三田村鳳治(元住職) ・102歳、あの日のことを伝えたい
昭和18年10月21日、立正大学2年生の三田村さんは、太平洋戦争の学徒動員で明治神宮外苑を行進していました。 そしてその日から終戦までの2年足らずの出来事は、三田村さんは忘れられないことの連続でした。 陸軍整備兵として宮崎県の都城西飛行場へ配属、そして鹿児島県の知覧飛行場と終戦間際まで敵艦隊に体当たりする特攻機を見送りました。
来年3月に103歳です。 2か月前に転倒して腰の骨を折ってしまいました。 昭和18年10月21日明治神宮外苑で雨のなかを鉄砲を担いで行進していました。 送る言葉は声が小さくてわからなかった。 答辞はよく聞こえました。 「生等もとより生還をきせず、・・・」 私は俳句に詠んでいます。 「秋くれば友と歩みし雨の外苑」
昭和16年12月8日の真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入する。 開戦の翌年4月にはアメリカ軍が東京、横浜などに空襲している。 4月18日アメリカの飛行機を見ました。 まさかアメリカの飛行機が飛んでくるとは思わなかった。(学徒出陣の前) 学徒出陣で東条英機首相の訓示があったが私は東条は厭だった。 天皇陛下万歳があって、その後どこからか、「海行かば」の歌が聞こえてきました。
私の家はお寺で仏教の道に進もうと中学生で得度しました。 文学部に入りました。 弁論部に入って集まってやろうとすると、届け出をしないと集会が出来ないんです。(言論統制が厳しくなる。) 徴兵されて東部第62部隊川崎溝ノ口に、12月1日に入りました。 4月1日つけで立川の航空技術学校へ行けと言う命令がありました。 飛行機の技術的なことを学びました。 宮崎県の都城西飛行場へ配属、そこで第一回の特攻隊を出しました。 10人でした。 仲の良かった北海道の戦友が亡くなってしまいました。 その後知覧に行きました。 知覧に着いて「貴様ら死ぬんだから、髪の毛を爪を切って遺書を書け」それが最初の言葉です。
整備は見つからないように夜に整備しました。 朝、飛行機を飛行場迄押していきました。 そこで又整備をします。 送るのにもそんなに悲しいとは思っていませんでした。 飛行機にもいろいろありましたが、九七戦というのは足が引っ込まないんです。 土手にぶつかったりおっこったりたりしました。 酷いもんでした。 当時逗子開成中学は海軍兵予備校だと言われていました。 校歌を歌って送り出しました。 ガソリンの補助タンクの代わりに爆弾をつけるのが一番嫌でした。 特攻機を先導する飛行機が一機いて、戦果を見届けて帰ってきて報告するわけです。 突っ込むところとか通信で連絡します。
「飛ぶ戦友(とも)を送る知覧や桜散る」 三田村鳳治 私が桜の枝を取って操縦室に入れてあげました。 知覧には遺書とか手紙とか沢山展示されてされています。 知覧には何回も観に行きました。 友達はみんな死んでしまいました。
「やあ寒や友をしのびて朝の経」 三田村鳳治
「秋の章友の変化の菩薩かな」 三田村鳳治 皆特攻観音ですから。
「友は逝き我は長らえ秋の浜」 三田村鳳治 何故自分だけ生きているのか、辛いですね。 海外にも慰霊に行きました。 ビルマは3,4回行きました。 子供は宝です。 こういう子供たちが日本を平和にしなくてはいけない。 戦争は絶対しない。 輝く未来、そのためには教育です。