2019年8月15日木曜日

田中稔子(七宝焼きアーティスト)     ・【戦争・平和インタビュー】(4)次の世代へ種を蒔くヒバクシャ

田中稔子(七宝焼きアーティスト)  ・【戦争・平和インタビュー】(4)次の世代へ種を蒔くヒバクシャ
田中稔子さんは金属にガラスや釉薬を焼き付ける工芸、七宝焼きのアーティストです。
昭和13年生まれの80歳、広島に原爆が落とされた昭和20年8月6日、当時6歳だった田中さんは爆心地からおよそ2kmの場所で国民学校に向かう途中で被爆しました。
その後被爆の後遺症に悩まされながら結婚、子育てをしながら田中さんは29歳の時に七宝焼きに出会います。
被爆体験を家族にさえも語ることなく、平和のメッセージを七宝焼きの作品に込めてきました。
田中さんは広島市の自宅の一階を改築し、外国人旅行者や、日本人の若者などが気軽に集まれる交流スペースを作りました。
海外から広島を訪れる人が増える中で、多くの人が出会い楽しく話をする中で被爆についても学んでもらえればと考えています。
あの日何が起きたかを多くの若い世代に伝えること、平和のメッセージを込めた作品をつくり、今も精力的に取り組む田中さんに伺いました。

平和を願う七宝焼きの作品の構想段階です。
スケッチが何枚もあります。
七宝焼きは金属にガラスを高温で焼き付けた工芸品です。
安土桃山時代に来て、日本の特産品になりました。
絵で描くよりも立体感があり輝いています。
アクセサリーだけではなく様々な作品を作っています。
額に入った縦横40cmの作品、真珠のような輝きがあり鳩が飛んでいて、右下に小さな原爆ドームがあります。
キノコ雲も怪しく見えてくる。
30km以上離れたところまで放射能が広がってゆく怖さがあります。
風を受けて死んでゆくという恐ろしさがありました。
普段は畳一畳ぐらいのサイズです。(2m×1m)
高さが5mぐらいの屋外に展示してある立体作品もあります。
表現してゆこうとすると、どうしても大きくなってしまいます。
生き残った者の一つの責任のようなものを感じていて、命がある限りはメッセージを残していきたいと思っています。

ずーっと話したくなくて70歳ぐらいになって家族に話したんですが、昭和20年8月6日の朝8時15分学校に行く途中でした。
加古町(今の平和公園のあるところ)で軍用旅館をしていましたが、強制疎開があり7月30日に急遽親戚の家に家が変わりました。
朝友達を待って団体で登校しました。
敵機が来たという事で空を見上げたら、物凄い光線が襲ってきました。
顔を右手で覆ったら、右手、頭、左首をやけどしていたが、瞬間には痛みなど感じなかった。
周りは真っ白になって全然見えませんでした。
桜の大木があったが、根が上にしてひっくり返っていました。(あとで見たが)
自分でも相当飛ばされたものと思っていたが、全然思い出せませんでした。
鈍い音を立てて熱い砂ぼこりが体を覆たんですが、それがどうもキノコ雲の正体だったようです。
遠くから見るとキノコ雲ですが、直下にいたので口の中に砂ぼこりがいっぱい入って、ジャリジャリとした嫌な感覚が残っています。
周りが真っ暗になりました。(太陽が隠されて)
三輪さんの台所が壊れて水が桶に残っていました。
やけどのあたりが物凄く痛くなったのでやけどに水をけけていたら、すごい水ぶくれができて、痛さを何とかこらえながらやっと家に帰ってきたが、家はめちゃめちゃに壊れていました。

