2025年6月28日土曜日

沢知恵(歌手)              ・時を越えて響くこころのうた

 沢知恵(歌手)              ・時を越えて響くこころのうた

沢さんは1971年神奈川県生まれ。   父は日本人、母は韓国人です。 日本、韓国、アメリカで育ち3歳からピアノを弾いていました。  東京芸術大学在学中に歌手デビュー。 ライブハウスでの公演のほか、国立ハンセン病療養所や災害の被災地、少年院、刑務所などでも精力的に歌っています。  一方で2018年には岡山大学大学院に入学して、ハンセン病療養所の音楽文化の研究をしました。  その研究の内容は歌に刻まれたハンセン病隔離の歴史、「演歌は歌う」と言う本になっています。  今年は日韓国交正常化60周年、実は沢さんの祖母も岡山と深いゆかりがあったと言います。 

*「心」  作詞:キム・ドンミョン・訳:キム・ソウン 作曲:沢知恵 歌:沢知恵

およそ100年前に作られた詩を、詩人だった母方の祖父が日本語に翻訳し、沢さんが曲を付けました。  1998年に戦後初めて韓国で公式に日本語で歌われた歌です。  戦後長い間韓国では日本語の歌は放送でも流してはいけないし、歌ってもいけなかった。 2025年は戦後80年、ラジオ放送開始が100年、日韓国交正常化60周年です。  父は戦後初めて韓国に留学した日本人となりました。  キリスト教の牧師になりたくて日本の大学で学んでいて、韓国の隣人になりたいと言って韓国に留学しました。  留学先の大学で恋をして結婚を申し込みました。  

日本人との結婚には当人も無理だと思っていたし、周り全部が反対した。  祖母だけは反対しませんでした。(心を訳した人の妻)  祖母は昭和7年から8年にかけて留学生として日本に来て、 笠岡高等女学校(当時)で学んで卒業しています。  卒業アルバムに母が移っていました。  笠岡教会で祖母はオルガン師として勤めたことも判りました。  40年以上使っていなかった小さなオルガンがありました。(祖母が使ったであろうオルガン) それを沢知恵さんが弾きました。  1971年2月14日に私が生まれました。  国と国とかの繋がりも有りますが、人と人の繋がり、温かさ、思いやりとかが一番大事じゃないかと思います。

ハンセン病療養所の大島青松園の近くに行きたいなあと思いました。  父は牧師になるための研修として1年間大島青松園の教会にお世話になり、その後韓国に留学しました。  父は生後6か月の私を連れて療養所に連れて行きました。(当時は赤ん坊を連れてゆく事に対し周りは反対した。)  父は私が高校生の時にがんでなくなりました。   20年ぶりに私が行ったら「知恵ちゃんかい」と言ったんです。  皆さんと共に泣いてしまいました。 2001年から毎年大島青松園でコンサートをしています。  

全国に13の国立療養所がありますが、去年が750人ぐらいで、今年4月には639人になっています。  平均年齢は88,8歳。  岡山にはほかに長島愛生園、邑久光明園があり私の家から3つの療養所に通えるという事が判りました。  毎週のように通うになり、ハンセン病療養所には豊かな音楽文化があったという事を知りました。  岡山大学大学院に入って2021年に50歳で終了して、ハンセン病療養所にあった園歌を研究しました。 ハンセン病の患者がこの世からいなくなることが国家に奉仕する事、と言った内容もありました。  民族浄化という歌詞が出てくる園歌もあります。  歌を歌わせるときに上から働く力と言うものの恐ろしさ、と同時に辛い療養所生活を仲間と共に歌で乗り越えたという、下から湧き上がる力も又音楽の力なんだと思いました。 長島愛生園の歌が一番多いです。 全国療養所の中で唯一新良田教室(高等学校)が出来て(1955年)、全国から受験があり、1987年に閉校するまで300人以上が卒業しています。 その校歌があり、生徒が作詞、作曲しています。

*新良田教室 校歌  歌:沢知恵、森

挽歌「生と死」  人が亡くなった時、慰霊祭で歌ったという事です。 作詞:黒川ひとみ(開拓患者の一人 作詞して翌年亡くなる。 25歳) 

*「生と死」   歌:沢知恵














2025年6月26日木曜日

土方明司(川崎岡本太郎美術館 館長)    ・〔私のアート交遊録〕 太郎の目指した世界

 土方明司(川崎岡本太郎美術館 館長)    ・〔私のアート交遊録〕 太郎の目指した世界

土方さんは1960年東京生まれ。  大学卒業後練馬美術館の立ち上げに参加、その後平塚市美術館でも学芸員生活を経て、2021年からは川崎岡本太郎美術館 3代目館長に就任、かつて大阪万博の太陽の塔で多くの人の注目を集めた岡本太郎の人気は21世紀の今も衰えません。美術と言うジャンルには収まりきらないという岡本太郎の世界とは何なのか、それをどう伝えようとしているのか、子供の頃に何度か岡本太郎と親しくしたことがあるという土方館長に岡本太郎の魅力やアートとの出会いや楽しみ方などについて伺いました。

太陽の塔が重要文化祭として指定されると発表されて話題になりました。  塔が作られた時には賛否両論で、美術関係者からはけちょんけちょんに言われました。  当時日本は高度成長期で浮足立っていて、その足元をすくう様なデザイン、造形を岡本太郎は出した。  奇怪でグロテスクでまるで死の怨霊が湧き出たような、それを現代の文化を謳歌する万博会場の真ん中にどんと建てた。  異質な存在として現れた。  岡本太郎を大抜擢したのは丹下健三さんです。  お互いにないものを持っていて、強い信頼関係にあった。  すべてのパビリオンとかの建造物は撤去される予定だったが、一般の方々の強い支持で残る様になった。 

岡本太郎は非常に短い言葉で人の心を掴む言葉を連発するんです。  岡本太郎自身も自分のことを謎だったんじゃないですか。  非常に複雑な要素を一人の人間のなかに持っている。岡本太郎の全体像を正確に把握する事は難しい。  出来上がていた流れを全部ひっくり返してしまう。  そして新しい創造をする。  彼は20代のころに10年間パリに行って、哲学者ジョルジュ・バタイユと民俗学者マルセル・モースに出会っている。   人類の生の歴史を解き明かしてゆく民俗学にアプローチした。  

西洋的な価値が美術評論家の美術史の価値になる。  彼は意図的に逸脱しようとしていた。 美術館には若い人たちが面白がって来てくれる。   可愛いと言ってくれる、それに感激しました。  伝統やすでに価値が定まったものを守る言事は絶対おかしい、常に新しく捉え直さなければいけない、そうしなければ創造的な価値が生まれない、と言っている。  太陽の塔の内部に岡本太郎の秘めた思いが色濃く残っている。  呪術性、祭りであり、神への祈り、世界中に共通するものを、仮面、祭祀に使った民具、などを世界中から集めて展示している。 

父と岡本太郎さんは親しかった。  幼稚園の頃に父に連れられて展覧会に行って初めてお会いしました。  目線が低く、不思議な雰囲気を持っていたことをいまだに覚えています。   奥さんは「太郎さんは子供と付き合っていた方が生き生きとする。」、と言っていました。   偉ぶる事は無く、権威、権力を否定していた人で、組織、徒党を組むという事が大嫌いでした。  「芸術家は孤独でなければいけない。」といつも言っていました。  太陽の塔はぽつんと立っていて、岡本太郎自身のように思えてくる。  上は未来を目指し、地下空間は地をめざしていて、天と地を結ぶ宇宙人の様な存在です。 

岡本太郎の言葉。 「君は君のままでいい。」「弱いなら弱いまま。」「誇らかに生きてみろよ。」

父は神奈川の近代美術館の館長を長く勤めていました。  当時は絵描き、彫刻家が酒をもってきて館長室、学芸員室に始終出入りしていて、家にもきて宴会をしていました。  家庭教師の麻原先生の導きで哲学、宗教学などを学びました。  大学の先生から「練馬区に新しく美術館が出来るので、試験を受けてみては。」に言われました。  立ち上げから関わりました。  いい勉強になりました。   練馬美術館には20年間務めました。 その後平塚市美術館でも学芸員生活を経て、2021年からは川崎岡本太郎美術館 3代目館長に就任しました。  生涯学習の一環として公立美術館がある方向に行く。  

岡本太郎の母親(岡本かの子)に実家が川崎市でした。  2000点あまりを川崎市に寄贈してくれました。  それを生かすために今美術館があります。  美術以外のファッション、音楽などのジャンルで活躍している方たちが岡本太郎の大ファンだという方が凄く多いです。 お薦めの一点と言われれば、太陽の塔ですね。  岡本太郎自身、呪術師のような存在だと思います。  仕事帰りに毎日のようにいろいろな画廊巡り(40年続いている。)をしています。  自分自身がリニューアルできる。





























