2019年8月9日金曜日

岩谷湍(被爆者・元小学校教諭)      ・被爆の足跡をさがし続けて

岩谷湍(被爆者・元小学校教諭)      ・被爆の足跡をさがし続けて
長崎に原爆が投下されて今日で74年です。
岩谷さんは生後2か月の時に長崎で被爆しました。
被爆後両親を失った岩谷さんは祖母に育てられ、大学を卒業と同時にアメリカに渡り、いくつかの職業を経験しました。
34歳の時に帰国して東京で小学校の教員となり、校長まで勤めました。
岩谷さんは在職中から機会あるごとに被爆体験を語ってきましたが、当初感じていなかったもどかしさを次第に感じるようになってきました。
それは生後間もなく被爆したため、戦争や原爆について直接の記憶がなく、知っている事実も断片に過ぎないためでした。
家族はどうやって被爆して亡くなっていったのか、岩谷さんは事実を突き詰める作業を続けています。

昭和20年8月9日午前11時2分、生後2か月なので自分では覚えていないが、自宅で被爆したと聞いています。
7人、祖母、両親、兄弟4人でした。
祖母に育てられたので、主に祖母から聞いたことが多かったです。
戦前は大きな薬局を営んでいたといわれています。
母親は食事の用意をしていて、父は体を悪くしていて家にいたといわれています。
母はぴかっと光った瞬間に私の上に覆いかぶさって私を守ったと聞いています。
上の兄は中学2年生でしたが、軍需工場になっていて働いていて被爆したそうです。
次の兄が小学4年生で姉が小学3年生で当日は酢の配給の日だったそうで、銭湯に酢の配給に行っていたそうです。
銭湯の建物の下敷きになって動けなかったそうです。
父の親友が軍医でたまたま我が家に向かう途中で、壊れた銭湯のところで「助けて」という声が聞こえたそうです。
渾身の力を込めて材木をいくつかどけて引きずり出したら、親友の岩谷の子どもだったという事を、医院のその先生から直接高校時代に伺いました。

母親は実家との間を爆心地を通って何度も往復したらしいです。
放射能を浴びていたのではないかと思いますが、すぐに寝込んでしまって、私を抱きながら、私の名前を呼びながら亡くなって行ったという話を聞いています。
父親もその後寝込んで、病院に入院して亡くなったと兄から聞いています。
祖母が当時60歳で、兄弟 4人を育てるのは無理で、上の兄は母方の祖母に預けられ、二番目の兄は福岡県の叔母の家に預けられ、小学校3年の姉は横浜の叔母の家に預けられました。
私は祖母に育てられました。
二人だけでしたが、かわいがってくれて楽しかったです。
薬局を営みながら育ててくれました。
小学校の先生になりたいと漠然と思っていました。
しかし祖母をおいて長崎を出るわけにはいかなかった。
長崎の大学に入ることにしました。
祖母も被爆していましたので、大学に入るころ急に寝込むことが多くなりました。
祖母の介護をしながら大学に通うという事をするようになりました。
粗相をしたりするのを大学から帰ってから処理するとかやっていきました。
大学の近くに家を探して2年生の時に引っ越しました。(大学から2,3分のところ)
引っ越して10日目に他界してしまって、悲しくて悲しくて仕方なかった。

心無い親戚からはお前が無理やり引っ越しをさせたから死んだんだといわれて、自分のせいで死んだんだとずーっと思い込んでいました。
一人で住むことがつらくて、なかなか眠れるという事ができなかった。
友人たちがいろいろ助けてくれて大学卒業まではその家で過ごしました。
卒業するとすぐにアメリカに行くことを決めました。
中学時代に長崎の平和記念公園、爆心地の公園になどになぜか行っていて、アメリカの水兵たちが10人ぐらいで歓声を上げながら写真を撮っていて、それを見て非常に怒りを感じて、許せないという思いがして、どなってやりたかったが英語を話せないので、それができなくて英語をもうちょっと勉強すればいいと思っていました。
アメリカの宣教師の人と知り合って、英会話を教わるようになりました。
その方と親しくお付き合いをするようになって、アメリカへの憎しみが憧れみたいな感じに変わっていきました。
アメリカ人はどういう人間なのか見てみたいと思っていて、卒業と同時にアメリカに行きました。

