2021年8月12日木曜日

後藤文雄(カトリック吉祥寺教会神父)  ・【戦争・平和インタビュー】学校づくりは希望づくり

後藤文雄(カトリック吉祥寺教会神父)  ・【戦争・平和インタビュー】学校づくりは希望づくり ~軍国教育の後悔を、カンボジアの未来に託して~

後藤さんは昭和4年生まれ、現在91歳。  ポルポト政権によって170万人以上の命が奪われたといわれるカンボジアから14人の子供を里子として引き取り、育て上げました。   そのなかで里子のブン・ランさんとの出会いが、後藤さんの正しい教育への思いを突き動かしました。   1995年からランさんと一緒にカンボジアに小学校の建設をはじめ、これまでに19校もの学校を建てました。  後藤さんの活動の根本にあったのは、ご自身の第二次世界大戦の経験です。   1945年中学生の時に、長岡空襲を受け家族を亡くしました。  どうして自分だけが生き残ったのかとか考える中で神父となり、カンボジアと出会いました。  かつて軍国教育によって洗脳されていたと振り返るご自身の戦争体験やカンボジアを通して感じた教育の重要性、平和への思いを伺いました。

カンボジアから14人の子供を里子として引き取り、育て上げた結果、カンボジアに行ってみようと思って行って、あまりにもひどい状態の中で、興味があるのが教育なので、何かお手伝いする気持ちになりました。   最初は19校も作る気持ちはなかったんですが。    僕は長岡の出身なんですが、長岡には「米百表」の話があります。  長岡藩の藩士小林虎三郎の教えは子供の時から聞いていましたが、あの教えが具体化されたのではないかと思います。   長岡も戊辰戦争の時に賊軍に回って町中焼かれて、何もなくなった時に隣りの長岡藩の支藩三根山藩からお見舞いの米百俵が来て、それを食べようという事になるが、小林虎三郎が「食べたら今日一日で終わる、我慢してこの百俵をお金に換えて学校を作ろう」という精神があった。  そんなことを思い出しながらお手伝いしようという気になりました。  小学校の竣工式には必ず「米百表」の話をしました。  僕が小学校に上がったのは昭和11年、太平洋戦争が始まったのは昭和16年で6年生でしたが、そのころに「米百表」の話を聞きました。  

僕は愛国少年でしたが、それも教育でしょう。  ゆくゆくは「天皇陛下万歳」で死んでいってもいいと思っていました。  いかに間違っていたかという事に気が付きますが、それも教育です。  カンボジアに行ったときにポルポトが教育していたものが目の前に現れたわけです。  立て直すために何としてもお手伝いしようと思ったわけです。   平和を作るためにはまずは教育だと思います。  しっかりした教育があったらポルポトをストップできたと思います。  無我夢中で学校つくりをやりました。

1945年長岡で或る日空襲で突然家族を失い、家を失い、すべてを失いわが身一つでどう生きていいかわからなかった。  大やけどをして死んでいった母や弟の遺体を目の前で焼くわけです。  その体験を思い出すと今でもぞっとします。   母の遺体を米俵にくるんで大八車に乗せて運んでゆくんですが、死体が腐って来て悪臭がするんです。  その時は無我夢中でした。  旧制中学4年生でしたが、鬼畜米英やっつけろと敵愾心のなかでしたが、或る日突然家族を失うわけです。   戦争は絶対に認められません、許せません。  76年前のことですが、鮮明に残っています。  

カンボジアではお坊さんが学校作って先生をやりますが、或るお寺のお坊さんが自分には力がないし、学校は焼かれてしまっていて、寺の境内に学校を作ってくれないかという事で、お手伝いしようという事になりました。  