2025年6月24日火曜日

石飛博光(書家)             ・創作の原点と これからの書

石飛博光(書家)             ・創作の原点と これからの書 

石飛さんは北海道出身。  小学4年から書道をはじめ、高校3年で後の師匠になる金子鷗亭さんに出会い、1960年東京学芸大学学芸学部書道科に入学、同時に金子鷗亭さんに師事することになりました。  金子さんの提唱する誰にでも読める詩文書、漢字かな交じりの書に精力的に取り組んでいます。  2009年に毎日書道展で文部科学大臣賞を受賞、2012年に草野心平の詩「富士山」を書いて毎日芸術賞を受賞など大きな賞を受賞されています。 去年秋の叙勲で旭日小綬章を受賞しました。  今年は4月にアメリカニューヨークで日本の書ニューヨーク展が開かれ、石飛さんは皆の前で書を書く揮毫をする他、大正大学の学生と共にアメリカの人たちに書道を指導しました。  6月には大阪関西万博で書道の展示や海外からの来場者をはじめ、誰もが筆の体験が出来る実演エリア体験エリアで指導をして評判になりました。

今84歳。 小学、中学のころから中国、日本の作品を真似て楽しんでいました。 金子鷗亭師匠は、師匠を否定しなさい、自分でどんどん求めて書いていきなさいと言われました。  色々な先生からひそかに盗んで自分のものにしてゆくという、そういう勉強の仕方が大事だろうと思います。  但し先生の真似をしているだけでは駄目です。 常に新しいものを求めて、発見して自分の字を作ってゆくんだという気持ちが大事です。  

高校3年で後の師匠になる金子鷗亭さんの講習会に参加させてもらいました。  手の使い方指の使い方などしっかり見ていました。  東京へ行くことを決意しました。  1960年東京学芸大学学芸学部書道科に入学、同時に金子鷗亭さんに師事することになりました。 

一昨年徳島県立書道館で書道展を行いました。  草野心平の詩「富士山」を展示しました。  横16m✕縦2m40cmです。   東日本大震災の折りに作成したものです。  必死になって書きました。  今年は4月にアメリカニューヨークに行き指導したりしました。   6月には大阪関西万博で書道の展示や書道体験を行いました。  こちらの展示場にも草野心平の詩「富士山」を展示しました。  

作品としては40から50点程度は書いています。  楽しい時もあれば苦しい時もあります。一作一作気合を込めて作っています。  これでよしと言う気持ちにはなかなかなれない。日本は中国から漢字の文化を輸入するだけではなくて、 ひらがなを作りました。   漢字、かな混じりの新しい文化として日本人は作りました。  素晴らしい文化だと思います。 

草野心平 富士山 作品第壱

  麓には桃や桜や杏がさき
  むらがる花花に蝶は舞ひ
  億萬萬の蝶は舞ひ
  七色の霞にたなびく
  夢みるわたくしの
  富士の祭典

  ぐるりいちめん花はさき
  ぐるりいちめん蝶は舞ひ
  昔からの楽器のすべては鳴り出すのだ
  種蒔きのように鳥はあつまり
  日本のすべての鳥はあつまり
  楽器といっしょに歌っている
  夢みるわたくしの
  富士の祭典
  
  七色の霞は雪に映え
  七色の陽炎になってゆらゆらする
  鹿や猪や熊や馬
  人はいないか 人もいるいる
  へうたんの酒や女の舞ひ
  標野(しめぬ)の人も歌っている
  ああ
  夢みるわたくしの
  富士の祭典

  遠く大雪嶺からは黄鳥が
  使者になって花を啣へて渡ってくる
  三つの海を渡ってくる
















2025年6月23日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 兼好法師「徒然草」

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 兼好法師「徒然草」 

「日が暮れたが前途がまだ遠い。 我が生ももはやよろめく力なさである。  一切の世俗関係をうっちゃらかしてしまう時期である。  約束も守るまい。 礼儀をも気かけまい。」 徒然草

清少納言の「枕草子」、 鴨長明の「方丈記」と並んで日本三大随筆の一つ。 

兼好法師とは卜部 兼好(うらべ の かねよし)と言って出家後は俗名を音読みした兼好(けんこう)を法名とした。  鎌倉時代の終わり頃に生まれて南北朝時代、70歳以上は生きたと言われている。 「徒然草」を書いたのは40~50代と言われているがそれもはっきりしない。   兼好法師が亡くなって100年後ぐらいに、正徹という僧侶が徒然草」をひきだし高く評価し、そこから有名になった。  

『徒然草』序段

つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。」

することもなくもの寂しい暮らしの中で、朝から晩まで筆を手にしては、心に浮かんでは消えるたわいもないことを、とりとめもなく書きつけてゆくと我ながらわけの判らないように感じられる。 と言う様な内容です。

「つれづれなるまゝに」と言うところも、「退屈で寂しい」という意味にとる人もいれば、孤独の楽しみとか行の境地と言う意味にとる人もいる。 

「あやしうこそ物狂ほしけれ。」も妙にばかばかしい気持ちがすると言う様な謙遜に意味に捉えるのと、熱中しておかしくなるほど興奮しているという高揚感を表現してるとも捉えられている。  専門の学者のなかでも意見が分かれる。

ドイツ文学者の中野孝次さんが「徒然草」の本を出している。

「日本の古典文学の中で「徒然草」は私も最も親しんできた作品だ。  親しむと言っても鑑賞とか研究とかとは程遠くその中の好きな部分を勝手に我流に読んで、それをもって身のやしないとしてきただけだから、専門家から見たら随分偏った見方と言う事になろう。  しかし私は一般の読者が古典に近づくにはそれが一番と信じているのである。 中には自分で読むより先にまずカルチャーセンターのようなところに通って、専門家から字句や事項の説明を聞き、正しい解釈を知ったうえでないと古典に近づかないと言う人もいるようだが、それではどこまで行っても古典は我がものにはならないのじゃないかと言う気がする。  古典がわがものになるにはそのなかの一句でも半句でもいい、ある言葉に打たれそれがわが心のうちにはいり根付いて、もはや古典の文言なのか我が言葉なのか区別がつかないぐらいになり、我が生を導く様になってだと私は思う。」 

まず感動が先だと思います。  どこか一か所でも感動していただけたらと思います。

「日が暮れたが前途がまだ遠い。 我が生ももはやよろめく力なさである。  一切の世俗関係をうっちゃらかしてしまう時期である。  約束も守るまい。 礼儀をも気かけまい。」 徒然草  112段の一節

人生短いので本当にやるべきことをやった方がいい、という事ですね。

188段

「或る人がその子を僧にして、仏教の学問を知り、因果の哲理をも取得し、説教などして世渡りの手段としてするも良かろうと言ったところが、子は親の命の通りに説教師になるためにまず乗馬を稽古した。  それは輿(こし)、人を乗せて担ぐ乗り物や、車、牛車のない身分で導に来た場合に、鞍に尻が座らないで落馬して困ると思ったからである。 その次には仏事の後に酒の振舞などあった時、坊主がまるで芸がなくとも施主は曲がないと思うだろうと、早歌と言うものを習った。   乗馬と早歌が段々上手になると益々やって見たくなって、稽古している間に説教を教わることが無くて、歳をとってしまった。  この坊主ばかりではない。  世間の人はこの坊主と同様なところがある。 」  「徒然草」

兼好法師はやるべきことをちゃんとやれと言っているが、なかなかできない。 

第137段

「花は満開を、月は名調なものばかり賞すべきものではあるまい。 雨に対して月に憧れたり、家に引きこもっていて気の付かぬうちに春が過ぎてしまっていたなど、情趣に富んだものである。  もう咲くばかりになっていたこずえだのちりしおれた庭などこそ、見どころが多いのである。」 「徒然草」

兼好法師は時間を惜しんで頑張ってきて、成功しろとか、なにごとかなせと言っているわけではない。  そういった価値観に振り回されずに、本当に自分が生きたいように、そう言っている。  

「木に坊主が登って、木のまたのところで見物していた。  木にとっ捕まていてよく眠っていて落ちそうになると目を覚ますことが度々であった。  これを観ている人が嘲笑して、実に馬鹿な奴だなあ、あんな危ない枝の上で平気で居眠りしているのだからと言っていたので、その時心に思い付いたままを、我等が生死の到来ただ今にもあるかもしれない、それを忘れてものを見て暮らしている、この馬鹿さ加減はあの坊主以上でしょう、と言った。」「徒然草」第41段の一節

こういった教訓話遺体なものは「徒然草」にはたくさんあります。

第109段

「「木登りの名人と言う定評のあった男が、人の指図をして高い木に登らせて梢を切らせたのに、非常に危険性があると思われた間は、何も言わないでいて降りる時軒場ぐらいの高さになってから、怪我をするな、気を付けて降りよと、言葉をかけたので、このぐらいなら飛び降りても降りられましょうに、どうして注意しますか、といったところが、そこがですよ、目のまわる様な枝の危ないところでは自分が恐ろしがって用心しているから申しません。  過失は何でもないところできっとしでかすものですよ、と言った。」  「徒然草」

