桑原衛(NPOふうど代表) ・自然のエネルギーで暮らしを作る
埼玉県小川町で自然エネルギーを利用して循環型農業を実施しているグループ。
家庭から出る生ごみをバイオガス技術で液体肥料とガスを作り、液体肥料で有機農業をおこないガスで発電しています。
生ごみを提供する町民には地域通貨を渡し、季節の野菜を購入すると言う地域内の経済サイクルも行われています。
桑原さんは60歳、東大工学部で水資源の開発や利用法を学び、ODA政府開発援助や、JICA (国際協力機構)等で発展途上国の水資源開発に関わってきました。
この活動を続けるうちに、桑原さんはネパールでバイオガス技術による自然エネルギーを利用した生活に触れ、同時にその土地の風土を生かした暮らし作りを進める、地理学者三沢勝衛の理論にも出会い、バイオガス技術を利用し、地域に合った暮らしを小川町で始めました。
「ぶくぶく農園」と名付けた桑原さんの経営は米、野菜、果樹、養鶏、養蜂など沢山の作物を作ります。
この循環型農業に賛同して小川町に移り住む若い人が増え、NPAふうどの会員は40人を越えました。
家はできるだけ農業資材を使わないで作ると言う農業を目指しているので、なんでこれで虫が付かないのだろうと不思議がるが、色々秘密があります。、
無農薬、化学肥料を使わない。
「ぶくぶく農園」 私は元々土木技術者でバイオガス技術に引かれて色々な活動が始まっています。
ベースになっているのが微生物です。
微生物がぶくぶく元気に育っている様にと言うことで「ぶくぶく農園」になっています。
バイオバス技術は原料はそこにある有機物を有効に利用しようと言う技術です。
学校給食、家庭の残飯を集めてガスを発酵させてガスを作ります。
農家がメインで集まって、農業の肥料を作る、地域で使えなくなったものを街作りに生かしていこうと言う活動をしていて、中心になっているのがバイオガス技術です。
1990年ごろにバイオガスプラントを作って作ってそれを生かして町と連携して生ごみを肥料にしてエネルルギーにしようとしています。
小川町の役場が事務局になって有志が40人集まり議論して、その分科会が生ごみを生かして行こうと言うことで15年、ようやく今の形が出来て来ました。
米がメイン、野菜全般、養鶏、養蜂(娘が全部やっています)などをやっています。
3ヘクタール位を借りてやっています。(私、妻、娘)
畑で鶏の餌を作って残渣を畑にすき込んで、養鶏で鶏糞を畑に入れて、肥料は買わないです。
自然循環型農業、循環を成り立たせるためには色んな人の協力、困難さが色んなところに隠れているとつくづく思います。(理想だとは思っていない)
小川町自然エネルギー研究会を有志と一緒に立ち上げました。
1998年に自然エネルギー学校を立ち上げました。(日本で最初)
農家がメインでほぼ有機農家、町民の生ごみ、学校給食から出てくる残飯。
運ばれてきた残飯をバイオガス技術を使って資源化する。
農家にとっては肥料が得られる、役場では焼却処分しないで済む、処理コストが安いので税の節約、もったいなさが救われる。
バイオガス技術は日本各地にあるが、施設が立派で施設コストもかかるし、運転経費もかかる。
設計は自分たちでやって、建設は地元の大工さん、運転は農家がやる、維持管理はNPOがやって日本でもっとも経済性のいいプラントにした。
生ゴミ提供家庭には年間3000円相当のものを渡すと言うことにしました。
「ふうど」と言う地域通貨を作って、それを使うと小川の野菜が買えると言うことにしました。
見学する方が多いですが、たんぼのなかにぽつんと建っているだけです。
小川町を選んだ理由
①一番上の娘が気管支が悪くて早く東京から離れて空気のいいところに行きたかった。
②1987年ジャイカでネパールに行っていたときに、バイオガス技術に出会って非常に感動しました。
牛の糞でガスを作って肥料を作っていた。
それがきっかけで1990年四川省にバイオガス研究センターで勉強して、帰ってきてバイオガスをやらないかとアナウンスして、その時に声がかかったのが小川町でした。
自分が図面を書いて、皆で穴を掘ったりしながら手作りで全部作りましたが、それがとても面白かった。
バイオガスキャラバンを始めました。
ボランティアでバイオガスの建設に協力してもらう、学ぶために、自分のために、人のために 3回協力してもらう。(建設コストはかからない)
資材の基地が小川町でした。
大学で水門学を勉強しました、雨が降って一部が川、地下、蒸発してぐるぐる回っている。
安心して使える水の量、大雨が降った時に堤防の高さをどのぐらいにしたらいいかとか、
水をめぐる色々なことを勉強するのが水門学です。
三沢勝衛の風土に合った暮らしがあると言う説に出会った。
「風土産業論」を書いた人で、外にものを探すのではなくて地域にあるものを如何に活用するか、それが地域を豊かにして行く。
地域にあるものをいかに読み切るかと言うことを、もっと勉強する必要があると言うことが全体を通してのメッセージです。
これがもとになり自分の方向が見えて来ました。(30代なかば)
小川町に来て色々な人に出会って良かったと思います。
いつも問題にぶつかりながら対応して来ていて、今も続いています。
どうやって後継者を育てていくかと言うことがすごく大事で、自分に反発してくる後継者が育ってくれる必要があると思います。
教えてしまうと失敗が出来ない、失敗をする機会を失ってしまう。
自由に色々やってもらうことで、町のいい後継者を作ることだと思いますが難しいことで、忍耐力が必要だと思います。
大震災が2011年にあって、人が変わったように思います。
家族とは、どういうふうにして自分の暮らしを守って行くのかとか、立ち止まって考え直したのではないかと、日本中で起こっているのではないかと感じています。
4年前ベトナムに行く機会があったが、或る村の村長が35歳で、村を動かしている人たちはみな30代で、60代の人たちは悠々自適でやっていて、30代、40代の人たちがどんどん表に出て行く形、問題があった時には我々が助言が必要であれば助言する、そういう町であってほしい、そう言う有機農業のグループであって欲しい。
2017年10月31日火曜日
2017年10月30日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】中島敦
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】中島敦
「俺は詩によって名をなそうと思いながら進んで詩についたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に務めたりすることをしなかった。
己のたまに有らざることを恐れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、益々己の内なる臆病な自尊心を飼い太らせる結果になった。
この尊大な羞恥心が猛獣だった。
虎だったのだ。」(「山月記」からの抜粋 中島敦)
中島敦は1909年生まれ 太宰治、大岡昇平、松本清張も同年に生まれている。
「どんなに面白い作品でも教室でテキストとして使うと途端に面白くなくなってしまう。」と言っている。
何故虎になるか、人の性格、性質は猛獣みたいなもので、それを猛獣使いのようにうまくコントロールしなくてはいけないが、自分はそれに失敗したので虎になってしまったと言っている。
心の中の猛獣、「山月記」の場合は臆病な自尊心と尊大な羞恥心だった。
その説明が先ほどの冒頭の引用の部分。
詩人になりたかったのに全力では努力しなかった、自分に才能がないかもしれない、才能がない場合全力で努力して詩人になれなかったら、自尊心が傷ついてしまう、それが恐ろしくて努力できなかった。
一方で才能があるのではないかと言う思いもあったから、諦めきることもできなくてどっちもできなかった。
そういう心理を臆病な自尊心、尊大な羞恥心と呼んでいる。
自分で自分にハンディーを与えて失敗した時に、自尊心に傷つかないようにあらかじめ失敗しそうなふうに自分を持って行ってしまう。
「俺よりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたために堂々とした詩家に成った者が幾らでも居るのだ。
それを思うと俺は今も胸を焼かれるような悔いを感じる。」(「山月記」からの抜粋)
全力で努力するという事はなかなか難しい、それで失敗したらどうしようと考えるとなかかな全力で努力という事はできない。 そして自分で自分の足を引っ張ってしまう。
「落胆しないために初めから欲望をもたず、成功しないであろうとの余見からてんで努力をしようとせず、辱めを受けたり気まずい思いをしたくないため、人中へ出まいとし、自分が頼まれた場合の困惑を誇大して類推しては、自分から他人にものを依頼することが全然できなくなってしまった。」(カメレオン日記から)
成功しないだろうからそもそも努力しない、厭な目に逢いたくないから人と付き合わない、相手から嫌がられないように人に何も頼まないようにする、ネガティブシンキングのポイントを突いている。
ネガティブシンキングはいい面は全て失うことにもなってしまう。
厭なことが起きない代わりに良いことも起きない。
人はずーっと同じ状態が続くと段々不幸な気持ちになるらしい。
幸福な気持を或る程度保つためにはずーっとちょっとずつ良い事がないと無理で、ずーっと同じ状態だと段々不幸な気持になって来る。
快適な生活を続けていると、快適に感じる幅が狭くなって来る、僅かなことでも不快に感じるようになる。
