2024年12月4日水曜日

村山浩昭(元裁判官・弁護士)       ・〔人権インタビュー〕 想像できますか、袴田巌さんの“58年”を

 村山浩昭(元裁判官・弁護士)・〔人権インタビュー〕 想像できますか、袴田巌さんの“58年”を

58年前静岡県で味噌製造会社の一家4人が殺害された事件で、死刑囚となった袴田巌さん(88歳)の再審で今年9月静岡地方裁判所は無罪を言い渡し、その後確定しました。 巌さんと巌さんを長年支え続けた姉のひで子さん(91歳)にとって半世紀以上に渡って待ち望んでいた判決でした。 その無罪判決を裁判所の前で喜びつつも複雑な思いを抱きながら聞いた人がいます。 10年前静岡地裁の裁判長として、袴田さんの再審の開始と拘置所からの釈放を決定した元裁判官で今は弁護士の村山浩昭さん(67歳)です。 村山さんは無実の人を冤罪から救済するための最後の砦とも言われる再審に、これだけの時間があってはならないと,、再審に関する法律の改正を呼び掛けています。 村山さんに袴田さんのような思いを知る人を二度と生み出さないためには、どうするべきなのかをお聞きしました。

無罪判決が出るであろうという事は予測はしていました。 ホッとしたというのが第一印象です。 ようやく無罪になった長かったなあと思いました。 私どもが2014年に再審開始決定を出し、中々再審決定がしなかった。 東京高裁で取り消されてしまったという事がありました。 取り消されただけで救済が遅れる、再審公判が遅れるという事が間違いなかったので、驚くと同時に後悔しました。 58年という長きによる苦しみに責任を負わなければいけない一人だったものですから、余計辛かったし、「良かったですね」という事で済ましてはいけないのではないかという気持ちがあったんだと思います。 

袴田さん自身は長い間死刑の恐怖におびえながら拘置所に収容された影響で、今も意思の疎通が難しくなっていて、今回の判決を法廷で直接聞くことが出来なかった。 ご本人が一番聞きたかったはずですね。 それが叶わないようになってしまった、そのようにしてしまったという責任は重大だと思います。 国家権力が無実の袴田さんを死刑囚にしてしまったんですね。 58年間苦しみ続けてしまった。 人権侵害の最たるものです。 名誉回復は出来るけれども、どこまで行っても回復できない損害を負わせている。  こういうことが起きないように何をなすべきか、国を挙げて考える必要がある。 再発防止、早期救済の道すじをつける、そのことを実現しなければ、袴田事件の責任を取ったことにはならない。

再審は非常にハードルが高くて、中々開始にならない。 袴田事件が冤罪ではないかという風に言われていた死刑事件だという事も承知していました。 大変な事件を引き受けるという事は思っていました。 この時にはすでに46年もの歳月が経っている。 事件を担当するにあたっては、私が静岡にいる間には必ず結論を出すと、そういう覚悟で行った記憶があります。 2012年から審理を担当。 2014年に再審の決定文を書くことになります。 今迄の裁判に関わった人たちは、大先輩、著名な方たちがいるわけです。 そういった方々の判断が間違っているかもしれないという事をはっきりという訳ですから、勇気は必要だと思います。 私は新証拠があっての再審ですので、従前有罪にした裁判官もこの新証拠を観ていたら無罪にしたかもしれない、そういう可能性はあります。 

袴田さんが怪しいのではないかと思った理由の一つが、犯行時に袴田さんが着ていた服とされていて、過去の裁判で有罪の決め手とされてていた証拠が、事件発生から1年2か月後に現場近くの味噌タンクの中から見つかった血の付いたシャツやズボンなどの5点の衣類が2010年に検察側から5点の衣類のカラー写真が新たに開示されたことで、これが袴田さんの犯行着衣だったのかどうかという事が争われた。 それを見て正直随分鮮やか(血の赤い色など)だなあと思いました。 味噌に浸けていて、そういう色が残るのかなあと思いました。 事件発生から1年2か月の間味噌タンクに漬かっていた5点の衣類の血痕に赤みが残るかどうか、争われました。 弁護側は実際実験をして赤みは残らないと主張、検察側は赤みが残るとした。  赤みが残るんだという学者さんを見つけてきて、そういう意見書を書いてもらうという発想になってしまうのがとても悲しいですね。 5点の衣類について捏造の疑いに言及しました。  袴田さんを犯人に決定つけるためにやったとすれば、捜査機関以外にはないと私は思いました。 

