蟻塚亮二(精神科院長) 戦争が与えた深い心の傷について(戦争平和インタビュー)
太平洋戦争末期、沖縄では激しい地上戦が行われました
犠牲者は20万人を越え、沖縄県民の4人に一人は犠牲になったといわれます
其沖縄で、去年、沖縄戦を体験した高齢者を対象に沖縄戦があたえた心に影響について大規模な調査が行われました
調査を行った一人、66歳の精神科医の蟻塚良治さんに、戦争が沖縄の高齢者に与えた深い心の傷について、お聞きします
各市町村の老人のデイケアに集まる人を対象に、戦争体験を持った人から話を聞いた
75~89歳 431人 統計学的にデータに欠損がないのが、401人
過去の戦争の時の記憶が消えた記憶 ほっとな記憶がトラウマです
トータルすると39%の人がトラウマのハイリスク 神戸の震災は22%と言われる(5年後の調査)
68年経って約40%は信じがたいこと(心の傷の深さ) PTSD
老人性うつ病と一括して言われるが、聞いて見ると、トラウマを抱えていて、トラウマが暴れて眠れなくて眠れなくて鬱になるとか、不眠症、身体が痛いとか、頭が苦しくて、幻聴が聞こえるとか、いろいろ或る
読谷村 沖縄戦で米軍が初めて沖縄にはいってきたところ 124人 調査の1/4強
一番多いのが中途覚醒型の不眠 戦時記憶がよみがえってくる(フラッシュバック)
死体のにおいがよみがえってくる
或る種の人格変化、親族が亡くなったという事をきっかけに、戦争の時の記憶がよみがえってきて、発作が起きて、眠れないとか、精神病的な幻聴 とか起きる
背中におもちゃの赤ん坊をしょっていたおばあさん 98歳 (認知症)
背中の赤ん坊は3カ月だから、ミルクをやらなければいけないので、家に帰らなければならないと、病院に来た人がいて、話を聞いたら、その人の5人いた子供が戦時中に4人亡くなってしまった 背中の赤ん坊は、きっとそのなかの一人でしょう
認知症の中にも、戦争記憶を抱えている人がいた そんな例が一杯ある
認知症は、普通物を忘れるから認知症と思われるが違う
老人性認知症の特徴は印象に残る記憶は、より先鋭化して記憶に残る
それ以外の記憶は脱落する
強烈な記憶はより先鋭化する
一般論としても、老人のうつ病を見たら、精神療法の基本は、過去の人生の中であなたの一番辛かったことは何かと、一生懸命聞くことだと、私等は教えられている
沖縄戦の場合にそんな風にしてトラウマが、今も影響していることが、今回初めて知って吃驚した
晩発性PTSD 晩年になってから、何十年もたってから発生するPTSD
普通はトラウマがあってから、6カ月ぐらいで発症する
定年退職したとか、仕事を息子に譲るとか、親族が亡くなったとかをきっかけに老いに直面する
自分が生きていた過去を全部もう一回総括して、過去の一番つらい記憶に直面する事になるので、そこで見たくなくても、見ざるを得ない
そこでもう一回再編成しないと、老境に入っていけない
約20年前に、今回の調査の中心になった「當山富士子先生が、保健婦として地域で健康調査をやった時にあきらかにPTSDを発見、その後の追跡調査がされなかった(ごく一部の地域だった)
系統的に調べた人がいない
家庭のなかでは戦争を語るのはタブーだったので、吾々世代の精神科医もあまり見ようとしなかったのかもしれない(トラウマ二次事象かもしれない)
戦争語りべ 3日寝ないのを覚悟出来ましたと言っているので、語りながら感情が激してくると思います
でも其れを乗り越えられた人だと思います
2010年12月に一番最初に気がついたが、 年寄りの奇妙な不眠症の人が立て続けにきた
不眠症にもいろいろあるが、来院した人たちは、どのタイプにも当てはまらない
うつの症状がない→偶然アウシュビッツから帰った人の精神状況を書いた論文を読んでいた
その精神症状と(不眠のタイプ)と来院した不眠が全く同じだった
中途確定型不眠で、うつ病傾向がとても少ない、戦争体験がある
60歳以上で不眠になったとか、親族が亡くなったとか、仕事を退いたとか、見てきたら続々見つかってきた(戦争をトラウマに持った不眠症の人)
身体化障害もある 腰、頭、足が痛いというような症状(死体を踏んだのでその思いから足が痛い等 いろいろな体験から生ずる)
杖をついて歩いてきていた人が、すたすた歩くようになった
ほっとな記憶が語れないのを、安心感を持って語るようにする
かたるには涙が出てくるような状況だが、この人だったら語ってもいいという、信頼関係を持つ事が必要
一般の整形外科に行っている人たちの中には、腰が痛い、足が痛いと云っているが、よく聞けば実は戦争トラウマになっているのが原因になっている人がいると思います
渡嘉敷島の集団自決の話を聞くチャンスがあって、話を聞いて、之は精神医学的な現象が重なっているなと、直感した
心理的な梗塞状況で起きている
全国各地で大空襲があったが、影響があったと思われるが、それとの関係が顕在化されない
あるパンフレットに書いてあったことで、62歳の男性が、妹が最近亡くなって、沖縄戦と同じようなPTSDが出てきた
フラッシュバックしてきて眠れない (東京大空襲との関連もある)
分離 頭の切り替えをやらないと、いけない 家庭は人間の心のベースキャンプ
ベースキャンプが血みどろになれば、極論すると、精神病状態です
精神病状態とは自分の自我をコントロールできない
そこから精神病が多発する可能性はある、理論的にはある
沖縄の病院から福島の病院の精神科医の所長として、東日本大震災で被害にあった、かた達のケアに4月から担当
日常の場が変わってしまった 福島の場合は、災害精神医学、 沖縄の場合もかなり災害精神医学に共通するものがある
沖縄戦の場合には戦争だから、人が人を殺すという尋常でない価値観がまかり通る場面だから、福島と沖縄の違う所 似ているところもある
不眠症、沖縄戦の不眠に近い 診る上で、とっても役立っている トラウマ型不眠
余震を気にして眠れないが、治療して怖くなるほど寝むれたと言っていた人もいる
トラウマ型のPTSDがあるという事 沖縄、大空襲、大災害
社会全体が判ってあげること、そうすると言ってもいいんだという雰囲気になる
、
2013年10月7日月曜日
2013年10月6日日曜日
山田清一郎(元教師) ・戦争孤児となって(戦争平和インタビュー)
山田清一郎(元教師) 戦争孤児となって(戦争平和インタビュー)
神戸市に生まれ、10歳のときに神戸大空襲で戦争孤児になりました
太平洋戦争では山田さんのように、両親を亡くした戦争孤児が多く産み出され、当時の厚生省の調べでは、その数はおよそ12万人に登りました
山田さんは両親の死後、毎日食べる物を求めて、孤児仲間と街をさまよいながら、生活する浮浪児生活を神戸や東京で2年間経験しました
孤児としての人生で心の支えとなったのは、何か山田さんに聞きました
昭和20年空襲で両親を亡くす 3月18日 夜 神戸大空襲で亡くなった 全部焼けてしまった
焼け跡に、母親と一緒に父親の骨を探したが、骨すら残っていなかった
6月5日 昼間の空襲で、防空壕が作ってあり、そこに母親と一緒に逃げ込んだ
焼夷弾がばらばら落ちてくるが、どういうものかあまり知識がなかった
防空壕に入っていれば安全と思っていたが、崩れてきたので、大人たちの誘導で子供が入り口に行き、大人達は生き埋めになってしまった
山の方にただ逃げるだけ、2時間たってから戻ってくるが、防空壕があちこち燃えている
1年ぐらいたって、離れるときに、防空壕に立ったら、土が硬くて取れない、ぼろぼろ涙が出てきて、ここにいる人たちはもう亡くなったんだなあと思った
一人になり、食べなくてはいけない、先ず食い物をどうするか、これが何よりの問題だった
金は無い、誰かにもらう事もできない 落ちているか、落ちていない
食い物を如何に手に入れるかが、生きるかどうかだった
私たち子供たちは大人の居るところには居られなかった
駅の待合室には大勢の人たちが来ていて生活していた、そういうところは追い出されてしまう
食べるものを探しにふらふらあちこち回って、拾ったり、取ったりして食べていた
食べ物をくれた人はいなかった (拾うか、盗む)
冷蔵庫より更に大きい壊れた金庫がありその中で、5人ぐらいがそこで暮らした
腹は始終痛くなる 仲間の1人は、特に腹が痛くなり、苦しくて死んでしまった
腹が痛くなることは判っていても、食わなければ生きていけなかった
食べ物を盗んでくうという事に対して、罪悪感は無かった、慣れてしまった
あきらと2人でトマトを盗んで、追いかけられて、広い道路に行ったときに、ジープに轢かれて、トマトを抱いてあきらは死んでしまう
これは衝撃的な事で、私はそのことは忘れられないし、今でもトマトを見るたびに思いだして、食べることができないぐらい悲しい事件でした
周りにいる人たちは、誰もこなかった 浮浪児だし、イヌと同じなので
6月に孤児になって、10月ごろに進駐軍が来て、連れて行かれて、そこで初めてシャワーを使って身体を洗った、それまでは一切身体は洗ってなかったし、着替えるのも一切なかった
今考えると、人間は強いと思った、耐えられる
進駐軍が来てから、あまりに浮浪児が多いので、何とかしろと言う事で、県や市に言ったんだと思います