幸福に生きていたいと思ったら、不快も必要なんです。
ポジティブシンキングでもなくネガティブシンキングでもなく、程ほどが良いわけです。
ほどほどなのかどうか、8分目食べなさいと言われても今6分目なのか7分目なのか8分目なのか、なかなかわからない、失敗しながら身につけて行くしかない。
パラオから妻にあてた手紙
「そりゃあね、丈夫な人ならそうして後20年ぐらい大丈夫、生きられる自信のある人なら2年や3年おまえたちと離れて情けない暮らしをしても、後でそれを取り返すことが出来るんだから良いさ、しかし僕には将来どれだけ生きられるやらまるで自信がない。
それを思うと見栄も意地もない、ただただお前たちとの平和な生活を静かに楽しみたいと言うだけの気持ちになる。
それが一番正直なところなのに、おれはいまごろこんな病気の身体をして、何のためにうろうろと南の果てをうろついているんだ、全く大馬鹿野郎だな俺は。」 (昭和16年9月20日 パラオから妻にあてた手紙)
中島敦は喘息が持病だったが、暖かい方がいいということで、たまたま南方の仕事で行く機会があった。
給料の1/3が薬代に費やされたと言う。
行ったとたんに南国ならではの病気もあり、又病気になってしまう。
嘆きの手紙を奥さんに送っている。
中島は自分が子供のころには家庭に恵まれなかった、両親が離婚、母親とは行き別れ、5歳の時に父親が再婚するが二番目の母親からは虐められ、三番目の母親は浪費家で莫大な借金に苦しめられる。
中島自身は結婚してからは家庭を大事にしている。
成績優秀で東京帝大を卒業して、大学院を途中で辞めて横浜の女子高の先生になってしまう。(周囲はかなり驚く)
学者になりたかったのではなくて小説家になりたかった。(小説家になる為に女子高の先生になって時間がとれる方を選んだ)
しかし喘息の病気になってしまい、お金に困り小説もうまくいかない。
そのままの状態で南国へ行ってしまうが、南国での病気になってしまう。
全然違うほうに人生が反れて行ってしまう。
「夜、床に就いてからじっと目を閉じて、人類が無くなった後の無意味な真っ黒な無限の時の流れを想像して恐ろしさに耐えられず、アッとおおきな声を出して飛び上がったりすることが多かった。
その度に幾度も父に叱られたものである。
夜、電車通りを歩いていて、ひょいとこの恐怖が起こって来る。
すると今まで聞こえていた電車の響きも聞こえなくなり、擦れ違う人の身も目に入らなくなって、ジーンと静まりかえった世界の真ん中にたった一人でいるような気がしてくる。
その時、彼の踏んでいる大地は何時もの平らな地面ではなく、人々の死に絶えてしまった冷え切った丸い遊星の表面なのだ。」 (「狼疾記」の一節)
宇宙的孤独のような感じ、人類もいなくなって、太陽も消滅して無の世界を心配している。
この短編小説の冒頭に孟子の言葉を引用している。
「その一指を養い、しかもその肩と背を失いても知らざれば、すなわち狼疾の人となさん」 (孟子の言葉)
一本の指をかばって、逆に肩や背まで失ってしまうような人は心の乱れている人だ。
短編の最初に引用している。
優先順位を間違えてしまう、それをやってしまうのが人間。(後から考えると、つまらないことにこだわって肝心なことを失敗する)
「みづからの運命(さだめ)知りつゝなほ高く上(のぼ)らむとする人間(ひと)よ切なし」
「しかすがになほ我はこの生を愛す喘息の夜の苦しかりとも」
「俺は詩によって名をなそうと思いながら進んで詩についたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に務めたりすることをしなかった。
己のたまに有らざることを恐れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、益々己の内なる臆病な自尊心を飼い太らせる結果になった。
この尊大な羞恥心が猛獣だった。
虎だったのだ。」(「山月記」からの抜粋 中島敦)
中島敦は1909年生まれ 太宰治、大岡昇平、松本清張も同年に生まれている。
「どんなに面白い作品でも教室でテキストとして使うと途端に面白くなくなってしまう。」と言っている。
何故虎になるか、人の性格、性質は猛獣みたいなもので、それを猛獣使いのようにうまくコントロールしなくてはいけないが、自分はそれに失敗したので虎になってしまったと言っている。
心の中の猛獣、「山月記」の場合は臆病な自尊心と尊大な羞恥心だった。
その説明が先ほどの冒頭の引用の部分。
詩人になりたかったのに全力では努力しなかった、自分に才能がないかもしれない、才能がない場合全力で努力して詩人になれなかったら、自尊心が傷ついてしまう、それが恐ろしくて努力できなかった。
一方で才能があるのではないかと言う思いもあったから、諦めきることもできなくてどっちもできなかった。
そういう心理を臆病な自尊心、尊大な羞恥心と呼んでいる。
自分で自分にハンディーを与えて失敗した時に、自尊心に傷つかないようにあらかじめ失敗しそうなふうに自分を持って行ってしまう。
「俺よりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたために堂々とした詩家に成った者が幾らでも居るのだ。
それを思うと俺は今も胸を焼かれるような悔いを感じる。」(「山月記」からの抜粋)
全力で努力するという事はなかなか難しい、それで失敗したらどうしようと考えるとなかかな全力で努力という事はできない。 そして自分で自分の足を引っ張ってしまう。
「落胆しないために初めから欲望をもたず、成功しないであろうとの余見からてんで努力をしようとせず、辱めを受けたり気まずい思いをしたくないため、人中へ出まいとし、自分が頼まれた場合の困惑を誇大して類推しては、自分から他人にものを依頼することが全然できなくなってしまった。」(カメレオン日記から)
成功しないだろうからそもそも努力しない、厭な目に逢いたくないから人と付き合わない、相手から嫌がられないように人に何も頼まないようにする、ネガティブシンキングのポイントを突いている。
ネガティブシンキングはいい面は全て失うことにもなってしまう。
厭なことが起きない代わりに良いことも起きない。
人はずーっと同じ状態が続くと段々不幸な気持ちになるらしい。
幸福な気持を或る程度保つためにはずーっとちょっとずつ良い事がないと無理で、ずーっと同じ状態だと段々不幸な気持になって来る。
快適な生活を続けていると、快適に感じる幅が狭くなって来る、僅かなことでも不快に感じるようになる。
幸福に生きていたいと思ったら、不快も必要なんです。
ポジティブシンキングでもなくネガティブシンキングでもなく、程ほどが良いわけです。
ほどほどなのかどうか、8分目食べなさいと言われても今6分目なのか7分目なのか8分目なのか、なかなかわからない、失敗しながら身につけて行くしかない。
パラオから妻にあてた手紙
「そりゃあね、丈夫な人ならそうして後20年ぐらい大丈夫、生きられる自信のある人なら2年や3年おまえたちと離れて情けない暮らしをしても、後でそれを取り返すことが出来るんだから良いさ、しかし僕には将来どれだけ生きられるやらまるで自信がない。
それを思うと見栄も意地もない、ただただお前たちとの平和な生活を静かに楽しみたいと言うだけの気持ちになる。
それが一番正直なところなのに、おれはいまごろこんな病気の身体をして、何のためにうろうろと南の果てをうろついているんだ、全く大馬鹿野郎だな俺は。」 (昭和16年9月20日 パラオから妻にあてた手紙)
中島敦は喘息が持病だったが、暖かい方がいいということで、たまたま南方の仕事で行く機会があった。
給料の1/3が薬代に費やされたと言う。
行ったとたんに南国ならではの病気もあり、又病気になってしまう。
嘆きの手紙を奥さんに送っている。
中島は自分が子供のころには家庭に恵まれなかった、両親が離婚、母親とは行き別れ、5歳の時に父親が再婚するが二番目の母親からは虐められ、三番目の母親は浪費家で莫大な借金に苦しめられる。
中島自身は結婚してからは家庭を大事にしている。
成績優秀で東京帝大を卒業して、大学院を途中で辞めて横浜の女子高の先生になってしまう。(周囲はかなり驚く)
学者になりたかったのではなくて小説家になりたかった。(小説家になる為に女子高の先生になって時間がとれる方を選んだ)
しかし喘息の病気になってしまい、お金に困り小説もうまくいかない。
そのままの状態で南国へ行ってしまうが、南国での病気になってしまう。
全然違うほうに人生が反れて行ってしまう。
「夜、床に就いてからじっと目を閉じて、人類が無くなった後の無意味な真っ黒な無限の時の流れを想像して恐ろしさに耐えられず、アッとおおきな声を出して飛び上がったりすることが多かった。
その度に幾度も父に叱られたものである。
夜、電車通りを歩いていて、ひょいとこの恐怖が起こって来る。
すると今まで聞こえていた電車の響きも聞こえなくなり、擦れ違う人の身も目に入らなくなって、ジーンと静まりかえった世界の真ん中にたった一人でいるような気がしてくる。
その時、彼の踏んでいる大地は何時もの平らな地面ではなく、人々の死に絶えてしまった冷え切った丸い遊星の表面なのだ。」 (「狼疾記」の一節)
宇宙的孤独のような感じ、人類もいなくなって、太陽も消滅して無の世界を心配している。
この短編小説の冒頭に孟子の言葉を引用している。
「その一指を養い、しかもその肩と背を失いても知らざれば、すなわち狼疾の人となさん」 (孟子の言葉)
