2019年4月13日土曜日

淺野弥三一(福知山線脱線事故遺族)    ・重大事故をなくすために・・・JR西日本と考えたこと

淺野弥三一(福知山線脱線事故遺族)・重大事故をなくすために・・・JR西日本と考えたこと
浅野さんは事故で当時62歳の妻と55歳の妹を亡くし、次女が重傷を負いました。
事故後深い悲しみに襲われた浅野さんはJR西日本と向き合う中で、責任追及よりもまず事故の原因究明と再発防止をと行動を始めます。
鉄道事故と鉄道会社と事故の遺族の間で一体どのような話し合いが行われたのか、浅野さんの心にはどのような変化があったのか伺います。
浅野さんの妻とその妹と、次女の3人は千葉県の親戚に見舞いに行くために新大阪駅に向かおうとして、たまたま事故を起こしたこの電車に乗りました。
都市計画コンサルタントの浅野さんは事務所に出勤する途中、車の中のラジオでこの事故の事を知ります。

9時25分ごろだと思います、尼崎で事故と言うニュースを聞きました。
妹の旦那と連絡して乗った電車を聞くと、きっとあの電車ですと言う事を知りました。
大変な事故で、TVのニュースでは30分単位で亡くなった方が引き出されてきました。
亡くなった方は1両目より2両目の方がひどかった。
貼り紙が貼ってあって次女が病院に入院していることが分かりました。
次女もかなり危ない状態で、後30分処置が遅かったら危なかったと言うような状態でした。
後の二人は夕方まで探したが判らなくて、遺体安置所に行こうと言う事で身内何人かと行きました。
当日夜中に遺体を確認して夜中の2,3時頃に帰りました。
他の御家族も泣き崩れる人達がいました。
翌日の夕方に市役所の職員が自宅に連絡して奥さんではないかとの話がありました。
見に来てほしいと言う事で9時頃に行きました。
頸椎が致命傷になっていました。
顔は打撲で腫れあがっていました。
妻はかなりの外反母趾でしたので、それを見てしょうがないと認めて・・・。

事故の3日後通夜の会場にJR西日本の南谷会長と秘書室長が来て、一言二言申し訳なかったと言った後に、「これからまた保障の話もあるんで」と南谷会長が言った時には激怒しました。
今日はどういう場なんだと、常識的にいったら考えられない。
人物もそうだが、会社の体質もこの辺にあるのではないかと思いました。
19日鉄道再開に向けて、6月18日意族向け説明会がありました。
説明会の前に、「多くのご遺族負傷者の理解を得たので運行再開します。」と言いました。
「どういう方法で意向を確認したのか」と問い合わせたら、段々答えが曖昧になって行きました。(運行再開ありきだった。)
翌年、事故の責任を取って辞任した鉄道本部長等が関連会社の幹部になったことが後になって判明して、遺族等から不信感が高まったり、さらに翌年には事故調査委員会の意見聴取の場で、副社長が草むしりなど懲罰的な指導方法が問題になっていた日勤教育に付いて、現場で必要不可欠だと言い張って批判を浴びるなど、JR西日本と遺族の間でわだかまりが解けることはありませんでした。

6月25日に事故の被害者の会「4.25ネットワーク」が立ちあがる。
40、50人位の人が初めて顔合わせをしました。
月一回の定例以外に分科会などもできました。
107人が亡くなると言うJR事故史上最悪の大惨事でした。
運転手は何故制限速度を46kmも上回るスピードで現場のカーブに進入したのか。
直前の駅でホームを70mあまりオーバーランした運転手が、会社側から乗務を外されて事故調査委員会は日勤教育を受けさせられる事を不安に感じ運転に集中していなかったためにブレーキ操作が遅れたと推定した。
事故調査委員会の最終報告書では日勤教育の懲罰的な指導では運転技術の向上には効果が無い、スピードアップを図る一方で余裕のないダイヤ編成が組まれていた、速度のコントロールの出来る新型の列車制御装置を配備していれば防げたはずだと、事故の背景も指摘しました。
2007年6月に事故調査委員会が報告書を出す。
事故調査委員会が報告書は刑事司法の関係で動いてきている、その結論には会社の問題は書いてなくて個人の問題に落とし込んでいることに対して極めて不満でした。
この事故の一番の原因は何なのか、運転手のミスだけなのかと、分析していない。
異常な速度超過は私は手記に書いていますが、原因ではなく結果だと思います。
何かの動機があって異常加速をしているはず。
組織事故だと考えていました。

2006年2月1日 山崎正夫氏が社長に就任。(技術畑の人)
東大工学部を昭和41年卒業、国鉄に入って技術畑を歩んでくる。
2009年7月神戸地検が山崎社長のみを在宅起訴、辞任を表明する。
加害者、被害者と関係なく共同して原因究明をやらないかと正直に持ちかけました。
それが現実に動いてゆくきっかけになりました。
JR西日本と遺族が同じテーブルに付いて事故の背景をさぐる課題検討会第1回は2009年12月に行われました。
2011年4月に報告書が発表されるまで16回の会合が行われる。
会社側は8人責任のある人々が参加、遺族側は7人、ノンフィクション作家の柳田邦男さんがオブザーバーでした。
相手側のデータは遅れていない、そのズレに付いて話を進める。
2012~2014年までJR西日本安全フォローアップ会議が11回重なる。
専門家、学者が加わる。
ATSP、ダイヤ、日勤教育などの問題点を洗い出す。
指令系統が入ってこないとわからないので、因果関係のチャートを作りました。
人間、組織、技術、そこにヒューマンエラーが関わってくる、ビジュアル化する事を一番願ってきた。
組織の各部署が安全に対するリンクが欠けている事を明確にした。

西川福社長が「安全を軽視いていたのではない、安全を守る具体的な策にかけていた。」
と言っている。
リスクアセスメント(考えられるリスクを洗い出し分析し、その結果を評価する一連のプロセス)、会社に安全報告としてあげてくれと言うことに切り替えた、これは会社に取っては大きな決断でフォローアップ会議等の成果と言っていいと思います。
安全に対する資源がそこにのぼっているわけです。
会社と現場の職員の信頼関係が土台になって動かないとできない話です。
一番言いたいのは戦後の色んな事故、犠牲を経験しているのにもかかわらず、それは全て刑事手法と言う場を中心に動かしてきた、それは安全文化を捨ててきた。
JR西日本の事故はようやくそのスタートラインに立っているんじゃないかと思います。
妻、妹を亡くして今はガタガタの状態でなんとか私自身が生きているわけで、家族は事実上ある様で無いわけです。
この事故の憎さはえも言いません、でもそれを言ったからと言って何か前に行くんですかね。
憎さだけが前に出るのでそれは生産にはならないので、できるだけ私自身から発信すべき問題ではないと、私自身の恨み辛みの中身として閉じ込めておければいいかなあと言う思いです。
社会に対して教訓をどのように発信してゆくのか、加害者と被害者の共同の責任だと思っています。
事故の原因に付いてお互いに納得するまでやったらいいんじゃないかと思います。
自分等だけでは厳しかったら、第三者にも助けを求めて公表して行く、これが事故の社会化と言う私のイメージです。