「剣聖も信頼できない、強者は滅びやすい、財産の豊富も信頼できない、時の間に無くなってしまう。  才能が有っても信頼出来ない。  孔子でさえも不遇で有ったではないか。  徳望がるからと言って信頼は出来ない。  顔回、孔子の第一弟子でさえも不幸であった。 君子の寵遇も信頼できない。 たちまちに誅せられる。  罰として殺されることがある。  従者を連れているからと信頼することも出来ない。  主人を捨てて逃げ出すことがある。  人の行為も信頼できない。  きっと気が変る。  約束も信頼できない。  相手に信を守るのは少ない。」  「徒然草」 第211段の一節

あらゆるものが信頼できない。  このぐらいにい思っていれば、腹を立てたりがっかりしないで済むという事ですね。  何があっても動じるなという事です。

「悪人の生まれだと言って人を殺したら悪人である。  千里の駿馬、一日に千里を走るという名馬にみならうのは千里の駿馬の仲間である。  大聖、舜 古代の聖典を学ぶものは舜の一類である。  うわべだけにしろ賢者を手本にするのを、賢者と言っていいのである。」  「徒然草」 第211段の一節

兼好法師はうわべだけでもいいと言っている。  

「筆を取ればその気になってものが書かれ、楽器を取れば音を出したいと思い、盃を取れば酒を欲しいと思い、賽を手にすると賭博を欲する。  心というものは必ずそのことに触れて、催してくる。  いやしくもよからぬ戯れをしてはならない。  形式を尊重しているうちに、内容も充実してくる。  うわべだけの人を見てもむやみに不信人呼ばわりをしないがいい。  むしろ褒め尊重すべきである。」 「徒然草」 第157段の一節  

「いなばの国(現在の鳥取県)になにの入道とか言うものの娘が美貌だと言うので、多くの人が結婚を申し込んだが、この娘はただ栗ばかり食べて米の類は一向に食べなかったので、こんな変人は人の嫁にはやれないと言って親が許可しなかった。」 「徒然草」 第40段の全文

結婚を断る口実にしては栗しか食べないと言うのは、変な理由ですね。  

「盗人を捕縛しほかの悪事を詮議するよりは、世の人の飢えず凍えないような社会にしてほしいものである。  人は定収入が無いと方針も持てないものである。  切羽詰まって盗みもする。  世の中が上手くおさまらないで凍えたり飢えたりするような苦痛があると、犯罪者は絶えないわけである。  人民を苦しめて公金をおかさせるように仕向けて、それに罪を課するというのは不憫な技である。  しからばどうして人民を恵んだらよいかと申すなら、社会の上流に立つものが奢侈、浪費を止めて民を愛撫し、農業を奨励する、こうすれば下民が利益を受ける事疑いはない。  衣食住が人並であるのに、盗みを働く者こそ本当の盗人と言うべきではある。」  「徒然草」 第142段の一節  

「ふいにこの世を去ろうとする時になって、やっと過ぎてきた生涯の誤っていたことに気付くであろう。  誤りと言うのはよそ事ではない。  急を要することを後回しにし、後回しでよいことを急いで過ぎてきたことが悔しいのである。  その時に後悔したって間に合うものでもあるまい。  「徒然草」 第49段の一節 

人生の後悔について。


 



















2025年6月19日木曜日

笹野高史(俳優)             ・どうしても役者になりたい!思いは通じる

 笹野高史(俳優)             ・どうしても役者になりたい!思いは通じる

笹野さんは1948年兵庫県淡路島生まれ。  高校卒業後俳優を目指してに日本大学芸術学部映画学科に入学。  しかし大学2年の時に中退して東南アジア航路の船会社に就職して、船員となります。  その後串田和美主宰の自由劇場に入り俳優活動を始めました。 1979年初演の舞台「上海バンスキング」で注目されるようになります。  1982年自由劇場を退団、活躍の場を映像作品へと広げます。  1985年念願の山田洋次監督の「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」に出演、以来「男はつらいよ」シリーズの常連となり、山田洋二監督作品には欠かせない俳優となります。  又舞台では「コクーン歌舞伎」「平成中村座」など歌舞伎にも出演しました。 

母親の時代は当時大流行でした。  映画が大好きな母親でした。  淡路島造り酒屋「東洋長」に四男として誕生。  3歳の時に父を亡くしました。(結核)  母親にもうつっていて母親と兄弟が療養のために別の家に住んでいました。  母親に連れられて映画館に行きました。 (小学校に入る前)  11歳の時に母を相次ぎ亡くして、実家の戻って育てられました。  中学になって自分で映画を観るようになりました。  映画俳優になりたいなあと思い始めましたが、口には出せませんでした。  雑誌から映画俳優になるための方法についての本のことが書いてありました。  手紙を出して届いたのが、呼吸法、しゃべり方などの本でした。  隠しておいた本を兄貴に見つけられてしまいました。  兄たちに大反対されました。  

大学に日本大学芸術学部映画学科があることを調べたら知りました。  俳優コースに入り立ったが、反対されるので監督コースを、という事にしました。   大学に入ることになりまいた。  池袋の映画観に良く通いました。   演劇のグループに入って演劇のことを一から教えて貰いました。  先輩が自由劇場に入って、その先輩に誘われて入りました。  1年後に柄本明が入って来ました。  俳優ってあんな風体でもいいんだと思いました。  学生運動が盛んになり、 小劇場も運動に巻き込まれました。   自分の居場所がなくなってしまいました。  お金を使わないで外国に行くのは船乗りだと思いました。  て東南アジア航路の船会社に就職して、船員となりました。  凄く楽しかったです。  

段々学生運動、小劇場の運動も収束していきました。  船員の道か芝居の道か、悩みました。  役者でやらしていただきたいと、23歳の時に言いました。  自由劇場に入りました。  佐藤B作さんが自由劇場を辞めて自分で劇団を立ち上げました。  柄本さんも辞めました。  彼らがテレビに出るようになって、 役者が飯を食えるようになったんだと思いました。    憧れていた映画「男はつらいよ」に佐藤B作さんが出ました。  悔しかったですね。  自分で頑張ればいけるのではないかと思って、勇気を貰いました。  柄本さんも出ました。  自分でも頑張とうと思いました。  

自由劇団を辞める2年前に「上海バンスキング」がヒットしました。  それで賠償千恵子さん主役のミュージカルへのオファーがありました。  賠償千恵子さんから山田洋次監督に繋がるのではないかと思いました。  舞台を山田洋次監督が見ていただいて、36作目の「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」に出演することになりました。  以後毎回呼んでいただきました。  或る人から「笹野さんは主役をやろうと思っちゃ駄目、笹野さんは脇で光る人なんだから」と言われました。   脇を見事にやってのける俳優になってやろうじゃないかと、思いなおしました。  俳優はいつもピカピカなリンゴでないといけないと思っています。 このリンゴは美味しそうだと買っていただくので。  心も身も元気で居ようと心がけています。   セリフが覚えてれるうちはもうちょっとましな役者になりたいと思っています。


















 










2025年6月15日日曜日

忽那健太(プロラグビー選手)      ・やるか、めっちゃやるか~プロラガーマンの挑戦

忽那健太(プロラグビー選手)    ・やるか、めっちゃやるか~プロラガーマンの挑戦 

最近は海外のリーグに挑戦するラグビー選手が多くなってきましたが、まだ日本人のプロ選手がいないスコットランドのプロリーグに挑戦した選手がいます。  忽那健太(くつな けんた)さん30歳。  忽那さんは愛媛県松山市出身で5歳の時からラグビーをはじめ、高校ラグビーの名門石見智翠館高等学校(島根県)から筑波大学、社会人のジャパンラグビートップリーグHonda Heat(現・三重ホンダヒート)でトップレベルで活躍しました。  その後膀胱がんの治療を行い、命に限りがある事を改めて知らされ、出来るうちにラグビーの王国イギリスでプレーしたいと一昨年スコットランドのあるクラブチームで活動を始めました。  目標はスコットランドで日本人がまだ誰もなし遂げたことのないプロ契約を結ぶ事でした。  2年間の挑戦を終えて帰国したプロラグビー選手の忽那健太さんにお話を伺いました。

今、全国を回っています。  小中高校大学、社会人の企業団体を回って、命の大切さとチャレンジすることお大切さをやっています。  講話とラグビーの練習もします。  モットーが「やるか、めっちゃやるか」です。  3年前に膀胱がんを患って命と向き合う時間を持ちました。 生きるか、めっちゃいきるか、と思っていまして、一回の人生を後悔無く生きるという思いがあり、「やるか、めっちゃやるか」と言う言葉を使っています。 本気で生きるという事です。  

