笹野高史(俳優) ・どうしても役者になりたい!思いは通じる
笹野さんは1948年兵庫県淡路島生まれ。 高校卒業後俳優を目指してに日本大学芸術学部映画学科に入学。 しかし大学2年の時に中退して東南アジア航路の船会社に就職して、船員となります。 その後串田和美主宰の自由劇場に入り俳優活動を始めました。 1979年初演の舞台「上海バンスキング」で注目されるようになります。 1982年自由劇場を退団、活躍の場を映像作品へと広げます。 1985年念願の山田洋次監督の「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」に出演、以来「男はつらいよ」シリーズの常連となり、山田洋二監督作品には欠かせない俳優となります。 又舞台では「コクーン歌舞伎」「平成中村座」など歌舞伎にも出演しました。
母親の時代は当時大流行でした。 映画が大好きな母親でした。 淡路島の造り酒屋「東洋長」に四男として誕生。 3歳の時に父を亡くしました。(結核) 母親にもうつっていて母親と兄弟が療養のために別の家に住んでいました。 母親に連れられて映画館に行きました。 (小学校に入る前) 11歳の時に母を相次ぎ亡くして、実家の戻って育てられました。 中学になって自分で映画を観るようになりました。 映画俳優になりたいなあと思い始めましたが、口には出せませんでした。 雑誌から映画俳優になるための方法についての本のことが書いてありました。 手紙を出して届いたのが、呼吸法、しゃべり方などの本でした。 隠しておいた本を兄貴に見つけられてしまいました。 兄たちに大反対されました。
大学に日本大学芸術学部映画学科があることを調べたら知りました。 俳優コースに入り立ったが、反対されるので監督コースを、という事にしました。 大学に入ることになりまいた。 池袋の映画観に良く通いました。 演劇のグループに入って演劇のことを一から教えて貰いました。 先輩が自由劇場に入って、その先輩に誘われて入りました。 1年後に柄本明が入って来ました。 俳優ってあんな風体でもいいんだと思いました。 学生運動が盛んになり、 小劇場も運動に巻き込まれました。 自分の居場所がなくなってしまいました。 お金を使わないで外国に行くのは船乗りだと思いました。 て東南アジア航路の船会社に就職して、船員となりました。 凄く楽しかったです。
段々学生運動、小劇場の運動も収束していきました。 船員の道か芝居の道か、悩みました。 役者でやらしていただきたいと、23歳の時に言いました。 自由劇場に入りました。 佐藤B作さんが自由劇場を辞めて自分で劇団を立ち上げました。 柄本さんも辞めました。 彼らがテレビに出るようになって、 役者が飯を食えるようになったんだと思いました。 憧れていた映画「男はつらいよ」に佐藤B作さんが出ました。 悔しかったですね。 自分で頑張ればいけるのではないかと思って、勇気を貰いました。 柄本さんも出ました。 自分でも頑張とうと思いました。
自由劇団を辞める2年前に「上海バンスキング」がヒットしました。 それで賠償千恵子さん主役のミュージカルへのオファーがありました。 賠償千恵子さんから山田洋次監督に繋がるのではないかと思いました。 舞台を山田洋次監督が見ていただいて、36作目の「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」に出演することになりました。 以後毎回呼んでいただきました。 或る人から「笹野さんは主役をやろうと思っちゃ駄目、笹野さんは脇で光る人なんだから」と言われました。 脇を見事にやってのける俳優になってやろうじゃないかと、思いなおしました。 俳優はいつもピカピカなリンゴでないといけないと思っています。 このリンゴは美味しそうだと買っていただくので。 心も身も元気で居ようと心がけています。 セリフが覚えてれるうちはもうちょっとましな役者になりたいと思っています。