1979年からカンボジアでは難民が出始め、日本に難民の子供たちが来ました。    どこにも引き取り手のない子供が二人いて、助けてくれないかという事を難民本部を通して私のところに話が来ました。   日本語も話せない二人を引き取って一緒に生活を始めました。  最終的には男10人女4人となりました。   最初は言葉が出来ないので意思の疎通が出来なくて苦労しましたが、結果としてはとっても楽しかった。  1981年から里子を引き受けてきて40年ほど前になります。  お弁当のおかずも僕が作りましたが、朝おかずがないんです。  夜お腹がすいてお弁当のおかずをみんな食っちゃうんです。  その時は日の丸弁当(ご飯に梅干だけ)です。  そういったこともあったけど楽しかったです。

ランさんはポルポトの少年兵にさせられていて、少年兵は普段しゃべってはいけないことになっていて、成長期に声を出さなかったんです。  ですから声が出ないんです。  ランさんは母親が王族出身なんです。  父親は陸軍中将だったんです。  ポルポトは高級職業軍人をだまして集める。  国の再建のためにはあなた方の力が必要だと、呼び集めてきて全部殺したんです。   たまたまランさんがいない時に両親はいなくなって、両親が生存しているのかいないのかわからないんです。  私のところに来て何年か経った後に、おかしくなって部屋を真っ暗にした廃人みたいでした。  どうしたんだと言ったら、「僕は人を殺している」と、私は「戦争の時には仕方ないのではないか」といったんです。  弾薬庫と食糧庫をねらって衛兵をナイフで、3人のベトナム兵を殺して奪って来たといったんです。  上の命令に従わないと自分が殺されるという事で切ない思いだったと思います。  彼が言うには殺された方がよかったと言ってるんです。    ランさんは上官を殺しているんです。  その上の上官からその上官を殺すように命令されているんです。   彼はこれらの問題を死ぬまで持ち続けて行くんだろうなあと思います。   これは彼だけの問題ではなく戦争に行って残虐を経験する人たちの問題でしょうね。  

カンボジアに行って学校を作る時に、お前が殺したベトナムの若い兵士がもし生きていたら、やったであろういいことを、お前が今度償いしてやりなさいと、そこと学校つくりが結びつくわけです。   学校つくりを僕と一緒にやろうという事になります。   平和な日本で暮らしているうちに自責の念がわいてきたんだろうと思います。  彼の心にいまだに残っているかもしれません。  

私はずーっと被害者だと思っていましたが、加害者でもあったんです。  捕虜のアメリカ兵に石をぶつけたり、兵器工場で働いて兵器産業に加担して、そういう意味では私は加害者なんです。  戦争は本当に愚かなことで、決して正しい戦争なんて言うものはないです。世界中の人たちがどうやったら平和が作れるのか、もう一度真剣に考えてほしいと思います。   ポルポト時代の残酷な体験を彼らはしていて、彼らと深くかかわろうと思ったのは自分の体験と重なったことかもしれません。   

1994年にランにカンボジアに行ったことがないから一緒に行きたいので案内してほしいと、彼に連れて行ってもらいました。  そのときにお坊さんから学校を作るのに協力してほしいといわれました。  ポルポト政権は終わりましたが、残党はいっぱいいました。   最初に見た時にはこれは学校かと吃驚しました。   先生、医者など知識人はみんな殺されました。  先生の資格もない人が先生をやっていました。   資金的な裏付けがないまま安請け合いした。   最初の2,3校は溜めてきた貯金で対応しました。  金がなくなり相談してNPOを作りました。   学校建設は19校まで行きました。  ランは現場監督から仕入れから全部やりました。   彼は生き生きと学校つくりをしていました。 ランの助けが無かったら私は何もできなかったと思います。   村の人たち子供たちは本当に喜びました。 

今、ランは19校のメンテナンスを担当してやっていて、彼にすべて任せています。  若い人たちには絶望してはいけないとおもう、絶望は一切関係を断つので、絶望さえしなければ少しでも良くなる可能性があるわけです。  希望をもってその希望を具体化してゆく努力を重ねなければいけないし、自分の隣人を大切にすることだと思います。