2018年5月1日火曜日

萩本欽一(コメディアン)          ・【母を語る】

萩本欽一(コメディアン)          ・【母を語る】
昭和16年東京台東区生まれ、駒込高等学校を卒業後浅草東洋劇場に入り、昭和37年フランス座で坂上二郎さんと出会い、昭和41年コント55号を結成、浅草演芸場で初舞台を披露、その後人気となりTVやラジオ、映画出演などで大活躍をします。
昭和44年にはゴールデンアロー特別賞を受賞、昭和50年から60年代にかけて自身の名前を付けたTV番組「欽ちゃんシリーズ」で日本中の人気者になります。
平成8年にはNHKの朝の連続TV小説「ひまわり」ではナレーターを務めました。
平成16年には社会人入試で駒沢大学に入学し話題となりました。

4月からの「萩本欽一の人間塾」の第一回は駒沢大学の学長さんと話をする。
入学当初に最初に出会った教授(当時)でした。
今年で卒業ですが、面白いのでもう2年やりたい、大学の空気感が好きです。
今年77歳になります。
僕にとって大学はボケのリハリビセンターです。(試験がある)
覚えるのに若い頃の3倍かかります。
母親から叩かれたのは2回で、1回は「あいうえお」を書いたら「字は人の為に書く」と言って叩かれた。
「字は人の為に書く」ということをお経のようにいわれました。
小学校の1年の時に名前を書いた時に先生から褒められて、勉強が厭では無くなったので、叩かれたことは無駄ではなかった。
兄弟は男が4人、女が二人いて3男です。
母親は子供を育てるのが好きな人でした。

母親は上手いウソを言う人でした。
半分は嘘でした。
父親は土曜日にしか帰ってこなかったが、男は月曜日から金曜日まで働く、毎日家に帰って来る様な仕事をしているのは大したことはないと言ってました。
偉いお父さんだと思っていたが、借金とか家に帰れない事情があっただけでした。
高校生になってから気が付きました。
子供にお父さんは立派だと言うふうに育てるのが一番と思ったんだと思います。
小学校の通信簿を見て出来が良くワーと言って喜び、中学では中位でワーと言って綺麗に真ん中に揃ってと言って、高校の時に250人中210番と言う時があって、その時はワーと言ってその声が上がり下がりして良いところがなくて最後に「欽一、後ろに40人いるね、ハイ」といって渡してくれて良い母親に当たったと思いました。
それからいやに母親が好きになりました。

借金取りに母親は「ごめんなさい」の一言の連呼でした。
その時に涙がこぼれて居たたまれなかった。
母親を助けられないのはお金だと思って、中学卒業してコメディアンが結論だった。
母親は「絶対に高校、大学に行かなければ駄目、でもその道も有りかもね」、の繰り返しでした。
高校でも、「大学は行かなければ駄目、でも就職もあるかも」、ということでした。
兄の時にはまだお金があったので大学に行きました。
父親は逃げ回っていて当時会っていませんでした。
最初は映画スターが若くして家を建てられるということで、映画スターになろうと思ったが目が垂れていて駄目そうで、コメディアンは目が垂れている人がいるので目指しました。
高校卒業後東洋劇場に入りました。
父親が東洋劇場が建てた家に住んでいて、その関係で紹介されて入りました。
何もできないのでタダで入りましたが、掃除をしていたら来月から3000円と言われました。
仕事は自分で探すものだなと思いました。
最初台詞を貰った時は上がってしまって言えなかったので、そうならないように4時間前に行って舞台で台詞を言ったり、舞台掃除をしていたりしました。
そういったことは母親の教えだと思いました。

母親からもう一回叩かれたのは、お使いに行ってくれと言われて、「厭だ」と言ったら、あまりうるさく言うので「いいよ、判ったよ、行ってやるよ」といったら叩かれました。
ぱーんと叩いて「行くなら気持ち良くいけ」と言われました。
「いやいや行くのが一番腹が立つ」と言われました。
アルバイトをしていた時に、目覚ましを掛けて起きようとしていたが、その5分前に起きてきて僕を起こすんです。
「目覚ましで自分で起きるから」といったが、「お前が何て言おうと絶対起こす」と言って目に涙をためて怒った。
その姿に、こんな素敵な母親がいるのかと、怒って感激させられる母親の顔は大好きです、母を何とかしてあげると思って頑張りました。

TVからスカウトされてTVに出て、まだVTRが止められない時代で19回失敗して首になりました。
2カ月ぐらいして頑張ってやり直そうかと思ったときに坂上二郎さんから電話が来ました。
人生辛いことが必ずやって来るが、辛いことなど今考えるとない、辛いことがいい事の前兆だと思っています。
28歳で銀行からお金を借りて建て売りを買いました。
それから3年後には有名になってきました。
喜んでくれる顔を期待して玄関から「かあちゃん」と声を出していったら、母親から「昼間帰って来るんじゃない、夜帰って来なさい、近所にばれたらどうするの」といわれてしまいました。
コメディアンが私の息子だと判ったら言えないと思って、それから母親は避けていました。
長野オリンピックで閉会式の司会をやった時に、それを見て母親が「そんなに悪いことをしていたんじゃないんだね偉いね」といって、母親(80歳)が欽一に会いたいと言ってくれたがその頃忙しくて、年に2回病院に入って(死にそうで病院入院したと言うと僕が行くので)会うとすぐ退院していました。

母は101歳になる1週間前に亡くなりました。
母親にはとても良い影響を受けて有難いと思います。
大学はなくならないいつまでもあるから、歳とってでも仕事で稼いで自分のお金で大学に行くからと言ったら「そうだね、それもありだねー」と言った幸せそうな顔をいまだに忘れられない。
大学の入学願書に母親との約束を書きました。(母親への孝行)
年月が経つほど僕が考えたんじゃない、その根底には母親の教えがあったのかもしれないという思いです。
一番感謝していることは、気持のいい嘘をありがとう、今の自分があるのはあの見事な嘘、やはり怒って優しいというのはかあちゃんしかいない。