2020年10月2日金曜日

舘野 泉(ピアニスト)         ・逆境を乗り越えての演奏生活60年

 舘野 泉(ピアニスト)         ・逆境を乗り越えての演奏生活60年

2002年65歳の時に脳溢血で倒れて右半身不随となるも左手のピアニストとしてカムバックし、今も精力的に音楽活動を続けています。

今年演奏生活60周年、1月にリサイタル2回出来ましたが、2月からコンサートは全部中止か延期になって何もできませんでした。  そうなると勉強もできませんでした。

家内がフィンランド人でついて回ることになっていましたが、フィンランドから出られなくて日本に来られませんでした。

芸大卒業後27歳でフィンランドに移住して家族を作って、義理の母親(99歳)が老衰で亡くなりました。 コロナの関係で入院先にも会う事はできませんでした。  7月1日に運航が始まり帰ることができましたが、フィンランドでは誰もマスクはしていませんでしたし、検査も軽いんです。 音楽祭などは全部中止になりました。 外国との人の交流も全て駄目になりました。

1936年生まれで、戦争の時には8歳でした。  焼夷弾が落ちて家が全焼して、ピアノもまる焼けで、田舎に疎開しましたが、子供としてはとてもポジティブな経験をしたと思います。  しかし今回は全然違う経験です。

ピアノは5歳5月5日から始めました。  おおい時には生徒さんが週に100人ぐらいいました。   戦後の時代はピアノブームといった感じでした。

戦争が終わったころは人々が文化に対する飢えが大きくて、自由になったんだという事で何でもできるという気風が一般的にありました。  みんながいいものを求めてひたむきであの時代はよかったなあと思います。

小さいころから本を読むのが好きで、高校生の頃に北欧文学のいろんな作家に出会って、いいなあと思って憧れがあって、母が室蘭で、北国に対するあこがれもあったと思います。 音楽で留学するというような事は思ってもいませんでした。  27歳でフィンランドに行きましたが、奨学金をとっていくとか、経済的なバックがあるとか、仕事があるとかほとんど考えていなくて、半年ぐらいは大変困って大変な生活をしました。

ヘルシンキの音楽院のピアノの主任教授が冬に亡くなって、前年に日本人がリサイタルをやって凄く評判になってあの日本人がいいのではないかという事で声がかかってきました。

20人教えてほしいという事で勉強ができないという事で断ったが、仕事が何にもないので引き受けざるを得なくなり段々演奏会の注文が方々からくるようになりました。

彼女(妻)は学生の委員の代表みたいなことをやっていて、時々あっていろいろなことを聞かれたりしたが、その時はどうという事は思っていませんでした。  ある時ぽっと出会うことがあり素敵な子だなあと思いました。 その後とんとん拍子で結婚することになりました。

その後世界中を回っていました。  

2002年に脳溢血をおこして右半身不随になって、ピアノが弾けないし、何にもできないという状態が2年続きました。  その時に家内が「あなたとうとう私の家に帰ってきてくれたのね」と言ってくれました。  1年のうち半分はあっていなかった生活をしていましたので。「安心して静かに養生してください」と言われて、2年経ったら左手で引くようになって、それからまた世界に飛び出すようにはなりましたが。

脳溢血をしたのは65歳でしたが、音楽を辞めるという事は考えていませんでしたし、ピアノを弾かないという風に考えたことはなかったです、確信みたいなものを持っていました。 左手でやるという事は一切考えていませんでしたが、ある時左手の楽譜を見つけて「これでやればいいんだ」と初めて思いました。

翌日には間宮 芳生さんにファックスを送って、1年後に復帰のリサイタルを東京、札幌、福岡、大阪、仙台の5つの都市でやりたいが、左手の曲が無いので新しい曲を書いてくれませんかと書いたら、一日置いてファックスが来て、「喜んで書きます、僕からのお祝いです」と返事がきました。  同じようにほかにノルドグレンというフィンランドの作曲家にも書いていただいて、1年後に左手で演奏を始めました。

マインドが切り替わったきっかけの楽譜はブリッジの曲を息子がピアノの前においてくれましたが、これでやればいいんだと思って、それで間宮さんに翌日ファックスを入れたわけです。

70年代には左手でも弾いていたことはあります。

ラヴェルの左手のコンチェルトは大好きでした。

復帰後15年経ちますが、本当によかったと思います。  左手の曲はほとんどないので自分が弾きたいと思うようなものは誰か作曲家に書いていただかないといけなくて、できたものはたくさんいろんなところで弾くようにしていて、吉松隆さんの「タピオラ幻景」などは200回ぐらい弾いています。  ほかにも100回弾いているものもあります。

左手文庫募金を設立。  15年の間にできた曲が100曲を超えました。

11月10日に84歳の誕生日に演奏生活60周年の記念リサイタルが行われるが、世界中を歩き回って演奏してよくやってきたなあと思います、やっぱり純粋に好きなんですね。  いい人たちとの出会いがあり、その人たち、ファンの力で演奏会ができたので、そういった交流があったので音楽が続けられてきたと思います。 幸せだと思います。 弾いている時が生きているという感じがします。