一本の指をかばって、逆に肩や背まで失ってしまうような人は心の乱れている人だ。
短編の最初に引用している。
優先順位を間違えてしまう、それをやってしまうのが人間。(後から考えると、つまらないことにこだわって肝心なことを失敗する)
「みづからの運命(さだめ)知りつゝなほ高く上(のぼ)らむとする人間(ひと)よ切なし」
「しかすがになほ我はこの生を愛す喘息の夜の苦しかりとも」
「 あるがまゝ醜きがまゝに人生を愛せむと思ふほかに途(みち)なし」
「石となれ石は恐れも苦しみも憤(いかり)もなけむはや石となれ」
「いつか來む滅亡(ほろび)知れれば人間(ひと)の生命(いのち)いや美しく生きむとするか」
(「昭和12年の短歌作品 28歳」)
昭和17年パラオから日本に帰って来るが、喘息と気管支カタルで寝込んでしまう。
翌年33歳の若さで亡くなる。
日本に戻って、作家デビューする、この8か月の間に凄い勢いで名作を書く。
滅びることを判りながら高く昇って行く。
中島は奥さんに背中をさすってもらいながら、その腕の中で亡くなって行く。
奥さんは「かわいそうに、かわいそうに」といって、泣き伏していたらしい。
「常々、彼は人間にはそれぞれの人間にふさわしい事件しか起こらないのだ」(「李陵」の一節)
人にはその人にふさわしい出来事しか起きないと思っていたが、でも実際には違って、全然その人にふさわしくないと思うことが次々に起きて、たとえ初めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処の仕方によって、その運命はその人にふさわしいことがわかって来るのだ、と思っていた。
自分にふさわしくない出来事が起きて、ふさわしくない人生を送っていると感じている人達、何故自分はこんな自分にふさわしくない人生を生きなければいけないんだろうと思いながら生きている人達、そういう人たちは実は多いと思うが、その人たちにとって中島敦の言葉はとっても胸にしみるものがあるのではないかと思います。
「いつか來む滅亡(ほろび)知れれば人間(ひと)の生命(いのち)いや美しく生きむとするか」
(「昭和12年の短歌作品 28歳」)
昭和17年パラオから日本に帰って来るが、喘息と気管支カタルで寝込んでしまう。
翌年33歳の若さで亡くなる。
日本に戻って、作家デビューする、この8か月の間に凄い勢いで名作を書く。
滅びることを判りながら高く昇って行く。
中島は奥さんに背中をさすってもらいながら、その腕の中で亡くなって行く。
奥さんは「かわいそうに、かわいそうに」といって、泣き伏していたらしい。
「常々、彼は人間にはそれぞれの人間にふさわしい事件しか起こらないのだ」(「李陵」の一節)
人にはその人にふさわしい出来事しか起きないと思っていたが、でも実際には違って、全然その人にふさわしくないと思うことが次々に起きて、たとえ初めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処の仕方によって、その運命はその人にふさわしいことがわかって来るのだ、と思っていた。
自分にふさわしくない出来事が起きて、ふさわしくない人生を送っていると感じている人達、何故自分はこんな自分にふさわしくない人生を生きなければいけないんだろうと思いながら生きている人達、そういう人たちは実は多いと思うが、その人たちにとって中島敦の言葉はとっても胸にしみるものがあるのではないかと思います。
2017年10月29日日曜日
釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会)・【スポーツ名場面の裏側で】釜本姉弟、サッカーを語る
釜本美佐子(NPO法人日本ブラインドサッカー協会代表理事)
釜本邦茂(日本サッカー協会顧問)
・【スポーツ名場面の裏側で】釜本姉弟、サッカーを語る
ア:釜本邦茂選手はメキシコオリンピックで6試合で7得点を取り、大会の得点王となる。
釜本美佐子:視覚ブラインドサッカーはかなり知られるようになってきたが、認識ではまだマイナーではないかと思っています。
視覚障害者ですら視覚ブラインドサッカーを知らない人がいます。
ア:2004年のアテネから正式種目になり、日本は4回のパラリンピックではまだ出場がない。
釜本美佐子:2020年の地元開催と言うことで、今回初めて出場することになりました。
釜本美佐子:5人兄弟で兄が2人、私がいて、下に邦茂(4歳違い)、その下に妹がいます。
弟が中学に入って、何にしようかと思ったときに、その時に私がサッカーを勧めました。
釜本邦茂:もしかしてオリンピックに出られると言われて、サッカーにしました。
釜本美佐子:私は英語を勉強する方向に行きました。(海外が一つのモチベーションになったと思います)
ア:大阪外国語大学で英語を学んだ後、通訳の試験に合格、大手旅行会社の第一期のツアーコンダクターとして採用されて、140カ国余りに日本の旅行客を案内しました。
講演、旅行の本も数多く出版、10数年後子供たちのための英語塾を開きました。
50歳過ぎに突然目の病気で、いずれ失明すると宣告されました。
日本ブラインドサッカー協会を作ることになって、2002年発足と同時に理事長となってそれから15年協会のトップを務め続けています。
5年前視力が全くなくなりましたが、一人でマンションで暮らし、ブラインドサッカーと視覚障害者のための活動に忙しい毎日を過ごしています。(現在76歳。)
釜本美佐子:ツアーコンダクターと言うことで海外に行くと言うことになったのは一つの分岐点だったと思います。
突如目が見えないと言う状況になり、すべて放棄しなくてはいけなくなり、それが一番の精神的ショックでした。
網膜色素変性症協会に入り、会長もやって、目が見えないと言うことを受け入れることが又大きな転機になりました。
徐々に見え無くなって行って、色もピンク、黄色が見えなくなり色合いの世界も無くなっていきます。
今は全く見えないが、家の中では日常生活、料理も自分でやっていて外出はヘルパーさんが来てくれるので毎日の生活としてやっています。
網膜色素変性症は日本に3万人いると言われる。
「3秒悩んで決める、判断基準は後悔しないこと」
決断は早いです。
間違っていたら決断をし直せばいいし、くよくよ悩まないをモットーにしています。
釜本邦茂:気が強いし、凄いなあと思います。
楽しい自分の人生をしているなあと思います。
釜本美佐子:早稲田大学の最後の試合は家族全員で見に行って、就職先が決まっていないと言うことでしたが、翌朝の新聞でヤンマーに決まったと新聞に書いてあり、新聞で知りました、自由な家族だったと思います。
釜本邦茂:ブラインドサッカーのことは全然知らなくて、やり方も知りませんでした。
釜本美佐子:2002年に日韓ワールドカップが行なわれたが、2001年に韓国に行って視覚障害者のブラインドサッカーを導入して、普及活動を11月に大阪府立盲学校で行いましたが、その時に弟が来てびっくりしました。
釜本邦茂:大阪協会の岩井さんに観に行きませんかと言われて行きました。
釜本美佐子:ブラインドサッカーは私の後半の人生を大きく変えてくれました。
視覚障害者がサッカーが出来る、こんな素晴らしいことはないと思いました。
日本でもやらなければ、と言う思いで韓国から帰って来ました。
5人制のサッカー 4人が全盲、全盲に近い 40m☓20mの面積、ゴールキーパーが一人。
声を出してくれるガイドがいて、ボールはシャカシャカと言う音が出るようになっています。
条件を同じにするために、全員がアイマスクをします。
声を出せるのは選手とガイドと監督だけです。
ボールを取りに行く時は声をかけないと反則になります。
シーンとして観客には見てもらいます。
釜本邦茂:横田基地から飛行機が飛んで来た時には試合が中止になった時がありました。
釜本邦茂:ブラインドサッカーのポスターに出ました。
ア:京都山城高校で高校日本一になり、早稲田大学では天皇杯の2回の日本一に成り、大学2年の時の東京オリンピックでベスト8のメンバー、メキシコオリンピックではブラジル、スペインと引き分けて決勝ラウンドに進み、順々決勝の時フランスに釜本さんが2点を入れて勝ち、準決勝ハンガリーには破れたが、3位決定戦で2点を釜本さんが入れて2-0で勝ち銅メダル、この大会では7点をあげて大会の得点王となりました。
ヤンマージーゼルではリーグ7回の得点王、チーム優勝4回黄金期を築き、日本代表を14年間務め日本サッカー協会の最多得点保持者になっている。
ガンバ大阪の初代監督、日本サッカー協会副会長、参議院議員を務める。
釜本美佐子:一番の追っかけは母親で私は二番目でした。
釜本邦茂:海外のプロチームからのオファーが5カ国からありました。
行くのだったらドイツと思ったが、肝炎になり行きませんでした。
ア:ブラインドサッカーでは3年前世界選手権で12カ国が出場、日本は6位、現在ランキングは8位。
釜本美佐子:選手の若返りが必要で、ここで若返りをしないと2020年が苦しくなるという危惧があります。
競技人口は日本選手権の出場チームは全国で19、20チームになってきています。
釜本邦茂:日本のサッカーチームも若返りが必要だと思います。
今は役割が決まっていなくて、点を取れないことにもなってるのかもしれない。
11人同じ練習をしていてもしょうがないと思う、個人の練習をしないといけない。
スペシャリストを作ってほしいと思っている。
強くなってゆくためには①普及、②強化、③財政が豊か、3つの要素が必要。
釜本邦茂(日本サッカー協会顧問)
