2025年6月5日木曜日

箭内道彦(東京藝術大学教授)       ・領域を超えて、つなぐ懸け橋

箭内道彦(東京藝術大学教授)       ・領域を超えて、つなぐ懸け橋 

箭内さんは専門分野の広告だけではなく、東京藝術大学教授やラジオ局の名誉局長など多岐に渡り活躍を続けています。  今62歳で去年3月に自身の還暦をきっかけとした音楽イベントを開催し、さだまさしさん、石川さゆりさん、GLAY、乃木坂46など親交の深い有名なアーティストが大勢参加しました。  さらに石川さゆりさんが歌った「津軽海峡冬景色」では自らギターを演奏、ミュージシャンとしても参加し、2日間で4公演を行ったイベントは大盛況で話題となりました。  幅ひろい分野で活動を続ける思いをうかがいます。

クリエーティブディレクターと言うのは広告を制作するうえでの責任者です。  その広告で売れなかったり、話題が作れなかったりしたら多くの責任を負うのはクリエーティブディレクターです。  福島県出身。東京藝術大学卒業。  大手広告代理店を経て2003年に独立、様々なジャンルで活躍中。  NHKの番組でも司会をしました。  広告はずっとやって来ました。  来年で30周年になる仕事が一つあります。  タワーレコードのノーミュージックノーライフと言う仕事です。  何枚ポスターを作ったかわからないぐらいずっと続いています。  

福島県のクリエーティブディレクターもしています。  2011年3月に東日本大震災があって、福島第一原発の事故もあって、前代未聞の災害でした。  11年目になりました。   東京藝術大学の教授、ラジオ番組のパーソナリティー(トータルで18年 毎週)もしています。   ラジオ局を設立して名誉局長をしています。  

色々やっていますが、全部広告だと思っています。  企業の応援、社会全体を応援することが広告だと思っています。  商品の魅力を最大化して世の中に伝えていくという仕事だと思います。  やっている事は誰よりも狭いと思っています。  

還暦と言うきっかけをタイミングに、皆がえっと思うようなことを成し遂げないとという宿題を自分に課しました。  それで音楽のイベントを開催しました。  埼玉スーパーアリーナがたまたま空いた日があって、今日返事をもれるのならばお貸ししますと言われて、とりあえず仮抑えしました。  キャンセル料を調べたら100%で進むしかなかった。  GLAYTAKURO(タクロウ)さんにまず話をしたらいいですね、やりましょうという事になりました。  さだまさしさんとか段々増えていきました。  埼玉スーパーアリーナは東日本大震災があって双葉町の皆さんが町ごと避難した場所でした。  2日間行ってとっても嬉しかったです。 

子供の頃は故郷が嫌いでした。  近所の良くないことなどをしゃべりながらご飯を食べている様な状況もあったり、自分の弱さも福島県の県民性にあるのではないかと思っていました。 或る時福山雅治と話をした時に、自分に足りないものを全部故郷のせいにしているのではなく、悪いのは自分なんだという風に言ってくれました。  その時期に東日本大震災が起きました。  そこから夢中で動きだしました。  1億円寄付したくなって3月14日に銀行に借りに行きました。  寄付が目的の融資は出来ませんと言われました。  2010年に結成した福島県のバンドでレコーディングして寄付しようと思いました。  そこから広がって行きました。  

ラジオ局の設立は、大震災のあとラジオが大きな存在であることに気付きました。  つなぎ直すメディアが欲しいと思いました。  放送免許が必要だという事でした。  渋谷には同様な考え方を持つ人たちもいて、私が理事長になって旗振り役を担当しました。  福山雅治さんに話をしたら僕も一緒にやりますと言ってもらえました。  誰でも出て欲しいと思ったので、「聞くラジオから出るラジオへ」と言うスローガンにして始めました。 

実現は自分一人では絶対できないので、沢山の人たちの応援、守ってくれたり、導いてくれたりと言ったことが大事です。  何もやったことがないことを、誰に何をやって貰えるかと考えることが好きです。  

小学校4年生の時に、プロ野球に試合を友人宅で見ました。  優勝が決まる試合で巨人に阪神が9-0で負けました。(9連覇達成の瞬間)   僕にはなんてつまらない事なんだろうと思いました。  9年も同じチームしか優勝しない。  その日から阪神を応援することにしました。  それから主流のものに反対の立場を取り続けるような子供でした。  大学を選択する段になって、美術大学があるという事でこれだと思いました。  親は僕のあまのじゃくの性格をよく知っていて、親からは3つ言われました。 ①家の手伝いするな。 ②悪いことはしてもいい。 ③勉強をするな。  全部反抗しました。  

当時東京藝術大学では就職は負け組で、あえて就職を選びました。  第一位ではなく第二位の広告代理店を受け無事入れました。  いろいろトラブルがって面接時間に間に合わずその2時間後にたどり着いて受けることになりました。  スターチームには入れずに腐って行きました。  1996年にノーミュージックノーライフと言う仕事を始めました。  先輩の木村さんと一緒に仕事を捜し歩きました。  ノーミュージックノーライフの仕事が生まれていきました。   

39歳で13年間いた会社を辞めました。  或る上司から「自由の海に出たら何に逆らうんだ。  お前はもう終わりだ。」と言われてしまいました。  それがアンチの対象になり燃えました。  40歳ならば纏まった退職金、持ち株も1年、2年待てば上場して纏まったお金がもらえたんですが、さんざん周りから言われました。  

僕自身、広告は素人的にしてきました。  好きなものしか広告しないと言う様な考え方でした。   広告を技術だけで作っているという事は空虚であるという事を段々わかって来たんだと思います。  そこに魂があるかどうか、思い、助けたい、応援したいという事が作り手にちゃんと有るかどうかという事が、問われている時だと思います。  それを取り戻していくことがこれからの広告の第二章の始まりかなと思います。 

若い人にチャンスを増やしてあげたいという気持ちは有りますが、でもまだ自分も必要とされていたいというエゴみたいなものもあったりして、そこのせめぎあいが60代の難しさではないかと思います。  撮影の現場が楽しかったという風になるかどうかがとても大事です。