2013年1月14日月曜日

木村たか(92歳)        ・着物の美 しぐさの美

木村たか(92歳) ・着物の美 しぐさの美
大正9年 京都 染め織職人の長女として生まれる  戦争で「贅沢は敵」という事で禁止令が
出て、職人も戦場に召集され、職人を失い店を閉じました
その後結婚され永い間、海外で生活されましたが、洋装の文化に接するほど和装の良さに
惹かれて行きました
帰国されてから着物文化の素晴らしさを本に書いたり、講演会等でお話をされています 

和服 着物着て電車に乗って来ると視線が集まる 特に女性の視線が集まる
緑色が好き 錆び青磁 (薄い緑)
着物を着ると姿勢が良くなる  シャンとする 出来るだけ見綺麗にしている  (若く見える) 
父は染色家  一色染め  平安時代  純粋に色を追求する  中京区付近で生まれた 
 一番いい水脈の処
和の色名はみやびやか  英語の方が簡単 ピンクだけでも日本語では一杯ある
  
24歳の時には新聞社の記者に成る ここで物を描く事を教えて貰う  
女の子に何が出来るかというような目で見られながら、仕事をしてきた
ロンドンに5年いた 30歳過ぎまで京都 結婚適齢期日本には男がいなかった  
多くの日本語を取り入れることが出来た   
職人の代弁者になりたいと思うようになった そうして書き始めた
父の姿を見て、(無口な職人) 書き始めた  いろいろ鍛えられた 
折角着物と帯とを旨く良い取り合わせをしたと思ったが、合わないと言われたりする
若い時は粋な物 新しいものに飛びつきたいが それはいけない 
 
古い中に新しさが有って 人が求めているものが有る(若いうちは理解できないが)
人には似会う物が有るし、着こなせる年齢も有るし おたふくではその様なものは似合わないと言われた
物を作っている時ほど楽しいことは無い  新しがったら駄目 一歩後退する  
今でも古典の方を求める(古典模様を求める)
浴衣は普段着 振りそでは人に着せて貰うもの(晴れ着)   綺麗だけど着こなしていない
階段を歩くときはハラハラする 袖は長いので邪魔になる 袖を袖口の下を持って歩く  
舞妓さんは左手でつまをもつ
お嬢さんと花嫁は右手でつまを持たないといけない   左鍔をとっていた時には 芸者さんに出てゆく時に持つもの
舞子 肩のところに縫い上げがある(これはまだ成長するため)
  
無地の洋服ほどドレシー 着物の場合は 友禅染め 美しいカラフルな色合い 
化学染料が入ってきてもっとあでやかな色に成った
定型であるために 色を書いて色を載せることで それを着る人の立場 年齢 趣旨
(着てゆくところへの趣旨) 着物には模様と色彩が絶対必要になる
森羅万象 あらゆるものが模様になる  冬の着物と夏の着物は透けて見えるものを使う 
 桜の季節、夏草の季節  秋の紅葉  俳句のように詩の様に季節感を表現する  
松竹梅 お目出度い時    平安時代は庶民はまだ 日本人の美意識が全部入っている
 
色を大切にしないといけない 模様が一つのテーマだとするとそれに装飾を加えるのが色 メロディーが模様とすると、メロディーに装飾音が無かったら一歩指でピアノを弾いている様なもの  装飾音を加える時に なにがしかの優しい色、強い色、成をして来る人の引きたてとするものではないでしょうか  
自分の悪いところを着物は隠してくれる 振りそで 高い帯で 年を取ったら段々下にしてゆく  
洋服は宝石が必要 和服は宝石の必要が無い  日本の民族衣装 
 毎日着る必要が無いが礼装の時には着用してほしい
本当にかしこいと言う事は 自分よりも先に相手の事を想って、相手を生かしておいて、
自分も共に生きる のではないでしょうか
どちらも仕事を持っていれば、話せばわかる(喧嘩には成らない  小さな小競り合いはあるが)  
日本人は男を立てなくてはいけないのではないか  
古いと言われるようだが男が前に歩くのが良いと思う
行ってらっしゃい おはようおかえりやすと言って主人を送り出していた(女性が男性を立てる)
「白鳥はかなしからずや 空の青 海のあおにも 染まずただよふ」  
職業がいろいろあるとしても本質的にはなに色にも染まらない 水の下で足で努力している
百人一首  恋しい、世の恨み、つらみ等世の移り変わりを嘆くのもすべて入っている 
「花の色は うつりにけりな いたつらに わか身世にふる なかめせしまに」   
若さは時間が持ってゆく 若さに頼らないで、若い間に物を記憶して物を覚えて、
いつか年を取ったときにも、若い時に習い覚えたことが楽しく思い出されるような生き方をしてもらったら  日本の和歌、短歌  
詩 が生活の中に生かされるのではないでしょうか日本人の誇るべきものは何だとうと思っている 其れを伝えないといけない 
人様に伝えて 伝えたことが代代伝承されなかったらその国の文化は永続きしない  
女性の力で文化を伝承してもらいたいと思っています