・【スポーツ名場面の裏側で】釜本姉弟、サッカーを語る
ア:釜本邦茂選手はメキシコオリンピックで6試合で7得点を取り、大会の得点王となる。
釜本美佐子:視覚ブラインドサッカーはかなり知られるようになってきたが、認識ではまだマイナーではないかと思っています。
視覚障害者ですら視覚ブラインドサッカーを知らない人がいます。
ア:2004年のアテネから正式種目になり、日本は4回のパラリンピックではまだ出場がない。
釜本美佐子:2020年の地元開催と言うことで、今回初めて出場することになりました。
釜本美佐子:5人兄弟で兄が2人、私がいて、下に邦茂(4歳違い)、その下に妹がいます。
弟が中学に入って、何にしようかと思ったときに、その時に私がサッカーを勧めました。
釜本邦茂:もしかしてオリンピックに出られると言われて、サッカーにしました。
釜本美佐子:私は英語を勉強する方向に行きました。(海外が一つのモチベーションになったと思います)
ア:大阪外国語大学で英語を学んだ後、通訳の試験に合格、大手旅行会社の第一期のツアーコンダクターとして採用されて、140カ国余りに日本の旅行客を案内しました。
講演、旅行の本も数多く出版、10数年後子供たちのための英語塾を開きました。
50歳過ぎに突然目の病気で、いずれ失明すると宣告されました。
日本ブラインドサッカー協会を作ることになって、2002年発足と同時に理事長となってそれから15年協会のトップを務め続けています。
5年前視力が全くなくなりましたが、一人でマンションで暮らし、ブラインドサッカーと視覚障害者のための活動に忙しい毎日を過ごしています。(現在76歳。)
釜本美佐子:ツアーコンダクターと言うことで海外に行くと言うことになったのは一つの分岐点だったと思います。
突如目が見えないと言う状況になり、すべて放棄しなくてはいけなくなり、それが一番の精神的ショックでした。
網膜色素変性症協会に入り、会長もやって、目が見えないと言うことを受け入れることが又大きな転機になりました。
徐々に見え無くなって行って、色もピンク、黄色が見えなくなり色合いの世界も無くなっていきます。
今は全く見えないが、家の中では日常生活、料理も自分でやっていて外出はヘルパーさんが来てくれるので毎日の生活としてやっています。
網膜色素変性症は日本に3万人いると言われる。
「3秒悩んで決める、判断基準は後悔しないこと」
決断は早いです。
間違っていたら決断をし直せばいいし、くよくよ悩まないをモットーにしています。
釜本邦茂:気が強いし、凄いなあと思います。
楽しい自分の人生をしているなあと思います。
釜本美佐子:早稲田大学の最後の試合は家族全員で見に行って、就職先が決まっていないと言うことでしたが、翌朝の新聞でヤンマーに決まったと新聞に書いてあり、新聞で知りました、自由な家族だったと思います。
釜本邦茂:ブラインドサッカーのことは全然知らなくて、やり方も知りませんでした。
釜本美佐子:2002年に日韓ワールドカップが行なわれたが、2001年に韓国に行って視覚障害者のブラインドサッカーを導入して、普及活動を11月に大阪府立盲学校で行いましたが、その時に弟が来てびっくりしました。
釜本邦茂:大阪協会の岩井さんに観に行きませんかと言われて行きました。
釜本美佐子:ブラインドサッカーは私の後半の人生を大きく変えてくれました。
視覚障害者がサッカーが出来る、こんな素晴らしいことはないと思いました。
日本でもやらなければ、と言う思いで韓国から帰って来ました。
5人制のサッカー 4人が全盲、全盲に近い 40m☓20mの面積、ゴールキーパーが一人。
声を出してくれるガイドがいて、ボールはシャカシャカと言う音が出るようになっています。
条件を同じにするために、全員がアイマスクをします。
声を出せるのは選手とガイドと監督だけです。
ボールを取りに行く時は声をかけないと反則になります。
シーンとして観客には見てもらいます。
釜本邦茂:横田基地から飛行機が飛んで来た時には試合が中止になった時がありました。
釜本邦茂:ブラインドサッカーのポスターに出ました。
ア:京都山城高校で高校日本一になり、早稲田大学では天皇杯の2回の日本一に成り、大学2年の時の東京オリンピックでベスト8のメンバー、メキシコオリンピックではブラジル、スペインと引き分けて決勝ラウンドに進み、順々決勝の時フランスに釜本さんが2点を入れて勝ち、準決勝ハンガリーには破れたが、3位決定戦で2点を釜本さんが入れて2-0で勝ち銅メダル、この大会では7点をあげて大会の得点王となりました。
ヤンマージーゼルではリーグ7回の得点王、チーム優勝4回黄金期を築き、日本代表を14年間務め日本サッカー協会の最多得点保持者になっている。
ガンバ大阪の初代監督、日本サッカー協会副会長、参議院議員を務める。
釜本美佐子:一番の追っかけは母親で私は二番目でした。
釜本邦茂:海外のプロチームからのオファーが5カ国からありました。
行くのだったらドイツと思ったが、肝炎になり行きませんでした。
ア:ブラインドサッカーでは3年前世界選手権で12カ国が出場、日本は6位、現在ランキングは8位。
釜本美佐子:選手の若返りが必要で、ここで若返りをしないと2020年が苦しくなるという危惧があります。
競技人口は日本選手権の出場チームは全国で19、20チームになってきています。
釜本邦茂:日本のサッカーチームも若返りが必要だと思います。
今は役割が決まっていなくて、点を取れないことにもなってるのかもしれない。
11人同じ練習をしていてもしょうがないと思う、個人の練習をしないといけない。
スペシャリストを作ってほしいと思っている。
強くなってゆくためには①普及、②強化、③財政が豊か、3つの要素が必要。
2017年10月28日土曜日
三田村邦彦(俳優) ・新潟で育まれた俳優人生
三田村邦彦(俳優) ・新潟で育まれた俳優人生
昭和28年生まれ、新潟県新発田市出身、俳優にあこがれ高校を卒業後に上京して俳優になります。
主演映画「限りなく透明に近いブルー」でデビューし,その後民放のTVドラマ、NHK壬生の恋歌など数々のドラマ、映画舞台に出演してきました。
俳優を志した三田村さんが地元、家族、仕事とどの様に付き合ってきたか伺いました。
30数年前、番組のドラマの主題歌など歌っていてコンサートをやりましたが、地元でやらないといけないと言われてやったが、二度とやりたくなかった。
伯父さんと目があったり同級生が手をふっていたり恥ずかしいなあと思って、それからはコンサートをやっていません。
昭和47年に高校を卒業して上京して、46年になります。
小学校の3年生ぐらいに俳優になりたいと思っていました。
アメリカ映画「雨に唄えば」を観て、その楽しさ、生き生きして、素敵な仕事だなあと思ったのが小学校の高学年の時でした。
父親からは医者に成れと言われていたが、役者になる夢はずーっと黙っていました。
中学2年で、ある人生計画を立てました。
高校は地元で大学に行くような顔をして勉強しようと決めました。
新発田高校2年で理系(医者になるには理系)を選び、その夏休みに大学の下見と言うことで、2週間東京に出ました。
あらかじめ調べておいて全て劇団、お芝居を見て、戻って来ました。
高校3年の時に大学の受験に行き全て白紙で出しました。
地元と東京の予備校の資料を集めて、東京の予備校にいくほうが進学率が高い事を父親に説得して東京に行くことにしました。
新宿から15分の小さい部屋のアパートを借りて、予備校には行かずにタレントセンターを受けて特待生として受かって、翌年文学座を受けようとしました。
父親にはもう嘘をつけないと思って父親に手紙を出しました。
1週間後にアパートの暗がりに女性(母親らしい)が立っていました。
恐る恐る行ったら「邦彦」と言ってウワーッと泣かれて、部屋に上がり話を一晩中話しました。
お前を連れて帰らないと私は家に入れてもらえないと言われてしまって、朝方に帰ろうと言うことになり、上野駅で特急に乗ることになり、ベルが鳴る前に飛び降りようと思いました。
ベルが鳴りこの機会しかないと駆け出したが、母親も必死についてきてしまいました。
力づくで母親を車内に押しやり、しまる瞬間まで押し込んで、僕はホームに素早く離れました。
母親が涙をぼろぼろ流して悲しそうな顔で僕をじーっと見ていて遠くなっていくが、その時にはさすがに心が痛かったですね。
4,5日してから父親から手紙が来て、嘘を言って親を騙して今まで生きてきて許せない、勝手にしろ勘当だと言う手紙を貰って、小躍りしました。
万歳しました、俺の人生の始まりだと思いました。
翌年文学座を5000人が受けて、一次試験で落ちてしまって、もう一回ちゃんと勉強しようと思って次の年に文学座、劇団青俳(滑り止め)を受けました。
文学座はやはり5000人ぐらいが受け、一次は受かって(100人ぐらい受かった)面接で親の援助があるか聞かれて勘当されたので援助は有りませんと答えました。
アルバイトはとび職など色んな仕事をしました。
親に頭を下げて援助を受けるように言われたが頼めませんとかなりの口論になりました。
文学座は多分駄目だと思いました。(やはりだめだった)
劇団青俳では一次が受かって、面接で木村功さんの舞台を見て感動してどうしてもこの劇団に入りたいと思うといって、親の援助はあるのかと聞かれ有りますと答えました。
(学習能力に依る嘘)受かりました。
アルバイトしながらですと、お金が底をついて出来なくなる。
金曜日の夜から土、日、月曜日朝までアルバイトをして3万円貰えた。(大卒初任給8万円ぐらい)