母はトイレに入った途端に壁が倒れてきて、青い熱線が音を立てて頬をかすめたそうで、母には当たらなかった、もし当たっていたら母は死んでいました。
妹が4歳でしたが、窓ガラスが飛んできて額に深い切り傷を負っていました。
もう一人の妹は布団に寝かされていて、たまたま家に来ていた人が爆風が来た途端に布団をかけてくれたそうです。
それで下の妹は無傷で助かりました。
その後街の方からたくさんの人が逃げてきました。
安田女学校の生徒が半分服が焼けて裸の状態で泣きながら逃げてきました。
爆心に近い遠くから来た人は被爆が酷く声を出す力もなく、手を前に出して誰かが歩いているからついているという感じです。
なんで手を前にしているのかというと、大きいやけどをすると心臓の鼓動のたびに、ズキンズキンと激痛が走るんですね。
心臓よりもちょとだけ手を挙げるとなんか痛みが軽減されるような気がしました。
私もしばらくそうしていました。
その晩から人事不省になって、気を失ってから数日たって(何日間かわからない)、気が付いたら人を焼く嫌な臭いで満ち溢れていていました。
しかしそこで生活している人たちは慣れてわからなくなっていた。

身体がきつくてのどが腫れて微熱が出て、このままでは死ぬのではないかと思いました。
免疫力が落ちて口内炎ができて、治るとすぐ次ができました。
今でもうっかりすると腸から出血しますが、原因不明です。
骨も何か所か骨折しています。
6日前にもし引っ越していなかったら、骨もなかったと思います。
同じ小学校の同級生はみんな死んでしまって、骨もないです。
長い間何にも考えられないでいました、できるだけ逃げたかったので原爆を受けたことも言いませんでした。
2008年に折鶴プロジェクトがあり、被爆証言を世界に発信しようという公募がありました。
被爆証言をする語り部さんの人は一杯いました。
トルコで船が故障で止まって、4人ほど証言をする人たちが南米に派遣されたが、ここで話さないと船に乗った役目が果たせないと思いました。
向こうの国の高官、副大統領もにもあいまして、生き残ったんだから被爆証言する責任があるといわれました。
話すことはいいことなんだと思いました。

交流と証言で90か国ぐらいは回りました。
ニューヨークの人と船で知り合いになり「被爆者ストーリー」という会があるというので呼ばれて7年間、13回いって延べ4万人の人にお話をしたことがあります。
主に高等学校です。
みんな本当に真剣に聞いてくれました。
平和活動をするようになってから、「話すことが次の核兵器を使わせないための被爆者の話が一番有効な手段なんだ」と向こうの方に言われて胸に来ました。
作品も勢いそちらの方向に向かって、それからの作品はころっと変わっています。
作品は国、言葉を越えます
高齢になって世界を回って証言して歩くのは身体的にきつくなって、自宅を改築するにあたって、ギャラリーで作品を並べて交流したり、証言をする場所が作れたらと思いました。
テニスコート半分ぐらいで壁には私の作品が飾ってあります。
「ピース交流スペース」と名付けました。
心が休まる空間であればいいと思っています。

「交流ノート」を置いています、3994名になりますが、158名が外国から来た人です。
トルーマン大統領のお孫さんが来られたことがありますが、イリノイ州にトルーマン大統領の博物館がありお孫さんのダニエルさんが館長をしています。
原爆直後だったら許せるなんてとんでもないと思いましたが、来てみれば憎める人ではないし、その人が落としたわけでもないし、落とした人ももしかして命令されたら落としたかなあと、人種、国家が悪いのではなくて、戦争を起こした人たちが悪いんだということは判りました。
「おじいさんは本当に原爆を落として、罪の意識もなくてこれがあったからアメリカの兵隊を殺さないですんだと、本当にそう思っていたんですか」と聞いたら、おじいさんはちょっと後悔していたところもあるといっていたんです。
それを聞いてちょっとほっとしましたが。
トルーマン大統領は戦後、日本の政治家が行くまで日本人には一度もあったことがないそうです。
もし日本人の友人が一人でもいたら変わっていたかもしれない。
人間のナイーブな心の揺れが戦争に突き進めというのを防ぐのではないか。
それを大事にすることが必要かと思います。
相手の立場になる、共感力もできるという事です。
演劇の山田めいさんという若い方が来られて話を聞いていって、原爆劇をやるということで演劇で再現するのはあまり好きではないという話もしましたが、いろいろ駆使してうまくまとめてその演劇を見ることができましたが、心を打たれました。