父は陸上部でした。  団体で競技するラグビーに憧れを持っていたようです。  兄弟3人をラグビースクールに放り込みました。  現在兄が32歳、私が30歳、弟が28歳です。   兄を目標にしていました。   ラグビーは人間臭いスポーツだと思っていて、沢山の友達を作ることが出来ます。  強豪校に行きたくて島根県の石見智翠館高等学校に行きました。 (猛反対があったが。)  3年生ではキャプテンとなって全国大会で準優勝をしています。  大学は筑波大学を選択しました。   体育教員を目指しました。  中学からずっとキャプテンをやって来ました。  責任を負うという事が結構好きでした。  引っ張ってゆくには言葉と行動のバランスですね。  「挑戦する先には成功か成長しかない。」と思っています。 これはスコットランドへ行ってきた経験から得たものです。  挑戦する過程が成功なんじゃなかと思います。   

2017年ジャパンラグビートップリーグHonda Heat(現・三重ホンダヒート)に入ります。  トップリーグで戦いましたが、完全に鼻をへし折られました。  身長が172cm、体重が82kgで大きい方ではありません。  3年間プレーした後、26歳の時に膀胱がんと診断されました。   頭が真っ白になりました。  かなり大きくなっていて、2回手術を受けました。(1か月入院)  転移している可能性もあり、先が見えない時間でした。   死を意識末うと同時に人間は死を目前にした時に生の執着は凄いと思いました。  生きるとは何だろうと凄く考えさせられました。  未来に向けて時間を過ごそうと思って、自分が治った後は何がしたいのか、ノートに書き続けました。  もう一回ラグビーがしたいと思いました。  命はいつでも終わると感じて、今をとことん本気で生きようと思いました。 先生から「転移はなかったです。」と言われた時に、泣いてしまいました。  もう一回本気でラグビーをやってみたいと思いました。   

2023年選手として復帰、スコットランドでのプロ活動への挑戦を表明しました。  2回目の人生を貰っているんだという思いがあり、あてのない海外活動でしたが、不安感よりもわくわく感が上回っていました。  安いホテルを捜してチーム探しから始めました。  ヘリオッツ・ラグビークラブに入れました。   司令塔のポジションでした。  英語の会話はそれほどではなかったので苦労しました。  女子のラグビーチームのコーチも担当しました。仕事はチームメイトが紹介してくれた引っ越しやさんの会社で働きました。  週45時間契約で月~金まで働きました。 (何回かもう死ぬかなと思うほどでした。)  夜週3回の練習がありました。  1年目は国内3部リーグのアマチュアリーグでプレイ、年間25試合で24試合に出場、MVP4回選ばれる。  首に怪我をしてしまいました。 

2部リーグ契約直前で2部リーグが軽々破綻という事で解散になってしまいました。  日本に帰る選択肢もありましたが、残る決断をしました。  目標のプロ契約は出来ませんでしたが、思いつくことは全部行動に移したので、後悔はないです。  2025年4月7日、韓国実業団ラグビーユニオンからオファーがあり、プロ契約を結びました。  日本に戻ってきましたが、スコットランドで学んだこと、経験を伝えていきたい。  それと命の大切さを伝えたい。四国二日本一を目指すチームを作りたいという思いもあります。   情熱は磁石だと思います。














2025年6月14日土曜日

2025年6月13日金曜日

ヨシタケシンスケ(絵本作家)       ・〔人生のみちしるべ〕 あなたのストーリーかもしれない

 ヨシタケシンスケ(絵本作家)   ・〔人生のみちしるべ〕 あなたのストーリーかもしれない

ヨシタケさんは40歳お時にオリジナル絵本「りんごかもしれない」を出版、ヨシタケさんが作る様々なアイディアが展開する筋立てのない絵本は発想絵本と呼ばれ、以来数々の賞を受賞、ヒット絵本を生み出し続けている人気絵本作家です。  ネガティブでしょんぼりしがちだというヨシタケさんならではの視点で作られる絵本は多くの人の共感を得ています。 現在「 ヨシタケシンスケ展かもしれない」と言う展覧会が全国を巡回しています。  絵本の世界を体験出来て ヨシタケさんの頭の中に迫る展示会は子供たちにも大人気です。  デビューから12年を迎えた絵本作家 ヨシタケシンスケさんにお話を伺いました。 

デビューから12年が経ちましたが、ここまでやれるとは思っていませんでした。  僕が本にテーマとして選びたい事と皆さんがこれは私に興味があるテーマだと思ってくださる事が思いのほか一致していたことが、凄く運のいい事としかいいようがないです。  その時その時家庭で起きたニュースを作品にするタイプなんだなという事が3,4年経って判って来ました。  人間身体が変ってゆくと考え方も随分変わるという事がここ5年ぐらいで身に染みたことです。   子供の頃の自分が知りたかったこと、読みたかったものを作ろうと、ずっと作ってきて、最近はそれに加えて5年、10年先の自分に向けて描いている感覚があって、そういった作品つくりだと思います。  

私の本を読んでよく視点が優しいと言われることがあります。  それは僕自身が優しくしてほしいからなんです。  自分にとって世の中はこういう風なものなんだよと言われた方がむしろ頑張れるなとか、しんどさから抜か出せるなとか、日々自分で考えながらやっています。 傷つきやすさ、生きずらさみたいなものが、モチベーションになっている。  自分の弱さみたいなものが経費で?落ちる仕事があるなんて知りませんでした。  この表現の世界は優しい世界なんだなあと思います。  

3年前から大規模な個展を全国で巡回しています。  原画展で出来るとは思っていませんでした。  僕の原画は小さいし色もついていないし、場所が余ってしまう。  工夫する中で、本が出来るまでの頭のなかで起きた事の様子を見てもらうという空間を作って行きました。  展覧会は団体競技として作る場なので、自分一人ではできない面白さを凄く感じました。  僕は会場には居ませんので、何を言っても大丈夫です。  「 ヨシタケシンスケ展かもしれない」と言う展覧会です。   新しい選択肢、こういう事もあるかもね、と言う考え方、視点、可能性を「かもしれない」と言う言葉でやって来たので、一つのテーマとして集約するものだと思っています。  断言しない。 

2023年うつ病と診断されました。  元々ネガティブな人間でした。  この4,5年で体力がガクッと落ちました。  ネガティブを体力で補って来ていたのを、体力が落ちてくると補えなくなる。  軽度の鬱状態と言う診断でした。    行って急に治るものでもないと思ったし、いろいろ考えたらもとに戻ることが出来ました。  しんどさを語る事の難しさを凄く改めて感じました。   救いになったものと言うのは今は見つからないが、いつかは見つかるかもしれない、それが救いといっていいのかもしれない。  自分を好きになる事だけが自己肯定の方法なんだろうかと思えるようになってきて、自分と仲良く出来ないという事に慣れてゆくことも、自己肯定の一つなんだろなあと最近は思うようになりました。 

ヨイヨワネ うつぶせ編」、ヨイヨワネ あおむけ編」 弱い自分でいいんだ、弱音を吐いていいんだと言ったものです。  自分に取っては本当に必要な行為であって、この2,3年弱音は半端じゃなかったです。  しんどさを言葉と絵にしたかった。  自分を救うための表現。   生きるのがしんどいあなたに為のウェブ空間 「かくれてしまえばいいのです」に関わりました。  いま「死にたい」「消えたい」と思い悩んでいる子どもや若者への提案です。

一旦この世から隠れてしまえばいいのではないかと思って、隠れる場所さえあればあの世にいかなくてもいいんじゃないかと、この世とあの世の間の「その世」を作って避難する、シェルターのような役割として、そういう場所が良いのではないかと思いました。  チームの人たちが作家としての私を提案を尊重してくださいました。   24時間無料で利用できます。  アクセス数が1か月で200万を越えている。   つらさとか実在する人がいるという事を可視化できるツールは今までなかった。  辛いのは自分一人ではないんだなと思うだけでも、孤独感は薄れたりもする。  最終的に人を救うにはストーリーしかないんだなという思いがあります。   自分で作るストーリもあるし、2000年、3000年とか使われ続けているストーリーもあります。  物語でしか人は世の中を認識出来ない生き物なんだろうなあと思います。  生きていきたくないという人たちに対して、どういうストーリーが用意出来るのか、そういう人に何を届けられるのか、沢山考えることは自分の中で新しいテーマが頂けた気がしています。  自分に取っても必要だった。  

今年52歳になります。  老いについてがテーマ、「まてないの」  あかちゃんから、おばあちゃんまで。まてない人の、まてない絵本。  高齢者向けの絵本があっていいだろうし、高齢者向けの絵本をちっちゃい子が読んだ時に 、どう思うんだという事にも興味があります。  〔人生のみちしるべ〕を捜さなければとあせっていますが、無くてもいいなと言う風に思うために、みちしるべ以外のものが欲しいなと思います。  最後までじたばたする人を見て安心したいです。  自分に甘いから人にも甘くなる。  皆のことを許すから俺のことを許してくれと言う生き方をしているので、そうすればもうちょっと平和になると思います。