野良犬が皆の迷惑だから、汚いから、これを「かりこみ」、と言う形で捕まえてくる、その野良犬が浮浪児だった 小屋に収容した
裸にして、水をかける、そして檻に入れる 思いやりも、優しさも全くなかった
アメリカ人がやるのであれば、判る、敵だから、でも同じ日本人が日本人の子供に、そういう事が出来ると云う事が日本人の冷たさを私は忘れられない
「刈り込み」はアメリカ軍の要請で、県や市が動いたので、県や市の職員がやったのではないかと思う
檻の中に入れられて、食べ物はもらえたが、畑などに連れ出されたが、あまりにもきつくて自由がなくて、殴られたりするから、それが嫌で跳び出したり、、逃げ出したりする
逃げる→つかまる→入れられる→逃げる→つかまる→入れられる その繰り返しだった
何のために施設を造ったのか、この子たちをどうしようとしたのか、何もない
東京に行く あきらが亡くなって、一人になって、新たに友達が出来て、東京に行こうと誘われて東京に行くことになる
汽車はただ乗り 駅員も改札口で見て見ぬふりをする
復員軍人が来て、列車の中にいて、「戦争孤児は俺達の責任だ」と、涙を流しながら謝ってくれる人もいた
東京に来たら生活のレベルも上がった 金で買えるようになった 金はどこから来たかと言うと、仕切る兄貴分みたいな者がいて、今日はもく拾い(タバコ拾い)をやってくれと言って、金をくれた、買って食う事が出来るようになる
長野に孤児施設ができる 大本営の施設が半分ぐらい出来ていた
そこに内閣、天皇とか、空襲がひどくなったら、避難するという、一角に造られた学習院と言うところに、地元の仏教界の人たちが、孤児の施設を造るという事になる
落ちついたのが12名
昭和19年ごろから、大本営の施設を作るために強制的に労働者を集めて、防空壕、鉄筋の建物を造るために工事を始めた
施設作成の為の土地にいる人たちは強制撤去させられた
戦争が終わって、中途で工事は中止、中途半端な大本営の後に、戦争孤児が来た、野良犬が来たという事で凄い反発が強かったみたいです
だから学校に行けるどころではなかった 村を挙げて反対した
精神鑑別審査 地元に対する言い訳のような証明、その後ようやく通学できるようになった
最初は行ったら教室がない 物置を改造したようなところをあてがわれて、そこに入れられた
「犬小屋」「浮浪児小屋」と書いてあった
学校の先生まで同調していたので、悲しかった(温かく迎える教師が一人もいなかった)
学校へ行ったのは3年ぶりとなる 私は中学1年だが、小学校6年で入る
学力を付けるのには自分たちで頑張るしかないと、毎日3時間 読む、書く、暗記の勉強をした
7月には追い付いた
中学卒業まで施設にいた
外国船の船長になるという夢があったが、特別奨学資金の試験に受かれば、奨学金が出ると言うので、受けて、全国で5人のうちに入れて、富山商船学校に入学することができた
1年経ったらお金がでなくなって、辞めざるを得ず、東京に出てきて、定時制に行き始めた
定時制高校に4年、更に大学の夜間に行くが、仕事をする合間を縫って学校に行っていた
30いくつのバイトをする
身分証明書がなくて、住み込み先を追われたことがあり、山手線に2晩寝たことがあった
やんなって、死にたくなった事がある(浮浪児の時はそんなことを考えたことは無かった)
挫折感を味わった 20、21歳のころ
トマトを抱きながら死んでいったあきらのこととか、母親の事とかを思い起こして、ここで俺が死んでしまったら、あの人たちにどうするんだろうと、ふっと突き上げてきて、何としても生きなければという支えになったと思う
将来を考えるようになったのは、大学は定時制2年で、昼間に編入試験を受けて、受かって、独立してやれる仕事、教師の世界が向いているかなあと思った
(自分の体験したことを子供たちに教えられる、人間の生き方、環境が厳しくても自分を活かす)
27歳で、埼玉の中学校に赴任する
17年間 10歳からよくここまで頑張ったなあと自分自身、思う
教師を34年間やったが、17年と34年を較べたら、34年間の方が倍だが、17年間の方が物凄く長くて、苦しかったという事ですよね
思いだすのは辛いことばっかり、苦しいことばっかり、優しくしてくれた人は本当に片手で数えるぐらい
これからが始まりであるのに、やっと終わったという感じだった
あの時を越えたから、今がある
完全に戦争は風化している 戦争孤児と言う言葉さえ知らない
そういう子供たちに、自分の体験を話すことで、自分たちの年頃で一人で生きてきたんだ、周りが冷たい中で生きてきた、戦争がいかにいけないことか、と言う事を子供たちが一番よく感じ、感想文に書いてくれる
強く生きていきたいという事を書いてくれる
「私には戦争を止める力は無いけれど、これから戦争を起こしてはいけないという気持ちだけは
ずーっと持っていたい」、と書いてくれた子がいた
やがて講演、話す事が出来ない事が必ず来るわけなので、できるうちに、できることをやってゆく
神戸市に生まれ、10歳のときに神戸大空襲で戦争孤児になりました
太平洋戦争では山田さんのように、両親を亡くした戦争孤児が多く産み出され、当時の厚生省の調べでは、その数はおよそ12万人に登りました
山田さんは両親の死後、毎日食べる物を求めて、孤児仲間と街をさまよいながら、生活する浮浪児生活を神戸や東京で2年間経験しました
孤児としての人生で心の支えとなったのは、何か山田さんに聞きました
昭和20年空襲で両親を亡くす 3月18日 夜 神戸大空襲で亡くなった 全部焼けてしまった
焼け跡に、母親と一緒に父親の骨を探したが、骨すら残っていなかった
6月5日 昼間の空襲で、防空壕が作ってあり、そこに母親と一緒に逃げ込んだ
焼夷弾がばらばら落ちてくるが、どういうものかあまり知識がなかった
防空壕に入っていれば安全と思っていたが、崩れてきたので、大人たちの誘導で子供が入り口に行き、大人達は生き埋めになってしまった
山の方にただ逃げるだけ、2時間たってから戻ってくるが、防空壕があちこち燃えている
1年ぐらいたって、離れるときに、防空壕に立ったら、土が硬くて取れない、ぼろぼろ涙が出てきて、ここにいる人たちはもう亡くなったんだなあと思った
一人になり、食べなくてはいけない、先ず食い物をどうするか、これが何よりの問題だった
金は無い、誰かにもらう事もできない 落ちているか、落ちていない
食い物を如何に手に入れるかが、生きるかどうかだった
私たち子供たちは大人の居るところには居られなかった
駅の待合室には大勢の人たちが来ていて生活していた、そういうところは追い出されてしまう
食べるものを探しにふらふらあちこち回って、拾ったり、取ったりして食べていた
食べ物をくれた人はいなかった (拾うか、盗む)
冷蔵庫より更に大きい壊れた金庫がありその中で、5人ぐらいがそこで暮らした
腹は始終痛くなる 仲間の1人は、特に腹が痛くなり、苦しくて死んでしまった
腹が痛くなることは判っていても、食わなければ生きていけなかった
食べ物を盗んでくうという事に対して、罪悪感は無かった、慣れてしまった
あきらと2人でトマトを盗んで、追いかけられて、広い道路に行ったときに、ジープに轢かれて、トマトを抱いてあきらは死んでしまう
これは衝撃的な事で、私はそのことは忘れられないし、今でもトマトを見るたびに思いだして、食べることができないぐらい悲しい事件でした
周りにいる人たちは、誰もこなかった 浮浪児だし、イヌと同じなので
6月に孤児になって、10月ごろに進駐軍が来て、連れて行かれて、そこで初めてシャワーを使って身体を洗った、それまでは一切身体は洗ってなかったし、着替えるのも一切なかった
今考えると、人間は強いと思った、耐えられる
進駐軍が来てから、あまりに浮浪児が多いので、何とかしろと言う事で、県や市に言ったんだと思います
野良犬が皆の迷惑だから、汚いから、これを「かりこみ」、と言う形で捕まえてくる、その野良犬が浮浪児だった 小屋に収容した
裸にして、水をかける、そして檻に入れる 思いやりも、優しさも全くなかった
アメリカ人がやるのであれば、判る、敵だから、でも同じ日本人が日本人の子供に、そういう事が出来ると云う事が日本人の冷たさを私は忘れられない
「刈り込み」はアメリカ軍の要請で、県や市が動いたので、県や市の職員がやったのではないかと思う
檻の中に入れられて、食べ物はもらえたが、畑などに連れ出されたが、あまりにもきつくて自由がなくて、殴られたりするから、それが嫌で跳び出したり、、逃げ出したりする
逃げる→つかまる→入れられる→逃げる→つかまる→入れられる その繰り返しだった
何のために施設を造ったのか、この子たちをどうしようとしたのか、何もない
東京に行く あきらが亡くなって、一人になって、新たに友達が出来て、東京に行こうと誘われて東京に行くことになる
汽車はただ乗り 駅員も改札口で見て見ぬふりをする
復員軍人が来て、列車の中にいて、「戦争孤児は俺達の責任だ」と、涙を流しながら謝ってくれる人もいた
東京に来たら生活のレベルも上がった 金で買えるようになった 金はどこから来たかと言うと、仕切る兄貴分みたいな者がいて、今日はもく拾い(タバコ拾い)をやってくれと言って、金をくれた、買って食う事が出来るようになる