2013年1月13日日曜日

斉藤和男(44歳)        ・私の相撲道を語る


斉藤和男(44歳)        私の相撲道を語る
1968年立川市生れ 日本体育大学武道学科卒業 文部省から海外研修員としてオーストラリアにへ派遣され、その後弘前大学医学部助手などを経て、現在日本体育大学で教鞭をとり相撲部の監督をしています  
小学生の頃から相撲を始め 全国高校総合体育大会では 昭和58年から、団体優勝3連覇 60年高校生の横綱  大学3年生でアマチュア横綱 平成4年第一回世界相撲選手権 団体優勝 個人優勝 体力だけでなく精神力 心の強さも求められる相撲道  海外体験や医学的研究も含め 相撲を一筋30年 相撲道と魅力をお聞きします  

相撲道7段 医学博士 身長182cm 体重は102kg(最高時は135kg) 立川は相撲の盛んな土地 町内の相撲大会に周りから言われて参加
双子が授かる(最近) 町の大会では個人優勝したが市の大会では準決勝で自分よりも小さな子に足を取られて負けてしまった(今でも悔しさを想う)
スポーツは特に得意ではなかったが学校で3番に入るほど走るのは早かった  
学科は算数系は得意だった 算数の先生に成るのが夢だった
褒めて貰う事によって強くなった 中学に成ると自分でトレーニングするようになった 
どうしたら相撲が強くなるか考えた
ウエートトレーニングをしている力士がいて これだと思って 図書館に行って体力を付ける方法 身体を作る方法を実行した

運動 栄養 休息が 3本柱であるがすべて実行した  
腕相撲も強くて全日本選手権に出て高校生で2位に成った
世界選手権大会では 2mを越える人 体重は247kgのエマニュエル・ヤーブロウ アメリカ人  
当時出島(大関)が出たが 同じ大会で負けている  
その後 琴光喜 栃のなだをやっつけている   私は右からのすくい投げで勝てた 
良く勝てたと思う 自然に体が動いた  
日本で大会が有ったときで おーーと湧きあがった    
団体戦をやるのは日本独特な感じがする 
相撲をやっていた時は勝つことのみを考えていたが、知らない間に相撲を教えられてきたが私が現在預かっている学生に、繋いでいきたい

私が一つの繋ぎ手として相撲を広めて行くのが現在の私の仕事だと思います
プロからの要請は 自分は他のところでも出来るのではないかと思って、違う進路を進んだが矢張り相撲に戻ってきた
1年間 シドニーで相撲を普及するかたわら、外国の様々なトレーニング法等を勉強させていただく制度で 行かせていただきました(相撲と離れた時代)
関心は 国民性が有り (フランスは柔道は盛ん) イギリスはそうでもないので、オーストラリアもイギリス系なので相撲に対する気持ちはそれほど高くなかった
私が教えた選手は世界大会で3位に成った  世界大会の競技者は増えている  
ジュニアの世界選手権大会も出来た

バルト、琴欧州関 とかがこの大会に出ている  
ロシアでは1万人の競技者がいる 国を挙げて支援している
4.55mの土俵以内で戦う ルールが独特  砂 俵が上がっている  
土俵は調子がいいと広く感じるし、不調だと狭く感じる
心技体 が必要   武井義男先生が師匠で中学、高校と教えて貰った  
現在指導の立場に立たされて非常に先生のいう事が参考になった
教えることにブレが無かった  知らない間にやらされていると言うより、やっていた  
褒めるのが旨かった
負けるとすぐ稽古をしていた 辛いけれども其れが後後良いと思う  
こういう先生に成りたいと素朴に思った

修士論文は「相撲の崩し技と決まり技の分布の統計学的検討」 決まり技に移行するための前の段階でどういう風に技を掛けて決めたか を調べた
相撲の格言 「押さば 押せ 引かば 押せ 押せは相撲の極意なり」  やはり前に押して崩す 上手投げ下手投げ 横からの崩し技、はたき、引き 相手の重心を崩す  
矢張り相手を押して崩す技がその後の価値に非常に繋がりやすい という結果が出ました  
引きは墓穴を掘り易い  引き技が得意な横綱はいない  
柔道の古賀選手とは仲良くなって大学院時代も含めて友達になっている
舞の海は同級生 高校時代から戦っていた  舞の海は左下手に入ると強かった  
プロの人は形にしてくれる人が多かった

弘前大学 身体の身体密度 体脂肪率 脂肪以外の体重がどの程度か アスリート 高体重者等の研究をしていた
相撲の世界も緻密に研究しながらやってきている   
学生指導をしているが逆に学生から教わることは多くある
アーこうしとけばよかった あの一言は言わなかった方が良かったと想ったりする
学生と接するに 言葉は80%90%を占める  技術力とかは皆同じことを教える 
学生と接するのは1日、2時間か3時間 この時間を100点満点としても  、一日の内1/8 100点取るだけだが  残りのすべてを100点にすれば 24時間が100点に成ると思うんです   
そういう意味では私が見ているとか、見ていないとかで 彼らがやる様では彼らが持っている能力は上達しませんし どうやれば良いかというと 、彼らにやる気を持って貰う  
どうすればいいかというと  褒められると嬉しかったなあと思いだし 彼らの心に火をともすのが私の仕事だと思います