2025年6月12日木曜日

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 後編

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 後編 

シベリア3重苦と言う言葉があります。  飢えと重労働と厳しい寒さ。  

①飢え ドイツとの戦争、飢饉のために元々食料事情が悪かった。  日本人にはわずかな食べ物しか与えられずに多くの人が飢餓状態になりました。  一日に僅かな黒パンとおかゆ、塩味の水の様なスープだけで野菜の切れ端が浮いていればましで、砂糖などは本当に少なかったそうです。   慢性的な栄誉失調が多くなり、そんな中重労働をさせられた。  死亡者が続出した。  抑留者の管理は日本軍の習慣をそのまま使っていた。(厳しい上下関係)  日常生活でも楽なことは上官が占めて、上官は不当な労働を強制して自分たちは楽をする。  食べ物も多くとってしまう。 

②重労働  原則週6日で労働時間は8時間。  達成されないと残業が強制された。  たまたま気候がいい時には12時間労働になったこともある。  日本人はとても手先が器用なので、頼られてしまった。  ドイツ人は穴掘り作業を指示されると8時間かけて終わらせる。    日本人は早く終わらせれば休めると思って早くかたずけてしまう。  余力があるという事でそれ以上のことをやらされえてしまう。  建設工事でが工場、学校、大規模な都市建設まで任されて、水道工事、ダムの建設まで行った。   今も残っていてその土地の人は日本人に恩恵をうけたと感謝をしている。 

③厳しい寒さ  気温がマイナス40℃から50℃になる。  想像を絶する苦しみだった。   全体の80%は初めの冬で死亡している。  

1945年8月9日に旧ソ連は音全日本軍を攻撃してきました。  およそ60万人の日本人が約200か所ある収容所に拉致監禁され強制労働させられた。   その直前には第二次世界大戦は終結に向かっていました。   スターリンはすでに計画されていた日本軍への攻撃をずっと早めて8月8日に日ソ戦争を起こしてしまった。   日本とソ連には領土不可侵条約(5年間)が結ばれていて1年残っていた。  ポツダム宣言で日本に無条件降伏を促したが、ソ連が日本を守ってくれるかもしれないと微かな期待を抱いていた  ソ連に仲介を頼むという動きもあったようです。  その返事を待っていたためにポツダム宣言を日本は黙殺してしまった。  ソ連はすでに連合軍側に加わっていた。  終戦と同時に満洲などにいる日本人はようやく日本に帰れると思っていたが、抑留されてしまった。 

満州は現在の東北地方にあった日本が1932年以降統治していた地域でした。  80万人ぐらいが移り住んでいました。   男性はシベリアへ女性子供は日本へ自力で帰る道が待っていた。  女性の一部もシベリアに抑留された。(従軍介護婦、軍の補助の仕事をしていた人など)  万一の時のために青酸カリを持っていたそうです。  5万5000人ぐらいの人が現地で亡くなっています。  

ソ連には収容所国家と言うのが実態としてあった。  スターリンの時代に農家が政府の集団経営に変えられて富んだ農民は個人の財産を奪われて、強制収容所へ入れられた。 合計数百万人の人が死亡している。  およそ200万人が収容所に入れられている。    ドイツとの戦争で1500万人ぐらいの犠牲者が出て、労働力が圧倒的に不足していた。  組織的なソ連の囚人労働者の実態があきらかになってきた。   日本人抑留者は戦利品です。 ドイツ、イタリア、ハンガリー、ルーマニアなどの国からも捕虜が送り込まれている。

ナヴォイ劇場の建設。  ソビエト連邦軍の捕虜となった旧日本軍の兵士が建設した劇場でも知られている。  1966年の大きな地震でも無傷でした。  日本人の勤勉な仕事ぶりの賞賛の対象となってきた有名な劇場です。  

苦難を乗り越えて帰ってきた人たちはその後も苦しみがありました。  日本人の抑留者にも共産主義を勉強させた。  洗脳されてソ連の思い通りに動くようになると、食べ物を多くもらえるとか、早く日本に返してやるという事を言われる。  その人たちが抑留所に帰ってくると、軍隊の規律で動いていた収容所が、代わってその人たちが力を持ってくる。  上官がやられるようになる。  吊るし上げと言う様な個人攻撃が始まる。  密告されるのではないかと、お互いが信じられなくなる。  こういったことで帰って来てからが最大の難関となる。  シベリア帰りという事で仕事がもらえない。    

戦後80年を迎える時になり当事者は亡くなってきた。  当事者から聞いた話についてその家族からの話も加えています。  亡くなった人の克明な抑留の記録を見出した人もいます。  平和な時代をもっと長く維持しなければならない。  自分が書いたようなことをよくくみ取って、人間の命を大事にしていってほしい、という事を伝えたかったようです。 

本を書く前にウェブサイトを作りました。  閲覧者数は24万回を越えています。  若い学生たちの協力によってできました。   ウェブサイトには抑留に関するような音楽も入っています。  「シベリアの歌」も入っています。

*「シベリアの歌」






 

2025年6月11日水曜日

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 前編

榊原晴子(大学講師)           ・シベリア抑留を語り継ぐ 前編 

榊原晴子さんは1951年東京生まれ。  結婚を機にアメリカ、カルフォルニア州に暮らし始めて、太平洋戦争中の日系アメリカ人の苦しみを知ります。  さらに日本人のシベリア抑留にも関心を持ち、本格的に抑留の歴史や抑留者の証言を集めて、20年余りが経ちました。  以来カルフォルニアの大学で日本語を教える大学生と資料を纏めたり、帰国した時には日本で社会学や歴史を学ぶ大学生に講演したりして、戦争の恐ろしさ、平和の大切さを伝え続けています。 

講演する中で2005年生まれの彼らはシベリア抑留と言う言葉は聞いたことがあっても実際は何も知らなかった。  これからの日本の歴史を背負うものとして、何かできることは知ろうとすることだという感想もありました。  私のはシベリア抑留を経験した叔父が一人居ました。   満洲で終戦を迎えた時に、 突然侵攻してきたソ連軍の捕虜になりました。  強制労働のどん底の生活の中で、叔父はドイツ語の知識を生かして、ロシア語も学んで将校の通訳になりました。  1950年に最後の船で舞鶴に帰ってきました。  弾丸で前歯が全部撃ち抜かれていたそうです。  どうやって食べて生き抜いてきたのか?  叔父は自分からは何も話しませんでした。   若い頃は溌剌とした青年だったようですが、暗い影を落とすようになってしまいました。  60歳を越えて肺がんで亡くなりました。  

私は結婚してアメリカで暮らすようになりました。  私の夫は日系3世です。  夫の家族の戦争体験を知りました。  義理の父親が日系2世(ジョセフ)です。  その親(榊原平治?)が明治28年にアメリカに渡りました。  1841年12月8日に真珠湾攻撃があって、日米開戦となりました。  ジョセフはアメリカ国籍を持っていましたが、榊原平治?はアメリカ国籍をもっていませんでした。  ジョセフはアメリカ政府からスパイ容疑をかけられました。  日本人の住民は「JAP」と呼ばれて蔑まされるようになりました。  翌年大統領令が出て、日系アメリカ人は全ての自由をはく奪されて、家にあったもの、それまで築いたもの捨てて、立ち退きを命じられました。  持って行けたものはスーツケース2つだけでした。  連れていかれた収容所は砂漠、荒れ地に建てられた掘っ立て小屋でした。  10か所ありました。  

その後戻ってもかつての様な暮らしぶりにはなりませんでした。  仕事の再開も難しかった。日本語も使えなくなりました。  ジョセフは牧師志望だったので、神学校に行かせてもらえました。  広島の原爆のことを知って、戦後日本に戻って広島、長崎の家の復興に関わりました。   私は自分には何が出来るんだろうと深く考えるようになりました。 「何故家を出るの」と言うタイトルの歌を作りました。  英語で作って日本語にもしました。 

サクラメントで偶然に写真家の新正卓さんとお会いしました。  新正卓さんはシベリア抑留の写真集としてまとめ上げました。  日系アメリカ人の強制収容所の写真集のために撮影をしに来ていました。   お手伝いをしたためにその二つの収容所が重なって来ました。  共通する事はそれぞれ収容所のことを語らなくなったという事でした。  シベリア抑留について調査をして「アメリカから見たシベリア抑留」と言う本を昨年出版しました。

シベリアからの生還者に直接会って話をするようにしました。 その中に政治家の相沢秀之さんにお会いして励ましを頂きました。  相沢さんは東京帝国大学法学部政治学科を卒業、1942年9月25日大蔵省に入省、その後陸軍に入る。 ソ連タタール自治共和国エラブガで3年の抑留をさせられる。1948年8月に復員。 大蔵省の戻って政治家として活躍。 引退後も一般財団法人全国強制抑留者協会の会長を務め、戦後の旧ソ連による抑留の「生き証人」として語り部を続ける。  妻の司葉子さんにはシベリア抑留のことは話していないそうです。  夜中にガバッと起きることがあったそうですが、後に抑留と関係があることがわかったそうです。   心身ともに最低の生活だったとおしゃっていました。  だから後にどんな厳しいことがあっても乗り越えられるという思いはあるそうです。   相沢さんとの出会いによってシベリア抑留について背中を押されました。