長野に孤児施設ができる 大本営の施設が半分ぐらい出来ていた
そこに内閣、天皇とか、空襲がひどくなったら、避難するという、一角に造られた学習院と言うところに、地元の仏教界の人たちが、孤児の施設を造るという事になる
落ちついたのが12名
昭和19年ごろから、大本営の施設を作るために強制的に労働者を集めて、防空壕、鉄筋の建物を造るために工事を始めた
施設作成の為の土地にいる人たちは強制撤去させられた
戦争が終わって、中途で工事は中止、中途半端な大本営の後に、戦争孤児が来た、野良犬が来たという事で凄い反発が強かったみたいです
だから学校に行けるどころではなかった 村を挙げて反対した
精神鑑別審査 地元に対する言い訳のような証明、その後ようやく通学できるようになった
最初は行ったら教室がない 物置を改造したようなところをあてがわれて、そこに入れられた
「犬小屋」「浮浪児小屋」と書いてあった
学校の先生まで同調していたので、悲しかった(温かく迎える教師が一人もいなかった)
学校へ行ったのは3年ぶりとなる 私は中学1年だが、小学校6年で入る
学力を付けるのには自分たちで頑張るしかないと、毎日3時間 読む、書く、暗記の勉強をした
7月には追い付いた
中学卒業まで施設にいた
外国船の船長になるという夢があったが、特別奨学資金の試験に受かれば、奨学金が出ると言うので、受けて、全国で5人のうちに入れて、富山商船学校に入学することができた
1年経ったらお金がでなくなって、辞めざるを得ず、東京に出てきて、定時制に行き始めた
定時制高校に4年、更に大学の夜間に行くが、仕事をする合間を縫って学校に行っていた
30いくつのバイトをする
身分証明書がなくて、住み込み先を追われたことがあり、山手線に2晩寝たことがあった
やんなって、死にたくなった事がある(浮浪児の時はそんなことを考えたことは無かった)
挫折感を味わった 20、21歳のころ
トマトを抱きながら死んでいったあきらのこととか、母親の事とかを思い起こして、ここで俺が死んでしまったら、あの人たちにどうするんだろうと、ふっと突き上げてきて、何としても生きなければという支えになったと思う
将来を考えるようになったのは、大学は定時制2年で、昼間に編入試験を受けて、受かって、独立してやれる仕事、教師の世界が向いているかなあと思った
(自分の体験したことを子供たちに教えられる、人間の生き方、環境が厳しくても自分を活かす)
27歳で、埼玉の中学校に赴任する
17年間 10歳からよくここまで頑張ったなあと自分自身、思う
教師を34年間やったが、17年と34年を較べたら、34年間の方が倍だが、17年間の方が物凄く長くて、苦しかったという事ですよね
思いだすのは辛いことばっかり、苦しいことばっかり、優しくしてくれた人は本当に片手で数えるぐらい
これからが始まりであるのに、やっと終わったという感じだった
あの時を越えたから、今がある
完全に戦争は風化している 戦争孤児と言う言葉さえ知らない
そういう子供たちに、自分の体験を話すことで、自分たちの年頃で一人で生きてきたんだ、周りが冷たい中で生きてきた、戦争がいかにいけないことか、と言う事を子供たちが一番よく感じ、感想文に書いてくれる
強く生きていきたいという事を書いてくれる
「私には戦争を止める力は無いけれど、これから戦争を起こしてはいけないという気持ちだけは
ずーっと持っていたい」、と書いてくれた子がいた
やがて講演、話す事が出来ない事が必ず来るわけなので、できるうちに、できることをやってゆく
2013年10月5日土曜日
木島英登(バリアーフリーコンサルタント) ・車椅子で世界を駆ける
木島英登(バリアーフリーコンサルタント) 車椅子で世界を駆ける
大阪生まれ 40歳 高校3年生の時に、ラグビー部の練習中に脊髄損傷で、下半身不随となり、車いすでの生活になりました
大学を卒業して、大手の広告代理店に入試やし、31歳で独立、マーケティングの仕事の経験を生かし、バリアーフリー関連ビジネスのコンサルティング業務を行っています
仕事も兼ねて世界の観光地、やホテル、スポーツ施設、交通機関などのバリアーフリーの現状を見て歩き、其情報を著書やホームページなどで発信しています
これまでに訪ねた国は、なんと124カ国、世界で何を見て、どんな経験をしたのか、本当のバリアーフリーとは何か、伺いました
水泳と自転車をたまにやっている 小学校の時はサッカー、自転車に乗って親戚に行っていた
ラグビーは高校生の時から、始める
3年生の時に練習中に下敷きになるような形で、上に10人ぐらい乗って、脊髄が折れてしまった
脊髄神経が遮断されて、へそから下が動かなくなった
最初、医者は下半身不随となることを、言ってくれなかった
周りは基本的には変わっていなかった、車椅子になってから接した人で、あからさまに、かわいそうな人とか、がいたのは事実
昔からの知り合い、友達は態度が変わることは無かった
進学校だったので、リハリビを含め、1浪し、大学を目指した 神戸大学に入学する
ソーシャルカウンセラー 話し合う 資格があった方がいいから、税理士、会計士、公務員が良いとアドバイスをしてくれたが、カチンと来た
自分の希望を聞く前に進路を示されて、希望通りに理科系を受けた →神戸大学に入る
神戸大学の最初の車椅子学生だった 徐々に施設が整えられたが
階段のみの教室は、教室を変更してもらうとかで対応してもらう
大手広告代理店に入社、31歳で独立、バリアーフリー関連ビジネスのコンサルティング業務を行っています
日本と世界の違い バリアフリーに関して情報発信している
講演、サービス業の研修、バリアーフリー設備、サ―ビスするうえでのコンサルティング、執筆活動などをしている
小さい時から世界のことに興味があった
124カ国を訪問したが、最初大学1年の時にアメリカに行くが、英語が話せた方がいいと思ってホームステー、語学学校にも行く
20年前だが、アメリカでは車椅子でも、どこにでもいける
トイレでも大きくなっていて、車椅子専用ではないが、利用は可能
街中を歩いていて、じろじろ見られることは、なかった(当時日本では視線を感じた)
明らかに危ないところにはいかないが、大丈夫です
不便なのは、ホテルに泊まるときに、安い宿に泊まろうとするときには、階段しかなかったり、部屋が狭くて困ったりするが、観光地では、声をかけて手助けしてもらうので大丈夫です
アフリカに行ったときに、砂漠とかでは進めない
ドイツでノイシュヴァンシュタイン城 ディズニーランドのシンデレラ城のモデルとなった城
友達とレンタカーで行った 城は山の上にある あまり歩けない人の為に馬車が走っている
強引に馬車の高い位置に乗るが、御者が乗るなと、車椅子で行っても御城は見れないと
御城の近くに行きたいだけだと伝えたが、周りの御客に聞いたが、私の意見が正しいと云ってくれた
城の中は階段だらけであったが、同意してくれた人たちなどを含めて、バケツリレーのようにして、運んでくれて、お城見学ができて、感動的だった(これが一番の思い出)
バリアーがあっても、人々の助けで、見られることは、在ると思うので、そういうシーンに巡り合えると楽しい
マカオに行ったが、ディスコが夜の2時ぐらいからが面白いと、酔っ払った勢いで踊った
女性が近づいてきて、一緒に踊ろうと、楽しんで最後にはキッスをしてくれた
旅行先で散髪をする 最低で20円がある 散髪の仕方が違ったり、店主と仲良しになれる
トルコで顔そりを頼むと、マッチに火を付けて、耳の中に入れて、耳の毛を焼く(吃驚)
旅のコツ→
①なんでもやってみる 牛にひかれて山を登ったり、布に包まれて運ばれたり、いろいろ カンボジアのアンコールワット 像の道(昔大様が像に乗って通った道)
子供に教えてもらって段差 のない道を通る
②困難を楽しむ 困難は助けてもらうチャンスだとか、人と出会えるチャンスが増える
③笑顔 万国共通の言語 怒ってたりすると助けてはくれない 笑顔でコミュニケーションを取る、ど この国でも同じ共通言語
荷物が無くなってしまったり、車椅子が出てこなかったこともある
怒ってもしょうがないし、パニックになるので、笑顔で話す
ヨーロッパ 新しい路面電車が走っていて、便利、 富山、広島で一部新しい路面電車が走っている
路上が駅なので直ぐ乗れる、段差もない、車椅子でも一人で乗れる
日本では導入が遅れている
ドイツ、車椅子でも乗れる車両 椅子が跳ね上げ式になっている
自転車も乗れるようになっている(通勤に自転車を奨励している)
バス ノンステップバスがたくさん導入されている はぼ100%導入
日本の場合は道路が1車線だったりして、バス停が小さい
対応は日本は丁寧 電車に乗るときに、日本では駅員が手助けをするが、日本だけ
一人で乗れるような構造にするのが、一番いいとは思うが
関西では声をかけると、駅員は手伝う様なシステムになっている(関東では言わなくても手伝う)
本当のバリアーフリーは機会の平等 本人がやりたいのであれば、できるようにしてあげる
最初から駄目だと言われてしまうのは、残念です
ノルウェーでエレベータがあって安い宿を紹介してもらって、1800円と言う事で行ったら、3階でエレベーターがなかった
