2019年4月29日月曜日

鈴木健二(元NHKアナウンサー)     ・「時代を超えて伝えたいこと」~後半~

鈴木健二(元NHKアナウンサー)     ・「時代を超えて伝えたいこと」~後半~
母の実家が新橋3丁目にあり鰻屋さんでした。
昔NHKではは出演者にはお弁当が出て、実家の鰻弁当を取っていて出前の手伝いもさせられていました。
たまたま東京に戻ってきたら、中学の友人と出会って、NHKの試験を受けにきたと言う事だった。
願書を貰って、NHKに来たが、どの職種を受けるのかと言われた。
競争率は高いが受ける人数が少ないと言う事でアナウンサーの部門を受けることにした。
原稿を読んでくれと言う事でそれを読んで、夕方に発表があり受かっていました。
次に写真を観て喋ってほしいと言う事で、それも又合格になりました。
次に東京大学で筆記にかんする試験があり、そこで又合格しました。
面接試験があり、以前に出前をした事があるといった話などして、次に人の名前が並べてあったが、一人も知りませんと言ったら、当時有名なアナウンサーの名前だったらしいです。
駄目だと思ったら、採用通知が来ました。

5月1日に熊本放送局に行くように言われました。
広島駅に着いた時にホームに降りて駅員から原爆が落ちた方向を聞いて、膝まづいて両手をついてその方向に頭を下げました。
戦争を体験し、あの凄惨な破壊行為に出会ったものでなければ判らない感覚です。
私は数え歳でいうことによって、戦争で亡くなっても故郷に戻れない人、戦没者追悼式であの塔の中にいる人と共通体験を持っているわけです。
80歳代は如何にして後90歳まで、100歳まで生きるか、男の年齢は75歳~80歳までは男の天下の険で、みんなここで死んでしまう。
中学、高校、大学のクラスの仲間ほとんど亡くなってしまって友達がみんな居なくなりました。
90歳代に入ったころに、あーっ、後10年足らず生きればいいと思ったら急に気が楽になりました。
昭和の番組では死、お葬式、お墓を扱う事はタブーでした。
今は平気でやっています、ここが違います。
最期に別れるのは自分です、だから生きている間に十分に生き甲斐を持って生きていかないといけないが、なかなかそうはいか無い。
*映画「南太平洋」から「魅惑の宵」

明窓上机で原稿を書いたことは一回も無い、5分とかちょっとの時間を利用して原稿を書いてきました。
原稿の98%は新幹線の中、飛行機の中、車の中、出張に行った先の夜、それが原稿を書く自分の時間です。
400字詰原稿用紙1枚を6分で書きます、続け字を編集者はよく読んでくれます。
「気配りのすすめ」 色々所作を言われてしまい、あんな本は出さなければよかったと思ったりします。
体で覚えようと時計は持っていません。
スマホ、パソコンも持っていなくて、年賀はがきも全部手書きです。
「家族と言うものは、目を見合わせてお互い常にいたわりあっていけるのが家族です、それが一番出来るのが食事で特に夕食の時間かもしれないのですが、今日本の家族の目は全部TVの方を向いています。
どうか食事の時間だけはTVを消して下さい。
私は放送局に勤めていますから、この原稿が活字になって出た時に、私は首になっているかもしれませんので有るったけの勇気を持ってこの原稿を書きます。
そうでないと日本の家族は会話を失って滅亡してしまうかもしれません。
組織と言うものは常に内側から崩れて行くものです。」
と書いて帰ってきたら、投書が机の上にガバッと有りました。
NHKからは一言のお咎めが無かったです。

現役時代からラジオ、TVは全然見ていません。
昭和58年 紅白の視聴率を上げたいので手伝だって欲しいと言う事で、私の出る秒数はたかが知れているので、その年に革命の紅白にしようとしました、次の年は都はるみさんが引退すると言う事で最期は必ず泣くと思って、ここに感動を持ってこようと思って、歌い終わって1分時間が余ったらもう一曲お願いがしますと言おうと思ったら52秒余りました。
アンコールと言おうと思ったら終了の音楽が出てしまった。
7秒遅かった、痛恨の思いでした。