2025年6月7日土曜日

谷川浩司十七世名人(将棋棋士)      ・考え続ける棋士であれ ~史上3人目、1400勝達成~

谷川浩司十七世名人(将棋棋士)   ・考え続ける棋士であれ ~史上3人目、1400勝達成~ 

谷川さんは今年1月通算1400勝と言う記録を達成しました。  大山泰治15世名人、羽生善治9段に続く史上3人目の快挙です。  阪神淡路大震災から30年となる今年1月に打ち立てたことに特別な思いがあると話します。   棋士として生きて半世紀、さらなる高みを目指そうとしている谷川さんの棋士人生を伺いました。

14歳から初めてまもなく50年になります。  20代、30代がプロ棋士として最盛期ですので20代は年間40勝するのが当たり前といった感じですが、40代を過ぎるとなかなか勝てなくなってきて、最近は二桁10勝するのがやっとという事なってきています。  昨年11月、12月は成績が悪くて7連敗しました。 1398勝になってから進みませんでした。   新年早々の対局で一つ勝つことが出来ました。  1月15日に達成できました。  郷田さんとの対局でした。   30年以上対局してきた相手で、或る意味安心感はありました。  持ち時間が一人6時間で、休憩の時間などを合わせると、午前10時から始めて23時ごろまでかかりました。  20代から得意にしている戦法を選びました。  勝ってホッとして記者会見を行いました。  節目が新会館でした。  阪神淡路大震災30年の節目の年もありました。

1433勝が大山15世名人の記録で、30代のころから大きな目標としてきました。  その目標を掲げる事にはなったと思います。   42年前になりますが、21歳で名人戦の挑戦者になって加藤一二三名人に勝って最年少名人の記録を作りました。  30年前は震災の中、羽生善治さんを挑戦者に迎えて王将戦の7番勝負で第7局で勝利を納めました。  そういった様々な場面が浮かんできます。  

兄と二人兄弟ですが、喧嘩をしないように父が将棋盤を買ってきたのがきっかけです。  一つのことをはじめれば長く続く性格です。  体力が必要なので室内自転車も30年以上やっています。  10手、20手先の局面は頭の中で動かしていきます。  私の場合はパソコンの画面で白黒です。  頭のなかの駒の文字は一つです。(王、飛、角とか)  どういう映像が浮かぶかは棋士によってちがうようです。  

序盤が駒組で、中盤が戦いがあって、終盤は相手の玉を詰ませるとなりますが、終盤の寄せを20代に「高速の寄せ」と付けていただきました。  終盤の始まりでいろいろなイメージが出来ていたのかなと思います。  詰将棋を小学生、中学生にかなりやっていたのでその影響があったのかと思います。   「高速寄せ」は30年前は私の得意分野でしたが、私を研究してくるので、平成、令和のトップのレベルは高くなってきています。  AIを使ってパソコンで研究してゆくので、定石の整備、進化は昔とは比べられないほど早くなってきています。

震災を経験したことで神戸に対する愛着が強くなりました。  自分が住み続けることで神戸の復興を見届けたいと思います。  私の住んでいるところは被害はなかったのですが、両親が住んでいる実家は全壊しました。  大きな怪我はなかったのは不幸中の幸いでした。  羽生さんが7冠達成の挑戦者としてきて、第一局(1月12,13日)の4日後が1月17日でした。  19日妻の運転で大阪に行きました。  普段は大阪まで30分ですが、朝出掛けて大阪のホテルに着いたのが夜の9時になっていました。  20日に対局がありました。  23日には栃木県の日光に行きました。  羽生さんにはタイトル戦で7連敗をしていました。  大坂では温かいご飯が食べられたり、今迄当たり前だと思っていたことが実はそうではなかったんだという事がわかりました。   対局が出来るという事が幸せだと思えました。  初心を取り戻すことが出来ました。   被災地のためにという思いは強かったですね。  防衛が出来ました。   1月17日生まれの子が弟子にしてほしいという事で受け入れました。  考えるヒントを与えるようにしています。 

ここ3年ぐらいは藤井さんの圧倒的な強さがあります。   藤井さんが25歳になるころには将棋界も様替わりして、藤井さんと同年代、後輩の棋士たちによるタイトル争いになって行ってしまうかもしれないです。  ここ数年でAIの影響が凄いですね。  50手ぐらいまではシュミレーションして臨むとか、詰みの近くまで調べておかないといけないぐらい、最新の流行の形で戦おうとすると、それぐらいの準備が必要と言われて来ています。

1時間かけて結論が出そうもないと思うと、指してしまう事が多いんですが、藤井さんは苦労をいとわずに真剣に考えてきたことの蓄積が、今の藤井時代に繋がっていると思います。   40歳ぐらい若い棋士と対局するのも楽しみの一つです。  1433勝は一つに目標として行きたいと思います。  年齢を重ねる程将棋の奥深さを感じます。


















2025年6月6日金曜日

山内聖子(文筆家・唎酒師)        ・“美味しい酒”を地元で味わう旅をしよう!

 山内聖子(文筆家・唎酒師)        ・“美味しい酒”を地元で味わう旅をしよう!

山内さんは岩手県盛岡市出身。 自らを飲む文筆家と称しています。  地方を訪ねた時に出会った地元の人に愛される美味しい酒に魅せられてきました。  日本各地の蔵元などを取材して日本酒の効能、製造工程、歴史、業界の現状や未来などをテーマにした多くのエッセイを書いてきました。  最近書いたのが「日本酒吞んで旅行けば」人気の銘柄や全国屈指の老舗など15の蔵元を訪ねて、美味しい酒つくりへの思いやそれを支える地元の居酒屋や料理人達を取材しています。  日本酒との出会いや魅力、地元の料理人たちの酒に合う自慢の料理など、日本酒と旅に未来や可能性を語ってもらいます。 

母はアルコールを飲めない、父も御猪口一杯で真っ赤になるになる人でした。  私の母方の祖父母家が屋号が「麹家」で麹を作っていたらしいんです。  そこへ婿に入ったひいおじいさんが酒つくりの蔵人だったらしいです。   高校卒業をデザイナーになりたくて上京しました。 グラフィックデザイナーの専門学校に入学しました。  その系列の飲食店で働き始めました。 ある店が日本酒を100種類ぐらいある店でした。(22,3歳)  日本酒の銘柄が読めないので覚えていきました。  飲んでみて目覚めてしまいました。 

日本酒の店をやりたいという思いはありました。  時代は焼酎ブームの時代でした。  日本酒のことについて書くことで多くの人に伝えられるので、ライターになりたいといきなり思いました。  日本酒は透明でどの蔵も同じようなものですが、味が全然違うんですね。  合成酒と言った時代もありましたが、戦後復興と共に原料不足が解消されて行っても、 まずく作ろうが飛ぶように売れていた時代がありました。  戦後蔵の数も減少が続いて、2015年時点では1300ちょっとと言われていました。  今はもうすこし減っていると思います。  杜氏制度が廃れて行っていましたが、その原因が高齢化でしたが、現時点では若返っている様な気がします。  昔は杜氏さんと言うと農家出身の方が多かったのですが、農業大学を卒業した人がどんどん入ってくるようになりました。  

高度成長期は灘(大手メーカー)が全盛でした。  地酒ブームで小さい酒蔵も注目されるようになりました。  それ以降には小さい酒蔵が美味しい酒を造るようになりました。   いろいろなブームがあり吟醸酒ブーム、淡麗辛口ブーム、新潟のお酒も流行りました。    景気がいいとスッキリした辛口の酒が流行る、景気が悪いと甘口の酒が流行ると或る蔵元さんが言っていました。   

地元に行かないと本来の日本酒の姿が判らないのではないかと思いました。 本音を聞くのには地元で聞いた方がいいなと思いました。  20代の女性がライターという事で蔵元に行くと、当時は門前払いを喰う事もあり最初は苦労しました。  作り手の人と深い話をしたいという思いがあり、製造のこと、作り手しか知らないような事を知らないと会話にならないので勉強はしました。  

酒つくりには本当に正解がないという事を、改めて突き詰めたいと思いました。  作り手の譲れないものがあって、そういったことも凄く面白いです。  そういったことを知ってほしいと思いました。  20年ほど前から女性杜氏の方がぼつぼつ出てきました。  最近は大分増えてきました。   

蔵元推奨の居酒屋、小料理屋さんへ必ず訪ねています。  「日本酒吞んで旅行けば」では取材の一環として行って書くことにしました。  地元の野菜など、郷土料理と共に飲むと本当に美味しいです。  日本酒の輸出は伸びてきています。  酒蔵自体を海外で作ってあちらで作って現地の人たちに味わってもらうという流れも出てきました。  コロナ禍をきっかけとして小さな酒蔵さんもSNSで発信するようになりました。  それで便の悪い小さな酒蔵さんでも知ってもらえる機会が増えました。  同時に販売の仕方も変わって来ました。  酒蔵さん自身が自分たちで売ろうと言う様な流れになってきています。  蔵の哲学は変わらないんだけれども、その年、その年でお米の出来、不出来もあるし、時代の流れに合わせて、工夫しているところは多いと思います。  

