2022年1月13日木曜日

山根基世(「ラジオ深夜便」元アンカー) ・「ラジオ深夜便」アンカートークショー

山根基世(「ラジオ深夜便」元アンカー) ・「ラジオ深夜便」アンカートークショー 

「ラジオ深夜便」を担当していたのは20年前になります。  1998年4月から2000年3月までの2年間でした。    36年間NHKにいましたが、希望して手を挙げて叶ったのはラジオ深夜便だけでした。   当時50歳で定年が見えてくる頃でした。  旅の番組を5年間担当していました。   地方の普通の人の普通の暮らしを見つめてその中にある感動を見つけて番組にしていくものです。   その後働く女性をターゲットにした番組を担当しました。 自分の心から生まれた、その人の本当の言葉を聞きたいという思いが募ってきて、そういう場を持ちたいと思って、ラジオ深夜便はアンカーの自由裁量が利いていて、自分のやりたいことにテーマを絞って番組を出すことができる、そういう意味で私は「列島縦断女の暮らし」というタイトルで、女性たちの言葉を聞かせてもらいたいなという事でラジオ深夜便を希望して放送担当することになりました。  

午前3時台の「日本の歌 心の歌」の特集が昭和初期の歌の特集でした。   敬称略の歌手名紹介をしてしまったら、敬称を付けないとは何事だという手紙などが一杯来ました。   賛成の方もいましたが。  私の時代までは敬称略が普通でしたので、東海林太郎、藤山一郎って呼んでいました。   調べてみると歴史上の人物、有名人とかは、敬称略が原則であるとなっていました。   その件を話して、ご意見をお寄せくださいと番組の中で言いました。   深夜の番組なので5,6通ぐらいかなと思ったら敬称問題だけで195通も来ました。   敬称略に賛成が141通、どうでもいいという人が19通、反対が35通でした。 反対意見を述べてもう受信料は払わないというようなご意見もありました。   歌が自分の記憶と結びついて大切に胸にしまっておくものなので、その歌を歌っている歌手の名前に「さん」を付けないのは、自分の思い出の中に土足で踏み込まれるような気持がするんです、という手紙を頂いて、確かにそうだなあと思いましたが、どちらに決めなければいけないと思いました。  当時は「さん」を付ける方もいれば付けないアンカーの方もいました。  言葉というのは時代と共に変わってゆくものです。  「列島縦断女の暮らし」はほぼ私が望んだとおりに放送することが出来ました。  

「列島縦断女の暮らし」のなかでの山形の阿部敬子さんと再会しました。    毎日農業記録賞の最優秀賞を取った作文が新聞に載っていました。  傑作でした。 案の定本当に面白い人でした。  放送のなかで方言を話し続ける人って本当に少ないんです。   栃木のカワセミさん(あだ名)、峰岸信之さん  この人は毎月カワセミの決定的な写真を送ってくださいました。   私は岡山に出張した時に生まれて初めて生カワセミを見ました。  本当に綺麗だったので、その感動を放送しました。  そうしたら峰岸さんから手紙が来て、写真を送ってきていただきました。  家の裏の池にカワセミが飛来するそうで、滅多やたらと撮れない写真、1万枚撮ったなかの数枚のなかの1枚、1/8000秒の瞬間をとらえたものを送ってくださいました。 大きな魚をくわえている瞬間の写真です。   感激しました。  言葉でその状況を細かく説明しました。  カワセミさんのコーナーが出来てしまいました。   カワセミさんは国指定の難病が判明したのが48歳の時だったそうです。    その時に余命1,2年と言われたそうです。   かれこれ20年生き延びています。   写真を紹介していただくのが生き甲斐ですという手紙を頂きました。     2000年3月辞めるまでは続きましたが、業務命令で昼間のラジオに変更になり、そこでもカワセミのコーナー続けました。   その番組を降番する2004年までトータル5年間カワセミさんのコーナー続きました。  その後峰岸さんはカワセミの写真展を開催しました。  翌年2005年71歳で亡くなられました。    悔いのない人生だったのではないかと思いす。  写真を集めた本も出されています。   特に峰岸さんの手紙のなかの「求愛給餌」、その瞬間の写真、に感動しました。  

「列島縦断女の暮らし」の最終回には石垣りんさんに登場していただきました。   日本興業銀行に事務員として就職。以来定年まで勤務し、戦前、戦中、戦後と家族の生活を支えました。  そういった中で詩を書き続けました。  働く女性にとっては胸に染みる詩が多いと思います。  半身不随になった父親と4人目の母親と職のない弟たちと狭い家に暮らして、逃げ出したいと思っていたけれど、今振り返るとああやって愛し合ったり憎み合ったり、言いたいことを言い合ったりしていたあの暮らしが幸せだったのかもしれない、結局生きるという事はそういう事かもしれませんね、とおっしゃいました。  番組に来たのが80歳の時でしたが若々しく帰ってゆく姿を見ました。   私も頑張ろうと思いました。