2018年9月1日土曜日

白井聡(政治学者)保阪正康(評論家)   ・対談「平成最後の夏に」~後編~

白井聡(政治学者)保阪正康(評論家)   ・対談「平成最後の夏に」~後編~

白井:平成になっても日本の社会構造というのは、戦前から引き継いでいる国体なるものが、いまだもって生きているのではないかということになったが、それを証するような事件、出来事が起きているような感じがする。
戦後日本はあの戦争への後悔と反省とに立ち、いろんな場面で言ったり書いたりしているが「本当かよ」、という事が問われている。
3・11福島原発事故の時に、事故対処のあり様を見て、あの戦争の時と同じではないのかと思いました。
最近では日大のアメリカンフットボールの問題、ボクシング協会の問題、とか本当にそっくりなんです。
神風特攻隊にどうやって上官は兵を送りこんだか、全員熱烈志願という体裁を作って志願させる。
それとそっくりなんです。
国体というものを清算できていないということが明らかになっていて、国体の核心とはどこにあるんだと考えた時に、「国体論 菊と星条旗」の本で着目しているのは、支配の現実が有るのにもかかわらず、それを否認するような支配という変な支配です。

戦前、天皇陛下と赤子(民族の父である天皇とその子供)の関係だから、そこには愛が有るだけで支配は無いということになって、家族国家観といわれるが、これが引き継がれていて、アメリカが父のように日本を愛してくれているというのが、根本的な妄想としてあって、そういう中で国体が引き継がれてしまった。
そのことによる社会の腐食みたいなものが、いま本当に深刻な形でおきているのではないか、これが平成の末期の姿だと思う。

保阪:平成の時代の基本的問題はいくつかあると思うが、日本的共同体が清算しきれていないと言うのが、今の話の通りだと僕も思います。
日本人が共同体を作る時の原形は江戸時代の農村社会にあるわけで、それがずーっと延長する形で明治、大正、昭和そして今も続いている。
日本の軍隊は典型的な家族共同体で、上官を父と思え母と思え、上等兵を兄と思えというような疑似的な国家共同体を作って、俺とおまえは生死を共にするんだと言う形で軍隊の構造が出来る訳ですが、その構造体のある単位では、ある局面では強いが、戦争が機械的な局面、広範囲な戦略、戦術を使う段になると途端に破綻してしまう。
何故かと言うと、戦争は見えない形で戦う時には想像力、分析力などが必要であるのに、目の前の敵と戦うのみが戦争であるという妙な戦争観を持ってしまって、戦闘そのものが何よりも尊っとばれるということになってしまう。
戦争は戦うだけではなくて、戦闘に伴う色んな政治とか訳だけれど、そういうものが何か無視されてしまった処はあると思います。
平成の時代の基本的な問題の中にオウムの問題は昭和から引きずっているが、オウムの問題が象徴的なんだろうなと思います。
あそこに入っていった人達は共同体の中での何か安寧とか、現実社会から逃避するものを求めての共同体が有ると思って入っていったんだろうと思いますが、入っていく動機というのは以外に知的な階層が多かった。
知的な人達であるからこそ、精神的な空洞化に恐れをなしたり、気付いて入って行くと言うこともある。

白井:あの事件は衝撃を受けたが、僕と同世代の人が書いている人の中では、ひょっとすると自分は行きかねなかったんだと論じる方がいますが、僕個人としてはそういう感覚は無いです。
見るからにおかしいと思いました。
死刑が執行されて本当にオウムを葬り去ったということになったのか、というのが大いに疑問です。
知的レベルの高い人がはいっていったが、それに比すべきものは今は何かというと、ある種の歴史修正主義、陰謀論などにはまる人も知的レベルの高い人がはまる可能性がある。
陰謀論などを信じてしまうというのは、その前提として世界で起こることを統一的な手段によってすべてを理解したいという欲望が有るから、唯一原因ということで陰謀組織を想定するわけです。
ある種オウム的想像力みたいなもの、これは葬られたかのように見えて、歴史修正主義、陰謀論の燎原の火のような広がりというものを見ると、オウム的なものは勝利しているんじゃないかという気がしています。

保阪:歴史修正主義の広がりというのに対して、僕らはある不気味さを感じました。
不気味さはオウムと繋がるような精神構造があるんだというね。
歴史修正主義に対しては可成り注意をする必要がある。
先達の生きた姿を語るときには良いも悪いも無く、それを客観化しながらそこから、教訓を学ぶことは大事だと思うと言うことで、私はいうけれども、なぜあれほど国家というものに対して自分が遺棄をする。
その遺棄をすることの精神性というものを課題にそこに求めてしまうのだろう。
この求めてしまう国家というものが、実は白井さんのいう様にアメリカという国体が出来上がっているとするならば、むしろこれは非日本なわけで、この矛盾というものがどういうふうにしてこれから形になっていくのか僕は不安です。

