2019年4月4日木曜日

津野海太郎(エッセイスト)        ・我が人生は"読書"とともに(1)

津野海太郎(エッセイスト)        ・我が人生は"読書"とともに(1)
1938年福岡生まれ 80歳 筋金入りの読書家です。
編集者、劇団黒テントの演出家、本とコンピュター総合編集長、大学教諭、大学図書館長などに主に本の世界で本とともに活躍されてきました。
最近の著書は「100歳までの読書術」「最期の読書」と肉体の衰えはあっても年を重ねてしみじみわかる本当の読書の醍醐味について熱く語っています。
今日と明日に渡って読書について伺います。

本当に読み始めたのは終戦の年、1945年の12月に樺太から一家で引き上げてきて、
江戸川乱歩の少年探偵団が記憶に残っている最初だと思います。(小学校1年生)
江戸川乱歩全集は友達の家から借りてきて全部読みました。
戦後間もないころなので本はありませんでした。
その頃は本は年に600から800点位しか出ませんでした。(戦前は年に3万冊位)
借りた本を早く返さなくてはいけなくて、家に帰る時に歩きながら本を読むようになりました。
大人になっても忙しいのでその習慣が続きました。(70歳過ぎまで続けました)
30歳を過ぎてから、厚い本は読みにくいので、その時に読む分量に切り取ってもっていって読むと言う習慣がその後にできました。
後でゴムで閉じて一冊にして取っておいたり、いらなくなったものはすてたりしました。
ばらばらになった一冊の本を再装丁して7冊の新しい本にしてしまうと言う人もいます。
大学を出て直ぐに編集社に行きました。
その合間に昔の人と集まって黒テントのほうである時期、演出を中心にして本の編集はバイト的にやっていた時期も3,4年ありました。

アングラ演劇とよばれ、唐十朗さんとかが活躍していました。
当時劇場がありませんでした。
大きい劇場はありましたが、大きい力のある劇団が独占してしまっていて、後から始めたところは場所が無いんです。
そこで神社にテントを張るとか倉庫を改造したりしました。
斎藤晴彦さんは大きな電気屋さんの息子で音楽が好きで芸大の作曲科に行きたいと思ったがピアノが弾けないので諦めて、早稲田の演劇科に入りました。
お互いの稽古場に行って勉強するとか、交流は凄くありました。
アングラ劇団も大きなところにはいかないで、自分たちの貧乏劇団を作ってやるとかで、
その方が面白かったし、かっこいいという気持ちがありました。
今そういう事をやると貧乏くさいとしか思われない。
そういったことが無くなるのは1980年代に入ってからですね。
作ることよりも消費することがクローズアップされて来る。

1997年に「本とコンピュター」 これは編集の続きです。
1990年代に入ってくると、売れる本がいい本だというふうに変わってくるんです。
そうする自由にすることができなくなってくるし、いい本も売れなくなってきたりする。
それを突破する方法として本の電子化がある。
1970年代からアメリカでは試みがなされていた。(デジタル化)
そうすると音声、映像も一緒に表現できる。(マルチメディア)
そうすると新しい本の形が出てきて、そうすると大きいビジネスにはなりにくいから、作れると言う最初のビジョンでした。
1990年代はそういう方向に一斉に押し寄せて来ました。
電子化された本だと文字の大きさも自由にできる。
紙と活字では出来なかったことも沢山出てくる。
音声化すると目の見えない人も読めることになる。
アップルがiTunes デジタルデータとしての音楽を商品としてそのまま売ると言う
仕組みを作って流通の仕組みも作って始まった。

小さい端末を作って小さい端末から直接売り買いするという仕組みを作りました。
それが当たって本のデジタルビジネス化が始まるわけです。
アップル、アマゾン、グーグルにしても凄まじいグローバル巨大産業で、そこが領域のほとんど全部取ってしまった。
辛いところです。
デジタル化したデータを独占すると言う時代は難しいと、いずれその時代がくるでしょうから、又新しい試みが色んなところで起こってくると思います。
紙の本しかできないこともあります。
一冊の本としっかり向かい合って、自分なりの想像力、空想力を発揮して、自分のなかに新しい世界を作りながら、本を読んでゆくと言う事は電子本でやろうとしてもできない。
平たい表面の中に表示すると言う事は5000年の歴史があるわけです。
最近できたメディアと違って、そういった歴史のあるものを変えることはなかなか難しい。
そこで培われてきた感性、習慣、考えるための道具としての扱い方とか、それに取って代わるものはそう簡単には出来ない。