2021年8月20日金曜日

堀口雅子(産婦人科医)          ・女性医師の道を切り拓いて

堀口雅子(産婦人科医)          ・女性医師の道を切り拓いて 

堀口雅子さん、91歳。  女だからと理由で何度も自分の望む道を閉ざされそうになりながらも、女性医師のパイオニアとして医療現場の先頭に立って道を切り開いてきました。    東京大学医学部産婦人科教室の女性初の医局員、虎の門病院産婦人科医長などを歴任し、現在は性と健康を考える女性専門家の会の名誉会長も務めています。   91歳の今も現役で月2回の診療を続け、最大の理解者産婦人科医で夫の貞夫さん(88歳)との179歳コンビで10代の性教育や更年期障害などに関する執筆活動などにも取り組んでいます。   60年余りにわたってどう言う風に女性医師の道を切り開き、働く女性、働く母のための医療に寄り添って来たのか伺いました。

私は本屋の娘です。  両親は出版に関する視察でヨーロッパに行き1年余り海外生活を送ったせいか、ああしろこうしろとは一切言いませんでした。  母はいつも私の背中を押してくれました。  私は小さいころ体が弱くて、立派な先生や看護師さんにお世話になり、将来お医者さんになりたいという思いが強かったんです。  戦争が終わって医師が沢山帰ってきて女の人では医師になれないといわれました。   一度はあきらめて薬学部に進学しました。 東大の薬学部でホルモンの研究をしていました。  20代の後半になって群馬大学の医学部を受験して、女性は入れないなんて言われましたが、結果的には入れました。  60人中女性は3人でした。   女性用トイレなどなくて、いろんな開拓が必要でした。  馬術部に入りったかったが駄目だといわれたが、押し切って入り部長までやりました。  卒業が30歳でした。   5人兄弟でしたが、それぞれ違う道に進みました。

インターンは家の近くに東京逓信病院があり1年間やりました。   最初は女は駄目だという事で断られましたが、東大の産婦人科の教授の娘が行くという事で女性一人では都合が悪いという事で結局3人の女性が初めていく事になりました。  1年ほど勉強して地方の病院に派遣されますが、女性は当直室がないとかで駄目でしたが、いろいろ開拓していきました。   今までは男性の医師だったので恥ずかしかったが、女性の医師だと嬉しいと言ってくれた患者さんがいました。  女性医師第一号荻野 吟子の本も一生懸命読みました。 

結婚は38歳で、夫は3つ下でした。(医局では先輩)   39歳で長男、41歳で次男を生みました。  二人とも夫が取り上げてくれました。   保育園でお世話になったので、虎の門病院の院内保育園の設立には尽力することにしました。    子供を通して得たものをお母さん達に返せるという事はいろいろあったと思います。   働きながら生きてゆくには、何のために仕事をするのか、はっきりした信念を持つことが大事で、人間性があわない人とは距離をとって心おだやかに接してゆく、仕事をやる事によって人間性を高めてゆく、という事だと思います。  

女性の一生のうちに起こる身体の変化、心の変化は男性にないものだと思います。    まず患者さんのお話を聞き和ませます。   閉経の前後10年ぐらいに体と心の変化があります。 それを更年期と言います。   老齢期に向かっての準備期間で、大事なステップです。  女性ホルモンが減って行って体に変化が起きてきます。  心と体の調整が必要です。  産婦人科の先生、看護師さんとの交友関係を作っておくことが大事です。  

夫は4万人ぐらいを取り上げたと言っています。   10代の性教育の問題も随分一所懸命やりました。  NHKのテレビ、ラジオに出たり、新聞などにも書きました。  

私は祖父母に預けられて、父と母は1年間ヨーロッパへ行って過ごしました。  向こうで妹が生まれて、妊娠、出産が日本とは全然違っていました。  健康のためにスイミングをやっています。(コロナ禍では散歩)   朝食は夫が作って夜は私が作ります。    今の楽しみは昔もやっていたヴァイオリンです。  私が取り上げた赤ちゃんがピアノの先生をやっていて、私のヴァイオリンと一緒にやりましょうという事になりました。     未来に向かって夢を持ってもしょうがないから、現在を楽しく生きてゆくという事でしょうか。