆくのか、それが今の時代の大きな宿題、課題になっていると思います。  一人一人を生き方を見てゆくと自分自身の人生というものを一つの物語としてみてその中から自分なりの肯定観を持ってゆくという事がとても大事だと思います。

人生のみちしるべとなったのは現場であり、現場の人間と言っていいと思います、そこから自分の思想、生き方をつかんでゆく、それが人生のみちしるべではなかったかと思います。

地道にこつこつ今までの集約をするようなことを書きたいと思っています。