本公演、稽古、準備などがあり、下っ端は色んな事をやらなくてはいけなくて、2カ月アルバイトはできなくなり、1週間50円で生活したことがあります。
どうしようもなくなってアパートを変えると、小包みが届いていて、手紙、着るもの、お金が入っていたり、母親からのものでした。(何回かある)
ある主役の話があり断ったが、蜷川さんからお前は馬鹿かと言われました。
その後「限りなく透明に近いブルー」の話があって本を買って読んだら、判らなくて8ページ読んでゴミ箱に捨ててしまいました。
村上龍さんから会ってくれないかとしつこく言われて会って、台本を渡されました。
やっぱり良く分からなくて、本を捨てた話もしました。
どこが判らないのか検証しようと言うことで、直すよとそこまで言ってくれました。
でも断わってしまいました。
蜷川さんから又連絡がありお前みたいな馬鹿は見たこと無い、こんなチャンスは人生に一回無い方が多いのに、2回も断るなんてどうしようもない馬鹿だと言われました。
村上龍さんから連絡があり台本を変えたので、もう一回読んでほしいと言われて、ここまで変えてくれたという事で、映画でデビューさせてもらいました。
封切りが1977年だったと思います。
「例えば愛」と言うドラマでも出させてもらいました。
週4日、5日の収録で2日、3日のアルバイトをしていました。
「必殺仕事人」で京都にいったらアルバイト先が無くて、困って交渉して週3万円を支給してもらうことになりましたがギリギリの生活でした。
松竹の撮影だが東映の寮に1400円で泊っていました。
藤田まことさんからは食事によく誘ってもらいました。
どうしてこんなに引き出しの多い人だろうと思って、公私ともに観察しました。
或る時藤田さんから自分の事を少しづつ話して貰うようになって、藤田まことさんの人生は本当に大変な人生を送られたことが判りました。
昭和28年生まれ、新潟県新発田市出身、俳優にあこがれ高校を卒業後に上京して俳優になります。
主演映画「限りなく透明に近いブルー」でデビューし,その後民放のTVドラマ、NHK壬生の恋歌など数々のドラマ、映画舞台に出演してきました。
俳優を志した三田村さんが地元、家族、仕事とどの様に付き合ってきたか伺いました。
30数年前、番組のドラマの主題歌など歌っていてコンサートをやりましたが、地元でやらないといけないと言われてやったが、二度とやりたくなかった。
伯父さんと目があったり同級生が手をふっていたり恥ずかしいなあと思って、それからはコンサートをやっていません。
昭和47年に高校を卒業して上京して、46年になります。
小学校の3年生ぐらいに俳優になりたいと思っていました。
アメリカ映画「雨に唄えば」を観て、その楽しさ、生き生きして、素敵な仕事だなあと思ったのが小学校の高学年の時でした。
父親からは医者に成れと言われていたが、役者になる夢はずーっと黙っていました。
中学2年で、ある人生計画を立てました。
高校は地元で大学に行くような顔をして勉強しようと決めました。
新発田高校2年で理系(医者になるには理系)を選び、その夏休みに大学の下見と言うことで、2週間東京に出ました。
あらかじめ調べておいて全て劇団、お芝居を見て、戻って来ました。
高校3年の時に大学の受験に行き全て白紙で出しました。
地元と東京の予備校の資料を集めて、東京の予備校にいくほうが進学率が高い事を父親に説得して東京に行くことにしました。
新宿から15分の小さい部屋のアパートを借りて、予備校には行かずにタレントセンターを受けて特待生として受かって、翌年文学座を受けようとしました。
父親にはもう嘘をつけないと思って父親に手紙を出しました。
1週間後にアパートの暗がりに女性(母親らしい)が立っていました。
恐る恐る行ったら「邦彦」と言ってウワーッと泣かれて、部屋に上がり話を一晩中話しました。
お前を連れて帰らないと私は家に入れてもらえないと言われてしまって、朝方に帰ろうと言うことになり、上野駅で特急に乗ることになり、ベルが鳴る前に飛び降りようと思いました。
ベルが鳴りこの機会しかないと駆け出したが、母親も必死についてきてしまいました。
力づくで母親を車内に押しやり、しまる瞬間まで押し込んで、僕はホームに素早く離れました。
母親が涙をぼろぼろ流して悲しそうな顔で僕をじーっと見ていて遠くなっていくが、その時にはさすがに心が痛かったですね。
4,5日してから父親から手紙が来て、嘘を言って親を騙して今まで生きてきて許せない、勝手にしろ勘当だと言う手紙を貰って、小躍りしました。
万歳しました、俺の人生の始まりだと思いました。
翌年文学座を5000人が受けて、一次試験で落ちてしまって、もう一回ちゃんと勉強しようと思って次の年に文学座、劇団青俳(滑り止め)を受けました。
文学座はやはり5000人ぐらいが受け、一次は受かって(100人ぐらい受かった)面接で親の援助があるか聞かれて勘当されたので援助は有りませんと答えました。
アルバイトはとび職など色んな仕事をしました。
親に頭を下げて援助を受けるように言われたが頼めませんとかなりの口論になりました。
文学座は多分駄目だと思いました。(やはりだめだった)
劇団青俳では一次が受かって、面接で木村功さんの舞台を見て感動してどうしてもこの劇団に入りたいと思うといって、親の援助はあるのかと聞かれ有りますと答えました。
(学習能力に依る嘘)受かりました。
アルバイトしながらですと、お金が底をついて出来なくなる。
金曜日の夜から土、日、月曜日朝までアルバイトをして3万円貰えた。(大卒初任給8万円ぐらい)
本公演、稽古、準備などがあり、下っ端は色んな事をやらなくてはいけなくて、2カ月アルバイトはできなくなり、1週間50円で生活したことがあります。
どうしようもなくなってアパートを変えると、小包みが届いていて、手紙、着るもの、お金が入っていたり、母親からのものでした。(何回かある)
ある主役の話があり断ったが、蜷川さんからお前は馬鹿かと言われました。
その後「限りなく透明に近いブルー」の話があって本を買って読んだら、判らなくて8ページ読んでゴミ箱に捨ててしまいました。
村上龍さんから会ってくれないかとしつこく言われて会って、台本を渡されました。
やっぱり良く分からなくて、本を捨てた話もしました。
どこが判らないのか検証しようと言うことで、直すよとそこまで言ってくれました。
でも断わってしまいました。
蜷川さんから又連絡がありお前みたいな馬鹿は見たこと無い、こんなチャンスは人生に一回無い方が多いのに、2回も断るなんてどうしようもない馬鹿だと言われました。
村上龍さんから連絡があり台本を変えたので、もう一回読んでほしいと言われて、ここまで変えてくれたという事で、映画でデビューさせてもらいました。
封切りが1977年だったと思います。
「例えば愛」と言うドラマでも出させてもらいました。
週4日、5日の収録で2日、3日のアルバイトをしていました。
「必殺仕事人」で京都にいったらアルバイト先が無くて、困って交渉して週3万円を支給してもらうことになりましたがギリギリの生活でした。
松竹の撮影だが東映の寮に1400円で泊っていました。
藤田まことさんからは食事によく誘ってもらいました。
どうしてこんなに引き出しの多い人だろうと思って、公私ともに観察しました。
或る時藤田さんから自分の事を少しづつ話して貰うようになって、藤田まことさんの人生は本当に大変な人生を送られたことが判りました。
2017年10月27日金曜日
松岡享子(東京子ども図書館・翻訳家) ・わくわく読書(2)
松岡享子(東京子ども図書館名誉理事長・翻訳家)・わくわく読書(2)
東京に戻ってから、自分の家で文庫を開きました。
子供にサービスをすることをしたかった。
家を改造して週に一回近所の子供達に来てもらいました。
350冊ぐらいでした。
6月に開いて12月には倍になりました。
11月頃には登録者が100人ぐらいになりました。
家庭文庫ではアメリカで習得してやりたいと思ったことが100%出来ました。
読み聞かせの反応は凄かったです。
東京にある4つの文庫で働いている人たちが1月に一回集まって話をしていたのですが小さすぎると言うことで、少し大きい図書館がほしいと言うことになり、法人化したらどうかと言う話が持ち上がりました。
最初は建物もなく、アパートを借りて、すこしずつ広げていきました。
建物が出来たのは設立してから20年後になります。
法人化は石井先生の提案で、弁護士さんと話し合って、手続きを始めたが、財産もなく本当は認可されないような状況でした。
石井桃子さん、土屋滋子さん、佐々梨代子さん等が今後10年間これだけの寄付しますということで認可が下りました。
財政的には厳しくて、設立準備委員会の時代から出版を始めてその現金収入があり、支援の賛助会員の支え、寄付などで何とかやってこられました。
現在も厳しさは続いています。
心配性でなかったからやってこられたのかと思います。
一般の人の関心も高まって来ました。
中学に入って英語の勉強を始めましたが、英語が好きでした。
話す事に関しては大学で教わりました。
大阪の図書館で働いていたときに、訳してみませんかと言われて始めました。
その後次々に翻訳をするようになりました。
翻訳の仕事で生活を支えて来ました。
ブルーナさんはデザインの世界でも絵本の世界でも沢山の仕事を残されました。
オランダに行ったときに松井さんはこれはすごい本だと直感されて「うさこちゃん」の翻訳出版をしました。
石井桃子さんから翻訳を次は頼むと言われて、私はオランダ語が出来ないのでオランダ語を勉強すると同時に、野坂悦子さんに原文を単語を一つづ意味を書いてもらって、意味を大事にして4行に収める事を考えました。