あなたは安い宿を希望しているのでしょうと、階段があるよと言ったら、そうよ階段よと、でも担いでもらったらいいでしょうと、ホテルの人が担いでくれた
状況に応じてバリアーをなくせればいいと思う
エジプトに行ったら、タクシーの運転手は車椅子を上にあげて、おろすときに自分ではめんどくさいので、近くの人を呼んで、おい、おろしてやってくれと、頼んでおろしてもらった
人同士が日本でも助け合ったりするのもいいのではないかと思う
東京オリンピック・パラリンピックに期待するのは、、障害のある人にも、ボランティアやってほしいと思う
其れがいろんな垣根を無くすチャンスに成ると思います
人生何があるかわからないので、楽しく生きようよと、やりたいことがあったら何でもチャレンジする、 「なんにでもチャレンジ」が座右の銘
なになにだからと否定される事無く、誰もが自分らしい人生を生きる権利があるという事を伝えたり、わたし自身が楽しく生きることによって、証明されたりすると思う
一方通行ではなくて、誰もが手助けして、誰もが手助けされる
日本は健常者、障害者が分かれてしまっている
障害がある人も手助けする方になったりすることによって、本当の心のバリアーフリーというか、お互いさまみたいなところが、なればいいなあと思います
設備のバリアーフリーと心のバリアーフリーとがあって、本当の住みよい社会だと思います
大阪生まれ 40歳 高校3年生の時に、ラグビー部の練習中に脊髄損傷で、下半身不随となり、車いすでの生活になりました
大学を卒業して、大手の広告代理店に入試やし、31歳で独立、マーケティングの仕事の経験を生かし、バリアーフリー関連ビジネスのコンサルティング業務を行っています
仕事も兼ねて世界の観光地、やホテル、スポーツ施設、交通機関などのバリアーフリーの現状を見て歩き、其情報を著書やホームページなどで発信しています
これまでに訪ねた国は、なんと124カ国、世界で何を見て、どんな経験をしたのか、本当のバリアーフリーとは何か、伺いました
水泳と自転車をたまにやっている 小学校の時はサッカー、自転車に乗って親戚に行っていた
ラグビーは高校生の時から、始める
3年生の時に練習中に下敷きになるような形で、上に10人ぐらい乗って、脊髄が折れてしまった
脊髄神経が遮断されて、へそから下が動かなくなった
最初、医者は下半身不随となることを、言ってくれなかった
周りは基本的には変わっていなかった、車椅子になってから接した人で、あからさまに、かわいそうな人とか、がいたのは事実
昔からの知り合い、友達は態度が変わることは無かった
進学校だったので、リハリビを含め、1浪し、大学を目指した 神戸大学に入学する
ソーシャルカウンセラー 話し合う 資格があった方がいいから、税理士、会計士、公務員が良いとアドバイスをしてくれたが、カチンと来た
自分の希望を聞く前に進路を示されて、希望通りに理科系を受けた →神戸大学に入る
神戸大学の最初の車椅子学生だった 徐々に施設が整えられたが
階段のみの教室は、教室を変更してもらうとかで対応してもらう
大手広告代理店に入社、31歳で独立、バリアーフリー関連ビジネスのコンサルティング業務を行っています
日本と世界の違い バリアフリーに関して情報発信している
講演、サービス業の研修、バリアーフリー設備、サ―ビスするうえでのコンサルティング、執筆活動などをしている
小さい時から世界のことに興味があった
124カ国を訪問したが、最初大学1年の時にアメリカに行くが、英語が話せた方がいいと思ってホームステー、語学学校にも行く
20年前だが、アメリカでは車椅子でも、どこにでもいける
トイレでも大きくなっていて、車椅子専用ではないが、利用は可能
街中を歩いていて、じろじろ見られることは、なかった(当時日本では視線を感じた)
明らかに危ないところにはいかないが、大丈夫です
不便なのは、ホテルに泊まるときに、安い宿に泊まろうとするときには、階段しかなかったり、部屋が狭くて困ったりするが、観光地では、声をかけて手助けしてもらうので大丈夫です
アフリカに行ったときに、砂漠とかでは進めない
ドイツでノイシュヴァンシュタイン城 ディズニーランドのシンデレラ城のモデルとなった城
友達とレンタカーで行った 城は山の上にある あまり歩けない人の為に馬車が走っている
強引に馬車の高い位置に乗るが、御者が乗るなと、車椅子で行っても御城は見れないと
御城の近くに行きたいだけだと伝えたが、周りの御客に聞いたが、私の意見が正しいと云ってくれた
城の中は階段だらけであったが、同意してくれた人たちなどを含めて、バケツリレーのようにして、運んでくれて、お城見学ができて、感動的だった(これが一番の思い出)
バリアーがあっても、人々の助けで、見られることは、在ると思うので、そういうシーンに巡り合えると楽しい
マカオに行ったが、ディスコが夜の2時ぐらいからが面白いと、酔っ払った勢いで踊った
女性が近づいてきて、一緒に踊ろうと、楽しんで最後にはキッスをしてくれた
旅行先で散髪をする 最低で20円がある 散髪の仕方が違ったり、店主と仲良しになれる
トルコで顔そりを頼むと、マッチに火を付けて、耳の中に入れて、耳の毛を焼く(吃驚)
旅のコツ→
①なんでもやってみる 牛にひかれて山を登ったり、布に包まれて運ばれたり、いろいろ カンボジアのアンコールワット 像の道(昔大様が像に乗って通った道)
子供に教えてもらって段差 のない道を通る
②困難を楽しむ 困難は助けてもらうチャンスだとか、人と出会えるチャンスが増える
③笑顔 万国共通の言語 怒ってたりすると助けてはくれない 笑顔でコミュニケーションを取る、ど この国でも同じ共通言語
荷物が無くなってしまったり、車椅子が出てこなかったこともある
怒ってもしょうがないし、パニックになるので、笑顔で話す
ヨーロッパ 新しい路面電車が走っていて、便利、 富山、広島で一部新しい路面電車が走っている
路上が駅なので直ぐ乗れる、段差もない、車椅子でも一人で乗れる
日本では導入が遅れている
ドイツ、車椅子でも乗れる車両 椅子が跳ね上げ式になっている
自転車も乗れるようになっている(通勤に自転車を奨励している)
バス ノンステップバスがたくさん導入されている はぼ100%導入
日本の場合は道路が1車線だったりして、バス停が小さい
対応は日本は丁寧 電車に乗るときに、日本では駅員が手助けをするが、日本だけ
一人で乗れるような構造にするのが、一番いいとは思うが
関西では声をかけると、駅員は手伝う様なシステムになっている(関東では言わなくても手伝う)
本当のバリアーフリーは機会の平等 本人がやりたいのであれば、できるようにしてあげる
最初から駄目だと言われてしまうのは、残念です
ノルウェーでエレベータがあって安い宿を紹介してもらって、1800円と言う事で行ったら、3階でエレベーターがなかった
あなたは安い宿を希望しているのでしょうと、階段があるよと言ったら、そうよ階段よと、でも担いでもらったらいいでしょうと、ホテルの人が担いでくれた
状況に応じてバリアーをなくせればいいと思う
エジプトに行ったら、タクシーの運転手は車椅子を上にあげて、おろすときに自分ではめんどくさいので、近くの人を呼んで、おい、おろしてやってくれと、頼んでおろしてもらった
人同士が日本でも助け合ったりするのもいいのではないかと思う
東京オリンピック・パラリンピックに期待するのは、、障害のある人にも、ボランティアやってほしいと思う
其れがいろんな垣根を無くすチャンスに成ると思います
人生何があるかわからないので、楽しく生きようよと、やりたいことがあったら何でもチャレンジする、 「なんにでもチャレンジ」が座右の銘
なになにだからと否定される事無く、誰もが自分らしい人生を生きる権利があるという事を伝えたり、わたし自身が楽しく生きることによって、証明されたりすると思う
一方通行ではなくて、誰もが手助けして、誰もが手助けされる
日本は健常者、障害者が分かれてしまっている
障害がある人も手助けする方になったりすることによって、本当の心のバリアーフリーというか、お互いさまみたいなところが、なればいいなあと思います
設備のバリアーフリーと心のバリアーフリーとがあって、本当の住みよい社会だと思います
2013年10月4日金曜日
中村千恵子(会社会長) ・日本初の西洋楽器店を率いて
中村千恵子(会社社長) 日本初の西洋楽器店を率いて
東京、銀座で創業139年の西洋楽器の販売やホールをお持ちの会社会長中村さんに伺います
立教大学経済学部を卒業後、一旦家庭に入りましたが、その後、母親の後を継いで、社長を務め、現在は代表取締役会長です
来年で創業140年になる 銀座3丁目にある 同じ場所でずーっとやっている
一番最初は明治6年にキリスト教解禁があって、宣教師の方が讃美歌を皆さんにお渡ししないと布教ができないとこのことで、スタートする
オルガン、讃美歌が必要で、煉瓦街にスタートする
曾祖父が創業
4人のクリスチャンになられる方から、布教活動がスタートしている
その後曾祖父と出会って、お手伝いすることになったのが、スタートする
曾祖父が、田地田畑を売り払って、東京に来て、海軍兵学校にいきたかったが、落ちてしまった
