2021年8月24日火曜日

やべみつのり(絵本・紙芝居作家)     ・「ぼくのお父さん」はぼく

 やべみつのり(絵本・紙芝居作家)     ・「ぼくのお父さん」はぼく

1942年大阪生まれ、1歳からは父親の故郷である岡山県倉敷市で育ちました。   高校卒業後広島の自動車メーカー(当時の東洋工業 現在のマツダ)に就職、宣伝部に配属されカタログやポスター、パンフレットの制作などに当たりました。  23歳の時、知り合いを頼って上京、イラストレーターとして活動をはじめますが、行き詰まってしまい、そのころであった奥様との間に生まれた2人の子育てをしながら、造形教室を16年間主催、その後は各地で造形遊びや、紙芝居作りのワークショップを開いてきました。   実はやべさんの息子さんは手塚治虫文化賞短編賞を受賞した「大家さんと僕」の作者であり、お笑いコンビ「カラテカ」の矢部太郎さんです。   今年6月に出版された「ぼくのお父さん」は太郎さんが父親であるやべみつのりさんを描いた家族漫画です。   すでに10万部を超えるベストセラーになっています。   子供を見守りながら同じ目線であそんでのびのびと子供と向き合って来たやべみつのりさんに伺いました。 

紙芝居をリモートでやることはもどかしかったですが、学生はそれなりに伝わったよと言っていました。   紙芝居は日本で生まれました。  1930年ごろと言われています。    2030年には紙芝居がちょうど100年になります。   紙芝居文化推進協議会というのがありまして、副会長を担当しています。 

*お笑いコンビ「カラテカ」の矢部太郎さん、「大家さんと僕」で受賞されて漫画家としても活躍されていて、今年になって「ぼくのお父さん」を出版されました。  

太郎は1977年生まれですが、僕にとっていろんなことがあった時で、漫画の中で時間が戻れるという気がします。  造形教室をやってくれないかと頼まれたことがありました。  それがきっかけで四谷で始めました。   子育てをしたという事には僕にはちょっと違和感があります。   

倉敷市の小さなお寺で育ちました。  楽しかったのは街頭紙芝居で夢中で見ていました。 悲恋ものなどドキドキしながら見ていました。  子供は6人だったので母親も大変だったと思います。  母親の目を自分に向けさせたいのでコメの中に泥を入れたりしていたずらもしました。  壁とか土壌に絵を描いたりしていました。  中学では校内マラソンがありましたが、いつも最後まで走れなくて歩いていました。  夕暮れに練習をして、走ったら2番になってしまいました。   それが自信になった最初でした。  高校の頃は陸上部のキャプテンをして高校駅伝に出たりしました。   岡山工業高校では技術工芸科があり、そこに入りました。   当時の東洋工業(現在のマツダ)は初任給が一番良かったのでそこに就職することになりました。   宣伝部に配属されました。  子供が工場見学に来た時に渡す、車が出来るまでの冊子など力を入れてやりました。   会社の寮にいたのであまりお金は使わないので、さっさと家にお金を仕送っていました。  

小説家の庄司薫さんとの出会いがありました。  ドラマに感動して大きなクジラの絵を描いてNHKに送って、作者に届けてほしいという事をしてしまいました。  手紙が来て東京に来ることがあったら連絡してください、とありました。   ほかの人との出会いもあるなかで東京に行くことにしました。   庄司薫さんと一緒にいろいろなところへ連れて行ってもらい仕事の斡旋をして貰いました。    仕事に行き詰っていたころに、妻となる人との出会いがありました。   「ぼくのお父さん」に描かれているように、結婚して子供が生まれて父親になって、育児日記を夢中になって書きました。  毎年手造りの絵本を子供にプレゼントしました。   3歳目が「かばさん」という絵本になりました。  1977年はエポックの年で、太郎が生まれたし、造形教室を始めたのも同じ年でした。  東京保育所を訪ねたのも同じとして、山崎さんという所長さんがいて、大家さんに出会ったような感じでした。  子供を見るということはどういうことかと言う事を教わりました。  子供が教えてくれるでしょうといわれました。  

山崎さんが退職することになって、何かプレゼントをしたいと思って、山崎さんのことを紙芝居にしたいと思った。   「おしいれのぼうけん」などを書いた田畑精一さんが、たまたま山崎さんの原画を描いたものを見る機会があり、それをきっかけにして紙芝居が生まれ、絵本が生まれて行きました。  「ひとはなくもの」という絵本は孫との共作になります。   この絵本は中国とベトナムに出版されることが決まって居ます。   下手上手いではなく、自分の絵を描きたいですね。