袴田さんの釈放ですが、刑の執行停止の条文で、拘置の停止もできるという解釈論を行いました。  そこで考えたのは袴田さんの健康問題です。 もう一つは捏造の疑いをはっきり書きました。  国家権力が無実の袴田さんを死刑囚にしてしまった、そう言う疑いがありますよ、しかも違法な捏造という行為によって死刑囚に陥れてしまった、という事態なわけです。 そういう事態を想定しながら、まだ拘束するんですかと、人道上の問題としてもやってはいけない事ではないかと思いました。 

検察は抗告をして、高等裁判所、最高裁判所で審理、最高裁判所で指し戻されて再び高等裁判所で審理がおこなわれた。 再審開始決定から9年後でした。 無罪判決まで10年が掛かった。  これは長すぎですね。 (袴田さんの再審開始決定を村山さんが出した後、村山さんの手を離れて袴田さんの審理が続くことになる。 静岡を離れる。)  早く再審公判が開かれて欲しいと思いました。  きちんと真実が探求されて、無罪になることを祈っていました。 

再審を開かずの扉にしてしまっているのは、裁判所であり、検察官であり、場合によっては弁護人もその責任者の一人かもしれません。 検察官の一番大きな問題は証拠を出さない。 検察官としては最もよい証拠を提出します。 検察側にとって良くない、不利な証拠は証拠請求しないという事が出来てしまう。 被告人の不利益になるという可能性も大いにはらんでいる。 改めないといけないと思っています。 再審請求事件はあまり多くない。 どうしたらいいのかとか、条文も非常に少ない。裁判官はどうしても期日を指定してゆく事件に追われてるので、そちらが優先する。 裁判官一つのポストで3,4年で転勤してしまう。  そういったことが積み重なるととんでもなく時間がかかってしまう。 裁判官の職業倫理の問題だと思っています。 寝かせてしまうという事はあってはならないと思いますが、起きないとは限らない。 

裁判官を定年退官して2年になります、弁護士になり、刑事訴訟法の再審に関する規定(再審法)、を変えようと日弁連の再審法改正実現本部の副本部長として活動しています。  3つの法改正を訴えています。 ①検察側の証拠の開示に関するルールがないので、重要な証拠が眠ったままになってしまうので、一定のルールを設ける。 ②再審開始決定の段階で検察側が抗告できる仕組みに今はなっているが、再審を始めるという決定にもし検察側が不服があるんだとすると、再審裁判の審議の中で有罪の立証をすればいいわけなので、検察の抗告権を禁止する。 ③再審に関する規定の整備。

③再審に関する規定の整備。 裁判官の立場から見ると、手続き指定がないために、審議を進めるという事がやや難しい。 そのアクションがないと進まないままになってしまう。 それが長期化の大きな原因になってしまっている。 刑が確定しているので、受刑中か、死刑の場合は刑の執行を待っているか、刑の執行が終わって受刑後に社会に戻っているか、と考えられるので、進行形で冤罪被害が続いている。  そこを理解しないといけない。  確定しているから、基本的には動かさなくてもいいんだという発想の法律の制度ではないかと思います。 

検察側は証拠開示については事案ごとに適切に対応している。 証拠開示によって事件の関係者などのプライバシーの侵害につながる恐れがある。  検察の抗告については裁判所による不当な再審開始の決定の是正をしている。 抗告できずに安易な再審開始を認めると、司法制度への信頼が失われる。 と言った見解を示している。  全く賛同できません。 証拠開示がスムースに言っていたらこんなに時間はかからなかっただろうと思います。   そういう例ばかりです。 検察官が抗告した多くの事件では、抗告が棄却されて再審になって無罪になっているのが、圧倒的に多数なんです。  抗告を禁止すれば早く再審公判に行くわけなので、早く無罪判決になるというケースが当然出てくる。 