悲観して国には帰れないと、皇居のお堀に飛び込んだが、泳げたので助かったが、其時に原胤昭さんと出会って、一緒に働かないかと言われた、という
音楽にかかわりながら、海外の楽器を取り入れて、西洋音楽を普及したいのと、学校に音楽教育を広めたいとの想いがあった
倉田繁太郎(曾祖父) 女系で2代目 母が1歳にならない時に亡くなる
母の兄達も早くなくなる(父は戦死) 母は倉田まき(94歳) 私は嫁に出るが、後を継ぐ
主人が社長になって、戦争で建物を破壊されたが再建をした
マダム中村 9階建てのビルの9階にホールを持っている
150席 こじんまりしたホール 歓談できるスペースのサロン、テラスがある
8階にも演奏スペースがある 水曜日に無料ランチタイムコンサート 370回ぐらいになる
ハープが必ず入るようになっている(皆に知ってもらう様に、ハープの普及)
いろんな楽器を知ってほしいとの想いがある
自動演奏装置 考案して一手に販売 偽物がたくさん出た
明治天皇に献上 別荘で楽しんだのではないかと思う
ハーモニカ、マンドリン等を普及 其時に必ず日本のメロディーの楽譜を作っている(一人学び)
母の兄は教育映画を16mm、作る 「蝉の一生」、「蛙の一生」 等を作る
関東大震災のときにすっかり焼ける、第二次世界大戦のときに3月10日 大空襲でも焼ける
関東大震災のときに、丸ビルにも店があって、バラックを建てて、直ぐにスタートができた
大空襲の後も、なんとか建物を建てることができた
本業は音楽、音楽配信が変わると、父は早くから、考えていたようだ
イベントも20回以上をやってきている
ガス灯 明治7年にともる ガス灯通り
音楽を中心とした文化の交流会 17年前に立ち上げる サロン 月に1回 80人ぐらい
「おもてなし」 銀座の想い、キーワード 心地よく過ごしていただく
8年前から 蜂蜜をやっている 養蜂 屋上で飼っている 蜂蜜を使ったお菓子を作る
被災地の野菜の販売などもやっている
東京、銀座で創業139年の西洋楽器の販売やホールをお持ちの会社会長中村さんに伺います
立教大学経済学部を卒業後、一旦家庭に入りましたが、その後、母親の後を継いで、社長を務め、現在は代表取締役会長です
来年で創業140年になる 銀座3丁目にある 同じ場所でずーっとやっている
一番最初は明治6年にキリスト教解禁があって、宣教師の方が讃美歌を皆さんにお渡ししないと布教ができないとこのことで、スタートする
オルガン、讃美歌が必要で、煉瓦街にスタートする
曾祖父が創業
4人のクリスチャンになられる方から、布教活動がスタートしている
その後曾祖父と出会って、お手伝いすることになったのが、スタートする
曾祖父が、田地田畑を売り払って、東京に来て、海軍兵学校にいきたかったが、落ちてしまった
悲観して国には帰れないと、皇居のお堀に飛び込んだが、泳げたので助かったが、其時に原胤昭さんと出会って、一緒に働かないかと言われた、という
音楽にかかわりながら、海外の楽器を取り入れて、西洋音楽を普及したいのと、学校に音楽教育を広めたいとの想いがあった
倉田繁太郎(曾祖父) 女系で2代目 母が1歳にならない時に亡くなる
母の兄達も早くなくなる(父は戦死) 母は倉田まき(94歳) 私は嫁に出るが、後を継ぐ
主人が社長になって、戦争で建物を破壊されたが再建をした
マダム中村 9階建てのビルの9階にホールを持っている
150席 こじんまりしたホール 歓談できるスペースのサロン、テラスがある
8階にも演奏スペースがある 水曜日に無料ランチタイムコンサート 370回ぐらいになる
ハープが必ず入るようになっている(皆に知ってもらう様に、ハープの普及)
いろんな楽器を知ってほしいとの想いがある
自動演奏装置 考案して一手に販売 偽物がたくさん出た
明治天皇に献上 別荘で楽しんだのではないかと思う
ハーモニカ、マンドリン等を普及 其時に必ず日本のメロディーの楽譜を作っている(一人学び)
母の兄は教育映画を16mm、作る 「蝉の一生」、「蛙の一生」 等を作る
関東大震災のときにすっかり焼ける、第二次世界大戦のときに3月10日 大空襲でも焼ける
関東大震災のときに、丸ビルにも店があって、バラックを建てて、直ぐにスタートができた
大空襲の後も、なんとか建物を建てることができた
本業は音楽、音楽配信が変わると、父は早くから、考えていたようだ
イベントも20回以上をやってきている
ガス灯 明治7年にともる ガス灯通り
音楽を中心とした文化の交流会 17年前に立ち上げる サロン 月に1回 80人ぐらい
「おもてなし」 銀座の想い、キーワード 心地よく過ごしていただく
8年前から 蜂蜜をやっている 養蜂 屋上で飼っている 蜂蜜を使ったお菓子を作る
被災地の野菜の販売などもやっている
2013年10月3日木曜日
森尻強(東京家政大学教授) ・元気のカギは足裏に在り
森尻強(東京家政大学教授65歳) 元気のカギは足裏に在り
東京の女子大学で体育関連科目を担当している、森尻さんは教授として学校に勤めるようになってから、雨の日に大勢の女子大生が、頻繁に後ろを振り返って、スカートの裾をを気にしている姿をよく見ました
泥はねだなと、おもいながらも、何故泥はねが起きるのだろう、何故同じ箇所が汚れるのだろう、
そんな疑問から学生達の歩き方の実態を、調べてみました
其調査から判ったことは、正しい歩き方をすれば、泥はねは起きないことでした
其れは足の裏を見ればわかります
元気のカギは足裏に在り
猫背の人の足裏、私(アナウンサー)がピタリと当たっている(ショックだった)
色別、白がかかとに多く力がかかっていると云う事は、重心が後ろにかかっているという事、そうすると身体を前に持っていこうとする
其れが猫背のきっかけ 足の指が映っていない 足の指が映るように歩かないといけない
足の裏は全部姿勢に関わってくる
地面をつかむように歩く
マラソンの有森裕子、三浦雄一郎、の足の写真は綺麗に足の裏がはっきりと映っている
きっかけは雨の日の泥上げを見ていて、素晴らしく跳ね上がるなと思って、足の裏、姿勢を調べる大きなきっかけだった
まわりもはね上げているので、学生たちは気にしていない
女性は80%、跳ね上げるが、男性は20%と少ない
姿勢を較べると女性の方が明らかに悪い
泥はねを調べると、驚いたことが3つあり
①右足のはねが、左足に付き、左足のはねが、右足につく(交差する)
②同じところにはねが上がる
③どちらか、多くはねが上がる
姿勢を直すと歩き方が良くなり、歩き方が良くなるとはねが上がらなくなる
そうすると身体全体にいい結果が出てくる
筋肉の使い方が良くなるので、疲れない 健康美人 大きな変化がある
女性は猫背が一番多い 男性も一番おおいのが猫背
肩こり、背中が痛い 腰痛 膝が痛い 足首が痛い などは圧倒的にバランスが悪いために、身体に異常が出てくる
実は子供のころから姿勢が悪い
立ち始めた子供等は逆に少ないが、身体が強くなって、どういう姿勢でも歩けるようになると、とたんに泥はねが始まってくる
靴の減り方も違ってくる
女性は小さい頃サンダルをはかせるが、サンダルは足を引きずらないと歩けない
男性はスニーカーなので、歩きやすい
子供には家の中でははだしで歩かせることが良い
指を使ってしっかり床を掴んで歩くことがいい
姿勢は耳の穴から肩を通って、腰、膝頭、土ふまずに来るように立ってほしい
濡れた足で立って観ると簡単にチェックできる
①足の輪郭がはっきりしている ②5本の指がしっかり見える
③重心は両足の真ん中か、ちょっと前ぐらい
幼稚園年長ぐらいから悪くなるので、よく見てやる必要がある
特に女性は、内また、x脚、0脚とかになりやすい
正面から見たときも、頭の傾き、肩、腰、等の線が平行になるようにしないといけない
頭は5~6kgの重さがある 其れを支えているので、前に行ったり、後ろに行ったりすると大きな負担になる、姿勢が悪くなる
高齢者には転倒予防のために、正しい姿勢は重要
耳から土踏まずまで垂直な正しい姿勢では、骨盤がすこし前に来る
足の指で地面をつかむようになると、そうすると、上からの重力が軽減するし、肩が凝らなくなったとか、膝の痛みがなくなったとか、便秘がなくなったとか、となる
足の指を使う事が非常にいい 血行も良くなる
足の指が動かない様な靴はよくない、特に女性の靴は先端が細いためよくない
腰が曲がると→背中が曲がって→股関節が曲がる、そうすると→ひざが曲がる→膝が外側に曲がる→足首に負担がかかる→つま先が外側にむく→典型的なO脚になる
股関節を伸ばす→腰を伸ばすことになる→背中も自然に伸びる
へそを上下に伸ばす(股関節を伸ばす)
相撲で、しこを踏み、蹲踞(そんきょ)、仕切りを何回かするが、準備体操になっている
蹲踞(そんきょ)の姿勢など一連の流れが大切
蹲踞→膝を折り、爪先立ちで腰を下ろした状態 相撲や剣道などで相手と見合う時に、この姿勢を取る。
最近和式トイレが無くなったが、しゃがみ込みの姿勢がいい
幼稚園などでは、水中運動 水中ウオーキング 土の上で遊ばせてあげる
股関節 つま先立ちで歩く 片足でかかとで歩く 前後ではなく左右に歩く
プール内でのカニ歩き 中腰で歩く プールの中で運動する時代
子供からお年寄りまで、やってもらいたい
