2018年5月2日水曜日

今泉今右衛門(人間国宝 陶芸家)      ・時代に挑み、時代に残す

今泉今右衛門(人間国宝 陶芸家)      ・時代に挑み、時代に残す
55歳、江戸時代佐賀藩の御用窯で焼かれていた色絵磁器の技法を受け継いでいる家元に生まれました。
同じく人間国宝だった13代今泉今右衛門のもとで学び2002年に14代今泉今右衛門を襲名しました。
墨はじきという技法などを駆使し父親が切り開いた表現をさらに進化させました。
2014年に陶芸家としては史上最年少51歳で人間国宝に認定されています。
今泉さんは有田400年の歴史は常に時代に挑み続け何かを残してきたと語ります。
今泉さんが時代にどの様に挑み何を残そうとしているのか伺いました。

それぞれの仕事を分業でして行っています、江戸時代からやってきています。
陶器と磁器、一番判りやすいのは原料が陶器は粘土、土で、磁器の場合は石です。
白い石を細かく砕いて水の中を通して粘土を作って行く。
磁器の石が400年ほど前に有田の地で見つかって、日本における磁器の発祥の地になったわけです。
色絵磁器、表面にガラス質の釉薬があるが、その下にある染付の藍の色、釉薬の上に赤緑、黄色などの綺麗な色柄が施されていてこれを色絵磁器と言います。
鍋島藩の御用窯として作られた焼き物、その中でも特に色絵が付いたものが当時凄く賞美られたことによって、鍋島の焼き物を総称して色絵鍋島といいます。
 
まず生地を作る仕事があります、ろくろでつくってそれを削り上げて生地を作って行く。
その表面を拭き上げて行く、水拭きという仕事があります。
それを素焼きの窯に入れてその後下絵、(通常染付と言う)青い色の線描きをしてその後面を塗りますが、線描きと面を塗る人も違います。
釉薬をかけて本窯で焼きますが、釉薬をかける人、窯焚きさんも違います。
その後に本窯から上がってきたものの上に、色絵付けの赤、面それぞれが分業していきます。
それぞれが高い特殊な技術を要するので一人の人間では出来にくい、分業する事によってスペシャリストの仕事を併せて出来る仕事で、分業でしかできない仕事が大切。

文様のデザインの形を一つ一つ新しいものを決めて行くことは代々の今右衛門がしてきました。
自分で全てを作り上げるのではなく職人さんに手伝ってもらうこともあります。
人間の手で書いてゆくと均一な線を描いていこうとして、雪の結晶など60度の角度で書いてゆくが、人間の書くものだと微妙に違ってきます。
コンピューターではきっちり書くことが出来るが、何か温かみが無い。
微妙な違い、揺らぎが美しいのではないかと思います。
人間の手で出る来るものの良さが出てこその手で作る意味だと思うので、これから凄く重要になって来る時代だと思います。
書いてゆく時間をかけることによって、時間がその人の考え方価値観を作り出してゆく、その違いはあると思っています。

13代今泉今右衛門の次男として生まれる。
小さいころから色々な物を作ることが好きでした。
大学は工芸工業デザイン学科、立体を作るデザインの方です。
卒業後陶芸とは関係にないインテリアの会社に3年間いました。
最初営業、宣伝などをして、その後憧れをもっていた京都の鈴木治先生(戦後の日本陶芸を代表する陶芸家の一人、陶芸による新しい造形表現を目指して前衛陶芸家集団「走泥社」を結成)の所に修行に行きたいと思って父と一緒にお願いに行きました。
週に3日行って、現代彫刻をしていたので小さな模型を持って行くと「我々がしているのは陶芸なんやで」と言われたが当時理解できなかった。
その後有田に帰って来て仕事をして行く段階で、陶芸は彫刻とは違って、新しい形状であっても彫刻ではなくて陶芸であることの大切さ、陶芸、工芸の一番大切なところを判っていながら現代陶芸をされたんだと後になって判りました。
色々言われたが判らなかったことが、家に帰って仕事をして行く段階であの言葉はこういうふうな言葉だったのかと後で色々判りました。

