2019年4月29日月曜日

鈴木健二(元NHKアナウンサー)     ・「時代を超えて伝えたいこと」~前半~

鈴木健二(元NHKアナウンサー)     ・「時代を超えて伝えたいこと」~前半~
数々の人気番組のほかに多くの著作もあって中でも「気配りのすすめ」は400万部を越えるベストセラーになりました。
90歳になられた今年に入っても「昭和からの遺言」を出すなど、大変元気に活躍を続けています。

昭和27年(1952年)2月1日にここの放送局にお世話になるようになって、ちょうど1年後にTVが始まりました。
昭和63年に辞めましたが、その間にたった一つ守り通したことがあります。
他人から貰った資料は事実の半分しか物語っていない、後の半分は自分で歩いて探してくる、新人から辞めるまでやってきました。
資料を机の上に置いていったのが、城壁の様になってしまいました。
今の番組は観ていて全てに渡って下調べが足りないと思う、特にニュースはそう思う。
50年ぶりにラジオ出演しています。
最初は熊本中央放送局で空調も無いので、猫が入って来てニュースを放送中に足を噛まれて「イテテテ」と言ってしまったこともあります。
最期にラジオに出演したのは「話の泉」でした。(内幸町のスタジオ)
最期のTVは昭和63年の4月2日に撮り置きしていたビデオで出たのは最期です。
昭和63年1月23日には定年退職をしていました。

家は横浜ですが、熊本と行ったり来たりしています。
書こうと思っている内容の資料が何故か熊本が多いんです。
沖縄の海の底、シベリアの地、阪神淡路大震災、東日本大震災などにより眠っている方たちがいるが、段々風化してしまっているが、共通するものが無いから風化していってしまうので風化させないために、私は数えで年齢を言っています。
戦前はみんな数えで言っていました、私が戦争を忘れない共通点なんです。
1929年(昭和4年)東京墨田区生まれ、兄は映画監督の鈴木清順。
第一東京市立中学、旧制弘前高等学校へその夏に終戦、旧制東北大学へと進学。文学部美学美術史学科を卒業、昭和27年NHKに入社 退職が昭和63年、その後熊本県立劇場館長
青森県立図書館長を歴任。
難産の末に生れて、ひ弱で気も弱くて外で遊べないで子供のころは引きこもりでした。
兄とは6歳違っていて兄弟喧嘩もできませんでした。
兄は学徒出陣して戦後2年目に帰ってきましたが、戦争で家は焼けてしまい家族は戦争によって引き裂かれてしまっていました。
見渡す限り焼け野が原でした。
17歳でしたが、その景色を見てまだ戦争が終わるまで100年の歳月がかかるという思いがありました。
今70数年ですが、まだ戦争が終わっていないという思いがあります。

3つ児の魂100までと言いますが、そのまま90になってきています。
今でも人と話すのは苦手です。
36年間「ちょっと一杯」といって行ったことが無いです。
帰るのは二晩した夜中とかなので友達がいないんです。
生涯3人の素晴らしい先生に出会っていますが、小学校6年間担任して下さった木村民雄先生で、書き取りをやって2,3,4、5年と私は一度も間違わなかったが、或る時先生が「健二が間違えた」といってクラスがどっと沸きました。
「煉瓦」を「練瓦」と書いてしまったが、先生が「いいか健二、知ってると思っても何かをする時にはもう一遍よく調べてそれから書きなさい」と言われて、NHKに入ってからも何でも調べなければいけないと思って調べました。
それで机が城壁のようになった基でした。
第一東京市立中学の父兄会には黒塗りの車がきて、みんなどっかの社長とか大将だとかで
したが、家の父親だけが何でも無くて町内会長でした。
小学校のころは運動会が大嫌いで、海にもプールにも入ったことが無かった。
原先生が「走るのが駄目なら泳げるかもしれない」といって、水泳部に入るように言われました。
「この子は海にもプールにも入ったことが無いので泳げないからみんなの力で泳げるようにしてやってくれ」と水泳部のみんなの前で言ってくれたんです。
生れて初めて水のなかに入りました。
頭を水につけて足をバタバタして、直ぐに立ったりしましたが繰り返してプールの横方向8mを泳ぎました。
そうしたら先輩達、先生がみんなで拍手してくれてその時凄く感動しました。
感動なしに人生はありえないという、私の一つの生きる手段なんです。
それから色々な感動を味わってきました。

空襲がはげしくなってみんな休校になり、弘前ではやっているという事で願書を出したら合格して、行こうと思ったら直前(3月10日)に家が焼けてしまいました。
上野-弘前間往復代10円を何処からか親が取り揃えてくれました。
弘前の街には一人も兵隊がいなくて静かで、静かなところで暮らし生きてこそ人間なんだなと思いました。
300人の生徒が寮で暮らしていて、物心両面の世話をする業務委員長に推薦されてしまいました。(17歳)
何も無いので食料の調達、木炭の調達、停電するので電力会社との交渉などをやって、1日も学校へは出られませんでした。
東北6県、北海道にも行きました。
弘前-青森を8時間かかって行ったこともあります。
半年ごとに代わることになっていましたが、卒業までの2年間やってきました。
そこで話をして交渉することが後年放送界に入って役に立ちました。
その頃自分の事を「わたくし」と呼ぶようになりました。
言葉を綺麗にするには、いつどこでも自分の事を「わたくし」と言いなさいと言っています。
「わたし、この本読んじゃた」とは言いますが「わたくし、この本読んじゃった」とは言いません、「わたくし、この本を読みました。」となります。
「わたくし」と言い続けたのでこれが役に立ちました。
学業成績は最低でしたが、2年間の業務委員長の経験からこの男なら世の中をやっていけるだろうと言う事で卒業させてもらいました。
人間とはこういうふうな笑いもあり涙も有って、人生を作り上げて行くんだと言う事を教えて行くのがチャップリンです。
好きな音楽の一つがチャップリンの「街の灯」です。