ハイヒール、下着、おしゃれの身に持っているもの よくない
特に靴はよくない ヒールの低いものの方が身体には優しい
ハイヒールは最悪にバランスが悪い 特に階段で怪我をすると大怪我になることが多い
姿勢も悪くなる
足の裏を見つめて40年になる
怪我の予防、病気の予防、元気でいられる、長生きができる と言う事につながるのではないか
自分を直す 股関節は生れてすぐに違ってくる
靴の減り方、しぐさ 親子を調べてみると結構似ている
足の裏、大事に、姿勢を大事に それでダイエットもできるし、筋肉も、トレーニングもできるし、其れが気がつくのは、歳をとってからなので、それでは遅い
今が大事なので、何気ない生活の中で、歩くこと、立つこと 運動をやるように心掛けたらいいと思う、其れが貯金になる
、
2013年10月2日水曜日
吉成信夫(森と風の学校代表) ・森で子供達を育てたい
吉成信夫(NPO法人森と風の学校代表) 森で子供達を育てたい
1956年東京生まれ 昔から宮澤賢治のファンで度々、岩手県を訪れて、17年前に脱サラして、一の関市に家族で移住しました
石と賢治のミュージアム研究専門員を経て、県立児童館、岩手子供の森館長を一時兼任しながら、
岩手県葛巻町に廃校跡を利用して、自然の中で子供たちを育てようと、NPO法人森と風の学校を2001年に設立しました
学校は標高700mの山あいで、自然エネルギーを活かした循環型の暮らしを家族やスタッフとしています
ここでは四季折々に野菜の収穫、かまどなどを使っての食事造りなど体験する子供スクール、を開いたり、指導者の育成、研修会などを行っています
森と風の学校を始めた狙い、森の中で子供たちを育てることの大切さなどを伺います
子供のころは東京、保谷に住んでいた 当時は魚とりや、なんでもやっていた
大学卒業後、何のために働くのか判らなくて、やたらめったらいろいろな仕事をした 7,8つぐらい
途方に暮れている頃に、「高く遠くに跳ぼうとするほど、助走距離は長い」というむのたけじの詩集があって、その言葉に出会って、ぼろぼろ涙がでてきて、今は助走なんだと、俺が今やっているのは助走なんだと、いつか高く遠くに跳べるかもしれないと思った
そこで自分が冷静に見られるようになった
いろんな業界を歩いているのであれば、コンサルタントトになってしまえばいいのではと気がついた
35,6歳には役員になっていたが、金を稼ぎたいわけでもないので、環境問題と仕事で出会っていた
環境問題にかかわる世界中の人たちと合うようになって、世の中の流れは速く動いているし、うねりを感じた
サリン事件が起きた サリン事件を起こす、前の車両に乗っていた
もしかしたら死んでいたかもしれないと、ショックだった
NGO時代、企業で一緒にやっていた人間が海外で急死してしまった
このまま二足のわらじを履いて限界までやっていたら、自分もそうなるのではないかと、危機感があって、そろそろ生き方を変えないといけない思った
1996年 賢治生誕100年でしたので、その年に決めました
賢治が作ろうとしていた「羅須地人協会」のような学びの場所を作りたいと思った
自分が迷っていると、合わせ鏡のように賢治が童話の世界に現れる
岩手県に誰も知らない中で行った
一関 賢治が東北砕石工場の技師の時代で、その販売で営業のため東京に行って、そこで倒れて「雨にも負けず」ができた
石と賢治のミュージアム 開設の時からかかわった
当時の町長からアドバイザー成ってほしいと言われて、石と賢治のミュージアム、と関わるようになる
石と賢治のミュージアム 抜本的に修正することができた
NPO森と風の学校 廃校を使ってやろうとは決めていた
葛巻町は風サミットをやったり、自然エネルギーに非常に力を入れなじめていた時期
役場に知り合いがいて、話をすると、にこっと笑って5つ候補を提示してくれた
見た瞬間に、ここだと決めた
20代のころは子供は嫌いだった 28歳で子供が生まれて、自分に子供を育てて30代になって子供は好きになり、その後自分の原風景をさかのぼりながら、たどり着いたのが、学校だった
自分が求めたい学校を作りたいと思った
デンマークに昔は農民のための学校、今は生のための学校、どう生きていくかの学校、が100校ぐらいあるが、先生と生徒が固定した関係ではなくて、学びあいの関係、水平上の関係、一緒に
学びあうと云う場所 そういう場所を作りたかった
この場所は周りが森だらけ ロビンフッドが好きでシャーウッドの森 帰る場所が森
森が好き 風は滞らない 「森と風の学校」とした
一番長かったのは19泊20日、子供を預かって自然エネルギーや、未来のことをここで生活をしながら、学びあう場所 四季折々、全国から集まってもらってやる
ハンドメードで畑、住居、花壇 設計もやってゆく 大人のための学校
岩手凡人サミットをやったり、森の中で本を読んだりする活動などもやっている
製糸会社の人に話をして、森も使えるようになった
循環型生活 うんち、おしっこの再利用 電気 太陽光発電している
ここから旅立っていった人がいろいろ活躍している(食べ物にかかわっている人たちが多い)
3.11以後は、特に自分で業を興していってもらいたいと思っている
県立児童館館長 子供にかかわる
当時の増田知事から、全面的に館長としてやってほしいと云われた
県の職員とケンカできるようでないと、上手くいかないとのことで、全面的に任してくれるのか聞いたら、任せると言われたので、やりましょうと云う事になる(決定まで3カ月かかった)
10年で200万人が来た
周りが100軒ぐらいしかないところだが、いろいろ考えて、今は全国でも指折りの児童館として、今も生き延びている
創造的破壊 破壊をしなくてはいけない
もともとあったものが駄目だったら、全部つぶしても、誰かが責任を持ってやり直ししかない
根本的理念から全部メスを入れたので、今だから言えるが、恐怖でした
細かいところの遊具、本等まで私は全て、一緒にかかわった
大人も子供もポケーっとする場所
3.11は非常に大きな影響があったし、与え続けている
津波の被害はもちろんだが、放射能汚染がまだ終結していないし、「森と風の学校」 てどういった所と言われたら、子供たちとこれからの時代をサバブする、生き延びてゆくために必要なものを学ぶ為の学校、それも楽しみながら と思っている
自然エネルギー、生活技術、アート、未来への目、子供の時にきちんと考える芽を育てたいと思った
これから先、東北に未来のモデルのようなものがない
持続可能な地域作りを見直そうと沿岸でも出来てきている
漁師が、自伐林業を始める ところもあって、考え始めている
絵本フェスティバル 3年前から始める 沿岸で3.11前も、直後も、今も、地元に住んでいる方々が、地元の子供のために読み聞かせをやっている方がいて、そういう方々を御招待して、1年間やってきたこと等を含め、交流をつなげながら、繋がりを緩やかに付けていこうとしています
大船渡、震災直後から走りまわっていた人もいた 絵本は子供とも大人とも向き合える
絵本は関係作りのツール
仮設住宅の子供達 表情が違う 大声を出せない
小さい声しか出ない その辛さを感じた
「森と風の学校」に中に森の子育て研修センターが今年出来たが、指導者、支援者の研修を全国回ってやってきたが、この場所に来てもらって、ゆっくりとした時間の中で一緒に学びあう場所を造りたいと思っていて、数を増やしたいと思う
ラジオのメディアは高校生、中学生には一番ぴったりする
ラジオ番組を造るんだったら、堰を切った様にしゃべる
番組を即興で、その場で考えながら、協力しながら作る
日本では子供ラジオがめちゃくちゃ弱い
スウエーデンでは子供ラジオ専門局が3局ある(国営放送)
人の一つのセクターとして、子供と言うものを、社会的に自立してゆく一つのセクターとして認めてもらいたい
子供たちの為のラジオ番組も作りたい
災害FMが任期切れ、お金が無くなって、潰れてゆくので、皆で手を組んでラジオ番組を作って、お互いに配信すると云う事を、来年作ってみたいと夢として思っている
1956年東京生まれ 昔から宮澤賢治のファンで度々、岩手県を訪れて、17年前に脱サラして、一の関市に家族で移住しました
石と賢治のミュージアム研究専門員を経て、県立児童館、岩手子供の森館長を一時兼任しながら、
岩手県葛巻町に廃校跡を利用して、自然の中で子供たちを育てようと、NPO法人森と風の学校を2001年に設立しました
学校は標高700mの山あいで、自然エネルギーを活かした循環型の暮らしを家族やスタッフとしています
ここでは四季折々に野菜の収穫、かまどなどを使っての食事造りなど体験する子供スクール、を開いたり、指導者の育成、研修会などを行っています
森と風の学校を始めた狙い、森の中で子供たちを育てることの大切さなどを伺います
子供のころは東京、保谷に住んでいた 当時は魚とりや、なんでもやっていた
大学卒業後、何のために働くのか判らなくて、やたらめったらいろいろな仕事をした 7,8つぐらい
途方に暮れている頃に、「高く遠くに跳ぼうとするほど、助走距離は長い」というむのたけじの詩集があって、その言葉に出会って、ぼろぼろ涙がでてきて、今は助走なんだと、俺が今やっているのは助走なんだと、いつか高く遠くに跳べるかもしれないと思った
