2024年12月11日水曜日

渡辺貞夫(サックス奏者)         ・91歳、音楽の原点を語る

 渡辺貞夫(サックス奏者)         ・91歳、音楽の原点を語る

渡辺さんは栃木県宇都宮市出身。 1933年(昭和8年)生まれ91歳。 渡辺さんは音楽人生の原点となった出来事について、お話を伺いました。

1年で52か所61公演行う。 でも少ないですね。 一か月のうち高々1週間ぐらいじゃないですか。 50,60代のころは月に20回とかやっていました。 今年4月に最新アルバム「ピース」を発売、7年振りです。 ウクライナのことがあってから、何かメッセージがないかなと思って、ピースという曲があったのでそれをテーマにして頂きました。 一回リハーサルしてテークワンでとりました。(私はどれもそうです。) 最初の思いを大切にしたい。 上手い下手ではなくて、どうして思いを伝えられるかという事です。 

昭和20年宇都宮で空襲に遭っています。 自宅が焼失しました。 母と妹たちは疎開して、父と私だけでした。 空襲だという事で家の防空壕に入りましたが、父が駄目だという事で町内会の防空壕に行こうとした時に,家に焼夷弾が落ちて焼け落ちるのを見ました。 町内会の防空壕に行ったら、満員で入れませんでした。 宇都宮城のお稲荷さんのところで朝まで父といました。 郊外の農家に親戚と一緒にお世話になる時に、その時にたまたまポケットにハーモニカが入っていました。 ハーモニカを吹きながら歩いて行ったことをよく覚えています。 父も音楽、琵琶をやっていました。 母は三味線を弾いていました。 終戦の年のクリスマスの日に父がジングルベルを英語で歌い出したんです。 吃驚しました。

終戦の2週間後には進駐軍が宇都宮に進駐してきました。 追いかけて行ってガムやチョコレートを貰いましたが、包装紙がピカピカ光って見た事がありませんでした。 憧れが強くなっていきました。 音楽映画も一杯来ました。 先輩の父親が映画館の支配人をやっていて、その影響で音楽の世界に入って行きました。 聞いたことのないリズミカルな明るい音楽で、憧れました。 映画の中で10歳ぐらいの少年がかっこよくクラリネットを吹くわけです。 1週間毎日その映画を観ました。 戦後で楽器のない時代に、楽器屋にクラリネットが一本だけ置いてあり3000円と書いてありました。  父親にせがんで、買ってもらいました。  先生もいなくて、父親の知り合いがクラリネットを吹いたいたこともあり、その人に3日間教えてもらい音を出すことが出来ました。  教則本を見つけて、自宅の屋根に上って練習をしていました。 クラリネットを学校にも持っていき、1年先輩の山内さん(映画館の支配人の息子)がヴァイオリン、内田がトランペット、宇佐美?などと講堂に集まって音を出して、いろいろな曲を演奏し始めました。  山内さんのお父さんがダンスホールでタンゴバンドをやっていて、僕を雇ってくれました。  勝手に吹いていました。

当時映画「銀盤の女王」(フィギュア・スケートの世界選手ソーニャ・ヘニーの映画入り初主演作品)があり、サックスの音が美しくて、欲しくて憧れました。 仕事の関係で父親が東京によく行くので一緒に連れて行ってもらって、一回りうえの従兄弟が新橋のダンスホールのボーイをやっていて、よみうりホールでジャズコンサートがあってそれを聞くのが楽しみでした。 夜は新橋のダンスホールのバンドのサックスを聞いていました。 父親にねだって何とか買って貰いました。 日本製で2万4000円でした。  

栃木県立宇都宮工業高等学校を卒業後、2年だけ好きなことをさせて欲しいと父親に言って、上京しました。 2年経ったら帰る気もありませんでした。 音楽の即席バンドが出来たりして、仕事は結構ありました。 トラックに乗っていろいろなキャンプに行ったりしました。 譜面が読めなくて読めるようになったのは22歳の時でした。  フルートのレッスンで7年間学びました。 その後渡米(1962年)して、フルートでは重宝されました。 

アメリカには3年10か月バークリー音楽院に留学しました。  ジャズ理論を教わり目からウロコでした。  ブラジル、アフリカ、インドなど沢山の音楽を日本に紹介しました。 1978年 アルバム、『カリフォルニア・シャワー』の大ヒット、1980年武道館でのリサイタル、1981年「フロント・シート」が全米ジャズチャート1位。            振り返ってみるといい時代に生まれたなあと思います。  人との出会い、いいきっかけが一杯ありました。  音楽はコミュニケーションのいいツールだと思います。 自然の中から聞こえる音は一番強い音ですね。 生きている音ですね。 鶏よりちょっと大きな鳥が鳴きながら森の中に入ってゆく音を聞いた時には、ジャズのフレーズが聞こえて来たという事がありました。  苦しくて音楽を辞めたいと思った時はありません。 好きな事が出来て生かされている、こんな有難いことは無いです。  ステージは僕が一番元気になれるところです。 プレイを通して聴衆の皆さんと出会って、気持ちが通じ合う、音楽を通じて皆さんの心にタッチできたら、それが僕の願いです。