無罪かもしれないという人を救済するために、再審法はそのためにある法律だと理解すべきだと思っています。  逮捕されると悪い奴が捕まっても当たり前だと、多くの人が思っています。 捕まったから犯人視する見方はこの社会から亡くさなければいけないと思います。 無罪推定原則は実社会では結構虚しく響いているのかなあと思います。 姉のひで子さんは巌の58年を無駄にしないでほしい、再審法の改正を実現してほしいと訴えています。 あれだけ酷いことにあったら恨み言の一つや二つは言いたくなるのが当然だと思いますが、そういう響きではないです。 巌さんだけではなく、本当にそういう立場に置かれた方を救済する、そのために巌さんとひで子さんが経験したこの事実を、大事に使ってほしいという意味だと思います。  私たちに向けられた大きなメッセージ、ミッションだと受け止めています。 再審法は変えられると思います、その最後の一押しは世論だと思います。法務省の後ろ向きの態度は一向に変わっていません、専門家同士の議論では決着がつかないという事だと思います。 結局人権を大事にしない、救済を求めている人たちに対して、手を差し伸べない社会になってしまう。  いつか実現できると思ってやらなければいけないし、テーマの一つである再審法の改正については必ず改正できると思って取り組んでいます。






















2024年12月3日火曜日

佐藤路子(旧優生保護法訴訟 原告の義理の姉)・〔人権インタビュー〕 旧優生保護法が問いかけたもの

佐藤路子(旧優生保護法訴訟 原告の義理の姉)・〔人権インタビュー〕 旧優生保護法が問いかけたもの

 旧優生保護法は障害などを理由に 強制的な不妊手術を認める法律です。 戦後間もない1948年から1996年まで施行され、およそ2万5000人が不妊手術を受けさせられました。 この問題を巡っては全国各地で39人が国を訴え、今年7月に最高裁判所大法廷が旧優生保護法は憲法違反であることを判断しました。 又10月には被害者に保証を行うための法案が成立しました。 2018年に全国で初めて裁判を起こしたのが、15歳の時に不妊手術を強制された宮城県の佐藤由美さん(60代)です。 知的障害の由美さんに替わって裁判に参加し続けたのが、義理の姉の路子さんです。 佐藤路子さん、由美さん共に仮名で本名は公表していません。 原告たちが戦後最大の人権侵害と呼んだ旧優生保護法が問いかけたものとは、伺いました。

由美さんは夫の妹に当たります。 交際中に障害の妹がいるという事は聞いていました。  妹は仙台の施設の方にて、面会しました。  人なつっくこくすぐ受け入れてくれたような気がします。   知的障害ですが、日常会話は普通に出来ました。  結婚については母親、祖母、叔父さんなどが心配をかけたようです。 私が結婚したのが19歳で由美さんは17歳でした。 由美さんは地元の中学を終わってから、仙台の学校で裁縫、料理などをするところで何年かいました。 学園祭とかことあるごとに行っていました。 仙台には25歳ぐらいまで居ましたが、その後家に来ました。 40年ぐらい一緒に暮らしてきました。 私には3人子供が居まして、妹が帰ってきた時に3番目が生まれたころでした。 おむつを替えたり面倒を見てくれました。  

傷が目についてしまって、なんで大きな傷があるの吃驚しました。 私が結婚してその12月に義理のおかあさんが子供が出来ないように手術をしていると言われました。 詳しい内容については聞くことが出来ませんでした。 夫も判らなかったようで秘密にしていた様です。  由美さんが22,3歳の頃に縁談の話がありました。 仲人さんには子供が出来ない身であることを話したようです。  後遺症もあっていつもお腹が痛いというようなことは言っていました。 30歳ぐらいの時に痛みが酷くなって卵巣膿腫という事で、卵巣摘出手術をしています。(癒着の為)  当人は手術のことはわからなくて、不憫に思いました。

旧優生保護法が出来たのは1948年、議員立法で成立しました。 この時代人口過剰にも直面していた。 優生保護法第一条、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する、と書かれています。 人口を抑制するためには知的障害、精神障害は遺伝するという誤った知見をもとに強制的な不妊手術を認めるという、のがこの法律でした。 

