2020年8月21日金曜日

坂上多計二(旧海軍直営農場 小隊長)  ・私は日本兵を見殺しにした ~命の選別~

 坂上多計二(旧海軍直営農場 小隊長)  ・私は日本兵を見殺しにした ~命の選別~

坂上さんは太平洋戦争の末期フィリピンミンダナオ島にいました。  旧海軍の農場で食料を生産する任務に就いていたのです。   相次ぐ機銃掃射や砲撃の野戦病院で目の当たりにした命の選別作業、逃げ込んだジャングルでは激しい飢えに苦しみ坂上さんの命に対する感覚は次第に麻痺していきます。    そして坂上さんは自らも日本兵を見殺しにするという命の選別を行うことになります。 95歳の今も全国各地で体験を語り続ける坂上さんに伺いました。

本当の生き地獄体験をしました。    アメリカ軍はレイテ、ルソン島を取ってミンダナオ島に来ました。   アメリカとしては戦略的な意味はなかったです、フィリピンから日本兵を追い出すために来ました。

第103軍需部タバオ支部の海軍直営農場にいました。   野菜、いも、とうもろこし、鶏卵などを採っていました。     農場を作って自給自足をしていました。

小隊長で農作業の指導をしていました。 部下は30人ぐらいいました。

危険なときもあり、破裂した小さい破片が刺さったこともあります。

即死状態の人もいました。

重傷者を担架で野戦病院に連れて行きました。 野戦病院は2時間ぐらい後方にありました。

通り道にはアメリカ軍がくることを予想して、照射してくるわけですから命がけの運搬でした。

重傷者にはガンバレと励ましてゆくしかなかった。

軍医がでてきて、最初の言葉に吃驚しました、「あと2,3時間したら死ぬから治療はしない、ここでは死体の始末はできないのでお前が連れて帰って自分たちで始末をしろ」と言われました。

奥さん、子供がいるから何とか治療をしてほしいといったが、駄目は駄目だといわれました。     悔しくて悔しくて、これが日本の海軍病院かと思いました。

担架に乗せたまま連れて帰って、暗いから穴が掘れないので、寄せてかぶせてそれが埋葬です、本当に悔しかった。

戦場と化した農場をついに放棄して、小隊を率いて米は各々40kg、塩を瓶に入れジャングルに25名程度の人数で逃げました。

山地族の生活していた跡地を見つけて生活をするようにしました。

サツマイモの蔓があり、2班に分けて片道2日をかけてサツマイモの蔓を2,3回取りに行くことをやりましたが、辞めました。

トカゲ、蛇、猿も食べました。

段々痩せていきますが、骨と皮だけのようになっても死にません、塩がなくなると身体が膨らんできます、水膨れになったらアウトです。

明けても暮れても食べ物のことしか頭になくて、アメリカ兵が怖いとかなかったです。

兎に角何か食べ物を探さないといけなかった。

死体にはウジが湧き白い歯、白い眼のように見え、息が切れれば我々もこんなになるんだと思いました。  地獄はこれだと思いました。

或る日、小屋で休んでいたら、隊長誰か来てますというものだから行きましたら、弱った日本兵が一人俺を此処に泊めてくれというものだから、駄目だ、泊める余裕がないから駄目だと追い出しました。

隊員も水膨れして毎日のように死んで行ったりしているので、隊員のことしか頭にはありませんでしたので、他人の面倒を見るというような余裕はなかったです。

翌日小屋から少し離れたところで死んでいました。  写真が2,3枚あり子供二人と奥さんの写真で家族のことを思いながら死んでいったんだなあと思いました。

極限の状態での判断だったと思います。 これが生き地獄だと思います。

戦争というものは人間を鬼にします、どんなに立派なことを両親から習っても戦争の場になれば鬼になります、地獄を体験したということをしょっちゅういうのはそういうことです、地獄の中にいれば人間は人間ではなくて鬼です、それが戦争です。

生きている限り伝えていきたいと思っています。

結婚して長く子供が生まれなくて、断った兵隊の罰が当たったんだと長い間考えていましたが、ようやく子供が生まれたときには色紙に子供の手型と足型をとりまして、今も床の間に飾っています、これは一生忘れてはいけないということで飾ってあるわけです。

戦争を起こさないためには命を大事にするということです。

命は連綿としてつながっているということを知ってほしいと思います。