2025年9月28日日曜日

福島富子(神奈川県原爆被災者の会 副会長) ・記憶を語り継ぐ

 福島富子(神奈川県原爆被災者の会 副会長)       ・記憶を語り継ぐ

今年は広島、長崎に原爆が投下されて80年、被爆の体験をどう語り継ぐかが年月の経過とともに難しくなっています。 神奈川県在住の福島富子さんは、長崎で生後間もないころに被爆し、4歳の時に親戚の住む五島列島の小値賀町に一人預けられました。 成人して神奈川県に移り住み30代で被爆者健康手帳を取得、現在は被爆体験を語り継ぐ活動をしています。 家族や親戚から伝え聞いた自身の被爆当時、その後の状況を語ると同時に高齢になった被爆者の体験を語り継ぐ長崎の交流証言者としての活動もしています。福島さんは去年日本被団協がノーベル平和賞を受賞した際、共にノルウェー、オスロを訪れています。 被爆時に幼すぎて直接的な記憶がない福島さんは、被爆について語ることを長年ためらってきたと言います。 その思いが変ったきっかけ、そして最も若い被爆者として自身の体験をどう語り継いできたのか、長崎で被爆した他者の体験を今後語り継ごうと決意した経緯について伺います。

生後6ケ月のころ被爆しています。  兄は3,4歳でしたが鮮明に覚えています。 母が私を抱っこして、兄を負ぶって防空壕に逃げたという事を兄から聞いています。  ここも危ないという事で竹藪の方の防空壕に行ったそうです。  父は食糧調達に行っていて、私たちは亡くなっていると思っていて、探していたら大丈夫だという事がわかりました。 父ともに親戚の家に疎開しました。  そこを離れたという事が良かったかなと思います。

4歳ごろヤギの乳を飲まされたきおくはあります。  被爆したことを隠すために預けられたと思います。(五島列島の小値賀町)  一人で預けられて泣き続けたことは覚えています。 高校卒業後は長崎に実家に戻りました。  10歳の時に一度実家に帰ったことがありましたが、母が号注していました。  この人誰、なんで泣いているの、という記憶があります。  子供をもって母の号泣している姿がやっとわかりました。  実家に帰ってすぐに父は脳溢血で亡くなりました。  母は病院に入院していました。  しばらくは兄と私と妹の3人で暮らしていました。  6か月して母が退院してきましたが、妹を介して私に話をするんです。(うまくいかなかった。)  東京の洋裁店に行って働いて生きて行こうと思いました。 その後結婚して神奈川県に住みました。

被爆手帖はあにがとった方がいいと言うので取ることにしました。 (34歳)  当時は被爆者はひっそりと生きていました。 神奈川県原爆被災者の会に所属しました。(20名程度)2011年の福島原発まで私は語る資格はないと思っていました。(何も覚えていないから)「被爆その後の福島さんの人生を知りたいんだ。」とある先生から言われて、 そうなのかと思いました。  それから自分探しを始めました。  福島の方々が差別されていました。 葉山の町に福島ナンバーの車があり、そこに「帰れ」と書いてありました。 何とかしないといけないと思いました。  戦争、原爆のことなど勉強しました。 

広島の村上さんと言う方の話を聞いて衝撃を受けました。(20年ほど前)  2018年に村上さんが神奈川県の新聞に自分の証言を掲載されていました。 それを機にお付き合いするようになりました。  村上さんが私の話をしてほしいと言われました。  交流証言者として登録しました。 

村上さんは被爆者なのに原爆に負けてないと見えました。  村上さんの話としては、原爆が落ちた瞬間から、身体がだるく成ったり、沢山の血を吐き、周りの人からもう助からないという中で、自分が負けずに生きてゆくというその部分を伝えています。 村上さんは95歳になり、判らないことを聞くと、もう忘れたというんですね。  頼りにしているのは村上さんから頂いた資料です。  若い人たちが交流表現者になっていただけるのが、今後の励みになります。(小学4年生の子が交流表現者なる。)  

去年日本被団協がノーベル平和賞を受賞した際、共にノルウェー、オスロを訪れています。 ようやく思いが通じたという瞬間でした。  オスロの方々は温かかったです。 被団協がノーベル平和賞を受賞したことを若い人に聞くと何人かは知らないです。 世界にどれだけ伝わっているのか疑問です。  戦争のない世界を作りたい。  私が知っている事実を話していきたい、身体の続く限り。