オランダ人の勤勉さ、清潔さ、日常の生活をしっかり生きている、そういう子供の生活を本当によく描いています。
いい絵本を読んでやっていると子供達は本の中に入り込んでいると言うことがよくわかります。
子供と一緒に本を読んでいると自分一人では起きない事が起きます。
子供が小さな事に対しても目を通して、子供がいうことでえっと思う時があります。
アメリカにいるときは英語の読み聞かせもやっていました。
反応は全く同じです、同じ所で同じ顔をします。
違うところは日本の子供はキスと言う言葉などには過剰に反応します。
日本語の文章はは高低のアクセントで、英語はアクセントが強弱なので、いい英語の本は声を出して読むとひとりでに強弱のリズムが付いてきて心地良くなります。
200冊ぐらいを訳してきました。
世界中のいい児童文学を日本の子供は読めると言うことが幸せだと思います。
空想の世界の楽しさ、ユーモアとかが外国文学にあるので幸せだと思います。
子供が本を好きになる秘訣としては、子供の生活の中に本があるという事と、大人が子供に本を読んでやる、この二つだと思います。
子供の時に本を読んでやっておいたら、大人になった時にこんないいことがあると言うこともあるかもしれないけれど、子供が子供の時点で楽しい思いをするのだったら、後に影響を残さなくてもいいと思っています。
結果のために今本を読むと言うことではないと思っています。
楽しさを子供の時に味わってもらいたいと思います。
東京に戻ってから、自分の家で文庫を開きました。
子供にサービスをすることをしたかった。
家を改造して週に一回近所の子供達に来てもらいました。
350冊ぐらいでした。
6月に開いて12月には倍になりました。
11月頃には登録者が100人ぐらいになりました。
家庭文庫ではアメリカで習得してやりたいと思ったことが100%出来ました。
読み聞かせの反応は凄かったです。
東京にある4つの文庫で働いている人たちが1月に一回集まって話をしていたのですが小さすぎると言うことで、少し大きい図書館がほしいと言うことになり、法人化したらどうかと言う話が持ち上がりました。
最初は建物もなく、アパートを借りて、すこしずつ広げていきました。
建物が出来たのは設立してから20年後になります。
法人化は石井先生の提案で、弁護士さんと話し合って、手続きを始めたが、財産もなく本当は認可されないような状況でした。
石井桃子さん、土屋滋子さん、佐々梨代子さん等が今後10年間これだけの寄付しますということで認可が下りました。
財政的には厳しくて、設立準備委員会の時代から出版を始めてその現金収入があり、支援の賛助会員の支え、寄付などで何とかやってこられました。
現在も厳しさは続いています。
心配性でなかったからやってこられたのかと思います。
一般の人の関心も高まって来ました。
中学に入って英語の勉強を始めましたが、英語が好きでした。
話す事に関しては大学で教わりました。
大阪の図書館で働いていたときに、訳してみませんかと言われて始めました。
その後次々に翻訳をするようになりました。
翻訳の仕事で生活を支えて来ました。
ブルーナさんはデザインの世界でも絵本の世界でも沢山の仕事を残されました。
オランダに行ったときに松井さんはこれはすごい本だと直感されて「うさこちゃん」の翻訳出版をしました。
石井桃子さんから翻訳を次は頼むと言われて、私はオランダ語が出来ないのでオランダ語を勉強すると同時に、野坂悦子さんに原文を単語を一つづ意味を書いてもらって、意味を大事にして4行に収める事を考えました。
オランダ人の勤勉さ、清潔さ、日常の生活をしっかり生きている、そういう子供の生活を本当によく描いています。
いい絵本を読んでやっていると子供達は本の中に入り込んでいると言うことがよくわかります。
子供と一緒に本を読んでいると自分一人では起きない事が起きます。
子供が小さな事に対しても目を通して、子供がいうことでえっと思う時があります。
アメリカにいるときは英語の読み聞かせもやっていました。
反応は全く同じです、同じ所で同じ顔をします。
違うところは日本の子供はキスと言う言葉などには過剰に反応します。
日本語の文章はは高低のアクセントで、英語はアクセントが強弱なので、いい英語の本は声を出して読むとひとりでに強弱のリズムが付いてきて心地良くなります。
200冊ぐらいを訳してきました。
世界中のいい児童文学を日本の子供は読めると言うことが幸せだと思います。
空想の世界の楽しさ、ユーモアとかが外国文学にあるので幸せだと思います。
子供が本を好きになる秘訣としては、子供の生活の中に本があるという事と、大人が子供に本を読んでやる、この二つだと思います。
子供の時に本を読んでやっておいたら、大人になった時にこんないいことがあると言うこともあるかもしれないけれど、子供が子供の時点で楽しい思いをするのだったら、後に影響を残さなくてもいいと思っています。
結果のために今本を読むと言うことではないと思っています。
楽しさを子供の時に味わってもらいたいと思います。
2017年10月26日木曜日
松岡享子(東京子ども図書館・翻訳家) ・わくわく読書(1)
松岡享子(東京子ども図書館名誉理事長・翻訳家)・わくわく読書(1)
東京中野区にある東京子供図書館は公益財団法人の図書館で子供の本と読書を専門としています。
図書館を設立したメンバーの一人松岡さんは82歳です。
アメリカの大学院で児童図書館学科を専攻した後公共図書館で児童図書館員として勤務しました。
日本に帰国後大阪の図書館に勤務しましたが、子供の仕事を専門に続けることが出来ないことが判って東京の自宅で家庭文庫を開きました。
300冊ほどの本でのスタートでしたが、アメリカの図書館で行っていた読み聞かせなどのサービスを実施しました。
その後松岡さんの文庫など都内の家庭文庫が母体となり東京子供図書館が設立されました。
子供に読書のわくわく感を伝えようと活動を繰り広げる東京子供図書館、1日目は図書館を設立するまでを中心に伺います。
うちでは読んでもらいたい子供には心行くまで読むと言うことをしているので、ずっと帰るまで読んでもらっている子もいます。
そばに本が有るだけでもいいし、本が有る場所に身を置くと言うことでもいいし、本の持っている力が本の中に有ると思うので、空気のようににじみ出て、その空気の中に身を置くと言うのはいいことだと思います。
児童室には8000冊ぐらいで、少ないがほとんど基本的な要求は満たすことが出来ると思います。
私は本が好きですし、子供が好きです。
子供のころはそんなに本を読んでいたとは思いません、本はあまりなくて図書館などはありませんでした。
繰り返し読んでいたことは事実です。
8歳上の姉に親が本を買ってくれてそれを読んでいました。
一人でいることが好きでぼんやり空想をすることをよくしていたように思います。
小学校には体育館がなくて体育の日が雨の時にはよく話をする機会があり、よく先生に呼ばれて本の話をしたりして、人に話をすることが好きだったんだと思います。
自分で本が手に入るようになってからは随分読んだと思います。
高等学校の時に転校しましたが、図書館に本が沢山あり毎日通って本を読んでいました。
一日一冊と自分で決めて手当たりしだい読みました。
この世の中には自分とはまったく違う興味を持って、まったく違う境遇で、まったく違う生き方をしている人たちが大勢いることが、私の中に育ってきたように思います。
子供の本に関する仕事をしたいという願いは漠然とありましたが、職種としてどんなことが有るか分からなかった。
小説を書こうかと思ったが、やって見て駄目だと思いました。
英語をやれば役に立つと思って大学では英語の勉強をしました。
卒業後、家庭教師をしながら過ごしていました。
新聞の片隅に慶応大学の図書館学科で学生を募集していると言う小さな広告を見て、図書館学科と言うのは聞いたことがなくて、卒業論文を書くときにライブラリーと言う言葉によく出会って、児童文学とライブラリーがなんとなく関係があると言うことがわかっていたので、図書館学科では子供の本や子供の文学の事を勉強できるのではないかと思って、出かけて行って編入試験を受けて3年生に編入しました。
踏ん切りのつかないたちですが、その時の行動は自分でも不思議に思っています。
勉強は分類法、目録法、参考資料などが主なことでしたが、目録には興味が持てませんでした。
渡辺 茂男先生がアメリカで勉強して、児童図書館員として働く経験も持って、子供に対する読書サービスの事を教えていただいて、とっても嬉しかったです。
子供の時に図書館の存在を知らなかったので、慶応大学の図書館学科に行って一番よかったのは、そこで公立図書館の存在とその役割の大きさについて知ることが出来たことです。
アメリカの公立の図書館には必ず児童室があって、専門の児童図書館員が子供達をいい読書人に育てるための色んなサービスをおこなっているということを知って、子供と一緒に本を楽しんで、話を語ったりする事が仕事として出来ることが夢のようなことでした。
終戦後、占領軍の教育視察団が日本の教育は余りにも学校教育に偏重しすぎて、社会教育に全然関心が向けられていない、だから日本を民主国家にするためには、学校だけではなくて公立の公共図書館が社会教育の中心にならなくてはいけない、そのためには公共図書館で働く図書館員を育てなくてはならないということで、アメリカの図書館協会から先生が派遣されてたち上げた学校だったので、公共図書館の存在と子供にサービスをするということを叩きこまれたことは本当にありがたかったです。