地元にはハンセンの施設があるので、障害、遺伝というような障害者には差別意識がありました。 飯塚純子さん(仮名)の活動がきっかけとなりました。 2017年2月、飯塚さんの人権救済の申し立てに対して、日弁連が国に意見書を出しました。 弁護士の新里宏二さんに電話をしました。  「優生手術に謝罪を求める会」(東京)の方が2017年3月2日に宮城県議会で勉強会をしたみたいです。 その機会に私はお会いし、話を聞きました。  飯塚さんは20年も自分の被害を訴えても、国から手術をした証拠があったら持ってきなさい、と言われたそうです。 手術した証拠がないので訴えることが出来ませんでした。 手術台帳が県の方で焼却していてなかった。  由美さんがまさか法律に関わる手術であったという事は想像していませんでした。(義母はもう亡くなっていて聞けなかった。)  

妹の情報開示請求すれば判ると聞いたので、開示請求を出しました。 優生保護法に基づく手術で遺伝性精神薄弱という事で15歳の12月に手術をしていたことが判りました。   頭のなかが真っ白になり吃驚しました。  遺伝性精神薄弱ではなく、なぜ15歳でしなければいけなかったのかという怒りもありました。 1歳の頃に手術をした時に、麻酔が効きすぎて障害になったという事は、結婚するときから聞かされていました。 遺伝性精神薄弱であれば、手術しなさいと来たら、受けざるを得なかった状況でした。  国から宮城県に対して件数を増やすように指示があったようです。 北海道に次いで二番目に手術の件数が多い。 

全国初の国家賠償訴訟に繋がりました。(2018年1月30日) 厚労省と3回交渉しましたが、当時は合法に行われていたという事を主張していました。  弁護士が「これは裁判するようですね。」ということで始まりました。  由美さんと同じような方が全国で沢山いらっしゃるのでは無いかと訴訟を起こしました。  娘からは反対されたが、一か月過ぎて理解してくれました。  最終的には39人の原告が国を訴えることになりました。   記録の残っているだけでも全国で2万5000人が手術を受けました。 

勝たなければ駄目だと思いました。 一審が2019年5月仙台地裁で 旧優生保護法は憲法違反であるという事は認めたものの、20年が経つと賠償請求できる権利が消滅するという除斥期間を根拠として原告の訴えを退けました。 2022年2月に大赤高等裁判所で、初めて国の賠償責任を認める判決が出ました。 その後国が認める判決が続きましたが、2023年6月の仙台高等裁判所の判決では、再び20年間の除斥期間を理由に原告の訴えを退けました。 この時の仙台高裁の裁判長は向き合っていない感じでした。 判決文にはミスがあり、本当は私は義理の姉なのに義理の妹と書かれていた。  普通だったらありえない判決だった。 他の高等裁判所では国の責任は認めていて、最終的には最高裁大法廷で判断することになりました。 その結果今年7月3日に旧優生保護法は憲法13条と14条に違反するという初めての判断をしました。 20年の除斥期間については認めず国に賠償を命じました。 仙台高裁の判決については取り消して審議のやり直しを命じました。 勝利を認識しました。

憲法13条:すべて国民は個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。

憲法14条:すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 

10月に補償法案が成立しました。  被害者本人に1500万円、配偶者に500万円まど。 2万5000人の存命の方には申請をしてください、という通知をあげるのがいいのではないかと思います。 差別のない社会を、と訴えたいです。








2024年12月2日月曜日

村瀬麻利子(岐阜県在住の里親)      ・〔人権インタビューシリーズ〕 一緒に幸せになろうよ

村瀬麻利子(岐阜県在住の里親)   ・〔人権インタビューシリーズ〕 一緒に幸せになろうよ 

経済的な理由や虐待などで実の親と暮らせない子供の数はおよそ4万2000人、里親はそうした子供を家庭で受け入れ育てる制度です。 国は家庭的な環境で子供を育てることが大切だとして、法律で里親制度を推進しています。 しかし児童養護施設などで暮らす子供が7割以上、里親家庭で暮らすのは2割ほどにとどまっています。 村瀬さんは現在59歳、4人まで受け入れが出来る児童養育里親を務めた後、より多くの子供に提供したいと、6人まで受け入れ可能なファミリーホームという形に規模を広げて、活動を続けています。 村瀬さんは共に暮らす子供一人一人とどのように向き合い、今どんなことが必要だと考えているのか、お話を伺いました。