彼らの残す成績が私の通信簿なんです  毎年毎年私は彼らから通信簿を貰っているんです ここ一番の相手 100回やって百回勝つのはどんなに緊張していても勝てるが、百回やって一回でも負けると自分が変な緊張していると負けることが有る  
プレシャー このプレシャーを説明する時に 30cm幅の木があるとしよう 
地面に置いてこれを歩けと言えば歩けるけれど、これを50mの高さに橋渡ししておいて、歩けと言われれば、皆大変だろうと、でも同じ板だろうと これがプレシャーだ 自分がいかに物事を考えるか 大きなことなんだ 自分に自信を持つような変なプレシャーを感じずに、自分に自信が持てる様な 毎日を送らないといけないし、生活を送らないといけない 

私が見てる、見てないか、では無くて、自分にプライドと誇りを持って、感謝の気持ちを持って、毎日毎日を過ごしなさいと 言って居る  
一日一言 全員に言葉を掛けています  今年世界規模の大会を2回開催します
42.195kmのマラソンに置き換えると 私は折り返し地点を過ぎたところかなあと思っています  30kmが一番きつい その辺かなと思います
その頃を一生懸命走ったのが良い結果を生んでいると思います  
私が預かった学生が大相撲に行って 横綱に成って貰う事
又私が預かった学生が全員 幸せになって貰う事です  これが私の最大の目標です
是非相撲がオリンピックの種目に成ってほしい

2013年1月12日土曜日

堀内正美(俳優62歳)      ・支え合う心を忘れない


堀内正美(俳優62歳)         支え合う心を忘れない
神戸市在住 NHK連続TV小説「純と愛」で主人公の相手役の町田いとしの父親役で出演しています 
阪神淡路大震災時にはいち早く被災者の救済に取り組み、現在被災者支援活動を展開する認定NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」の理事も務めていらっしゃいます  
あの時の心を継いでいこうと続けられる18年目の被災者支援活動と役者としても活動の中で込められた支え合い、人とつながる想いを伺います  

純と愛 評判だが、どたばたした劇であり、賛否両論あり  
検事としての役 家庭に居る時には男たちは気使う 演じていて違和感はない
純 実際に朝8時~夜遅くまでみっちりとやっていく中でボロボロになっているが、笑顔を絶やさない 半年間あるので擬似的な家族が生れて来る
控室でもクールにしていたり(演技の関係で)している    
32歳の時に神戸に引っ越してきた  22歳で俳優デビュー  
最初演出助手だったが、装置を治したり、俳優に演技付けたり、しているうちに民放のTV局 で原作が夏目漱石の一高生の暗い俳優を探していたが、オディションでも見つからなかった
 
ちょうどその時に 裏方で雪駄を履いてやっていたら、監督から口説かれた  
父が映画監督 堀内甲 伯父が堀内完(日本におけるモダンバレエの創始者)
俳優として 人の前で何かやるのは苦手だった  
若い頃は暗くて屈折している様な役が多かった
60年代 学生運動が盛んなころ 社会を真っ直ぐ見ないような青年時代だった  
人を泣かせる芝居は楽だが、人を笑わせる芝居は難しい
今回の役は晴天の霹靂 今までと違った役割で  ちょっとひょうきんな感じを出している

三里塚闘争 一緒に入っていて運動をやった  お爺さんがつぶやいた 行き場所が無い 
お金を貰ってもお金などは欲しくない ただただこの土がようやく作物が実る様になった  
自分としてはこの土に帰りたい、と聞いたときに 農労学市民の連帯 自分達も革命運動に、みたいな気持ちでいたんだけど何だったんだろうと  そこで照合した  
自分が考えていた革命 社会を変えるとう事が非常にガタガタと崩れてゆく  
それまではどんな論争しても負けなかった 
自分でも強くいれたが 、その時はお爺さんの一言で見事に崩れ落ちて、三里塚から逃げ帰った どう生きたらいいんだろうと 映画館に行って、喫茶店に行ったりしたが芝居を友人から行かないかと言われた      蜷川幸雄さんの舞台だった  
こんな生産的でない物が有ったのかと思った 

であればこの世界(虚構の世界)にもぐれるのではないかと思った
最初のころは何にもできなかった ちょっとうつむいててくれればいいと言われた  
二本目 山田洋二さんからぼこぼこに怒られた
練習します と言ったら 練習すればいいというわけではないと 言われてしまった 
10年やって矢張り俳優は無理だと思って 東京から神戸にきた
(その時に結婚、子供が出来ていた)  兎に角東京を一歩離れて見ようと思った 
神戸 山が有り海が有り 適度に都会的で、来る者拒まず 去るのも追わずと言うようなところだった
阪神淡路大震災に遭遇する  家は倒壊しなかったが一部損壊  これで死ぬのかなと思うぐらいの揺れだった 

床下から思いっきり突きあげられて 淡路島の方角から地底を巨大な鉄球がごーーーーとそしてその音が家の真下にくる  
そうすると家がバリバリバリと揺れるわけですよ  
真っ暗な状態で、シェーカー状態に成っている  家族4人とも何でもなかった  
早朝から安否、透析の病院 水の場所等の放送した  
2日間やっていたが、震災から1週間後に自分達が出来ることは自分達でやろうよと
「頑張ろう神戸」を立ち上げ 受け入れのプラットホームを作った 
来てほしいので神戸市内、看護師、大工、料理屋さん とかがお手伝い出来ると 、米なら送れる赤ちゃんのおむつかぶれ  シートが欲しい とか欲しいものの 掲示   提供できるもの 等の掲示  幼稚園に赤ちゃんのお風呂場製作
 