その次の宣教師ともやり取りがあり、その方がその後オハイオ州で非行少年の更生への施設でプロジェクトを立ち上げました。
ベトナム戦争が激しい時で、子供たちが人を殺している大人たちを信じられなくなり子どもたちも暴力、麻薬などへと荒れていました。
更生の仕事を手伝うという事でアメリカに渡りました。
子どもたちは大人に対して心を開いて話すという事をしていなかった。
子どもたちの間に入って子どもたちの話を聞いてほしい、それがあなたの仕事だといわれました。
朝から晩まで子どもたちと話をしました。
日本人の彼が来てから確かに非行が減ってきているという事で、その仕事を始めて10か月後に地元の新聞社が取材にきました。
聞かれるままにいろいろ話をして、出身はと聞かれて、長崎というと原爆のことを質問されました。
両親は被爆がもとで亡くなってしまったという事も話しました。
戦争についてはいいことはなに一つない、憎むべきものだという事を話しました。
ベトナム戦争についても反対する発言をして、取材の内容が新聞に写真入りで大きく出ました。

感動してくれる人もいましたが、一部に彼は原爆で両親を殺されたから、仕返しに来ているんだとか、子供たちを集めて夜な夜な悪いことを教えているとか、そういううわさが広がりました。
あいつを追い出せとか、あいつを殺せというような声が出てきました。
ここにはいられないという事で、宣教師の彼は西に逃げて、私はニューヨークに着の身着のまま逃げていきました。
仕事を探さなければいけなくて、食べるためにはレストラン、特技を生かすためには日本レストランという事で30、40軒まわって、ようやく皿洗いでよければという事で雇ってもらって、皿洗いを一生懸命やりました。
店長から認められてウエーターになり、その仕事も一生懸命やりました。
お客さんの中に或るホテルのオーナーがいて、そのホテルのバーテンをやらないかとの誘いがありました。
経験がないが、一日目からカウンターを一人で任されました。

いい仕事をしていると引き抜かれるので、それを3,4度と繰り返して、ニューヨークに新しく全日制日本人学校ができるという話があり、そこにひょんなことから入ることになりました。
私は教師になることが夢だと話していましたが、私のアメリカの友人が私に内緒で応募してくれていました。
面接を受けて即採用という事になりました。
小学校の3年生を担当しましたが、25人ぐらいいました。
子どもたちと毎日楽しい生活をしましたが、半年しか持ちませんでした。
人数が足りなくて担任から事務長になり3年間やることになりました。(人が来たら教師に戻してもらえるという条件だったが)
日本に帰って教師になる手もあると思いつきました。
東京都の教員試験を受けて何とか受かることができて、日本に帰ってくる事とになりました。(37歳)
教頭試験を受けるように言われ合格して、その後校長試験を受けて受かりました。

校長になってから話す機会が多くなり、子供たちに戦争、家族の話などをしました。
PTA、ほかの学校などからも依頼があり話をするようになりました。
定年退職していろいろなところに行くようになって、話をしているうちに、祖母、叔父、叔母、兄弟から人から聞いた話であって、尾ひれがついて自分の想像が紛れ込んだり、母親を美化しているのではないかと疑問を持つようになりました。
一時話をやめようと決心しました。
やはり自分が話すとに意味が、意義があるのでないかと思うようになりました。
語り部が高齢になり話す人が少なくなってきました。

国立市が伝承者の育成プロジェクトを立ち上げました。
研修者に入れてほしいといいましたが断られてしまいました。
聴講生として認めてもらって一緒に勉強することができました。
長崎で被爆して2年前に亡くなりましたが、その方の話を聞く機会がありました。
その方と兄は知り合いで被爆したところも目と鼻の先でした。
その方との出会いで伝承者として話していこうという風に心の整理ができました。
被爆者としてではなく、伝承者として話していこうと思っています。
兄、姉にもっと詳しく話を聞くようにしたいと思いますが、兄は20数年前に亡くなり、姉はおととし亡くなり、二番目の兄は話したがらなかったが、詳しく聞くことができました。
できるだけ真実に近い話にしていこうと強く思っています。