白井:戦後史は結局アメリカの機密文書の公開というところに、物凄く事実の確定をそれに頼らざるを得ない。
私達は私達の歴史を自ら書けない構造の中にいる。
保阪:戦争が終わった時、資料を全部といいほど焼却した。
資料を焼却したしたという心理はポツダム宣言で戦争責任者をさばくと言う一項があるからそれにおびえて、戦争に関するものを燃やしたと言う指導者の無責任さが有る。
それは次の世代に対する侮辱なんだと、如何に卑劣なんだと怒らなければいけない。
基本的に国策に関わった資料を残すという事は、次の世代への責任なんだよね。
責任をこんなに軽く考えている。
政策決定し、実行したことに対しては、その責任はその時代に対して負うだろうけど、問題はそうやって託された人が歴史の中でも託された責任をどう考えるかということです。
どうして国民があんなに玉砕、特攻等国民の命をあれほど酷い状態にしたのか、その権利は歴史の将来、過去の人達からあなたに付与されているのかという視点、僕はこれをかなりいいたい。
過去、未来の私達の歴史を背負った責任というものを、戦争指導者たちが考えていないというのが日本の特徴だと思います。

今私たちが生きている、非軍事の時代の政策は一番日本の個性、性格、考え方が出来るはっきりさせているはずだが、アメリカを国体とするような形で属国化しているというような政治が進められているとするならば、私達の国の基本的な問題がそこにあると思う。
その最大の問題はなんなんでしょうか、と言うことです。
白井:今は二度目の国体の崩壊の局面に立ち会っているとみなしていますが、一番明瞭に知らしめたのは、今上天皇のお言葉だったと思います。
象徴天皇とはなんなんだと言う事を、ご自身が真剣に考え抜いて実践してこられた。
結論は日本国民の統合の象徴なんだ、この事を何度も強調された。
今統合がズタズタになってきていますよね、ということに対する危機感だと思うし、国民の統合が存在しないのならば、統合の象徴もあり得ないし、そこまでの危機感がにじんだ言葉だと思います。
保阪:天皇が一番最初に行っている言葉の中に「私はこれを個人として言う。」とおっしゃった。(憲法上の制限があり、内閣の助言と、承認が無いと発言できない。)
色々訴えた後に、天皇は最後に「国民の理解を求めます。」と言っている。
これは天皇と国民の間に介在するものがいないという事。
ジャーナリズムの側で判断すると、天皇と内閣の間に齟齬をきたしている、ということだと思う。
齟齬の本質は何なんだろうと言うことです。
乱暴な表現になるかもしれないが、もしかしたら政治が属国化の中の中心にいる、国体、アメリカという側にいる政治なんだと言うふうにかんぐることもできる。(微妙な問題だと思うが)

白井:おかしな形の対米従属、属国であることを否認するような属国というおかしなことをやっていることによって、国民統合がズタズタになってきているという訳で。
そこをみなおさないと国民統合は回復できないというふうにならざるを得ない。
保阪:日本人本来の基本的な立脚点、日本人固有の伝統的な精神が崩れている。
かつての国体の代わりにアメリカを据えることで、私たちはある精神作用、気持ちがならされているそれが延長している。
それを変えるとするならば、個人の発想法、歴史に対する目、日常の視点、生活の小さな規範を変えなければいけないということで、それを言う意味で言うと個人の個人の自己意識の変革ですね。
白井:大変な時代になった。
権威と権力、この分業が良好であるとこのシステムはうまく回るが、動乱期には権力と権威が対立する関係になってしまう。
大きな社会的な混乱を伴うような変革が訪れて、次の時代に行く。
例えば、鎌倉幕府の北条宗家と後醍醐天皇の対立とか。
あのお言葉が出た時に私はこれは太平記とか平家物語とかを読まなければいけないと、直観的に思いました。
そういうことに匹敵するようなとんでもないことが今おきていると感じました。