希望者の情報提供 旨く情報のコーディネートして有効に提供した
「頑張ろう神戸」  は発展解消  「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」を立ち上げる  
凍りついて時計が止まってしまった方、うずくまっている人 家族を失ったり 、仕事を失ったり絶望しているまさに非歎にくれている人達をどうしたらいいかと、思った時に 死という事 喪失を見て行く事を通してどうやって新たな再生をするかという仕組みを考えなければいけなという事で NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」を立ち上げて12年目です  
モニュメント 「希望の灯り」  碑文の文字  皆の声を書きとめておいたのを繋いだだけ 
震災が奪ったもの(上の句) 命 仕事 団欒 街並み 震災が残してくれたもの(下の句) 
優しさ 思いやり 仲間 絆  (そして上の句と下の句の間に) 
たった一秒先が予知できない人間の限界を描き入れた
 
予知出来ない 誰にでもありうる災難   新たな喪失、さまざまな非歎  希望の光は 寄り添っていてくれれば ちょっとだけぬくもりを感じて、そういう仕組みを作っていきたいと思った  
依存すると言う言葉が母子依存薬物依存 アルコール依存 マイナスのイメージで依存を捉えているが、河合速夫  自立とは 他に依存していることをしっかり自覚することである  自分がこの人の存在によって やってくれたことに対して助かっている   
ありがとうという気持ちを持った時には 自覚していれば 依存というのはとっても良い言葉なんだと認識するようになった
「純と愛」 破壊と再生のドラマ だと思っている  
喪失 悲しみ 絶望  非歎 が有り、その中でどう新たなる再生をしてゆくのか  
大きなテーマだと思う

東日本大震災  支援  どこまでできるかが有ったが、動き出した時に 阪神淡路大震災の時の失敗であり、また繰り返しなのかという事にあきれる
現状が見えた   市民の物は要らない 国が、行政が 事業者を活用してそういう事をするから市民は来ないでくれ、物を送らないでくれ、それは無いだろうなと思った  
阪神淡路大震災の時には 飢えと寒さは出てこなかった 
全国から送られた者の中にくるまれば暖はとれたが、食べるものもいろいろ届いた  
しかし 飢えと寒さ が有った  
国は事業者に依頼して送るからと言ったが最初の1回 2回だけであとは自分達でやらなければいけないように成って行って、という事に対して 阪神淡路大震災の時に 正直全国から送って貰ったものにあとで ゴミに成ったものが有った
 
かといって初動にはどんものでも必要 送れる仕組みが無ければいけない  
仕分けも大変 ごみで現地で出さない 
経験を整理すると 被災地で仕分けをしない  ゴミを出さない  
被災された人が最初に探してほしいのは思い出(アルバム) 預金通帳、貴金属 現金 という人はゼロでした  
アルバム、賞状だとか まさにアルバム  思い出なんです  
たすきプロジェクト  自分と等身大の人 に送る(着物 自分の好きだった物手紙も入れる)  
そいうバッグを4万5000バッグを全国から募集して送った

落ちついてくると皆さんが提供してくれた人に感謝の手紙 獲れたもの等(さんま、リンゴ等)  を送ってくれて 繋がりが出来てきている
自分だったらどうなんだと 社会的な出来事に対してたえず そういう目で見るし そういう視点は大切なんだと思う
依存  そこにありがとう が有ればいい   ありがとう 何いってんの お互い様じゃない  
日本の社会で どうやって支え合っていくのか、この二つのキーワードに展開して行ったら国難というか これからの時代を乗り切れるヒントが有ると思う  
歴史に学ばなければいけないと思う

2013年1月11日金曜日

米山文明(耳鼻咽喉科医87歳)   ・呼吸と発声を極めた我が医師人生


米山文明(耳鼻咽喉科医87歳)      呼吸と発声を極めた我が医師人生
今も、声を大切にする歌手、落語家、俳優などが治療とアドバイスを求めてやってきています  
アメリカのマイケルジャクソン、ドイツのソプラノ歌手エリーザベト・シュヴァルツコップ等欧米の一流歌手も多数治療を受けていました  
声だけでなく、聴きやすい声 歌だけでなくて聴きやすい声  、良い声は人の心を捉え、人と人とのコミュニケーションをスムーズにする  
そのためには正しい訓練が必要で、欧米のボイストレーナー制度を取り入れる  
必要があるという事です   1925年静岡県生まれ。
1950~1965年東京大学医学部耳鼻咽喉科学教室で、音声言語医学を専攻

日本語そのものの構造の問題も有る  母音が5つ あとは子音に必ず母音が付く  
ぜんぶ母音がつく言語他の国では無い 母音は声帯を使わないと、
出てこない言語です  (どこの国でも)  母音と言われる各国の言語ですべて声帯の振動をともなって声帯で作る音が入っていないと母音とは云えない  
処が日本語は母音の5つ以外に全部子音に母音を伴っている、と言うことは全部声帯を使っている   声帯にとっては凄く負担がかかる
声帯を使う量は日本語は非常に過酷になっている  
がむしゃらに声帯を使うとガラガラ声に成る

