2018年5月17日木曜日

春風亭一朝(噺家)             ・いつもイッチョウ懸命

春風亭一朝(噺家)             ・いつもイッチョウ懸命
1950年東京足立区生まれ、67歳、高校卒業後、粋でいなせな噺家として知られる五代目春風亭柳朝師匠に弟子入りしました。
一朝さんはその江戸前の芸風を見事に受け継いでいて、 江戸っ子を演じさせたらこれほど似合う噺家は珍しいと言われる程です。
江戸の言葉を正しく話せることから、大河ドラマ龍馬伝などの時代劇で江戸弁の指導などもしています。
笛の奏者としても二つ目時代はプロとして歌舞伎で吹くこともしていました。
今年入門から50年の一朝さんに伺います。

枕でのフレーズの定番「イッチョウ懸命頑張ります」はいつごろ始めたのかは覚えていません。(二つ目のころからか)
今年芸歴50年、でもあっという間ですね。
特にお祝い事はしません。
兄が落語の本を買ってきて面白くて、TVで落語の番組を見てからですかね。(中学2年)
自分で覚えて教室でやっていました。
先代の金馬師匠、圓歌師匠、志ん朝師匠などを覚えています。
TVの素人寄席には高校2年の時に出ました。
予選で100人ぐらいいて駄目だとおもっていたら、本選に出ることになりました。
文楽師匠、ミヤコ蝶々師匠、アダチ 龍光師匠、一龍斎 貞丈師匠など審査員はそうそうたるメンバーでした。
その番組で4回出ました、その番組で真打ちとなりました。
「上手いね噺家になりなさい」、と文楽師匠に言われてその気になりました。

小さい時はこまっちゃくれた子だったようで、いたずらばっかりやっていました。
小学校のころは野球選手に憧れていました。
めんこ、ビー玉、べーごまなどをやっていました。
兄弟は兄がいました。
高校は都立化学工業高等学校に行きました。
落語家になりたかったが、高校にはいかなければ駄目だと親から言われて、「落ち研」があったので選びました。
「落ち研」は2人でした。
年に1~2つ位を本で覚えて文化祭でやったりしていました。
3年なる前に噺家になろうと思って、弟子にいったが、学校に通いながら噺家見習いをしていました。
林家正蔵(彦六)師匠の処にいったが、弟子が一杯いた為惣領弟子の春風亭柳朝師匠の処に行くことになりました。(高校2年)

父は日本刺繍の職人ですが、落語が好きで反対はしませんでしたが、母親が良い顔をしませんでした。
新人でも良い着物を着ていました。
春風亭柳朝師匠は絵に描いた江戸ッ子という感じで言葉に関してうるさかったです。
「がぎぐげご」は特に注意されました。
普段の俺を見ていろというような感じでした。
落語は直ぐに覚える様な感じでこなせました。(よく聞くようにしていました)
稽古は色んなところでやっていました。
1970年4月 前座になる。名は朝太郎。
1973年9月 二つ目昇進し、一朝に改名。
1980年 弟弟子春風亭小朝が一朝よりも先に真打昇進
1982年12月 真打昇進するが、師匠柳朝が脳梗塞に倒れる。
1984年 第4回国立演芸場花形新人大賞受賞。
1986年 文化庁芸術祭優秀賞受賞
1991年2月7日 師匠柳朝死去。(私が41歳の時)

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」などの時代劇で江戸弁の指導することになる。
最初は「半七捕物帳」でした。
「龍馬伝」では勝海舟への指導でした。
物語に関する資料を集めて勉強などしました。
義父の五代目片岡 市蔵さんが綺麗な江戸弁を喋っていましたので、師匠もそうですので両方から影響を受けました。
二つ目の頃歌舞伎で笛を吹いていて、7,8年やりました。
妻とは楽屋で会ったり、浅草の喫茶店で会ったりしているうちに、付き合うようになりました。
高校の時に笛を買って吹き始めて、噺家になってから先生のところに行って学ぶようになりました。
弟子は10人います。
2007年 総領弟子朝之助が6代目春風亭柳朝を襲名し、真打昇進。
2012年 二番弟子一之輔が21人抜きの大抜擢で真打昇進。
なんかきっかけを掴んでうまく作用するとそうなるんですね。
変な方にはいかないように(基本ができていないのに話を今風に壊すとか)だけは、弟子に対して気を配っています。