2020年8月5日水曜日

瀧澤正治(映画監督)           ・「最後のごぜ」がのこしたもの

瀧澤正治(映画監督)           ・「最後のごぜ」がのこしたもの
瀧澤さんは東京生まれの71歳、今月から公開されるごぜを制作しました。
この映画は最後のごぜと言いわれた盲目の女旅芸人小林ハルさんの生涯を描いたもので構想から完成まで17年の歳月を費やしました。
ことしはハルさんの生誕120年にあたります。
この節目に瀧澤さんが伝えたかったものとは何なのでしょうか。

ごぜさんというのは日本全国に存在していて、平安から始まって明治、大正、昭和の中期まで居て、小林ハルさんというのは最後まで歌っていたということで最後のごぜと言われています。
視覚に障害を持つ方たちは按摩さんなり、鍼師なりごぜと職業があったんですが、ハルさんも最初は鍼師になるような流れもあったらしいが、鍼師の先生が飲むと非常に怖い先生に恋慕して、ハルさんはごぜさんに流れた見たいです。
ごぜさんは歌を歌う、浄瑠璃、浪曲を含めてその時代に合った演目を選んで歌っていた。
一年を通してほとんど巡業だったようです。
新潟に大きな組織があり500~1000人規模でした。
山に中の小さな村まで行きました。
そこでは情報をもたらす役割もありました。
ごぜさんが来るというと楽しみにしていたようです。

小林ハルさんに実際にあった方から聞くと背筋がぞくっと来るぐらいに突き刺さるような歌声だったそうです。
非常に人に対して丁寧で優しくて思いやりが深いということをお聞きしました。
生まれて3か月で白内障にかかって視力がなくなってしまって目が見えなくなってしまって、ごぜさんになったといわれています。
新潟の三条市生まれです。
105歳まで生きた方です。
50歳後半で撮った映画で2003年に公開しているときに、次の作品は何かないかなあと思いながらTVのスイッチを入れたらハルさんの番組でした。
こんなに苦労しても普通に人に対して優しいのか、どうしてやり返さないのか、神様とか助ける人はいないのかと思いました。
民族学者の佐久間惇一さんという方がハルさんを見つけ出して世に出したんですね。

昭和53年ごぜの伝承者として国の無形文化財に指定されました。
苦労が帳消しになって、素晴らしいハルさんに感動してしまって、自分で作れるかどうかわからないが自分で作ってみようと思ってそれから頑張ってきました。
視覚障碍者なので昔ですのでいろんな方からいじめを受けたことがありますが、ハルさんの場合はやっといい人に出会ったのに亡くなってしまって、又何年かしていい人に出会ったのに又亡くなってしまう。
つらい出会いと別れがあって、ごぜの同業者からもハルさんは本当にうんと苦労をしているんですよと言っていました。
それを乗り越えてくる力とは何なのかと思って、そういう部分も映画にしたいと思いました。
ハルさんの家は庄屋まではいかないがいい家で生まれ何不自由なく暮らしてきて、母親は独り立ちのために5歳のころから礼儀作法を厳しく躾けました。
ご飯の食べ方、躾け、着物の着方、たたみ方、荷造りなどすべてに関して厳しく教えたそうです。
それは娘に対する親の強い愛情を僕は感じました。
8歳で旅に出ることになり、ついたフジ親方はお金目当てで意地悪してあきらめさせようとしたらしいです。
新潟から巡業で険しい峠をこえて福島まで行って、又帰ってくる旅で、ハルさんに言わせると一番つらくて思い出したくない旅だったといったそうです。
15歳の時に親方と別れてサワ親方のところに行って自分の娘のようにかわいがって旅に行きます。
学校も行っていないのですが、親方が「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行」、ということでごぜさんの心というか愛を教えてあげてゆくんですね。
ハルさんのご霊前の前で必ず映画を作りますからと、自分の中で誓いを立てて17年間かかりましたが、それは無駄のない時間でした。
ハルさんの大事にしている言葉なんですが、「難儀をすることが本当の仕事」という言葉があり、くじけそうになった時に励みになって17年過ごしました。
「苦は楽の種」とも言っています。
苦と楽は表裏一体で苦があるから楽を感じるし、楽だったら何もないんじゃないかと思いますし、だから人生は面白いんだと思います。
映画の資金が必要で10年たってこのままではいかんと思った時に、大林 宣彦督が最初の映画の時にぼうし?(奉仕?聞き取れず)ドラマを作ったので、6年前に自分でもやってみようと思いました。
それをラジオドラマにも分けて、やったらリスナーからの励ましの手紙がありました。
斎藤真一さんというごぜさんの絵を描いた人がいて、その絵をどんどん買って退職金でも又買って、それを高田市に寄付している人がいるんです。
それを聞いて、自分の思い、夢を現実にするには自分を犠牲にするものがないといけないと思って、自分の家と土地を売って製作費にあてて動こうと思ってとやっているうちに、周りからの支援も加わりました。

私は東京生まれで、小さいころから映画が好きでした。
父親が映画好きでした。
父親とよく見に行きました。
中学に入って映画研究部に入りました。
8mm映写機が欲しくていろんなバイトをして8㎜映写機を買って自分で物語を作ってやっていたりしました。
そのころから監督になってみたいと思いました。
1980年にCMを作る映画会社に入りました。
「運動靴と赤い金魚」という映画を観て予算は少ないのに、人の心を揺るがすような映画が作れるのかと、こんな映画を作りたいと思いました。
なんともない日常ですが、人の心を揺るがすようなハラハラドキドキ演出ができるのかと思いました。
「ベースボールキッズ」を読んだ時にスポーツマンシップという言葉が原作にあり、そういう思いの少年野球「ベースボールキッズ」という映画を作りました。
メガホンを取った映画はごぜは2本目の映画です。
慈しみという言葉が好きで、私の一貫したテーマです。
ハルさんのお母さんが教える、「人を恨んでは駄目だ、人を区別しては駄目だ、うらやましがったら駄目だ」、ということを目が見えないハルさんに教えていって、ハルさんはその教えを純に守り通すんです。
ハルさんの苦労話ではなくて、けなげに生きてきた力を僕は感じてもらいたい。
力の源は人の夢とかにつながると思います。
「夢無き者に理想無し、理想無き者に計画無し、計画無き者に実行無し、実行無き者に成功無し」という言葉があり、夢が原点で夢を自分の手でつかむには努力という力が必要で、ハルさんも人には見せない努力をしてきたと思います。
17年間というものは素晴らしい人生だと思います。