外国では殆ど発声 声作りの専門の人がいる  日本には無い  教育システムが無い   
喉を痛めない様な声とかの教育は無い
選挙 ケネディー大統領 の専門の発声の事を面倒を見る先生がボストンの大学の先生がいた  生徒の発声の教育を熱心にする先生だった
政治家が演説している光景には吃驚したでしょう  
一番吃驚したのは教員、と政治家の声が気になったとの事
授業で一日5,6時間話すので、声が壊れる  子供達も教わらないで過してしまう 
 先生も声を使う職業の人もどういう声を使えば喉を壊さなくて、大事に保てるかと自覚すべきだと思う   
職業病と認定したらとの話も有ったが、そうすると予算が全然足りなくなるとの事
 
使い方そのものを解決しないといけない  
教育学部に入学している生徒たちに授業をやる時のこえの使い方を教える必要が有る
教育は50年単位でやらないと本格的に定着しない  
イタリアのローマで 生まれた子供からやろうという教育をやり始めた人がる
教育は早い方がいいと思う  声帯は太さ、長さが変わって来る(声変わり)  
年齢の応じた教育をしなくてはいけない(知能、体力に合わした教育)
声は体全体を使います  
呼吸、足の裏から頭のてっぺんまで使わないと呼吸のコントロール、発声のコントロールが出来ない特に下半身、足を使わないといけない  通る声は声の大きさではない  響きです 
 
響き方 共鳴の仕方  呼吸の取り方を旨くとらないと遠くの人には届かない  
一番基本的なことから子供に教えなくてはいけない   茶摘唄 身体を動かしながら歌う、吐く息で声を作るが、効率よく呼吸をコントロールするが 、横隔膜を調節する神経が手を調節する神経と同じ処から出ている 連動している    
ミュージカル 良く飛んだり跳ねたりしながら声を出せる 
舞台で動きながら 走りながら声を出せと言われて昔ながらの声楽の人には出来ないと言われたが、実際には動いて出来る   
いろんな意見が有っても実際にやらないと駄目  明治以降の教育は形式的  
声に関しての関心は持っていない

具体的にこうやろう という方式が無いと実現できない  
頭で解って自分で表現しないと駄目  病気の場合は今の医療でもやってくれるが(ポリープ炎症)ある高さの音が出ないという時には、それだけ声が出ればいじゃないかと耳鼻科等では言われてしまう  
一般の人ではそれでもいいかも しれないが、その音域の声が出ないといけないような人にとっては問題  それを解って貰えないといけない  
ボイストレーナー 資格の認定試験が日本ではない 外国ではある  
国家試験が有る国も有る (アメリカ等)

歌の教え、治療が必要な場合が有る場合は 医者に回したり、する場合もある  
発声の先生、歌の先生(オペラの先生)最低二人いる  (欧米では)
タイガーウッズ イチロー  天才的なプレーヤーでもコーチが付くがいつもやっていることの僅かな違いに当人は解らない場合があるが脇で見ていてそれを、指摘するのがコーチの役割 シュヴァルツコップ 20世紀を代表するソプラノ歌手  段々年を取ってきて身体も変わる、そういう人でも自分では解らない  
年齢的でも変わるかも知れないし、一日一日でも変わるかもしれない  
身体の変化に対応して発声するものをすこしずつ修正するんだと、其れが出来ないと年齢に応じた発声はできない

歌えるけれども今までのように歌えないと言う時に相談に来る   声帯 太さと長さ   
女性でも一流の歌手 は太くて長い人がいる
呼吸が無いと声が出ない 吐く息で二次的に声に使っている  
コミュニケーションするのは30% あとは言葉が無くてもいい  声でも良い声のほうがいい
声が悪くてもいい言葉がだせる  理想は両方良ければいい 
しかし実際に個人思っている楽器は決まってしまっているので替えることはできない
言葉は音源が有ればいろいろ作れる   
その人が持っている持ち声 を如何に旨く応用できるかが勉強であって 自分に有った種類を沢山出せるか、声と言う物は 声帯の変動ではない 哺乳動物は膜が有って振動する膜を持っている 
鳥には声帯が無い 鳥は軟骨の筒を持っているだけ(笛の音)  
言葉は作れない、だから声というのは声帯を使って声帯に空気を当てて振動させて、それで音を作る         声は振動する音ではない
バイオリンの弦が振動して音が出るが それで音源に成ってるのとは人間の声は全然違う
声帯の振動は空気を断続するだけ 閉まったときにく気が止まる空いた時に空気が出る  
空いた時に出る 空気が断続気流を作る 
それの渦巻きの空気の波動の音を聞いて声に成る  声帯の振動音ではない  
あくまで空気の波動です
医者に成る前から音の事に興味を持った  
患者は殆ど喉に関するプロの方が多い(歌手、落語家、俳優等)

2013年1月10日木曜日

奥澤武治(67歳)         ・モダン結城を世界に



奥澤武治(67歳)   モダン結城を世界に
慶応大学卒業後 京都の老舗と奄美大島紬の勉強を経て、実家の結城紬の販売会社に
入社しました  
現在は専務取締役で合わせて結城紬染織資料館長を務めています  
伝統的処方の結城紬は昭和31年に国の重要無形文化財に 2010年には
ユネスコの無形文化遺産に登録されました