27歳の時に有田に戻ってきました。
周りはどんどん作品を作って発表していたので焦り不安は感じました。
家の仕事の手伝いをしながらやっていましたが、父はこうしろとはあまり言わない人でした。
父とは11年間一緒に仕事をしていましたが、雑談しながら美術のことなど話していました。
或る時父の代わりに取材の話があり、「焼き物を作る上で大切なものは何ですか」と父に聞いたら、自分としては文様のリズミカルなところとか言いだすのかと思ったら、父は一言「人間性だよ」と言って、人間性が全て出てるものであるし、大切なことであると、11年間父は人間性を伝えたかったのだと思います。

有田に帰って来てから数年経った頃、或る人から手紙をいただきました。
自分は11代今右衛門をお世話したと、お世話したから花瓶を送ってくれと言うことで、父は花瓶を送ります。
半年後、親戚が花瓶を持っていったので、先祖の供養にもう一度花瓶を送ってほしいとの事でした。
父はそうかと言って送るんです、また半年して火事になったので又送ってくれと言われて周りは騙されているから送らない方がいいと言ったが、父は祖先がお世話になったのは事実かもしれない、誠意を持って接すれば人はだましきれないと言って、手紙も書いて送ったりしていたら、或る時から刑務所から手紙が来るようになって、父は手紙を返信する。
その人が刑務所から出る時に逢いたいと言うことで、逢いに来て今までは自分は人様に顔向けできることはしてなかったが、今右衛門さんのお陰で真人間になれるかもしれないということでその場で号泣して帰って行かれました。
父は人間性と言うことを大切に、地で生きていった人だったと思います。
父は色鍋島の様な厳格なきちっとしたところが好きではなくて、ざっくりとした土物くさいうぶな感じが好きでした。
 吹 墨 (ふきずみ)という技法を鍋島の世界に取り入れて、全面に絵の具を吹きかける、グレーの絵の具を吹きかける、新しい世界を確立していった。
最初は賛否両論あったが、信念を持っていく中で伝統工芸展で賞をいただいたり、日本陶芸展で受賞したりして自信を深めて行きました。

2001年父が亡くなりましたが、その前に14代をどうするかお前たちで決めろと言われて、兄は商売をするから作る方は弟に任せると言うことになりました。
90歳まで生きていけるほど元気だった父が75歳で亡くなり、維持できるかという不安が大きかった。
墨はじきという江戸時代からの技法があるが、それを一つの柱にしようと言うことで色々試験をしながら仕事を始めて行きました。
白抜きの線描きの技法で書道の墨で文様を描いてゆく。
墨で描いた上に絵の具を載せて一度素焼きの窯に入れると、炭が燃えてなくなって白抜きの線が浮き出でくると言う染色の郎闋染と全く一緒の技法が江戸時代からありました。
その技法に魅力を感じて取り掛かっていました。
昔の物を見ていったら、波の部分の白の部分に筆の打ち込みがある。
文様の背景に使われている。(人が気付かないような部分に繊細な技法が施されている)
色鍋島は品格の高いものが作られるが、品格はその人の人間性とかがにじみ出るものなので、意識するものではないと思っていたが、出来上がった時に人が気付かない様な所にまで手間暇をかけるので分業と言う仕事でしかできないが、そういうことの積み重ねが品格に繋がるのではないかと思います。

墨はじきを取り入れたことで何が進化したのか判らないが、自分の中で墨はじきを取り入れて行くことで墨はじきに気づいてゆく、それが大切だと思っています。
「伝統は相続できない」、とよく父が言っていましたが仕事をする中で自分で気が付いて何かを積み上げて行くものであるというふうに思いました。
プラチナと言う技法、金属の光に対するあこがれが自分の中にありまして、最初銀を使っていたが黒くなってゆく途中が汚くて、仕方なくプラチナを使いました。
見え方が全然違って新しい雰囲気を編み出すことが出来ました。
輝き、周りの色を取り込み、見る角度によって見え方が違う。
感動する思いさえあれば思っていたことが出来るのではないかと、学生の時に感動した雪の結晶の第一印象、ずーっと思っているとどこかで仕事と思いが結びつくことがあるのではないかと思います。
伝統は参考として写真とか数字とかはなければいけないが、それにとらわれてはいけない。
時代に挑みつつ結果的に何か残って居ると言うことの大切さが陶芸の中にあるのではないかと思います。
常に時代に挑んでゆく姿勢が必要だと思います。