有楽町に日本酒バーがあって、週に一回お店に立って女将をやっていて14年目になります。料理も作っています。  お客さんの反応を大事にして、ライター業でも書くようにしています。  その人に合ったものが絶対あるので、そこを捜す作業が楽しいです。  質のいいお酒にはこだわりがあるので、そのためには地元に行って酒蔵さんの話を聞かないと判らない。  飲食業とライター業が交差するような形でやっています。  











2025年6月5日木曜日

箭内道彦(東京藝術大学教授)       ・領域を超えて、つなぐ懸け橋

箭内道彦(東京藝術大学教授)       ・領域を超えて、つなぐ懸け橋 

箭内さんは専門分野の広告だけではなく、東京藝術大学教授やラジオ局の名誉局長など多岐に渡り活躍を続けています。  今62歳で去年3月に自身の還暦をきっかけとした音楽イベントを開催し、さだまさしさん、石川さゆりさん、GLAY、乃木坂46など親交の深い有名なアーティストが大勢参加しました。  さらに石川さゆりさんが歌った「津軽海峡冬景色」では自らギターを演奏、ミュージシャンとしても参加し、2日間で4公演を行ったイベントは大盛況で話題となりました。  幅ひろい分野で活動を続ける思いをうかがいます。

クリエーティブディレクターと言うのは広告を制作するうえでの責任者です。  その広告で売れなかったり、話題が作れなかったりしたら多くの責任を負うのはクリエーティブディレクターです。  福島県出身。東京藝術大学卒業。  大手広告代理店を経て2003年に独立、様々なジャンルで活躍中。  NHKの番組でも司会をしました。  広告はずっとやって来ました。  来年で30周年になる仕事が一つあります。  タワーレコードのノーミュージックノーライフと言う仕事です。  何枚ポスターを作ったかわからないぐらいずっと続いています。  

福島県のクリエーティブディレクターもしています。  2011年3月に東日本大震災があって、福島第一原発の事故もあって、前代未聞の災害でした。  11年目になりました。   東京藝術大学の教授、ラジオ番組のパーソナリティー(トータルで18年 毎週)もしています。   ラジオ局を設立して名誉局長をしています。  

色々やっていますが、全部広告だと思っています。  企業の応援、社会全体を応援することが広告だと思っています。  商品の魅力を最大化して世の中に伝えていくという仕事だと思います。  やっている事は誰よりも狭いと思っています。  

還暦と言うきっかけをタイミングに、皆がえっと思うようなことを成し遂げないとという宿題を自分に課しました。  それで音楽のイベントを開催しました。  埼玉スーパーアリーナがたまたま空いた日があって、今日返事をもれるのならばお貸ししますと言われて、とりあえず仮抑えしました。  キャンセル料を調べたら100%で進むしかなかった。  GLAYTAKURO(タクロウ)さんにまず話をしたらいいですね、やりましょうという事になりました。  さだまさしさんとか段々増えていきました。  埼玉スーパーアリーナは東日本大震災があって双葉町の皆さんが町ごと避難した場所でした。  2日間行ってとっても嬉しかったです。 

子供の頃は故郷が嫌いでした。  近所の良くないことなどをしゃべりながらご飯を食べている様な状況もあったり、自分の弱さも福島県の県民性にあるのではないかと思っていました。 或る時福山雅治と話をした時に、自分に足りないものを全部故郷のせいにしているのではなく、悪いのは自分なんだという風に言ってくれました。  その時期に東日本大震災が起きました。  そこから夢中で動きだしました。  1億円寄付したくなって3月14日に銀行に借りに行きました。  寄付が目的の融資は出来ませんと言われました。  2010年に結成した福島県のバンドでレコーディングして寄付しようと思いました。  そこから広がって行きました。  

ラジオ局の設立は、大震災のあとラジオが大きな存在であることに気付きました。  つなぎ直すメディアが欲しいと思いました。  放送免許が必要だという事でした。  渋谷には同様な考え方を持つ人たちもいて、私が理事長になって旗振り役を担当しました。  福山雅治さんに話をしたら僕も一緒にやりますと言ってもらえました。  誰でも出て欲しいと思ったので、「聞くラジオから出るラジオへ」と言うスローガンにして始めました。 

実現は自分一人では絶対できないので、沢山の人たちの応援、守ってくれたり、導いてくれたりと言ったことが大事です。  何もやったことがないことを、誰に何をやって貰えるかと考えることが好きです。  

小学校4年生の時に、プロ野球に試合を友人宅で見ました。  優勝が決まる試合で巨人に阪神が9-0で負けました。(9連覇達成の瞬間)   僕にはなんてつまらない事なんだろうと思いました。  9年も同じチームしか優勝しない。  その日から阪神を応援することにしました。  それから主流のものに反対の立場を取り続けるような子供でした。  大学を選択する段になって、美術大学があるという事でこれだと思いました。  親は僕のあまのじゃくの性格をよく知っていて、親からは3つ言われました。 ①家の手伝いするな。 ②悪いことはしてもいい。 ③勉強をするな。  全部反抗しました。  

当時東京藝術大学では就職は負け組で、あえて就職を選びました。  第一位ではなく第二位の広告代理店を受け無事入れました。  いろいろトラブルがって面接時間に間に合わずその2時間後にたどり着いて受けることになりました。  スターチームには入れずに腐って行きました。  1996年にノーミュージックノーライフと言う仕事を始めました。  先輩の木村さんと一緒に仕事を捜し歩きました。  ノーミュージックノーライフの仕事が生まれていきました。   

39歳で13年間いた会社を辞めました。  或る上司から「自由の海に出たら何に逆らうんだ。  お前はもう終わりだ。」と言われてしまいました。  それがアンチの対象になり燃えました。  40歳ならば纏まった退職金、持ち株も1年、2年待てば上場して纏まったお金がもらえたんですが、さんざん周りから言われました。  

僕自身、広告は素人的にしてきました。  好きなものしか広告しないと言う様な考え方でした。   広告を技術だけで作っているという事は空虚であるという事を段々わかって来たんだと思います。  そこに魂があるかどうか、思い、助けたい、応援したいという事が作り手にちゃんと有るかどうかという事が、問われている時だと思います。  それを取り戻していくことがこれからの広告の第二章の始まりかなと思います。 

若い人にチャンスを増やしてあげたいという気持ちは有りますが、でもまだ自分も必要とされていたいというエゴみたいなものもあったりして、そこのせめぎあいが60代の難しさではないかと思います。  撮影の現場が楽しかったという風になるかどうかがとても大事です。 












2025年6月4日水曜日

五木寛之(作家)             ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕 五木寛之作詞の歌

五木寛之(作家)           ・〔五木寛之のラジオ千夜一話〕 五木寛之作詞の歌 

20代の後半から作詞をしています。  専属のプロの作詞家としていた時代がありました。    CMソングをまずやっていました。   一日3つぐらい作ったこともあります。  

「思い出の映画館」  新宿に小さな映画館があって、入場料が30円でした。  フランスとかイタリアの古い映画を上映していました。  そこで随分勉強させてもらいました。  映画の題名を次々織り込んでゆくというものです。  忘れられないものの一つです。 

*「思い出の映画館」  作詞:五木寛之  歌:旅人   1979年

一世を風靡した映画が沢山ありました。   

*「織江の唄」  作詞:五木寛之 作曲:山崎ハコ  歌:山崎ハコ  1981年

遠賀川 土手の向こうにボタ山の 三つ並んで見えとらす

 信ちゃん 信介しゃん うちはあんたに会いとうて

 カラス峠ば越えてきた

 そやけん 逢うてくれんね信介しゃん

 すぐに田川に帰るけん

 織江も大人になりました

 

 月見草 いいえそげんな花じゃなか あれはセイタカアワダチソウ

 信ちゃん 信介しゃん うちは一人になりました

 明日は小倉の夜の蝶

 そやけん 抱いてくれんね信介しゃん

 どうせ汚れてしまうけん

 織江も大人になりました

 

 香春岳 バスの窓から中学の 屋根も涙でぼやけとる

 信ちゃん 信介しゃん うちはあんたが好きやった

 ばってんお金にゃ勝てんもん

 そやけん 手紙くれんね信介しゃん

 いつかどこかで会えるけん

 織江も大人になりました。


九州弁で書かれていますが、山崎ハコさんは大分県の出身なんです。 「青春の門」 9巻まで行って10巻で完結する予定ですが、完結してもしなくてもいいのかなあと思っています。  最後は読者が自分で物語を作って解決するという、そういうやり方もあるんじゃないかなあと思います。  