生後間もない子から18歳までの子を6人委託してます。 年齢はバラバラで2歳、3歳、小学校4年生、6年生、中学2年、高校1年生です。 朝から晩までてんやわんやです。 仲良くするときもあれば喧嘩もしますが、基本的には仲良しです。  コロナがきっかけで保護される子が多くいるという事を聞いて、6人受け入れることが可能なファミリーホームに移行しました。 家庭での経験をさせてあげるという事が目的です。

最初養護施設の子(2歳)を週末だけ預かっていました。  5年後に職員さんから養育里親になりませんかと言われました。 研修を受けて登録しました。  おかあさんがシングルで生後4日から来た子もいました。 育児放棄で来た子(幼稚園)もいます。 幼稚園の子が凄く食べるというんですが、実際は食べれなくてトイレで吐いていました。 今目の前にあるご飯を食べなかったら明日は無いと思ってしまうらしいんです。 安心させるためにいつもごはんはあるから大丈夫だよとかなり長い期間言い続けていました。 

自分が甲状腺の病気をして、もう少し遅かったら死んでいたという状態になって、子供を預ける制度が有ったらいいなあと思っていました。 幼少期に父親から理不尽な扱いをされたという事もありました。  過去の経験から何か力になれたらいいなあと思い里親を始めました。  父親からは殴られたり、生むんじゃなかったとか言葉で伐倒されたりして、家族が幸せと思ったことはなかったです。 うちにくる子もそういう思いがあると思います。  一緒に幸せになりたいし、子供たちのお陰で自分も元気でいられる。 

怒ったりするかもしれないが、必ず一人ぼっちにはさせないという事は根底にあります。  愛情に飢えていた子は、どれだけ愛情をかけてもざるの様に流れでて忘れてゆくんです。  だから常に全力で頑張っています。(時には疲れますが)  最初来たころは物欲ですが、何年か暮らしているうちにものではなくなり、ぎゅーして変わっていきます。 目に見えないもので繋がり始めたのかも知れません。 常に真剣なのでぶつかり合ったりします。

残り物を出したり、ちょっとしたことで、本当はママは自分のことを好きじゃなかったんだと、毎日言われました。  好きだよ好きだよという思いで接しました。 大人になったら私の思いが判ってくれたらいいかなという思いでいます。 里親のことろに来た時にはマイナスの状態になっているので、それをゼロにするのが難しい。 「ありがとう」、「ごめんね」が知らない。 他人の言う事を聞く耳を持たない。  遮断してしまうのでなかなか入って行けない。  「馬鹿野郎、死ね」と言い続けけられてきているので、すべてを敵と思って誰かと戦おうとする。  1年ぐらいすると、この家の中には怒ってくる人がいないんだねとついこの間言った子がいました。 育つ環境が大事だと日々感じます。 

風呂にも毎日入っていない、歯磨きもして居なくてはが全部虫歯、靴もボロボロで破れている子が来ました。 名前は言えるが、後3か月で小学校へ入学するのに読み書きが出来ない。  3か月でひらがな、数字を教え込みました。 学ぶことを知らない子でした。   根気よく続けて、あいうえおをものすごいスピードで覚えました。 しかし長い単語「しんかんせん」とかがなかな覚えられない。 入学直前には読めるようになりました。 数字も10までは書けるようになりました。 学校に入って国語、算数を覚えていきました。   でもちょっと油断すると崩れて立て直すのに時間をかけたりしました。 日常生活も何も知らない子でした。(トイレに行くタイミング、風呂に入ることも知らない、服を洗う事、着替えることも知らない。)  転んで血を流しても言わない。(言ってくれれば手当をするんですが)  日常生活も大半が出来るようになり、勉強も教えれば出来る子だと判りました。  教えるが楽しくなって、今では学年でトップになってしまって、将来学校の先生になると張り切っています。