そこで自分が冷静に見られるようになった
いろんな業界を歩いているのであれば、コンサルタントトになってしまえばいいのではと気がついた
35,6歳には役員になっていたが、金を稼ぎたいわけでもないので、環境問題と仕事で出会っていた
環境問題にかかわる世界中の人たちと合うようになって、世の中の流れは速く動いているし、うねりを感じた
サリン事件が起きた サリン事件を起こす、前の車両に乗っていた
もしかしたら死んでいたかもしれないと、ショックだった
NGO時代、企業で一緒にやっていた人間が海外で急死してしまった
このまま二足のわらじを履いて限界までやっていたら、自分もそうなるのではないかと、危機感があって、そろそろ生き方を変えないといけない思った
1996年 賢治生誕100年でしたので、その年に決めました
賢治が作ろうとしていた「羅須地人協会」のような学びの場所を作りたいと思った
自分が迷っていると、合わせ鏡のように賢治が童話の世界に現れる
岩手県に誰も知らない中で行った
一関 賢治が東北砕石工場の技師の時代で、その販売で営業のため東京に行って、そこで倒れて「雨にも負けず」ができた
石と賢治のミュージアム 開設の時からかかわった
当時の町長からアドバイザー成ってほしいと言われて、石と賢治のミュージアム、と関わるようになる
石と賢治のミュージアム 抜本的に修正することができた
NPO森と風の学校 廃校を使ってやろうとは決めていた
葛巻町は風サミットをやったり、自然エネルギーに非常に力を入れなじめていた時期
役場に知り合いがいて、話をすると、にこっと笑って5つ候補を提示してくれた
見た瞬間に、ここだと決めた
20代のころは子供は嫌いだった 28歳で子供が生まれて、自分に子供を育てて30代になって子供は好きになり、その後自分の原風景をさかのぼりながら、たどり着いたのが、学校だった
自分が求めたい学校を作りたいと思った
デンマークに昔は農民のための学校、今は生のための学校、どう生きていくかの学校、が100校ぐらいあるが、先生と生徒が固定した関係ではなくて、学びあいの関係、水平上の関係、一緒に
学びあうと云う場所 そういう場所を作りたかった
この場所は周りが森だらけ ロビンフッドが好きでシャーウッドの森 帰る場所が森
森が好き 風は滞らない 「森と風の学校」とした
一番長かったのは19泊20日、子供を預かって自然エネルギーや、未来のことをここで生活をしながら、学びあう場所 四季折々、全国から集まってもらってやる
ハンドメードで畑、住居、花壇 設計もやってゆく 大人のための学校
岩手凡人サミットをやったり、森の中で本を読んだりする活動などもやっている
製糸会社の人に話をして、森も使えるようになった
循環型生活 うんち、おしっこの再利用 電気 太陽光発電している
ここから旅立っていった人がいろいろ活躍している(食べ物にかかわっている人たちが多い)
3.11以後は、特に自分で業を興していってもらいたいと思っている
県立児童館館長 子供にかかわる
当時の増田知事から、全面的に館長としてやってほしいと云われた
県の職員とケンカできるようでないと、上手くいかないとのことで、全面的に任してくれるのか聞いたら、任せると言われたので、やりましょうと云う事になる(決定まで3カ月かかった)
10年で200万人が来た
周りが100軒ぐらいしかないところだが、いろいろ考えて、今は全国でも指折りの児童館として、今も生き延びている
創造的破壊 破壊をしなくてはいけない
もともとあったものが駄目だったら、全部つぶしても、誰かが責任を持ってやり直ししかない
根本的理念から全部メスを入れたので、今だから言えるが、恐怖でした
細かいところの遊具、本等まで私は全て、一緒にかかわった
大人も子供もポケーっとする場所
3.11は非常に大きな影響があったし、与え続けている
津波の被害はもちろんだが、放射能汚染がまだ終結していないし、「森と風の学校」 てどういった所と言われたら、子供たちとこれからの時代をサバブする、生き延びてゆくために必要なものを学ぶ為の学校、それも楽しみながら と思っている
自然エネルギー、生活技術、アート、未来への目、子供の時にきちんと考える芽を育てたいと思った
これから先、東北に未来のモデルのようなものがない
持続可能な地域作りを見直そうと沿岸でも出来てきている
漁師が、自伐林業を始める ところもあって、考え始めている
絵本フェスティバル 3年前から始める 沿岸で3.11前も、直後も、今も、地元に住んでいる方々が、地元の子供のために読み聞かせをやっている方がいて、そういう方々を御招待して、1年間やってきたこと等を含め、交流をつなげながら、繋がりを緩やかに付けていこうとしています
大船渡、震災直後から走りまわっていた人もいた 絵本は子供とも大人とも向き合える
絵本は関係作りのツール
仮設住宅の子供達 表情が違う 大声を出せない
小さい声しか出ない その辛さを感じた
「森と風の学校」に中に森の子育て研修センターが今年出来たが、指導者、支援者の研修を全国回ってやってきたが、この場所に来てもらって、ゆっくりとした時間の中で一緒に学びあう場所を造りたいと思っていて、数を増やしたいと思う
ラジオのメディアは高校生、中学生には一番ぴったりする
ラジオ番組を造るんだったら、堰を切った様にしゃべる
番組を即興で、その場で考えながら、協力しながら作る
日本では子供ラジオがめちゃくちゃ弱い
スウエーデンでは子供ラジオ専門局が3局ある(国営放送)
人の一つのセクターとして、子供と言うものを、社会的に自立してゆく一つのセクターとして認めてもらいたい
子供たちの為のラジオ番組も作りたい
災害FMが任期切れ、お金が無くなって、潰れてゆくので、皆で手を組んでラジオ番組を作って、お互いに配信すると云う事を、来年作ってみたいと夢として思っている
2013年10月1日火曜日
室井摩耶子(ピアニスト) ・ピアノは私の元気の基
室井摩耶子(ピアニスト) ピアノは私の元気の基
大正10年 東京生まれ 6歳からピアノを始め、昭和16年東京芸術大学を卒業後研究科に進み、昭和20年 23歳の時にピアニストとして、デビューします。
昭和31年モーツアルト生誕200年記念祭に、日本を代表として、音楽の都、ウイーンに派遣され、第一回ドイツ政府給付留学生として、ベルリン音楽大学に留学後、26年間海外を拠点に演奏活動をしてきました
「人は最後の時を迎えるまで成長、明日は今日よりきっと幸せ」 をモットーにしています
85歳から始めたパソコンとデジタルカメラを趣味に、92歳を迎えた今も、1日4時間、ピアノに向かい、年に数回はピアノトークコンサートを開く、と云う室井さんに伺いました
ピアノを弾くにはエネルギーを必要とする 肉体的には大丈夫だが、練習は5,6時間になると、集中力が無くなる
楽譜は、そのまま弾くのと、それではちょっとどうにもならない音がある
演奏家に依って随分と違ってくる
楽譜は優しいが、ただ音を出すのと、ベートーベンの音楽的な意志を出すのではちょっと違ってくる
ピアノを始めたのは、あの頃は稽古事を始めるのは、6歳6カ月6日が良いという説があった
父が買ってくれたのが最初です
両親は音楽家ではない 父は工学関係でラジオの製作をやっていて、母は普通の専業主婦だが、私が生れた1年後のころに、1922年、アインシュタインが来日したときに、慶応大学の講演を聞きに行っている(好奇心の強い人だった)
父は新しいアイディアが好きで、時計を使って、ラジオがつくように、と言う事を考えていた
20歳のときに、卒業して研究科に進み、23歳のときにピアニストとしてデビューする
NHKのソリストとしてデビュー 日本交響楽団 戦争中だった
1945年に東京大空襲があった 3月10日は浅草 1月は銀座がやられた
ウイーンに派遣される 日本の音楽などまだほんの始まりで、自分の演奏に不満だった
何かに欠けているように自分では感じた
ヨーロッパに行きたいと云う感じは、常に思っていた
1956年にヨーロッパに行かないかと言われ時には、是非行きますと飛び上がった
35歳、モーツアルト生誕200年祭 行ったら、音楽会議と言う名目で、来たのは皆おじさん、おばさんばっかりだった 一流の人々が盛装してきていた
私は着物を着て行って凄く持てた 当時日本人の音楽家は珍しかった
なんで日本人がベートーベンを弾くんだというような感じだった
ドイツでは世界150人のピアニストとして取り上げられた
(ピンとこなかったが後で凄い事だと思った)
1982年 61歳の時に決断して、日本に帰ってくる
ドイツの生活と音楽間の生活がバックに在るが、生活を見ているとドイツ人は凄く自分自身の考え、自分自身の生活を大事にしている
自分自身の考えで成長していかなければいけないと言う感覚が物凄く強い
そういう生活様式を見ると、人間と言うものがいつも成長していなければならない
演奏会では毎年、名演奏家が変わってくる
自分はやっぱり自分自身をしっかり作っていかなければいけないと云う事で、61歳のときに、外国にいるとやっぱり外国人で、甘えが出るので、自分の生活も甘やかされているところがあると思って、日本に帰ってくる