結城の街は鎌倉時代から明治に至るまでの古い城下町で 特に明治に成って火災に強い街にすると云うので 店蔵という蔵作りにした建物が31軒 今も残っている   
古い街並みが残っている ユネスコに結城紬が登録されたと言うので幟が建てられたりしている 世界でも絹織物の中でまれに見る織物  原始的でその原料の糸は真綿から手でつむぐ、
世界に類を見ない 空気をたくさん含んだ よりの無い糸で  織る、それもじばた織りと言って世界でも一番古い織り機で織る  そういうところが認められた  
手織り資料館 (「手緒里」資料館 鳩子の海で結城へ来て結城の勉強ながら機織りの店を出すそれが 手緒里 という資料館の名の由来)

着物の事を一から勉強しようと思って、京都に行った  
大島紬は何十台という機械で織っている  友原さんの家でも勉強した
紬と普通の絹織物の違い  着物には先ず2つある  後染めと先染めがある 
後染めは振りそで、友禅、小紋 白い生地を織ってからあとから模様を作る
先染めは糸の段階で先ず絣と言って糸の段階で模様を作って、織って、模様を織りなす
紬は糸を手でつむぐ  生糸は繭から細い糸を取りだし 1400~1500m 3デニール (糸の太さ)  それを7本 なら7本 1mにつき350回転によりを掛けて1本の糸を作り それを用途によって 
7本 (7×7本 49本)の糸を作る 
    
結城紬の場合は 繭から真綿を作る  そしてそこから手で糸をつむぐ 
全く違う性質の糸が出来て来る  そういう商品です
生糸の場合は糸をよるという作業を何回もやるので、空気を排斥してくる  
結城の場合には真綿から手でつむぐ 唾液を付けながら固めてゆくというか
よりの無い糸 世界にこれしか無くて よりが無いために軽くて温かいこれが結城の最大の特徴ですね
絹織物は弥生時代に大陸から渡ってきて、養蚕が生れて、織り物が生れる  
綿は新しくて江戸中期 栽培が楽だったので全国に広がる
その時に綿花  綿は本当の綿は弥生時代からあったので 真の綿 真綿と言う名前が生れたと思う

植物の繊維を繋いで織ってきた  くずふ、しなふ、あさとかが最初  弥生時代が絹  
綿が江戸時代  それまでは麻が中心
良い繭 お湯の中で煮て 糸口を探して それを引き出して何本かをよりながら1本の糸を作るが出がら繭 玉繭 染みが付いた繭 捨てるのがもったいないと言うので お湯の中で煮て盥の水の中で冷やしてから 指先で穴をあけて引っ張って 袋にして それを指先に5個ぐらい重ねて真綿を作りだした  
最初は軽くて温かいから寒さから身を守る道具に使ったのではないかと思う  
こんなに軽くて温かいのなら自分達の着る物をつくろうと思ったのが 全国の紬の起こりだと思います
最初は普段着に着るものとして生まれてきたと思う   
地ばた 世界で一番古い織る機械  世界手織物博覧会 結城紬の実演をしてほしいと言われたやった  高幡でやったのは  大島紬 西陣織り  地ばたでやったのは結城紬だけだった 日本はハイテク産業国なのにこんな原始的な織物が残っていたのかと吃驚していた  
地ばたは自分の腰で縦糸を固定して、そして足、腕、手、目、全身を使って織る   
織り子さんが織機に成って織る 

高幡の場合は 縦糸ははたに固定されるので常にぴんと張っている  
織り子さんの身体と一体となって縦糸が動くのが地ばたの特長です
縦糸がピンとなったり緩んだり、して難しい織り方ですが、糸に優しい織り方 
原始的だが上手にできている
地ばたで日本で残っているのは 小千谷縮 越後上布 結城紬  あと東北で裂き織り
津軽裂き織り 南部裂き織りで一部有る程度    地ばたで織る人は 100軒近くある 
 一人で一反 最後まで織る そうしないとムラになったりするので  
一反の縦糸横糸を作るのに 16km、 横糸で14km  30km作る必要があるので  数人で行っている   結城だけは小麦粉の糊で補強して織る

湯通しといって何回か糊を取る工程がある それを終了するとふわっとした物に仕上がる
手作りのものは、みな出来た時が良いのではなくて、大切に使っているうちに 物の良さが出る 
それを着る人と物との間に心の交流が始まる    これが手作りの本物の良さだと思う    
モダン結城 世界の人に認めて貰いたい 
 昨年9月パリ プルエービレン 世界最高のテキスタイル展が有るが 出店することになり 
世界に埋もれている 手作りの技だけを集めて別コーナーを作りたいと言う事でそこに実演も兼ねて展示した 吃驚する
   
2反依頼があり、パりコレにメンズのイブニングスーツで作品がでた  
70cm幅までできるが、新たに90cm幅のものを作成した
洋服にどうかとチャレンジしている  手ばたで90cmは中々出来ない 動力を使ったものも今後検討してゆきたい
衣川→絹川→鬼怒川  へと名前が変わった
結城紬は男物(武士と町人)  明治に成り洋風化が進む中で男が洋服を着だして、
それから女物の縞や無地が出てきた  (パリコレでも男物で行う)   

