2019年4月20日土曜日

永井祥子(名古屋空港中華航空機事故遺族会 役員)・事故から25年 伝えたい思い

永井祥子(名古屋空港中華航空機事故遺族会 役員)・事故から25年 伝えたい思い
1994年4月名古屋空港で乗客乗員264人が犠牲となる大惨事となった航空事故があったことをご記憶でいらっしゃいますでしょうか。
台湾を出発した当時の中華航空140便エアバスA300600R型機が着陸に失敗して炎上しました。
乗客乗員264人が犠牲となり7人が重傷を負いました。
この中華航空機の墜落事故から今月4月26日で25年となります。
当時長野県に住んでいた永井祥子さんはこの事故で、御両親と夫を亡くしました。
事故の後二人のお子さんを育て、裁判を闘い、遺族会の役員として会報の発行、慰霊式の準備などをやってきました。
現在兵庫県にお住まいの永井さんは事故を風化させてはならない、二度と同じことを起してほしくないと言う思いから、ラジオで御自身の体験を語って下さいました。

私たちの事故は阪神淡路大震災の前の年に起きた事故でした。
或る時新聞記事に「希望の灯り(HANDS)」を立ち上げる記事が載っていて、「震災の遺族に関わらず事件、事故の心のケアを」という文章を見付けて参加できるか問い合わせをしたところ、どうぞと言う事で伺いました、それが2002年だったと思います。
その後1・17の行事に参加させていただきました。
とっても温かい場所だなというのが第一印象でした。
1994年4月26日に事故が起きました。
当時3歳の娘とお腹の中に7カ月になる子がいました。
姉から電話があり、「TVで今名古屋空港で飛行機事故のニュースがあるが、お父さんたちが乗ってる飛行機じゃないよね」と言われたのが最初で、あわててTVを見て、主人たちの日程表を見てもしかしたらそうかもしれないと思ったのが最初の形になります。
名古屋に向かう間にラジオにどんどん情報が流れきました。
搭乗者名簿が読まれてて名古屋に着く頃は、駄目なんだろうなという思いが強くなったと思います。

空港のロビーに入る時にマスコミから「御遺族ですか」とマイクを向けられましたが、はっきりした状態が判らないのに、「遺族」と言われたことに物凄い自分が違う世界に入った瞬間でした。
配慮の無さ、そういう場所に向かう家族にマスコミの中を通らないといけない状況を先ず排除してほしい。
今でも大きな事故が起きた時に、TVに流れたりしていて、まだ繰り返されているんだなと残念に思います。
ロビー内に集められてTVから流れる情報をずーっと見つめるだけでした。(翌朝の5,6時まで)
誰からも何の説明も受けられなかった。
6時頃にこれから確認の為に自衛隊の格納庫に向かうのでバスに乗ってもらいますと言う話がありました。
それが初めての説明らしい事でした。
それは遺体の確認なんだろうと思いましたが。
コンクリートの上にブルーシートがあり、そこに200体以上の遺体が横たわり毛布がかけられていて、そこに入って行きました。
そこでの異様な光景とあの臭いは、私が一生抱えて行くんだろうなあという状況でした。

身体の特徴とか、身に着けていたものが枕元に有ったのでそれらを探しました。
主人は比較的早く見つかり毛布をめくって確認しました。(焼死の遺体)
両親は遺体の損傷がひどかったので、かかりつけの歯医者から取り寄せた歯型で歯医者さんのもとで確認をして貰ってようやく両親を見付けました。
炭化していて身体は人回り小さくなっていました。
ようやく母を見付けた時に「熱かったよね」と炭化した体をさすっていたら、警察の方から「汚れますから」と言われて、手は既に真っ黒になってはいたが、母は物ではないし私は母の身体に触れていたかった。
父親は最期に見つかりました。
父が経営していた会社と関連会社さんと一緒に行った事故だったので、父はきっとみんなが全員みつかるまでは自分は見つかってはいけないんじゃないかと、その時は思いました。
夫は娘を本当に可愛がっていました。
お腹の子の性別がわかって、名前を一所懸命考えて事故のちょっと前に決めて、息子にとって最初で最後のプレゼントかなって思います。

TVからの情報ではなくて、ちゃんとした機関から事故に遭われたかもしれませんという連絡が先ず欲しいと思います。
その時に必要な情報をちゃんとした機関から貰いたい。
目の前には3歳の娘がいるわけですから、さびしい思い、辛い思いをさせたくなかったので、至って明るい母だったと思っています。
お腹が大きい状態で泣くとお腹に凄く力がかかってお腹の子も駄目にしそうで、流産止めの薬を飲みながら過ごしていました。
息子を産んでその後したいことがあって、それは思いっきり泣くことだったんです。
でも息子を産んで目の前の子どもを前にして、私は泣いてちゃいけない、この子をちゃんと育てなきゃいけないと思って、なんとかやってきたんですが・・・。
葬儀が済んで49日の前に中華航空から賠償金についての封筒が届きました。
そこには吃驚するぐらい低い金額が提示されていました。
関連家会社の方達と一緒に遺族会を結成してそこを窓口に交渉してゆくことになりました。
他の方々もいくつかの遺族会を作りました。
団体交渉は納得できる状況ではないと言う事で交渉は打ち切られ裁判になって行きました。

