山内聖子(文筆家・唎酒師) ・“美味しい酒”を地元で味わう旅をしよう!
山内さんは岩手県盛岡市出身。 自らを飲む文筆家と称しています。 地方を訪ねた時に出会った地元の人に愛される美味しい酒に魅せられてきました。 日本各地の蔵元などを取材して日本酒の効能、製造工程、歴史、業界の現状や未来などをテーマにした多くのエッセイを書いてきました。 最近書いたのが「日本酒吞んで旅行けば」人気の銘柄や全国屈指の老舗など15の蔵元を訪ねて、美味しい酒つくりへの思いやそれを支える地元の居酒屋や料理人達を取材しています。 日本酒との出会いや魅力、地元の料理人たちの酒に合う自慢の料理など、日本酒と旅に未来や可能性を語ってもらいます。
母はアルコールを飲めない、父も御猪口一杯で真っ赤になるになる人でした。 私の母方の祖父母家が屋号が「麹家」で麹を作っていたらしいんです。 そこへ婿に入ったひいおじいさんが酒つくりの蔵人だったらしいです。 高校卒業をデザイナーになりたくて上京しました。 グラフィックデザイナーの専門学校に入学しました。 その系列の飲食店で働き始めました。 ある店が日本酒を100種類ぐらいある店でした。(22,3歳) 日本酒の銘柄が読めないので覚えていきました。 飲んでみて目覚めてしまいました。
日本酒の店をやりたいという思いはありました。 時代は焼酎ブームの時代でした。 日本酒のことについて書くことで多くの人に伝えられるので、ライターになりたいといきなり思いました。 日本酒は透明でどの蔵も同じようなものですが、味が全然違うんですね。 合成酒と言った時代もありましたが、戦後復興と共に原料不足が解消されて行っても、 まずく作ろうが飛ぶように売れていた時代がありました。 戦後蔵の数も減少が続いて、2015年時点では1300ちょっとと言われていました。 今はもうすこし減っていると思います。 杜氏制度が廃れて行っていましたが、その原因が高齢化でしたが、現時点では若返っている様な気がします。 昔は杜氏さんと言うと農家出身の方が多かったのですが、農業大学を卒業した人がどんどん入ってくるようになりました。
高度成長期は灘(大手メーカー)が全盛でした。 地酒ブームで小さい酒蔵も注目されるようになりました。 それ以降には小さい酒蔵が美味しい酒を造るようになりました。 いろいろなブームがあり吟醸酒ブーム、淡麗辛口ブーム、新潟のお酒も流行りました。 景気がいいとスッキリした辛口の酒が流行る、景気が悪いと甘口の酒が流行ると或る蔵元さんが言っていました。
地元に行かないと本来の日本酒の姿が判らないのではないかと思いました。 本音を聞くのには地元で聞いた方がいいなと思いました。 20代の女性がライターという事で蔵元に行くと、当時は門前払いを喰う事もあり最初は苦労しました。 作り手の人と深い話をしたいという思いがあり、製造のこと、作り手しか知らないような事を知らないと会話にならないので勉強はしました。
酒つくりには本当に正解がないという事を、改めて突き詰めたいと思いました。 作り手の譲れないものがあって、そういったことも凄く面白いです。 そういったことを知ってほしいと思いました。 20年ほど前から女性杜氏の方がぼつぼつ出てきました。 最近は大分増えてきました。
蔵元推奨の居酒屋、小料理屋さんへ必ず訪ねています。 「日本酒吞んで旅行けば」では取材の一環として行って書くことにしました。 地元の野菜など、郷土料理と共に飲むと本当に美味しいです。 日本酒の輸出は伸びてきています。 酒蔵自体を海外で作ってあちらで作って現地の人たちに味わってもらうという流れも出てきました。 コロナ禍をきっかけとして小さな酒蔵さんもSNSで発信するようになりました。 それで便の悪い小さな酒蔵さんでも知ってもらえる機会が増えました。 同時に販売の仕方も変わって来ました。 酒蔵さん自身が自分たちで売ろうと言う様な流れになってきています。 蔵の哲学は変わらないんだけれども、その年、その年でお米の出来、不出来もあるし、時代の流れに合わせて、工夫しているところは多いと思います。
有楽町に日本酒バーがあって、週に一回お店に立って女将をやっていて14年目になります。料理も作っています。 お客さんの反応を大事にして、ライター業でも書くようにしています。 その人に合ったものが絶対あるので、そこを捜す作業が楽しいです。 質のいいお酒にはこだわりがあるので、そのためには地元に行って酒蔵さんの話を聞かないと判らない。 飲食業とライター業が交差するような形でやっています。