私の幼少期は本当に死んだ方がいいのかなあと思いました。 病気で死んでしまう可能性が有ることを経験して、自分の命はここまでかなあと思いました。 パートで働いたことがありましたが、体力が持たなくて自分は世間に必要ではない人間なんだなと、落ち込んだ時期がありました。 そんな時に三日里親をやりませんかという広報を観ました。  これだったら自分の過去を生かせると思いました。 子供の為にも母親の為にもなれると思いました。  自分の生きた証を残したかったのかもしれない。 何があっても折れないし、自分根底はぶれない。 

子供たちがなりたい道に進めてあげたいので、何になりたいのか日々聞いています。 高校1年生の子は自分はちっちゃい子が好きだと気付いたみたいで、乳児院で働こうか、保育士の免許を取ろうかと言っています。 夜の大学に通わせようかと思っています。

国が社会的養護のことを理解していないと思います。 実際に子供のことを考えていてくれるのかなと思います。 お金のことで言うと足りていないと思います。 里親はみんな優しいのでお金ではないという思いでやっているので、皆さんがんばってやっていますが、時給換算すると凄い事です。 社会枝的養護の子は本当に育てにくい、生きにくい、ひび里親の方はみんな悩んでいます。(暴力、暴言など) 里親制度をちゃんと国は理解していないと思います。 国は里親の方から直に生の声を聞いてもらいたい。 地域と一緒にやっていけたらいいという思いはあります。(偏見とか、理解してもらえない部分がある。)  生まれて来た子には差別はないが、でも世の中は偏見の目で見られてしまう。  なじみがないのかもしれない。  一人でも多くの子供たちに勇気と自信をもって、社会に出られる子供に育ててあげたいという思いです。 まだ2歳の子がいるので、彼らが20歳になった頃も生きていたい、ずっと子供たちを見守っていてあげたい。 この場所はみんなの安心安全基地でありたい。  子供たちの「ただいま」の笑顔が観たいから。






















2024年12月1日日曜日

秋野暢子(俳優)             ・“鬼退治”を終えて~食道がん闘病記~

秋野暢子(俳優)             ・“鬼退治”を終えて~食道がん闘病記~

 秋野暢子さんは1957年大阪府生まれ。 中学、高校と演劇部に所属していてその実績が評価され1974年にNHK銀河テレビ小説「おおさか・三月・三年」のウェイトレス役で俳優デビューしました。 1975年のNHK連続テレビ小説おはようさん』のヒロイン・殿村鮎子役で18歳で抜擢され本格的に女優活動を開始しました。 その後もテレビドラマや映画で幅広い役柄を演じ、情報番組のコメンテーターとしても活躍しています。 又東日本大震災や熊本大地震などの被災地を訪れ、ラジオ体操やヨガなどの指導を行って、支援を行っています。  その一方で2022年7月には食道がんの治療の為、芸能活動を休止することを発表、治療を終えて去年1月に復帰しました。 秋野さんはがん治療は一人ではなく医療関係者とチームを組むことで行う為、鬼退治と称して前向きに治療を行いました。  がん治療を通じて感じた人生観の変化などについて伺いました。 

体調はとてもいいです。 食道がん(私の場合はステージ3)を科学放射線治療した場合、だいたい50%2年以内に再発するという統計が出ているそうです。 2年を過ぎて、来年1月にPETをやってみて、大丈夫だったら半年に一回検査をするという事になっています。  がんのことを話すと言ったこともあり、仕事の幅が増えてきました。  病気をしてみると仕事だけではなくて日常一つ一つを大事に生きるという事を考えると、仕事に対する姿勢も変わって来るかなと思います。 60歳の時にフルマラソンは辞めろと言われまいた。 ひざ、腰に師匠が出てくるだろうと言われました。 フルマラソンのために10km走っていましたが、5kmにしました。 薬の後遺症で足首あたりがしびれていて、現在はトレッドミルで家で走っています。 