今の法律では会社の責任は刑事事件では問えない、個人しか問えない。
書類送検自体は機長と、副機長、運行責任があるとう事で副社長始め4名でした。
事故から5年後に機長と、副機長については被疑者死亡で不起訴、副社長以下の人については監督責任があるという立場であったが、個人として刑事責任を問うまでにはいかないと言う事で不起訴になっています。
当時はそれ以上できることは無かったので、刑事責任については私たちにはできることはなかった。
民事裁判で事故の原因究明、責任の追及、正統な賠償を求めて裁判を起こすことになりました。
何故家族が亡くなったのか知りたいと思って、警察に問い合わせると、法律の中で罪に問えるかどうかを捜査する機関であって、遺族に説明する機関ではないと言われました。
事故調査委員会に問い合わせると、再発防止の調査であって、遺族の為の調査ではないと言われました。
事故原因について誰かから明確に説明を受ける機会も無かった。

裁判でも飛行機の性能、設計に関することも専門的な事ばかりで、素人に判るような説明ではなくて、原告の自分達にはよく判らないと言う事が長く続きましたし、裁判結果も判りにくい内容だったと思います。
副機長の操作ミスがあり、飛行機自体のシステムがマニュアルと自動運転の両方に対応できるような状態ではなかったというふうな印象でした。
当時の事故報告書を読んでも12項目が複合して起きた事故と言う事で、単純にこれだけという事はなかった。
判りにくい事故だったので、孤独、失望を抱えていました。
家族が亡くなった原因を適切な機関から適切な説明が可能であれば、裁判は起こさなくてもよかったと思う。
当時は意族は置き去りにされた立場だった。
泣いているといつまで泣いているのと言われ、明るくしているとあんな事故があったのに平気なんだねといわれるし、世間の言葉に傷ついたこともありました。

息子は生れた時から主人がいない状況ですが、主人がいない状況で子供たちは辛い思いをしていないだろうかと毎日感じますが、私自身は悲しいことは自分の中で処理できるが、子供を一杯褒めたい時に報告する主人や両親がいなくて、私の中では辛くて、褒めたい時、うれしい時にそれを話す相手がいないと言う事は辛かったです。
私は褒めたり抱きしめることはできるが、主人、両親はそれすら出来ずに亡くなってしまったので、どれほど無念だったろうかと思っています。
子供たちは元気に育ってくれました。
主人はこうだったとそこにいたかのように話していたので、息子なりの父親像ができあがっていったように思います。
2年前息子が大学を卒業して、名古屋に就職が決まって名古屋空港の慰霊施設のそばに住まいを見付けたいと言った時に、「どこかで父の面影を追っていたんだろと思う」「最期に息をしていたであろう土地のそばで暮らしたいと思った」と言いました。
息子はいないことも含めて受け止めているんだと私としては思って、そういうふうに思っている息子には感謝しています。

棺を受け取って帰る時に、「パパとおじいちゃんとおばあちゃんは煙になってお空に行って星になって見守ってくれているんだよ」と言って娘には伝えて、星は娘にとって特別な
存在となり、娘なりに色んな事を感じていたんだろうと思います。
娘が中学に入る年に、4月の慰霊式の時に娘が式辞を読みました。
「この事故で失われたのは264人の命だけではなく、その人達の家族を、温かさも無くしたんです」とそう読んだ時に娘の気持ちが感じられてこういったことが言えるぐらい大きくなったんだなとその時には思いましたが、大人になった今は具体的なことは言いませんが父親の存在を受け止めているんだと思います。
名古屋空港中華航空機事故については多くの人が記憶に残っていないんだと思います。
少なくとも飛行機に携わる方、空港の運営に関わる方だけはこの事故のことは風化させることなく教訓として残してほしいと言う思いは強く思います。
遺族とういうと特別な事故、震災で家族を亡くしている人を遺族と呼んでいると思うかもしれませんが、私自身は大切な家族を亡くした人を遺族と呼ぶんだと思うので、だったら全員が遺族だと思うので、そう思うんであればお互いに優しく生きられるんじゃないかなあ、自分が言われて悲しいことは言わないし、お互いに原因が違っても家族を亡くしたら悲しいと言う思いが共有できれば、お互いに優しくできるんじゃないかと思っています。