2019年8月7日水曜日

井上佳子(長崎県立大学教授)       ・祖父の戦地日記をたどって

井上佳子(長崎県立大学教授)       ・祖父の戦地日記をたどって
井上富廣さんは昭和13年7月中国安徽省太湖で戦死、戦地に赴き47日目28歳でした。
墓には昭和13年7月中国安徽省太湖の戦いで戦死と刻まれています。
井上さんは中学生のころからこの文字を目にするたびに祖父が戦死した中国安徽省太湖はどんなところだろうと思いを巡らせていました。
富廣さんは20歳のころから心の日記をかかさず書いていました。
戦後70年の2015年祖母のつぎえさんのタンスから新たに富廣さんの戦地日記が見つかります。
井上さんは祖父富弘さんの戦地日記をたどり、中国を取材し、去年その体験をまとめました。
なお戦地日記は当時使われていた言葉がそのまま書かれているため、一部に差別的な表現が含まれています。
当時の状況を知っていただくためそのままお伝えします。

中国の太湖というところで亡くなったと書いてあって、太湖はどこなんだろうと中学のころからずーっと考えていました。
実家にあった日記は4冊4年分でした。
戦地に行っても書いていました。
日常を凄く細かに書いています。
当時読んですぐに何をしようと思った訳ではありませんでした。

井上佳子さんは大学を卒業後、地元の熊本放送に就職、水俣病、ハンセン病、戦争などについてドキュメンタリーを作ってきて、数々の賞を受賞しました。

なぜ国民と国は対立するのかなあというのは最初の疑問で、それから国というものを追いかけてきたような気がします。
日記の中で日本が国際連盟を脱退した時に松岡洋右が日本に帰ってくるときには祖父は喝さいを送っているんですね。
日記を読んで歴史と自分がつながったような気がしました。
戦地日記を見たときには、すべて行程をたどれるように細かくかかれていました。
時間から場所から書いてありました。
昭和13年6月10日に中国に向けて門司から出征しています。
その時に手紙に妻へのこととか子供へのこととかが細かく書かれている。
門司港からは200万人の出征兵士が大陸や南方に出征し、その半数が母国に帰ることはなかった。
6月14日上海に到着、船内で予防注射をすることなど、書かれていて妻に家を守ってくれということなどについて書かれている。
6月16日列車で南京へ行く中途の広い田んぼの景色など書かれている。
6月17日汚物だらけの臭い歩道に支那の人の食を求める姿、ここもまた哀れなる景かな。・・・。(攻略から半年後)
妻への手紙も出している。(支那の人々は家を壊され同情的な感情が書かれている。)
6月21日、段々戦場に近づいてくる。
6月23日、いよいよ行軍、山また山、足は痛いしこれはとても耐え得ないと思ったが、どうにか頑張った。
ここらは敵の死体累々と実に生々しい。
稲は田んぼに無心に伸び戦地の庭に感慨無量。
午後5時過ぎ足の豆と体力消耗についに倒れた。

私は調査のため戦争体験者、遺族など750人の方に手紙を出して帰ってきたのは1割でした。
多くは戦争を語らずに亡くなった人が多かったです。

7月3日、本部医務室小隊にもずいぶん患者が出て、軍医、少尉も忙しい様子。
十分な手当てができないことに同情することが書かれている。
食糧不足、やっとのことで南京米をかじって命をつないでいるという事。
漢口方面に進撃、これからが本当の戦争です、とますます厳しい状況になってきている。
暗がりの中で書いている。
7月22日、俸給17円4銭、栄枯盛衰、世の習い、敵全滅も近からん。
我が装衣また綻ばんとす。
昼食をすまし日記をしたたむ。 今日はインキ切れる。
つづる文字又哀れ、楽しい俸給もいただき故郷へのおくりば(方言)できぬかなあ。
7月27日に亡くなる。

その時の状況を戦友がのちに手紙で語ってくれました。
銃弾が頭に当たったという事でした。
祖父は衛生兵でした。
案内をしてくれた人は安徽師範大学の教授で日中戦争の調査研究を続けている方です。
戦跡があちこちに残っています。
揚子江をさかのぼって内陸に入ったところです。
中国の戦争体験者の方に話を聞きましたが、聞きづらいことでしたが、調査に来たという事で彼らも丁寧に語ってくれました。
80代後半の方がほとんどです。
日本人の加害性を語るのでどういう顔をしていいか判らなかった。

5月の或る日、日本兵2人がやってきて19歳と17歳の姉妹を麦畑で乱暴した。
私たち子どもはそれを観ました。
その姉は抵抗したので腹を銃で撃たれて殺されました。
それを子どもたちは見ているわけです。
私がインタビューをするとじろじろ見られるわけです。
日本人に対する怖いイメージがあったのかもしれないが、帰るときに日本人って中国人とあまり変わらないんですね、と言われて、手を握って離さなかったりとか、抱きしめたりたりとかそういう体験をしました。
沢山取材しましたがたくさんの人が亡くなっていて、記録しておいてよかったと思います。
この取材も2年前に放送しましたが、或る方はもう亡くなっていると思います。
記録できてよかったと思います。
祖父の番組を作るときに、祖父の体温を知りたいと思いました。(生きていた証)
暖かい部分、冷たい部分もあると思うので全部含めて体温だと思うので、それを祖父で感じることができて生きていたんだなと思いました。
中国の人と会って感じたことは思っていた以上に戦争の温度差があることを感じました。
そういったことを伝えないといけないと思いました。
戦争だけはしてはいけないと思います。