ピアノを始めて80年を越える
いろんな曲を100回以上弾いているが、一度とても上手くいったとしても、その次に弾くときに譜面を見るが、其時にベートーベンはこんな事で、こんな音でこんなことを言っていると、新しい発見がある
32番ソナタはとっても難しくって、最初に音楽理論でいえばおかしな出始めがする
お釈迦様の涅槃だという
それで私は宗教と言うものが、人間の悲しみと言うものに、どれほど深く食い込むかという事を、覚りましたね
其れがずた袋なんですよ いろんな経験をその袋に中に入れて、取っておく
そうすると32番ソナタを弾くと、之はあれだけ人間の心の中に沁み込む悲しみなのだと判るわけです
向こうの人はよく、何にもしないで演奏をしろと言うが、よくわからない(無心というもの)
ピアノの極意は、、宮本武蔵のハエつかみだと、聞いた事があるが?→
吉川英治の本を読んだことがあるが、無心で力を抜いてと云う事はよく言われる
よくよく考えてみたら、宮本武蔵が飛んでるハエを箸で捕まえると云うところがでてくるが、捕まえる瞬間、瞬間の動きはピアノの何にもしていないのに通じる(身体に力が入っていない)
瞬間にこういう音を出さなければいけないか、瞬間がつかめる
そうすると、涅槃がどういう悲しみであって、そういう時はどういう音がほしいのか、ベートーベンがどういう音がほしかったのかが判ったら、それにエイっと掴んでゆくわけです
「人は最後の時を迎えるまで成長、明日は今日よりちょっと幸せ」
「明日は今日より幸せ」と言うのはちょっと違うが、明日は今日から成長している自分をみたい
自分を見たときに、悲しみとはこういう事なんだと、発見する
発見はそれまで知らなかったことの裏返し この喜びは嬉しい
「辛い経験も歳を重ねれば、宝物」
旋盤工として勤労動員されていた時もあった 病気にも何度か患う
87歳のときに、肺がんを宣告された 発見されたのが演奏会の2か月前、2か月してから手術したらいいかと言ったら、先生に怒られて怒られて
腱鞘炎になり、半年弾くことができなかったが、無理をして何とかピアノを始めた
肉はよく食べる ドイツに行ったときに、寮の人たちが夜7時ぐらいから、12時過ぎまで踊っていたりするが、翌朝はけろっとしている
おかゆなどを食べると緊張感が1時間程度だが、肉を食べるとそれが4時間続く
値段は高いが、ひれ肉でないと駄目 100g食べている
パソコン、デジタルカメラ 85歳から始める 好奇心が旺盛ですね
これから発見によって何が出てくるかわからないので、まだまだ発見していかなければと思っている
「頭陀袋」 今までの経験を沢山詰め込む もともとは昔の坊さんが修行のために、各家を回ってお経を読んでいたが、感謝の意味を持って頭陀袋にいろんなものを入れてくれる
頭陀袋にいろんな経験を沢山詰め込むと、段々発酵してきて、素晴らしいお酒になってゆく
人間が豊かになることは事実なので、頭陀袋にいれてゆく
大正10年 東京生まれ 6歳からピアノを始め、昭和16年東京芸術大学を卒業後研究科に進み、昭和20年 23歳の時にピアニストとして、デビューします。
昭和31年モーツアルト生誕200年記念祭に、日本を代表として、音楽の都、ウイーンに派遣され、第一回ドイツ政府給付留学生として、ベルリン音楽大学に留学後、26年間海外を拠点に演奏活動をしてきました
「人は最後の時を迎えるまで成長、明日は今日よりきっと幸せ」 をモットーにしています
85歳から始めたパソコンとデジタルカメラを趣味に、92歳を迎えた今も、1日4時間、ピアノに向かい、年に数回はピアノトークコンサートを開く、と云う室井さんに伺いました
ピアノを弾くにはエネルギーを必要とする 肉体的には大丈夫だが、練習は5,6時間になると、集中力が無くなる
楽譜は、そのまま弾くのと、それではちょっとどうにもならない音がある
演奏家に依って随分と違ってくる
楽譜は優しいが、ただ音を出すのと、ベートーベンの音楽的な意志を出すのではちょっと違ってくる
ピアノを始めたのは、あの頃は稽古事を始めるのは、6歳6カ月6日が良いという説があった
父が買ってくれたのが最初です
両親は音楽家ではない 父は工学関係でラジオの製作をやっていて、母は普通の専業主婦だが、私が生れた1年後のころに、1922年、アインシュタインが来日したときに、慶応大学の講演を聞きに行っている(好奇心の強い人だった)
父は新しいアイディアが好きで、時計を使って、ラジオがつくように、と言う事を考えていた
20歳のときに、卒業して研究科に進み、23歳のときにピアニストとしてデビューする
NHKのソリストとしてデビュー 日本交響楽団 戦争中だった
1945年に東京大空襲があった 3月10日は浅草 1月は銀座がやられた
ウイーンに派遣される 日本の音楽などまだほんの始まりで、自分の演奏に不満だった
何かに欠けているように自分では感じた
ヨーロッパに行きたいと云う感じは、常に思っていた
1956年にヨーロッパに行かないかと言われ時には、是非行きますと飛び上がった
35歳、モーツアルト生誕200年祭 行ったら、音楽会議と言う名目で、来たのは皆おじさん、おばさんばっかりだった 一流の人々が盛装してきていた
私は着物を着て行って凄く持てた 当時日本人の音楽家は珍しかった
なんで日本人がベートーベンを弾くんだというような感じだった
ドイツでは世界150人のピアニストとして取り上げられた
(ピンとこなかったが後で凄い事だと思った)
1982年 61歳の時に決断して、日本に帰ってくる
ドイツの生活と音楽間の生活がバックに在るが、生活を見ているとドイツ人は凄く自分自身の考え、自分自身の生活を大事にしている
自分自身の考えで成長していかなければいけないと言う感覚が物凄く強い
そういう生活様式を見ると、人間と言うものがいつも成長していなければならない
演奏会では毎年、名演奏家が変わってくる
自分はやっぱり自分自身をしっかり作っていかなければいけないと云う事で、61歳のときに、外国にいるとやっぱり外国人で、甘えが出るので、自分の生活も甘やかされているところがあると思って、日本に帰ってくる
ピアノを始めて80年を越える
いろんな曲を100回以上弾いているが、一度とても上手くいったとしても、その次に弾くときに譜面を見るが、其時にベートーベンはこんな事で、こんな音でこんなことを言っていると、新しい発見がある
32番ソナタはとっても難しくって、最初に音楽理論でいえばおかしな出始めがする
お釈迦様の涅槃だという
それで私は宗教と言うものが、人間の悲しみと言うものに、どれほど深く食い込むかという事を、覚りましたね
其れがずた袋なんですよ いろんな経験をその袋に中に入れて、取っておく
そうすると32番ソナタを弾くと、之はあれだけ人間の心の中に沁み込む悲しみなのだと判るわけです
向こうの人はよく、何にもしないで演奏をしろと言うが、よくわからない(無心というもの)
ピアノの極意は、、宮本武蔵のハエつかみだと、聞いた事があるが?→
吉川英治の本を読んだことがあるが、無心で力を抜いてと云う事はよく言われる
よくよく考えてみたら、宮本武蔵が飛んでるハエを箸で捕まえると云うところがでてくるが、捕まえる瞬間、瞬間の動きはピアノの何にもしていないのに通じる(身体に力が入っていない)
瞬間にこういう音を出さなければいけないか、瞬間がつかめる
そうすると、涅槃がどういう悲しみであって、そういう時はどういう音がほしいのか、ベートーベンがどういう音がほしかったのかが判ったら、それにエイっと掴んでゆくわけです
「人は最後の時を迎えるまで成長、明日は今日よりちょっと幸せ」
「明日は今日より幸せ」と言うのはちょっと違うが、明日は今日から成長している自分をみたい
自分を見たときに、悲しみとはこういう事なんだと、発見する
発見はそれまで知らなかったことの裏返し この喜びは嬉しい
「辛い経験も歳を重ねれば、宝物」
旋盤工として勤労動員されていた時もあった 病気にも何度か患う
87歳のときに、肺がんを宣告された 発見されたのが演奏会の2か月前、2か月してから手術したらいいかと言ったら、先生に怒られて怒られて
腱鞘炎になり、半年弾くことができなかったが、無理をして何とかピアノを始めた
肉はよく食べる ドイツに行ったときに、寮の人たちが夜7時ぐらいから、12時過ぎまで踊っていたりするが、翌朝はけろっとしている
おかゆなどを食べると緊張感が1時間程度だが、肉を食べるとそれが4時間続く
値段は高いが、ひれ肉でないと駄目 100g食べている
パソコン、デジタルカメラ 85歳から始める 好奇心が旺盛ですね
これから発見によって何が出てくるかわからないので、まだまだ発見していかなければと思っている
「頭陀袋」 今までの経験を沢山詰め込む もともとは昔の坊さんが修行のために、各家を回ってお経を読んでいたが、感謝の意味を持って頭陀袋にいろんなものを入れてくれる
頭陀袋にいろんな経験を沢山詰め込むと、段々発酵してきて、素晴らしいお酒になってゆく
人間が豊かになることは事実なので、頭陀袋にいれてゆく
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