2020年8月20日木曜日

山根昭吉(大東町戦没者遺族会 海潮支部長)・遺骨に宿る望郷の思い~硫黄島遺骨収集を続けて~

 山根昭吉(大東町戦没者遺族会 海潮支部長)・遺骨に宿る望郷の思い~硫黄島遺骨収集を続けて~

山根さんは87歳、、父親が戦死した硫黄島での遺骨収集に7度参加し、213柱の遺骨を故郷に返してきました。   山根さんは硫黄島に眠る遺骨の数々にどのようなことを感じたのか、伺いました。

「天皇陛下万歳」と叫んで戦死した、こういうことを聞いていますが本当だろうか、恋人の名前、母への「お母さん」だと思います。   硫黄島の2万名のご遺骨は皆そうじゃないかと思います。

戦時中、昭和16年は幼い時で農作業の手伝いをしていました。

父が出征するときは小学校5年生で、私は長男で兄弟5人いました。

母は朝早くから働いて、夜も星が出るまで働いていました。 兄弟もできる事は手伝っていました。

村は模範村として島根県でも表彰された村で、ルーズベルト、チャーチルの等身大の藁人形が役場の前に設置されていて、青竹3本がありそれを突くようにという札がありみんな通る人が突いていたような時代です。

昭和19年に父が出征しますが、父は丙種合格で入隊しました。   3か月過ぎて、面会が許されて夜行列車で行って、母と一緒に行っていろいろな話、手紙にやり取りについてに示し合せのことも話ました。

任地よりはがきが届いていて、元気で暮らすようにとの内容で、点が打たれているものがあり点より二つ目の字を読めということで、「小笠原硫黄島」ということになります。

「さようなら」と最後に書いてあって不安に思いました。

暗号にする必要があったのは軍隊では任地を知らせるということは米軍、英軍に知られるといけないということでした。

はがき、手紙は一週間に一回は来ていて、母が返答を出していました。

その後父からの便りも途絶えてしまい、こちらからの手紙も帰ってきてしまいました。

昭和20年8月15日に隣の家に行って、ラジオを聞きに行きましたが、雑音が入っていてよくわからなかったが、どうも戦争に負けたそうだということでした。

どこかで生きているのではないかと思っていましたが、玉砕して死んでしまっていました。

名誉の戦死ということでしたが、子供ながらにも悔しくて仕方なかった。

平成11年67歳の時に初めて硫黄島に遺骨収集に行きましたが、母の88歳のお祝いをして、その時点でみんな社会人になったことを父に伝えたいということと、母が元気なうちに行こうと思って遺骨収集に行くことにしました。

入間基地の自衛隊の飛行機に乗ってわたりました。  お父さん迎えに来たよと感涙にむせんで般若心経を唱えるのにも涙で潤んでとぎれとぎれの般若心経でした。  お米、酒,お菓子、線香、写真、小さな石塔などお供え物を持っていきました。

艦砲射撃で蜂の巣のように大砲が撃ち込まれていて地獄の島なんです。

地下壕は火炎放射器で焦げた豪ばかりで蒸し焼きにされたんだと思いました。

20平方キロの島にに2万人がいまして、物凄い戦争でした。

遺骨収集だけではなく終わりごろには地下壕の調査班にも回りました。  爆破されているので全体として出る遺骨なんてないです。

白い布にくるんで持ち帰るわけですが、いつも涙が出てくるんです、これは行ったものでないとわからないと思います。

いつも噴火する島で今でも蒸気というか煙が出ている島で、凄く暑くて、どこへ行っても水がない島です。 そういうところで日本の兵隊さんは過ごされた。

食料は無し、弾は無し、本当に地獄の島なんです。

そういうところで玉砕された兵隊さんたちを思うと、いつも涙が出る、そういう島なんです。

7回続けて又ほかの人を迎えに行こう、こういう心ばかりで、あー自分は来てよかった,又いこうとこういう心がいつも帰るときには思いました。

何回行っても遺骨が出てくるんです。

硫黄島を語る会も今年が最後で閉じてしまいました。

歳をとってしまって作業が安全にできなくなってしまって遺骨取集の許可が出ません。

絶対に戦争は起こすな、二度と戦争はしてもらいたくないですね。  妻を思い、子供を思い、「天皇陛下万歳」と叫んで戦死された人は私には想像がつかないんです。  戦争資料には「天皇陛下万歳」と叫んで戦死したとこういうことを聞いていますが、それは本当だろうか、恋人の名前、母、だと思います、私の父もそうだったと思います、硫黄島の2万名のご遺骨もみなそうなんじゃないかと思います。