2022年に頸部食道がんと診断されました。  2021年12月に鎖骨と鎖骨の間になんかあるなと感じました。(11月には人間ドックに入ってなんでもなかった。)   大学病院などで血液検査、耳鼻科に通ったが原因が判らなかった。 ピンポン玉の大きさぐらいに感じるようになりました。 6月に内視鏡をやったらがんだという事が判りました。  原因が判ったのでショックはなかったです。 手術をするとなると、食道を全部取って、声帯まで取らなければいけないので、抗がん剤と放射線治療を選びました。 これは効く場合がある人とない人があると言われましたが。 がん治療はチームになって向かって行かなくてはいけないので、桃太郎の鬼退治と似ているなと思いました。 

治療の選択は私自身だと思いました。(主治医は自分だという考え方)  病気になったこと、どういう風に治療してゆくのか、それらを報告するのが私の生き方だろうなと思って、ブログで発信することにしました。  そのことで意見交換、励まし合いなどがありました。 抗癌剤の副作用で髪の毛が抜けるという事を聞いて厭だなと思ったので、バリカンで切ってもらって、自分で剃刀を使って剃っちゃいました。 それを見た先生は秋野さんへの抗癌剤は毛が抜けないんですが、と言われちゃいました。  

1957年大阪府生まれ。 呉服屋の末娘でした。 5歳の時に父が訳の判らない保証人のハンコを押してしまって、家屋敷が全部なくなってしまうという大事件がありました。   取り立てが来たりして精神的にダメージを受けて吃音が出るようになりました。 小学校に行っても引っ込み思案で明るい子ではありませんでした。 小学校5年生の時に学芸会で面白い役をやることになりました。 演劇の盛んな中学高校に入ることになりました。 徹底したアクセントを習って吃音が直って行きました。  審査員の中から仕事の依頼が来たりしました。 仕事をこなしているうちに、NHK銀河テレビ小説『おおさか・三月・三年』にウェイトレス役で出演して、18歳になって1975年のNHK連続テレビ小説おはようさん』のヒロイン本格的に俳優の道に進みました。 

役者をやって、自分ではない人の人生を生きるという事が面白いですね。 役柄によってはバッシングされることもありましたが、三国連太郎さんが「これもきっと君の演技の幅になるから、力を入れてやりなさい。」と言われました。  絵を描くこともやっていて個展を開いたりもしています。 絵も芝居と似ているところがあります。 全く何にもないところから始まる。(役柄も同様)  絵はやめどころが判らない。(演技も同様) 絵も芝居も点数が出ない。 明るくて元気になると言っていただけます。 生き物を描くことが好きです。 生きる事への思いとかが、生き物を描くことに繋がっているのかもしれません。   病気前後での画風は特に変わってはいません。  

東日本大震災の時には、私のブログに飛んできてくださったいわき市の方とコンタクトが取れて、東北に伺うようになりました。  皆さんと一緒に運動したり、花作り、料理などを始めました。 行くと喜んでくれました。  勉強をして今は呼吸筋のトレーナーでもあります。 ですので皆さんと呼吸の運動をしたりしています。  闘病中に朝昼晩と呼吸筋の運動をしていました。 海馬に情動部分(感情をコントロールする部分)があり、これが乱れるのが自律神経の乱れとなる。 不安になったり恐怖感を持ったりうつ病になったりする。 乱れをなくするためには呼吸しかない。 闘病中も心を穏やかにしてくるれることにつながったのかなと思います。  大災害では皆さん大変な目に遭っているが、生きようとする力、諦めない姿、凄いなあと思います。

がんを経験して、命には限りが有るという事をしっかり知りました。  その日一日一日を大事に生きる、これは奇跡だなあと思います。 食べて、飲んで、歩いたり、考えたり、いろんなことが出来るという事は当たり前ではなくて、奇跡だと思います。 奇跡は突然降って来るのではなくて、毎日の中にあるなあと思います。 大事に生きなければいけないと思います。  娘が結婚することになり、子供が出来ました。  我が身に死の思いがあって、数か月後に新しい命が生まれてくる。  生きると言う事、命とはどういうことか、つくづく思います。 孫を前にすると長生きしたいなあと思う様になりました。