保阪:天皇と私たちの関係、天皇と権力の関係について言えば、権威と権力の分立という事に対して知恵が働いて、日本はバランスを摂ってきたと思う。
歴史の中で観て行くと答案が積まれてていると思う。
江戸時代は権威と権力を上手く分立していたと思う。
いい答案、合格点だと思う。
昭和10年代の答案は天皇と国民の間に軍が入ってきて、軍の教育の上の天皇が入ると言うことで、天皇のために命を捨てる、天皇は神であるというような事が入り込んで、それを国民に強要するというような形で答案が出来上がって、歴史的にああいうふうになった。
あれは落第点だった。
今の答案は実は答案は天皇からこういうふうに私はやっている、皆さんも私と一緒に考えて下さい、答案を書きましょうと言っている。
今上天皇のビデオのメッセージは凄く重いものを持っている。
日本人の立脚点、日本人の精神性に置き換えれば、基本的問題だなあと言うことになります。
白井:ボールは天皇から国民の側に投げられた。
これに誰が答えるのか、もし誰も答えなければ、天皇制というのは必要ないという結論が出ると言う事で、それでいいのかと言うことですね。
保阪:我々も答案を書いて一緒に書くことによって、この時代の天皇と私達の存在理由、絆を確かめましょうと講演などで言うんですが、日常の旧来のあるものが日本の形を崩してきているので、それをきちんと見抜く様にすればおのずから変えざるを得ないという結論だと思うのですが。

白井:近代天皇制と言うものに対して、天皇自らが一定の幕引きをしているのではないかと思うことが有る。
天皇の仕事として一番大事なのは、祈りであるということをはっきり言ったわけです。
天皇自身による祈りが一瞬でも途絶えてはいけないということで、日本国民が幸福になるのも不幸になるのも祈りにかかっているんだと、これはきわめて前近代的なものです。
前近代的な仕事にこそ天皇の神髄が有ると言うことを述べた。
一見古代的なものに見えるが、実は近代化を推進するための装置だった訳です。
天皇制は近代性そのものだと言うことが判ってくる。
戦後或る種アメリカニズムが入ってくる、それが或る意味天皇制のような形で機能する。
それは実は天皇制は近代性そのものなんだと言う事が判ってくるわけです。
それは実は天皇制の本質ではないと、天皇自身がおっしゃったということである。
保阪:歴代天皇は皇統を守ることが在位する理由だから、その目的には手段がある、天皇の重要な手段、一番重要なのは祈りで、一瞬たりとも絶えてはいけない。
普遍的な役割りがあり、ある時代には憲法や管領としての要求されるものに対して、応じて行くと言うことも目的を達成する為の手段だと思うが、手段に戦争というものを選んだ時代があった。
戦争という手段を選んだが故の昭和天皇の奉納はかなり深いものが有ったと思う。
戦争という手段を選ぶ事の恐怖、崩壊解体するという意識はあったと思う。
軍はそこに入りこんで戦争しないとこの国は潰れると恫喝したと思う。
戦争という形を通じて私たちは天皇制は温存された。(国体護持は達せられた)
国体は普遍的な意味で存在する国体ではなくて或る流動性を持っている。
例えば、天皇はアメリカになったり、天皇を支える国民の意識によってそれが変化してゆくことを言っている訳です。

未来に希望、明るい光を見なければ前に進めないと思うので、明るいものは何なんだろうと思うと、天皇という制度が今後新しい天皇になった時に、どういう天皇像を作るんだろうと言うことに関心があります。
今の皇太子が天皇になっても3つで語ることができるだろうと予測します。
①天皇、②科学技術、③ナショナリズム 
10年、15年以内にイギリスの王室と日本の皇室が中心になって、王室サミットを開くのではないかと思う。
政治、経済、外交を論じるのではなくて自然環境、疾病に対する人類愛などに意見を提示すると言う形になるのでは、そうでないと王室、皇室の存在は何なのかと言う事を問われてい行く。
こういった方法も一つ考えられると思う。
白井:元号がいつまで続くのか。
この制度をどう持ち続けるのか。
みやび、文化的価値というか、みやびであることと客観的前提が崩壊してきてしまった。
グローバリゼーションの結果かもしれない。
こういったことを直視することから新しい時代が始まるだろうと思います。
保阪:次の時代の呼吸はどんなものかわからないし、その呼吸と折りあいが付くかどうか判らない。
今日話をして感動したことが二つあります。
①今の時代に生きている人の問題意識は可成り世代にこだわらず同じだと言う事。
②私たちの目の前に観ている風景、光景は何かの反映、歴史の反映、哲学、思想などの反映だと言う事を常に感じていますが、そういう事を感じている人との会話は大事だと思います。
(内容を上手く伝えられなかったかも知れません)