2020年10月17日土曜日

菊地まどか(浪曲師)          ・【人ありて、街は生き】「災害の教訓、話芸で語り伝える」

菊地まどか(浪曲師)    ・【人ありて、街は生き】「災害の教訓、話芸で語り伝える」 

稲むらの火」の話、題材となったのは江戸時代末期の1854年11月5日(現在の12月24日)の夕方4時半ごろに起こった安政の南海地震によって引き起こされた津波の際に和歌山県広村で醤油製造業を営む濱口儀兵衛(梧陵)が取った行動です。  一刻も早く村人を高台に避難させるために田んぼに積んであった稲わらに火を付け丘の上の神社に誘導しました。  このエピソードを明治時代に小泉八雲が取り上げ、さらに昭和の初めに小学校の教諭中井常蔵が子供にもわかりやすい作品にして、これが戦前の国語の教科書に取り上げられました。   この「稲むらの火」を浪曲にして学校などで演じているのが浪曲師の菊池さんです。  菊池さんは2018年9月この舞台となった和歌山県広川町の耐久中学校を訪れ生徒や地域の人達の前で浪曲「稲むらの火」を演じました。   防災をテーマにした作品に取り組む理由を菊池さんに伺いました。

語りがあり節があり浪曲という形で聞けたことによってすんなり頭の中でイメージができたという事を聞くと浪曲でやっていてよかったと思います。

新作で昨年の9月に作り上げました。  実話をもとにしたもので作者は宮本麗子さんです。

濱口儀兵衛らが創設した耐久中学校の卒業生である中井常蔵が小泉八雲の「A Living God」を読み、感銘を受け児童向けに翻訳・再構成し、「燃ゆる稲むら」として応募、この作品はそのまま国語教材として採用されました。(昭和12~22年まで)

地震の後、井戸の水が乾いた時には津波が来るという事が言い伝えられていた。  どうしたら誘導できるか考えたときに、貴重な稲ではあるが積み重なった稲束に火を点けていって、火事になるとみんなが消火に集まるので、積み重なった稲束のを目印として高台を目指していって、高台に向かって人命が助かった、という話です。

「稲むら」は天日で乾かすために刈り取った稲を積み重ねられた稲束のこと。

作品はいろいろつけ足したり削り込んだりしていきました。

1854年11月4日に地震があり、翌日の5日の夕方4時半ごろに起こた安政の南海地震が立て続けに起きました。

浪曲の源流はいくつかあり、その一つが仏様の教えを説くというものもありました。   説教節といわれていて、今の形につながっています。  江戸末期に大阪では浪花伊助という方が四天王寺で今の浪曲という形を披露して、節があり語りがあり三味線を取り入れて浪花伊助が初めて演じたので、浪花節という風に当時言われていて、その後浪曲という形になったといわれてれています。

浪曲は「一声、二節、三啖呵」、と言われて先ずは声が大事で、二番目にどういう風に自分なりの節まわしを付けるか、三番目が情景、喜怒哀楽を表現するのが啖呵です。

「一息三段流し」、一息で長い三段のところを流してゆく。

入門が2003年で古典を教えてもらって、現代風なものは無いか師匠に聞いて、「吉岡訓導」(昭和9年の室戸台風の時の話)をいただきました。

室戸台風は最大瞬間風速が60mで京阪神を中心に3000人を超える死者、行方不明者を出す。 「吉岡訓導」は豊津第一小学校に吉岡藤子先生(26,7歳)が赴任してきたときの室戸台風の災害時の事実を描いた浪曲です。  5人の生徒を自分を犠牲にして身をもってかばって助けたという話です。   2階建ての木造校舎が倒壊、児童51人と先生二人が亡くなりその一人が吉岡藤子先生でした。  毎年9月21日には全校生徒を集めて吉岡先生の話など催しがあり、是非講演をしてほしいという事で体育館でやらせていただきました。