日本には児童図書館員と言う職業はなくて、図書館学科の図書館員として働いていたら、留学の機会に恵まれました。
アメリカのミシガン州のウエスタンミシガン大学の図書館学科(大学院)に留学しました。
難しい分類法、目録法等は日本で勉強しているので取らなくていいと言ってもらったので有難かったです。
子供の読書に関する色々な科目だけを取れたので、充実したいい時期でした。
地元の児童図書館を見学などもさせてもらって、実際の体験をしてみたいと言う気持ちが強くあって、先生から声をかけてもらって市立図書館に面接もなく採用されました。
ボルティモア市は98万人ぐらいの都市で、中央館のほかに25分館があり、一番小さい図書館に配属されました
館長(大人担当)と児童図書館員1人で、そこに私が加わりました。
子供達から色々要望されて、行ったり来たりして足が膨らんで靴がはけられなくなるぐらい動きました。
夏休み前は8つの学校の各クラスに行って、夏休みになったら来て下さいと行って廻ったりして、色々楽しくやりました。
市には児童図書館員が35人ぐらいいて、毎月一回ミーティングしたり、本の選択委員会があり、新刊書の検討をして購入するかどうかを討議して決めたり、新人の研修会で話し方の研修があったりして、いい図書館員になるためのプログラムが有りました。
この分館では8割がたが黒人の地域で、図書館がなければ本を読めない様な所でしたが、いい本がたくさんあるのでよろこんで読んで帰っていました。
学生ビザで行っていたので、延長するとなると移民局に行って手続きをしなければいけなくて、日本に早く帰ってこのような図書館をやりたくて1年で帰って来ました。
大阪の市立中央図書館の小中学生室で働くことになりました。
アメリカと日本は驚くべき差でした。
受験生の勉強部屋でした、800席も有るおおきな学習室があり、図書館の本は一冊も使わずに自分の参考書で勉強する、と言うようなところでした。
本を読んであげようかというと変な顔をされたりしました。
余り厭だと言わない小さな子に読んであげていたら、友達を連れて来て、聞いてくれたりしました。
本を読んで聞かせることを一生懸命しました。
複本は入れない規則があるとか、図書館員は児童室に入れる本を選ぶ権利がなくて、アメリカとは考えられない差でした。
一番大変だったのは人は3年働いたらそこにはいられないという規則も有りました。
2年半働いて辞めることになってしまいました。
東京中野区にある東京子供図書館は公益財団法人の図書館で子供の本と読書を専門としています。
図書館を設立したメンバーの一人松岡さんは82歳です。
アメリカの大学院で児童図書館学科を専攻した後公共図書館で児童図書館員として勤務しました。
日本に帰国後大阪の図書館に勤務しましたが、子供の仕事を専門に続けることが出来ないことが判って東京の自宅で家庭文庫を開きました。
300冊ほどの本でのスタートでしたが、アメリカの図書館で行っていた読み聞かせなどのサービスを実施しました。
その後松岡さんの文庫など都内の家庭文庫が母体となり東京子供図書館が設立されました。
子供に読書のわくわく感を伝えようと活動を繰り広げる東京子供図書館、1日目は図書館を設立するまでを中心に伺います。
うちでは読んでもらいたい子供には心行くまで読むと言うことをしているので、ずっと帰るまで読んでもらっている子もいます。
そばに本が有るだけでもいいし、本が有る場所に身を置くと言うことでもいいし、本の持っている力が本の中に有ると思うので、空気のようににじみ出て、その空気の中に身を置くと言うのはいいことだと思います。
児童室には8000冊ぐらいで、少ないがほとんど基本的な要求は満たすことが出来ると思います。
私は本が好きですし、子供が好きです。
子供のころはそんなに本を読んでいたとは思いません、本はあまりなくて図書館などはありませんでした。
繰り返し読んでいたことは事実です。
8歳上の姉に親が本を買ってくれてそれを読んでいました。
一人でいることが好きでぼんやり空想をすることをよくしていたように思います。
小学校には体育館がなくて体育の日が雨の時にはよく話をする機会があり、よく先生に呼ばれて本の話をしたりして、人に話をすることが好きだったんだと思います。
自分で本が手に入るようになってからは随分読んだと思います。
高等学校の時に転校しましたが、図書館に本が沢山あり毎日通って本を読んでいました。
一日一冊と自分で決めて手当たりしだい読みました。
この世の中には自分とはまったく違う興味を持って、まったく違う境遇で、まったく違う生き方をしている人たちが大勢いることが、私の中に育ってきたように思います。
子供の本に関する仕事をしたいという願いは漠然とありましたが、職種としてどんなことが有るか分からなかった。
小説を書こうかと思ったが、やって見て駄目だと思いました。
英語をやれば役に立つと思って大学では英語の勉強をしました。
卒業後、家庭教師をしながら過ごしていました。
新聞の片隅に慶応大学の図書館学科で学生を募集していると言う小さな広告を見て、図書館学科と言うのは聞いたことがなくて、卒業論文を書くときにライブラリーと言う言葉によく出会って、児童文学とライブラリーがなんとなく関係があると言うことがわかっていたので、図書館学科では子供の本や子供の文学の事を勉強できるのではないかと思って、出かけて行って編入試験を受けて3年生に編入しました。
踏ん切りのつかないたちですが、その時の行動は自分でも不思議に思っています。
勉強は分類法、目録法、参考資料などが主なことでしたが、目録には興味が持てませんでした。
渡辺 茂男先生がアメリカで勉強して、児童図書館員として働く経験も持って、子供に対する読書サービスの事を教えていただいて、とっても嬉しかったです。
子供の時に図書館の存在を知らなかったので、慶応大学の図書館学科に行って一番よかったのは、そこで公立図書館の存在とその役割の大きさについて知ることが出来たことです。
アメリカの公立の図書館には必ず児童室があって、専門の児童図書館員が子供達をいい読書人に育てるための色んなサービスをおこなっているということを知って、子供と一緒に本を楽しんで、話を語ったりする事が仕事として出来ることが夢のようなことでした。
終戦後、占領軍の教育視察団が日本の教育は余りにも学校教育に偏重しすぎて、社会教育に全然関心が向けられていない、だから日本を民主国家にするためには、学校だけではなくて公立の公共図書館が社会教育の中心にならなくてはいけない、そのためには公共図書館で働く図書館員を育てなくてはならないということで、アメリカの図書館協会から先生が派遣されてたち上げた学校だったので、公共図書館の存在と子供にサービスをするということを叩きこまれたことは本当にありがたかったです。
日本には児童図書館員と言う職業はなくて、図書館学科の図書館員として働いていたら、留学の機会に恵まれました。
アメリカのミシガン州のウエスタンミシガン大学の図書館学科(大学院)に留学しました。
難しい分類法、目録法等は日本で勉強しているので取らなくていいと言ってもらったので有難かったです。
子供の読書に関する色々な科目だけを取れたので、充実したいい時期でした。
地元の児童図書館を見学などもさせてもらって、実際の体験をしてみたいと言う気持ちが強くあって、先生から声をかけてもらって市立図書館に面接もなく採用されました。
ボルティモア市は98万人ぐらいの都市で、中央館のほかに25分館があり、一番小さい図書館に配属されました
館長(大人担当)と児童図書館員1人で、そこに私が加わりました。
子供達から色々要望されて、行ったり来たりして足が膨らんで靴がはけられなくなるぐらい動きました。
夏休み前は8つの学校の各クラスに行って、夏休みになったら来て下さいと行って廻ったりして、色々楽しくやりました。
市には児童図書館員が35人ぐらいいて、毎月一回ミーティングしたり、本の選択委員会があり、新刊書の検討をして購入するかどうかを討議して決めたり、新人の研修会で話し方の研修があったりして、いい図書館員になるためのプログラムが有りました。
この分館では8割がたが黒人の地域で、図書館がなければ本を読めない様な所でしたが、いい本がたくさんあるのでよろこんで読んで帰っていました。
学生ビザで行っていたので、延長するとなると移民局に行って手続きをしなければいけなくて、日本に早く帰ってこのような図書館をやりたくて1年で帰って来ました。
大阪の市立中央図書館の小中学生室で働くことになりました。
アメリカと日本は驚くべき差でした。
受験生の勉強部屋でした、800席も有るおおきな学習室があり、図書館の本は一冊も使わずに自分の参考書で勉強する、と言うようなところでした。
本を読んであげようかというと変な顔をされたりしました。
余り厭だと言わない小さな子に読んであげていたら、友達を連れて来て、聞いてくれたりしました。
本を読んで聞かせることを一生懸命しました。
複本は入れない規則があるとか、図書館員は児童室に入れる本を選ぶ権利がなくて、アメリカとは考えられない差でした。
一番大変だったのは人は3年働いたらそこにはいられないという規則も有りました。
2年半働いて辞めることになってしまいました。
2017年10月25日水曜日
大野田勝行(元航空工学エンジニア) ・命を守る飛行機を
大野田勝行(元航空工学エンジニア) ・命を守る飛行機を