2013年1月9日水曜日

高野直明(シルクロード愛好会)     ・シルクロードの夢を語る


高野直明(69歳)             シルクロードの夢を語る 
地球と話す会(シルクロード愛好会) 中国の西安からイタリアのローマまで遥かな道の踏破をめざす旅や、その文化を学ぶ活動などしています
高校生のころシルクロードに強く惹かれ、卒業後はガス会社に就職して、技術スタッフとして勤務を続けながら、シルクロードを踏破する夢に一歩一歩近付いてきました  
憧れのシルクロードに第一歩を印したのは1992年の事で30年あまりが経っていました  
高野さんがシルクロードの全行程を走破したのが2003年 定年退職の年でした  
少年の頃の夢を実現した どのように歩んできたのかお聞きします

自転車や徒歩で古代の都西安からローマまでの踏破する  90名位で構成している  
勉強もする シルクロードエリアの歴史、文化をまなぶ
講師は探検家、歴史、地理、日本に来ておられる現地の方 会員の研究発表 イスラムの宗教関係、料理 等日本で勉強している(地球小学校)
昨年8月 ローマに集まって、記念行事をした 
東大寺からのメッセージをローマ教皇に渡す 39パーティー 900人を越えるメンバーが達成した
安寧を祈願、届けた  東大寺の別当北河原 公敬 世界平和のメッセージを書いて頂いてローマ教皇に渡すためのメッセンジャーとして行動した
世界で1000人ぐらいいた  地球と話す会は90名が謁見した
高校時代に偶然読んだ一冊が有った スウェン ヘディン 「さまよえる湖」 
すこしずつ動いてゆくという内容の話しだった どんな場所なんだろうと思った
シルクロードに段々引き込まれていった  
中国 中央アジア、中東 ローマまでの道が有ったと言う事に吃驚した
ガス会社に就職 ルーブル博物館、に展示されたものとか、国内の展覧会、写真展等に見学した 

1972年日中国交回復し身近に感じるようになる  2回のラクダのキャラバンに行っている  
計画が新聞に乗っていたので参加した
最初1カ月間の休暇が有ったので悩みながらも 上司に相談 会社から辞めてから行けよと言われてその時は挫折した
会社の長期休暇がもてはやされるような状況に成って、1991年に地球と話す会が出来て 翌年にラクダの旅が実現することが出来た
私は副隊長として出掛けた 中国850km ラクダ80頭 隊員は58名 一か月間 大学生から71歳の人まで参加 男女比は6:4だった

本当に現地に行って気が付くのは砂漠という平らなところと思うが、実際には山脈が有ったり (4000m位) 本では実感できないものだった
砂漠の暑さは普通に思うが、寒さも有って 朝はキャンプ地洗面器が凍るようなことが有り、段々昼に成ると 真夏の暑さに成り、日が暮れて夜になると、急に寒くなり、寝袋に入っていても寒さのために中々寝付けられないと言うような状況だった  
一番予想をしていなかったのが、仲間内のけんかが始まる  
些細なことの言い回しで喧嘩になることが有った
休養日を設けた 険悪なムードは無くなった  
24時間ずーっと一緒に居るとストレスが溜まる ストレスを開放する事が必要
何でわざわざ砂漠に来るのと言われた 
正倉院展に瑠璃碗が展示されたが、ああいうものがガラス器がこういうところを通ってきたのかと思うと感概深い

1992年以来 33回に成る ラクダでの旅が2回 (合計1800km)   
国境を12か所自分の足で越えた
中央アジアから中東の国境を越える時は緊張した 
2から3時間をかかって国境を越えたことも有った  陸路の国境越えは緊張の連続だった
日本との比較文化を考えながら歩いていた  
妻と一緒の方が現地人との接触が旨く行くことが出来た
シルクロード地域の人は生活がシンプルで道具は余りない  
定年前にソフトランディングの休暇が有ったのでそれを利用して全行程を踏破できた
長かったなあとの思いが有った  1500km を線で結ばれた(西安~イースタンブール)  
一緒に旅をしていた人も病気等で道半ばで亡くなった方も居た

費用の捻出、休暇の確保   長期休暇の抵抗感はあった 言い出す辛さはあった  
費用を含めて家族の協力が有ったからこそと思っている
子供は無かったものですから妻がいろんな役割を担ってくれた 
(秘書てきなこと、カメラマン、健康への補助 等々)
両親の介護を含めた家庭 地域についてはおろそかにしていたので地域の事(民生委員等)、シルクロードの趣味に係わる事
小学校への講演 砂漠  現地で培ってきた経験 異文化に対する価値観  
「少しの努力と継続をすれば願いはかならず叶う」
多くの道を丁寧に歩いて行きたいと思う  
日本の奈良京都 絹文化  群馬県の富岡工場 繭を貰ったら蛾が産卵をして、蚕を飼いだした
ざくり:繭から糸を繰り出す道具  糸を作りだして、草木染めにチャレンジしたいと思っている 桑を数回やらなければならないので、妻に手つだって貰って育てている

2013年1月8日火曜日

広井政明 (77歳)       ・元禄から続く江戸駒の技

広井政明 (77歳)            元禄から続く江戸独楽の技   
江戸独楽はよそ300年前の元禄時代に生まれました  
ひねり独楽、カラクリ独楽 等3000種類が有ると言われる   
江戸独楽を作る職人は政明さんと 兄の2人だけに成りました 
 9歳から独楽作りを始めて、7段飾りのひな人形をすべて独楽でつくる代表作が有ります   
海外のグーグル美術館等で展示されていますが、国内でも常設館を作り江戸独楽の意気と技を伝えたいとお話になります   
  