*「インディアン サマー」 作詞:五木寛之 作曲:いまなりあきよし 歌:麻倉末稀


ボサノバ調です。 「織江の唄」とは全然違います。  演歌、童謡なども書いています。


作詞は楽しい仕事です。 小説と違ってリラックス出来ます。  


*「旅の終わりに」  作詞:五木寛之 作曲:菊池俊輔  歌:冠二郎


ごてごての演歌です。 







2025年6月3日火曜日

柏原寛司(脚本家・映画監督)       ・あぶない脚本家の野望

 柏原寛司(脚本家・映画監督)       ・あぶない脚本家の野望

柏原寛司さんは東京出身。 大学在学中に映画撮影所にアルバイトとして入り、特撮テレビ番組「クレクレタコラ」で脚本と助監督を経験しました。   1974年俳優萩原健一さん主演のドラマ「傷だらけの天使」で脚本家として本格的にデビュー。  その後「西部警察」、「大都会」、「危ない刑事」など数々の映画やドラマの脚本を執筆しています。 

数々のドラマを描きましたが、NHKはないです。   毎回殴ったり蹴ったり撃ったり殺したり爆発したり、NHKぽくないです。   1949年東京・人形町に生まれました。  最初は紙芝居が好きでした。  次に漫画、次に映画となりました。  人形町には7軒映画観がありました。  銀座、上野も近いので映画を観る環境は凄くよかったです。  西部劇が大好きでそれが基本になりました。   石原プロは車の壊すのも派手で大変でした。   友人から日本の映画を観るように勧められたのが「用心棒」と「七人の侍」でした。   高校の時に観たんですが、吃驚しました。  それから日本映画を観るようになって監督をやろうと思いました。  

助監督試験は大学を出ていないと受けられませんでした。  大学も落ちてしまってシナリオ研究所に入りました。  3浪を経て日本大学芸術学部文学科に入って、大学4年の時に「傷だらけの天使」、「俺たちの勲章」を書きました。  大学を卒業した時に日活の助監督試験がありましたが、新宿の交番のお巡りさんと喧嘩をしてしまって試験に行けませんでした。  それでライターになってしまいました。   中学、高校の体験が下地になっている部分もあります。  恋愛ものは書かないですね。   萩原健一さん、藤竜也さん、勝新太郎さん等と仕事をしたのは楽しかったです。  

萩原さんとは「傷だらけの天使」のあとは「あいつがトラブル」で再開した様な形になりました。  「豆腐屋直次郎の裏の顔」辺りから萩原さんと仕事をするようになりました。   萩原さんはトラブルが多いので出資する側がビビるんですね。  撮って宣伝活動して劇場公開するまで2年ぐらいかかったりするんです。  萩原さんとやり始めてからはプロデューサー的なこともやり始めました。  映画館を作りたかったが、いろいろ規制がありできなくて、その代わりに試写室にしました。   藤竜也さん主演の映画「猫の息子」を撮りました。   2016年片桐竜次さん主演の映画「キリマンジャロは遠く」を撮りました。   映画監督は面白いすね。  ライターでは責任は取れないが、監督だと責任が取れます。  最終的な責任は現場にあるわけです。  監督だと責任が取れるのでそこが面白いです。  責任が取れる快感があります。  監督は決断をする仕事なんです。  もめ事も好きです、トラブルがない現場なんてつまらない。   それを解決してゆくのがまた快感なんです。 

若手を育てる事には力を入れたい。   映画業界を活性化するためにはいろいろなことはやろうとは思っています。   町内に長く住んでいるので、老人クラブの会長にさせられました。  トラック野郎とは違った切り口で、静岡のトラックに関わる話をを映画化しようと画策中です。















2025年6月2日月曜日

俵万智(歌人)              ・言葉も私も生きている

俵万智(歌人)              ・言葉も私も生きている 

俵さんは1963年大阪出身。  早稲田大学在学中に歌人の佐佐木幸綱さんに師事、短歌を作り始めます。  1987年発表の第一歌集「サラダ記念日」は社会現象を起こす」だべストセラーとなり、口語短歌の大一人者として多くの歌集やエッセイを発表してきました。  又ホスト歌会、アイドル歌会の選者を務めるなど短歌にとどまらない活躍を続け、これまでに迢空賞(ちょうくうしょう)、紫綬褒章(しじゅほうしょう)などを受賞しています。  この春出版された「生きる言葉」は現代社会における言葉の力について、ご自身の子育てや体験を踏まえて考察していて幅広い 読者を獲得しています。 

「生きる言葉」はエッセイではなく論評、論法となっています。  言葉についてじっくり考えてみたいなあと言う気持ちが自分の中で高まって来ました。  ネットでは顔に知らない人とやり取りをしなくてはいけない時代になって来ました。  言葉の比重が大きくなってきていると思います。  ネットなど便利な反面、誤解も生じやすい。  自分が言葉を書くという事に関して、注意深く楽しむようにしたいと思います。   ネット社会について高速道路に例えると、さきにインフラが整ってしまって、運転するルール、マナーがとかがまだ途中と言うままみんなが運転して仕舞っているという様なイメージですね。  なので事故も起こりやすい。  

ちょっとした一言で、自分が傷ついたり、人を傷つけたりという事は、日常会話の中でも起こっているわけです。  何故言ってしまったのかを考えるとことによって、次への処方箋になるような、楽しんで観察できるような気持で居たいと思います。  正しい言葉と言うのは無くて、お互いの関係性、文脈で正しくもなれば間違った事にもなる。   子育てを通して、自分が考えた言葉と言う風にもこの本は読めます。   言葉に対するまっさらな目を自分でも取り戻しながら楽しんでいたような気がします。   息子がラップが好きで日常的にいろいろ聞いています。  短歌に近いなあと思ったりもします。   言葉の語彙を増やすのにはしりとりは良いと思います。  息子は大学生になり国語学を勉強しています。  

佐佐木幸綱先生からはエネルギッシュな文学論と言う感じで、短歌だけではなく幅広い文学論でした。  先生の歌集に出会って、今を生きる表現手段だと知ることが出来ました。   先生の授業の感想、書いたものの感想とか、手紙で送っています。  短歌を作るのが楽しかったです。  ラップも短歌もリズム感があって、耳から届くという意味では共通するものがあります。   短歌を作るときには音の響きはとっても大事です。  濁音はちょっと耳障りな感じがします。   心の真実を伝える言葉で有ったら、嘘をついてもいいのかなあと思います。  短歌、俳句を作ってくれるAIは有りますが、私たちが短歌を作る醍醐味は、心の揺れを立ち止まって見つめ直して、そこから言葉を選んで形にしてゆく、その過程を含めて歌なんです。  AIにはその過程がありません。   私たちは心から言葉を紡ぐ。 

迢空賞(ちょうくうしょう)を取ったら楽になりました。  もうそれ以上ないし。    50代は色々なことがありました。  子育てが一段落すると親が高齢になり、自分でも病気をしたりしました。   入院も一つの経験になりました。  その中から歌も生まれました。 歌を詠むことで、自分の人生を振り返り、言葉にすることで辛い経験を乗り越えたんだなと言う、達成感があります。   

「作品は副産物と思うまで詠むとは心掘り当てること」   俵万智

私自身も歌を通していろいろな出会いがあります。   言葉のかけらをメモしておいて、もうちょっと育てて行こうかとか、同じようなことが二度三度あった時に初めて歌になるとか、そういう事もあります。   

「最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て」  俵万智

今一番多くのお母さんが好きと言って下さる歌です。  重ねぬりの度合いの厚みがある時には抽象的な歌でも成立するという事はあります。 

年齢年齢によって見える景色は変わってくると思うので、「アボカドの種」と言う一番新しい歌集では30年振りに会った元彼の話が出てきますが、30年後の恋は20代の人には詠めないぞと思ったりしています。  年齢を重ねることで見えてくる景色などを捕まえて行けたらなと思います。  「アボカドの種」には黒い歌も結構入っています。  良い面を捉えて歌にしたいと言う白い歌を心掛けてきましたが、黒い歌も出来てきて歌集に入れてもいいのかなあと思いましたが、共感して頂いて黒い歌も人を励ますという事があるんだなあと思いました。  言葉にするという事は自分を客観的に見るという事に繋がるので、そういう意味でもいいと思います。   

「人生を楽しむための治療ゆえ今日は休んで大阪へ行く」   俵万智

放射線治療をしている時でしたが、どうしても行きたくて行きました。 

「優しさに一つ気が付くバツでなく丸で必ず終わる日本語」  俵万智

特に中高年の人から共感を得ました。 「マルハラ」マルハラが生まれた背景には、世代間のギャップがあると考えられます。 世代によって、コミュニケーションの目的やゴールが異なる点に、マルハラの発生原因があると考えられます。  仕組み、状況をきちんと理解して、知るという事は凄く大事な事です。  道具なので道具に使われたらおしまいで、道具を楽しいんで便利に使えるという事が大事だと思います。  言葉はなんで生まれて来たかと言うと、伝えたい事、共有したいことがあるから言葉は生まれてきたわけですから、人と人とが繋がるものとして言葉を使っていけたらいいなあと思います。