戦時中日本軍が行っていた特別攻撃、特攻、そのために開発された兵器の一つが航空機型の特攻兵器、「桜花」です。
神奈川県横須賀市に有った海軍航空技術廠でひそかに作られました。
名古屋市に住む大野田さん(95)は「桜花」の設計や製造に携わったエンジニアです。
当時どのような心境で「桜花」を作っていたのか、戦後も旅客機の開発に携わった大野田さんは今飛行機にどのような思いを寄せているのか伺いました。
「桜花」はロケット機で自分からは飛べない、飛行機にぶら下げて行って、ロケットに点火して飛び出す。
ロケットエンジンで目的に突入するわけです。
「桜花」の操縦席の前は爆薬、操縦席の後はロケットエンジン、真ん中に兵隊さんが乗る訳です。
着陸する車輪もない、(そりの様なものは有るが)
長野県の松本で生まれて、松本飛行場があってよく遊びに行きました。
子供のころから飛行機にあこがれました。
旧制中学を卒業後、浜松高等工業学校(静岡大学の前身)で航空工学を学ぶ。
大学卒業前に技術士官コースを受ける。
三菱重工の試験を受けて、受かって入社して直ぐに海軍に行きました。
軍艦に乗せられて中国の青島に連れて行かれて、山東大学に行ってしごかれました。
ボートが一番厳しかった。
11月だったので北海道よりも北なので、凄く寒いし、ボートのしごきで尻も痛んだ。
内地に戻ってから海軍航空技術廠(戦闘機の開発拠点)に入りました。
ほとんどものは作らず、作ったのは「桜花」位です。
三菱もここからの指示で行い、海軍で受け入れるかどうかを審査するところです。
堀越さんがゼロ戦を設計したが、海軍で使えるかどうかを審査するところです。
「秋水」ロケット機は、ドイツのロケットエンジンを潜水艦で持ってきた。
「桜花」の全長は5~6m、ジュラルミンで表面は塗っていない。
人がはいるところは狭い。(無駄なものは一切ない、軽いことが大事)
普通、落下傘を座席のクッションに使ったりするが、それも無い。
生き延びることは考えない、お国のために命を捨てると言う事だった。
日本は国産が厳しい、ジュラルミンを作り出す資源がほとんど無かった。
鉄板を薄くして軽く細工してジュラルミンに代わる方法はないか、などを考えました。
工場見学に行ったことが有るが、品川で部品を作っているのが、駆り出された芸者衆、飲み屋等の女の人でした。
「回天
」特攻潜水艦は人間魚雷だが、「桜花」は人間爆弾ですよ。
軍艦に向かうが、仕留められればいいけれども、ほとんど駄目ですよ。
そのようになるんではないかと憶測は有りましたが、作らなければいけない状況であった。
横須賀の空軍廠にいるときに学生時代の同級生が、特攻隊を志望していてお別れに来ました。
横須賀の飲み屋に行って話したりしたが、逝ってしまいました。
特攻に行くことは彼は言わなかったが、それとなくこちらもわかってしまいました。
戦争は国のためになんとか耐えて勝たないといけない、という気持ちにみんななってしまう、それはしょうがない。
「桜花」を一機作れば一人誰かが亡くなるがそれでもつくらなければいけなかった。
「桜花」50機を航空母艦「信濃」に積んで南方の戦場に輸送しようと思って房総半島を出たら、潜水艦にやられてしまって全部沈んでしまった。
誰も乗ることはなかった、聞いた瞬間は物資の無い中せっかく並大抵な苦労ではなく作った物が沈んでしまって、くそっと思った、涙が出ました。
50人が助かったのでよかったという気持ちには直ぐには成らなかった、それは複雑です。
目的を達したとしても特攻の人達の事を思えば万歳と言う訳にはいかない。
戦争は矛盾だらけ、でもそれが戦争。
戦後、三菱の名古屋の工場が焼け野原になり、長野県の松本に移りました。
そこで農機具の設計などをやり、私は脱穀機を設計しました。
その後名古屋に戻ってきて、国産機の開発を目指しました。
昭和34年 国産プロペラ機MU2をリーダーとして開発に携わる。
ゼロ戦などはレシプロエンジンと言いますが、ターボプロップエンジンはジェットエンジンでその推進力をプロペラに変えるものです。
ドイツのハノーバの航空ショーに出すために、ゼロ戦のパイロットと一緒にドイツの航空局に行ったが、ドイツにもメッサーシュミットと言う戦闘機が有りそのパイロットがいて、2人で審査することになった。
結果的に700機以上を売り出した。
飛行機を作ると言う仕事が出来ると言うことに対して幸せだと思いました。
「桜花」は夢がない、MU2は夢がある、それが一番大きな違いです。
「桜花」を使ったら命を断たれる、MU2は夢を運べる。
好きなところへ行けるし、ビジネスでいい仕事が出来るとか、色々エンジョイできる。
もっと平和に安全に向かってほしいと思います。。
トラブルフリーの乗り物の代表みたいになってほしい。
戦時中日本軍が行っていた特別攻撃、特攻、そのために開発された兵器の一つが航空機型の特攻兵器、「桜花」です。
神奈川県横須賀市に有った海軍航空技術廠でひそかに作られました。
名古屋市に住む大野田さん(95)は「桜花」の設計や製造に携わったエンジニアです。
当時どのような心境で「桜花」を作っていたのか、戦後も旅客機の開発に携わった大野田さんは今飛行機にどのような思いを寄せているのか伺いました。
「桜花」はロケット機で自分からは飛べない、飛行機にぶら下げて行って、ロケットに点火して飛び出す。
ロケットエンジンで目的に突入するわけです。
「桜花」の操縦席の前は爆薬、操縦席の後はロケットエンジン、真ん中に兵隊さんが乗る訳です。
着陸する車輪もない、(そりの様なものは有るが)
長野県の松本で生まれて、松本飛行場があってよく遊びに行きました。
子供のころから飛行機にあこがれました。
旧制中学を卒業後、浜松高等工業学校(静岡大学の前身)で航空工学を学ぶ。
大学卒業前に技術士官コースを受ける。
三菱重工の試験を受けて、受かって入社して直ぐに海軍に行きました。
軍艦に乗せられて中国の青島に連れて行かれて、山東大学に行ってしごかれました。
ボートが一番厳しかった。
11月だったので北海道よりも北なので、凄く寒いし、ボートのしごきで尻も痛んだ。
内地に戻ってから海軍航空技術廠(戦闘機の開発拠点)に入りました。
ほとんどものは作らず、作ったのは「桜花」位です。
三菱もここからの指示で行い、海軍で受け入れるかどうかを審査するところです。
堀越さんがゼロ戦を設計したが、海軍で使えるかどうかを審査するところです。
「秋水」ロケット機は、ドイツのロケットエンジンを潜水艦で持ってきた。
「桜花」の全長は5~6m、ジュラルミンで表面は塗っていない。
人がはいるところは狭い。(無駄なものは一切ない、軽いことが大事)
普通、落下傘を座席のクッションに使ったりするが、それも無い。
生き延びることは考えない、お国のために命を捨てると言う事だった。
日本は国産が厳しい、ジュラルミンを作り出す資源がほとんど無かった。
鉄板を薄くして軽く細工してジュラルミンに代わる方法はないか、などを考えました。
工場見学に行ったことが有るが、品川で部品を作っているのが、駆り出された芸者衆、飲み屋等の女の人でした。
「回天
」特攻潜水艦は人間魚雷だが、「桜花」は人間爆弾ですよ。
軍艦に向かうが、仕留められればいいけれども、ほとんど駄目ですよ。
そのようになるんではないかと憶測は有りましたが、作らなければいけない状況であった。
横須賀の空軍廠にいるときに学生時代の同級生が、特攻隊を志望していてお別れに来ました。
横須賀の飲み屋に行って話したりしたが、逝ってしまいました。
特攻に行くことは彼は言わなかったが、それとなくこちらもわかってしまいました。
戦争は国のためになんとか耐えて勝たないといけない、という気持ちにみんななってしまう、それはしょうがない。
「桜花」を一機作れば一人誰かが亡くなるがそれでもつくらなければいけなかった。
「桜花」50機を航空母艦「信濃」に積んで南方の戦場に輸送しようと思って房総半島を出たら、潜水艦にやられてしまって全部沈んでしまった。
誰も乗ることはなかった、聞いた瞬間は物資の無い中せっかく並大抵な苦労ではなく作った物が沈んでしまって、くそっと思った、涙が出ました。
50人が助かったのでよかったという気持ちには直ぐには成らなかった、それは複雑です。
目的を達したとしても特攻の人達の事を思えば万歳と言う訳にはいかない。
戦争は矛盾だらけ、でもそれが戦争。
戦後、三菱の名古屋の工場が焼け野原になり、長野県の松本に移りました。
そこで農機具の設計などをやり、私は脱穀機を設計しました。
その後名古屋に戻ってきて、国産機の開発を目指しました。
昭和34年 国産プロペラ機MU2をリーダーとして開発に携わる。
ゼロ戦などはレシプロエンジンと言いますが、ターボプロップエンジンはジェットエンジンでその推進力をプロペラに変えるものです。
ドイツのハノーバの航空ショーに出すために、ゼロ戦のパイロットと一緒にドイツの航空局に行ったが、ドイツにもメッサーシュミットと言う戦闘機が有りそのパイロットがいて、2人で審査することになった。
結果的に700機以上を売り出した。
飛行機を作ると言う仕事が出来ると言うことに対して幸せだと思いました。
「桜花」は夢がない、MU2は夢がある、それが一番大きな違いです。
「桜花」を使ったら命を断たれる、MU2は夢を運べる。
好きなところへ行けるし、ビジネスでいい仕事が出来るとか、色々エンジョイできる。
もっと平和に安全に向かってほしいと思います。。
トラブルフリーの乗り物の代表みたいになってほしい。
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