かつては子供の遊び 今では子供が自分で回すということは無くなった  
縁起物として飾っているところが有る (関西、九州 等)   
縁起物 としては 一本立ちをする  微動だにしない  同時に回して止まるまでの時間が違う止まり方もそれぞれ違う  人間みたいな姿   
ひねり独楽 まわし方は基本的には4つある  指先でひねって回す  こねって回す 
合掌独楽 ベーゴマ 細い糸で独楽を回して柄を持って紐を引っ張ると回る   
三味線を持っている女性がいて、独楽を回すと三味線の音がする物が有る   
総称して江戸独楽という  
  
東北にいくとずんぐり駒(雪の上でも回ることが出来る)  
日本ぐらい豊富に独楽があるところは無い  ぶっつけ独楽 どっちが先に止まるか を競う   
父親から習ったのか35種類ぐらい  
段々に景気が良くなって独楽に目を向けてくれなくなって、新しいものを作ると面白い独楽が出来る 30代の後半から続いて、まだ続いていて気が付いたら何千種類となった      
兄は物語性のある物を作る   私はメカニックを大事にする 
独楽を動力源にして遠心力とか、振動とかを利用したおもちゃっぽい独楽を製作する   
色は5色 赤、桃色、緑、黄色、紫   5色だとうるさい場合が有る 3色ぐらい   
ひい御爺さん  江戸時代の末期に 徳川家の御典医だった  
趣味が金魚と独楽  独楽を自分でつくった 箱根からひきもの屋を呼んで習った
  
お爺さんが本格的に始めて、売ったりするようになった  
父 健次郎、伯父さんがいた(戦争で亡くなる) 父が3代目となり浅草名物になった     
父は商売は下手だった 世の中の動きの中で新しい玩具として広まった 
問屋と仲見世に卸した 当時3軒あったが2軒は継ぐ人がいなくて廃業   
戦争で家が全焼して、仙台に疎開した 親戚も無く厳しい状況だった 
仙台に越したことによって辛うじて江戸独楽を残すことが出来た   
明治100年 昭和45年ぐらいの時にあらゆるものはプラスチックのものに成ると言う事が一般的な常識になって手作りは無くなるとのことでお先真っ暗になった   
反抗心が起きてきて、リバイバル 江戸独楽復活という事で話題になった  
兄はおとなしい 私は前向きな性格だった   
お客さんが珍しいもの珍しいものとの要求が有り、気が付いたら沢山の種類を作ってしまった    
この年に成っても技術は旨くないとは思うが、好奇心はあって、やってみるが失敗してしまう  食えないなら食えないなりにやってゆこうと思っている   
過去の失敗は腕が覚えている そうするとその原因を冷静に追及してそれが完成した時は嬉しいですね   
全国のデパートを轆轤を持って回っている  目の前で駒を作って、楽しみであちこちに行った  当時は今と違って感動していた   
銀座のサラリーマが一番感動していた  
海外からも声が掛って、アメリカのシアトルに行って12人の職人を連れて隊長として行った   
彼らは数分で出来上がる独楽を見て吃驚していた  技に驚いた 
 一種のマジックではないかと思われた 他にも世界のあちこちに回った
  
エクアドルに行った時に40代の人が来て 自分もこういうものを作っているので轆轤を貸してくれと言ってそこに座って 同じような独楽を作った 吃驚した   
設計図は無い 頭に思いついたものをそのまま作る  
これからの人に残すためには人間を作りたい 後継者   
図面が有ったとしても解らない 考えられない技術がある     
材料 日当たりのいい部分(成長が早い)と日当たりの悪い部分(成長が遅い)がある  
重さが違う  良い独楽は木目が均等 良い環境ではない処 に育った木が木目が均等になっておりその方がいい   職人は失敗しないといい職人には成れない    
皆さんに見せたいが独楽を見せる処が無い
   
1/15まで深川の東京モダン館で展示することになった   北海道で茶々館で常設している    
ルーブル美術館では70点ぐらい展示している  
永久展示はフィンランドのロバリーニに200点近く展示されている   
曲独楽の復元(伝統)とカラクリ独楽(自分の感性の創作)の2種を持って行った  
いままでつくった創作独楽は日本では売れない  買ってくれない   
ルーブル、ヨーロッパ、アメリカでも 創作したものこそ将来残そうと、現代を残すと言う事はそういうことなんだと いう事でそれが大いに元気の源に成った   
職人はアーティストとは違うのでお客さんに買って貰うのと 新しいものを作るのとあり、新しいものを作るのが楽しい  

アーティストは自己主張、ヴァイオリンを弾く独楽を作ってほしいとの要望が有り、頭を痛めている    
沢山の支えが有って、辛うじて食べていける  
技の後継者 いくら面白いものを作ってもお客さんが認めてくれないと売れない   
最近は関心が無くなってきているので、老体に鞭打って 伝統的なものから創作までつくっている   
息子 継ぐつもりでいると思うが 同じような手仕事をしている人がいて 後を継いで良かったよという職人と辞めて良かったよという職人がいて、継いではたして食べてゆけるのかという不安はありますね  
がんばれコールが支えには成るがただガンバレだけでは駄目で、買ってくださいと思います